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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

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バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ
バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  1

バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  2

バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  3

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バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  7

バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  8

バンコクを歩く-7 タイ人たちの住むところ  9


 ロッド運河沿い、そして、サファン・プットからオン・アン運河に沿ってバンラムプー
 そして、バンラムプーからバンラムプー運河の果てまで歩いてみたが、
 バンコクの庶民たちの住んでいる場所が意外と少ないのである。
 ラーマ5世、6世の時代 バンコクの庶民たちはどこに住んでいたのだろうか。
 部分的には、タイ人の住む集落はあるけれど、中国人の住んでいる場所からすれば、
 面積を比較してもほんの僅かの場所でしかない。
 王宮を囲む2番目の運河、バンラムプー運河とそれにつながるオン・アン運河の内側には、
 タイ庶民の生活場所は、集落の形では2,3箇所しかない、人口にしても、2,3千人
 くらいのものだろう。同じ運河の内側には数万人の中国人が住んでいる。

 タイ人たちの集落は、中国人たちの集落の隙間を縫うように、あるいは寺の脇を流れる
 運河の僅かの土地にひっそりと存在している。
 バンラムプー運河の内側には中国人が、住んでおり、運河の外側のチャオプラヤに近い
 あたりも中国人だ。

 日本の徳川時代の江戸も中心に江戸城があり、周辺部には商店、職人の移住地域が
 あったし、ネパールのマッラ王朝もそうした都市の造り方をしているが、どうも
 バンコクは違うようだ。バンコク庶民の生き生きした生活場所、移住空間が
 なかったようなのである。その空間が中華街、中国人たちの街なのだ。
 アユタヤ滅亡の折、多くの人間がアユタヤからトンブリに移住してきたはずだが、
 それは、アユタヤ王朝の王族・貴族の生き残り、官吏、軍人、中国人、イスラム教徒、
 ポルトガル人が中心で、タイ人は 数的には多くはなかったのかもしれない。
 当時のトンブリ地区、バンコク地区に住んでいたのは、中国人を除けば、
 タイ農民たちだけだったのだろう。
 トンブリ王朝からチャックリー王朝に変わり、王都がバンコクに移っても、
 王都の建設には 戦争捕虜のカンボジア人、ラオス人、南タイのパッタニー王国の
 人たちの強制労働によっている。資材などの調達は中国商人の力を借りたと思われる。
 トンブリ・バンコクのタイ人やその周辺の農民たちは、都市に食料を供給していただけ   
 の存在だったのではと思われてくる。

 チャックリー王朝を開いたラーマ4世も、彼の祖父はモン族であり、正室は華人で
 あったという話もある。そのために容易にはタイ人を信用しなかったのかもしれない。

 第三の外堀の役割を果たすパドゥン・クルンカセーム運河の内側にいたるまで、
 主だったタイ人の居住区がないのは不思議なことだ。

 この内側にある主だった集落は、中国人とイスラム教徒の集落の集落ぐらいのものである。
 イスラム教徒について言えば、ラーマ5世の奴隷解放後に居住地を与えられたものが多い。
 パッタニーからのイスラム教徒はボーベー周辺、カンボジアからのチャム族の
 イスラム教徒は、バーン・クルア周辺に集落を作っている。
 バンコクの中にいたタイ人として考えられるのは、王宮、貴族の屋敷内で働いていた
 使用人と奴隷たちだろう。
 今、旧王宮を囲む三つの運河の中に住んでいるタイ人たちは、奴隷解放の後に、
 貴族の屋敷に近くに土地を得て住み始めた人たちかもしれない。
 ラーマ5世の時代までは、プライと呼ばれた自由民である農民や、タークと呼ばれた
 奴隷たちの移動は許されていなかった。
 あるいは中国人との通婚の中で吸収されていったのか。

 上級官吏や貴族たちの屋敷は残っているが、それにしてもタイ人の集落が少なすぎる。
 治安を掌っていた警察や軍隊の家族はどこに住んでいたのだろう。
 ラーマ1世からラーマ6世までの民衆史というものが、一向に見えてこないバンコクだ。
 中国人華僑、華人たちの生活史はいたるところにあるというのに、どうしたことだろう。
 どこかにタイという国の民族構成の不思議さが、影響しているのだろうか。


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バンコクを歩く | 12:56:09 | Trackback(0) | Comments(0)
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