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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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東京 肺がん治療2日目
 昨日の抗がん剤投与の治療は 時間的にも長く とてもきつかった。
 朝11時半から夜9時まで休みなしの点滴治療だった。
 点滴の器具を引いてのトイレ通いもなかなかの重労働だった。

 今日は 昨日投与した抗がん剤の副作用の強いシスプラチンを早く身体の外に
 出すために、輸液と呼ばれる普通の点滴を4本(1本につき2時間)とステロイド液
 150mlを 9時間近くかけて点滴する。

 昨日の抗がん剤の副作用も出てきている。
 まずは 止まらないしゃっくり、食欲不振、体力減退、これが主な症状である。

 この症状が何日か続くようだ。
 私と同じ抗がん剤を使った70代の女性にも同じ副作用が出ていて この女性と
 話をして、笑いあってしまった。

 2週間も居れば、肺がんに罹ったもの同士の話がいつの間にか 狭い病棟内で伝わるように
 なり、声を掛け合うようになる。
 私の隣のベッドの住人も肺がん患者である。

 ところが デールームと呼ばれている公共ルームは 老人ホームと化し 常連の女性高齢者の
 食事ルームになっている。
 ちょっと近寄りがたい雰囲気である。
 概して わがままな女性たちで 看護士たちの仕事も大変である。
 一人の70代以上の女性など 何かにつけて文句ばかりつけていて、看護し泣かせであるが、
 そのとばちっりが 私のほうまで回ってくる。

 寂しさという鬼が住み着いてしまうと、人間は魔物になってしまう。



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徒然なるままに | 11:30:06 | Trackback(1) | Comments(0)
東京 今日は抗がん剤投与の初日
東京 今日は抗がん剤投与の初日 1

東京 今日は抗がん剤投与の初日 2

東京 今日は抗がん剤投与の初日 3

 毎日 午前3時過ぎになると 自然に目が覚める。
 寝付くことが出来ないので、ブログ記事を書き始める。
 病院の外は闇の中である。
 部屋の外の病院の廊下をのぞいても 人の姿はなく、時折 看護師の姿を
 見かけるだけだ。
 午前4時になると デールーム(公共待合室)でインターネットが使えるので
 そこへ移るのが 日課のようになっている。
  
 今日も血液の採決が午前中にある。
 その後、午前11時から 抗がん剤投与が始まる。
 効果があれば、背中の右端上のこぶが小さくなれば、寝やすくなる。
 また、溜まった胸水が減れば、呼吸も楽になるはずである。
 右わき腹からみぞおち間での痛みが減れば、寝やすくなる。
 
 昨日は 8時間だったが 今日はそれ以上の長さになりそうである。
 シスプラチンとアリムタという抗がん剤、それに副作用を抑える薬、
 尿量を増やすための輸液の点滴と かなりの量の点滴になりそうだ。


 今日は朝から 久しぶりの曇り空だ。
 雨でも降るのだろうか。
 入院のときもそうだった。

 朝8時半に 1階の血液採血センターに行き、血液のチェックをする。
 抗がん剤投与は 午前11時からの予定だったが、30分遅れで始まる。
 最初は 普通の点滴だが、二袋を同時に行う。
 点滴に二つのラインがあり、ひとつのラインは 薬、特に副作用の強い抗がん剤
 シスプラチンを早く水で押し流すための点滴、もう一つのラインは 抗がん剤中心の
 ラインで、抗がん剤アリムタ、シスプラチン、副作用を避けるための制嘔吐剤、
 利尿剤などを投与するものである。

 午後11時半に始まった点滴が終わったのは 午後9時だった。
 これが休みなしに行われたのである。
 その間 点滴の器具を引っ張ってトイレに通うのは一苦労だった。
 20回近く トイレに行っただろうか。
 まるでカタツムリのようなものである。
 トイレに行くために動かくことがなかったら、まるで樹木になったような気がしただろう。
 自由に動けないということは 全く苦痛なことである。

 気に意思があるとしたら、やはり 大きな不満を持つだろうな。
 自由で行動できることは 大きな喜びである。
 私のように 自分の身体を使って、世界のことを知るタイプの人間にとっては
 身体が自由に動けないことは 大きな苦痛である。
 自分の身体や行動が 世界を知るための大きな重要は道具なのである。

 今も癌とは何か知るというためには 自分の身体が 被験者になっているが、
 こうした体験は やはり苦痛を伴い、快いものではない。

 それでも 形綴ることで 誰かの役に立つかもしれないと思うと 頑張る気持ちも
 湧いてくる。

 人間いつか死ぬのだから、こうした試練を伝えていけば、誰かに勇気の一つでも
 伝えることが出来るかもしれない。

 58歳になる今ままで 自分の納得のいくように好き勝手に生きてきたのだから、
 残る人生は 少しは 皆と「生きる意味」を語り合ってもいいのかもしれない。
 そこから 何かが生まれてくるかもしれないではないか。
 そんな気持ちにもなっている。


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徒然なるままに | 18:47:37 | Trackback(1) | Comments(0)
東京 冬晴れの中で
 東京厚生年金病院に入院して 2週間の日々が流れた。
 暖かい常夏のような陽気の病院の中から、病院の外を眺めると
 戸外には春がやってきているのではないかと 錯覚すら生まれてくる。
 
 病院のすぐそばの小学校の狭い校庭では 子供たちが遊んでいる。
 病院の外は 小春日和なのだろうか。


 この2週間で 一通りの検査も終了し、今週から 本格的な治療の段階に入る。
 アリムタ(Alimuta)という抗がん剤とシスプラチンという抗がん剤を併用して
 投与するということであるが 抗がん剤イレッサの効かない腺癌には もっとも
 有効な方法ということだ。
 しかし、シスプラチンという白金剤は 強い副作用を持つ薬で、注意深く使用する
 必要がある。
 腎障害や吐き気などの副作用も起こりうるといわれているが、誰でもというわけではない。

 明日は輸液を使って 試験的に点滴をし、患者の様子を見るだけだが、それでも
 10時間以上の点滴になる。

 こんなに何本も点滴を打つのは、20代のときの急性肺炎のときと、30代後半の
 時に細菌感染から足首が膨らみ、激痛に駆られたとき以来である。
 このときは バンコクの地方都市 パックチョンという町の市立病院で
 1週間ばかり、治療を受けた。
 点滴は別にして、傷口の外科処理は ずいぶん原始的な方法が取られた。

 点滴中はトイレに必ず行きたくなるので その処理が大変である。
 今は 昔と違って ガラス瓶がビニールパックに変わっているので
 安心して 動き回ることは出来るようになっている。

 明日は試験的、明後日は本格的な抗がん剤の投与である。
 腎臓の負担を軽くするために、利尿剤などを使うこともあり、
 尿量をひたすら確保する必要があるようだ。

 そのために 輸液や生理食塩水などもどんどん点滴し、尿量をとにかく
 増やすようである。
 だから 1日10時間以上の点滴は 当然のことになる。
 午前中には 試験的点滴のための血液採決が必要だ。

 と書いているうちに 1月27日 抗がん剤投与前日、 試験的に輸液が
 点滴によって投与された。
 500mlの輸液が4袋、1袋につき 約2時間であるから、連続8時間の
 点滴だ。

 2時間の点滴につき、2,3回のトイレ、4袋分の8時間の点滴なら、
 トイレに行くだけで 10回以上ということになる。
 
 朝10時から始まった点滴は 夕方 6時40分まで続いた。

 明日 1月28日からは 本格的な抗がん剤投与である、
 少しでも 今の病状より回復することを 願うだけである。

 8時間ばかりの点滴のせいか、すっかり食欲がなくなってしまった。
 その上、夕方の7時を過ぎると 痛みも増し、鎮痛剤は 不可欠のものになってしまった。
 咳が 夕方過ぎると、ひどくなる。
 午後9時過ぎると 睡眠薬の世話になるようになった。
 治療と癌の進行との闘いになってきている。
 
 ブログをどこまで続けることが出来るのか 心配になっている。
 気力のみである。
 しかし、辛いけれど、ブログは 私の人生の大切な一つの一面になっていることも
 本当である。



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徒然なるままに | 16:19:05 | Trackback(0) | Comments(0)
東京 病院生活の始まり‐04 七日目(1月18日)
東京 病院生活の始まり‐04 七日目(1月18日) 1

東京 病院生活の始まり‐04 七日目(1月18日) 2

東京 病院生活の始まり‐04 七日目(1月18日) 3

東京 病院生活の始まり‐04 七日目(1月18日) 4

 今日は なかなか大変な検査の日である。
 気管支内視鏡検査と呼ばれる検査で、胃カメラと同じ要領で、気管支からカメラを入れ、
 肺の中の様子を調べる検査だ。
 午前中は 地下一階の検査室で 胸部のレントゲン撮影、正午過ぎには 点滴、
 身体を弛緩させるための筋肉注射、そして 午後1時30分過ぎには 
 喉に麻酔剤を入れる。
 飲み込まぬように 扁桃腺あたりで粘々の麻酔剤を何分か留め置く。
 そのあと、今度は息を吸い込みながら、噴霧器からの麻酔薬も吸い込んでいく。

 それが終わると目隠しがされ、カメラ用のチューブが 気管支の中に入れられていくが
 感覚はすっかりなくなっている。
 肺に発生している癌組織も取り出すようだ。
 20分近くカメラのついたチューブは 肺の中を動き回っていたようだが、それを抜く
 最終段階でむせあげてしまった。

 カメラを備えたチューブが肺の中を動き回った負担は大きく、その後の15時間以上は
 息苦しく不快な感覚が残ってしまった。

 車椅子に乗せられ、部屋に帰ると ベッドの上で 寝込んでしまった。
 麻酔がまだぬけていなかったのである。

 近代医学、欧米の科学万能主義の医学には どうも 人間に対する優しさが
 かけているようだ。
 正確な認識も必要だが、それを得るための手段は 選ばないようだ。 

 インドのアユルヴェーダ、中国の漢方と何千年にも渡る東洋の知恵と西洋医学を
 融合させることによって、人に優しい医学、人間のための医療は生み出されては
 来ないのだろうか。

 人が生きるということは 身体の健康のみならず、
 心の健康も含まれているはずである。
 何故 人は生きるのかは 古今東西の問いかけであるが 今の時代ほど 
 そのことが蔑ろにされている時代は ないような気がする。

 身体だけが生き、心が死んでしまえば 生きている意味はどこにあるのだろうか。

 この病院で この病院の医療を実地体験しながら、自分の生を確かめている。
 人間らしく生きるとはどういうことか それを考えようとしている。

 7階病棟にいる患者たちの大半は 私よりも皆年上の人ばかりである。
 身体の病を治しながら、心の中は 寂しさで一杯の表情をしている。
 
 ネパールのカトマンズの老人たちは 生きるために過酷な状況の中に置かれていても、
 もっと明るい表情をしているし、生きることに積極的である。
 豊かさは 物質的な快適さを与えてくれるけれど、心の幸せは保証してくれないことが
 よくわかる。
 長生きに伴う心の豊かさが保障されなければ、
 長生きも地獄の有様に変わることにもなる。
 ここ3,40年 そのことを考えようとせず、
 平均寿命ばかりを自慢し続けた結果が 今の日本の老人問題である。

 久しぶりの真冬の日本滞在である。
 いつも寒くなると 逃げるように バンコクへと旅立つのは 例年のことだった。
 病院の窓から眺める冬空の姿も 久しぶりのことで 意外と美しいものだ。

 窓の内側の病院内の常夏のような室温、窓の外の冬の寒さ、これだけでも 
 何かおかしな感覚にさせられる。
 現実の世界に生きているという実感から 程遠いところにいる自分を感じてしまう。

 病院の目の前に 小さな小学校があるが、幼稚園か保育園が併設されているのか、
 幼い子供たちが 小さな狭い校庭の中を歩き回っている。
 彼らは やはり現実の寒い季節の中を生きている。

 今日は ほんの少し、隙間程度にあけた窓から 激しい木枯らしの音が
 鳴り響いているのがわかる。
 常夏のような病院のなかにいても 病院の外を出れば、
 厳しい現実が待ち構えていることがよくわかるのである。

 春夏秋冬の季節感のある日本の国は 美しいが 冬を持つ国の過酷さはある。
 昔の日本は この過酷な季節を みんなしてどう乗り超えていたのだろう。



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徒然なるままに | 04:23:31 | Trackback(0) | Comments(0)
東京 病院生活の始まり‐03 四日目(1月15日)
東京 病院生活の始まり‐03 四日目(1月15日) 1

東京 病院生活の始まり‐03 四日目(1月15日) 2

東京 病院生活の始まり‐03 四日目(1月15日) 3

 胸水を抜いてからは 検査も中休みである。
 右半分の背中の痛みとわき腹からみぞおち近くまでの痛みは相変わらずのことで
 夜は鎮痛剤なしには眠ることは出来なくなっている。


 病院の食事も 初めのうちは 三食昼寝付で 嬉しかったのだが、味付けに変化がなく、
 だんだん飽きてくる。
 それでも 入院当初に比べると 体重は増えている。  
 病院に入院しているだけでも 心の安定度は違うものである。
 何かあっても 何らかの処置がしてもらえるという安心度は 食欲にも影響を与えるようだ。

人間 病院の生活にも慣れてくると、だんだん我がままにくるようである。
 三食昼寝付の気楽な生活であるが、粗食には慣れている私でも 病院の食事には不満を持ち始める。
 あまりに薄味の味付けには なかなか慣れていかないものだ。

 魚料理に鮭の切り身がよく出るが、薄味だと、鮭独特の臭みが出てきて、それが鼻を突いてくる。
 時々出てくる鯖料理のほうが 食べやすい。
 鮭は やはり 塩鮭が1番美味しい。

 果物は オレンジ、グレープフルーツ、パインナップル、キューイが繰り返し出てくる。
 たまにバナナや蜜柑もでる。
 果物好きの私にとっては たとえ僅かであっても 日に二度、三度と果物が出るのは嬉しい。

 病院の料理に工夫も感じられるが、料理の組み合わせに何か メリハリがないのである。
 互いの料理が 殺風景に並んでいるだけで それぞれ 無関心を装っている。
 病院の料理などそんなもので 昔より 塩分とか糖分とか、栄養について関心が深まった分だけ
 まずくなったような気がする。

 やはり 料理というものは 甘いもの、辛いもの、酸っぱいものなどが うまくバランス良く用意されて
 食欲を促すものなのだろう。
 最大多数の最大幸福という発想では 美味しい料理は生まれてこないようだ。
 それは美食というより お粥とお新香、佃煮、塩辛というだけで 食欲は満たされる。
 重要なことはバランスということなのだろう。

 バンコクの下町の市場のチョーク・サイ・ムー(豚の臓物入りお粥)のことが思い起こされたり、
 一皿 15バーツの飲茶やかぼちゃの新芽の炒め物のことが思い浮かんでくる。

 今度 バンコクに行ったら、息子と 飲茶や野菜の炒め物、シーバスの煮魚を一緒に食べよう。
 今回はあわただしく、帰国し、帰国前に一緒に美味しいものを食べる機会もなかった。

 美味しいものは 親しい者と一緒に食べるのが 一番の食欲になる。
 1ヵ月後には 短期のバンコク行きも出来るようになるだろうか。



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徒然なるままに | 04:38:50 | Trackback(0) | Comments(0)
東京 病院生活の始まり‐02 三日目(1月14日)
 今日から本格的な検査の始まりであるが、タイ・バンコクの国立チュラロンコン
 大学病院での検査結果は出ているので、それの再確認ともっと綿密に病状について知ると
 いう目的のためである。

 午前中は 胸膜にたまっている胸水の一部を取り出し、胸水の中に含まれている癌細胞の
 種類を確定するためである。
 病室にエコーによって胸水の所在を確かめる器械が運び込まれ、
 主治医と担当医の手によって、胸水が取り出された。
 担当医というのは どうも昔のインターン、今では研修医と呼ばれており、
 経験を積んだ主治医の下で医療技術を研鑽し、主治医の補助をする役割らしい。
 私の担当医のY医師は ゆくゆくは外科医を目指していると言っている。

 取り出された胸水は 病院外部の病理研究所に送られ、癌細胞の遺伝子や構造が調べられ、
 それを基に適切な治療方法と抗癌剤が選択されるようだ。
 私の場合は 腺癌なので 遺伝子によって、今 効き目のあるイレッサという抗がん剤が
 使えるかどうかを確かめるためである。

 午後からは 胸部と腹部のCT検査のために 昼食は午後3時以降になってしまう。
 バンコクでは 国立病院であるチュラロンコン大学病院の胸部のCT検査の費用が 
 7千5百バーツ、約2万円という高さに驚き、これではバンコクでは 到底 治療も検査も
 出来ないと思い、日本に急いで帰国した検査である。
 その上 順番待ちで いつ検査をしてもらえるかわからない。
 高額な治療費の私立病院に行けば、すぐに検査はしてもらえるだろうが、
 検査費用は 国立病院の2倍以上になるだろう。
 国民保険制度のないタイでは 癌は やはり死病であり、定期健康診断もないから 
 気がついたときには癌もかなり進行して手遅れ状態である。
 検査費用も治療費も抗がん剤も タイの一般庶民から見れば、
 べらぼうに高いから、お手上げである。


 病院の地下一階にある検査室で 10分もしないうちに胸部、腹部のCT検査は終了である。
 CT検査用の器械は 日本でも1台2千万円以上である。
 

 
 病院生活も三日目に入ると、体調にも余裕が出てきて、辺りをじっくり観察できることも
 出来るようになる。
 お医者さんたちも看護師さんたちも しっかり仕事に励んでいる様子がよくわかる。
 私と関わりのある看護師さんは 4,5人いるのであるが、
 顔と名前がなかなか一致してこない。
 顔と名前が一致してこないと 人間関係の深まりも生まれてこない。

 仕事を終え、私生活ではどんな生活や人間関係の中で生活しているのかわからないが、
 病院内での姿を見る限り、いたって真面目だし、顔つきもきりっと引き締まっており、
 バンコクあたりに遊びにやって来ている日本の女の子たちとは 大違いである。
 結婚年齢も高く、30歳近くなっても 未婚という看護師も多いようだ。
 看護師という厳しい職が 男性を見る目を厳しくさせるのかもしれない。
 患者のわがままや患者の生死に触れることで 大人としての目を持つことが
 出来るのだろう。

 
 夜になると胸水を抜いたところが 痛み始める。
 バンコクで胸膜の組織を切り取ったところも一緒に痛み始める。
 強い鎮痛剤をもらって、今夜は早寝だ。
 バンコクのチュラロンコン病院で胸膜の組織細胞を 小さく切り取り、取り出した場所が
 小山のように盛り上がり始め、 それが背中の右端にあたり、普通の姿勢で寝るのも
 難しくなってきている。
 がん細胞が 胸膜組織を取り出した細い道に沿って 表に出てきてしまったのである。
 抗がん剤に期待するより方法はないようだ。
 放射線療法では 対応できないようである。




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徒然なるままに | 06:46:23 | Trackback(0) | Comments(9)
東京 病院生活の始まり‐01 一夜明けて
東京 病院生活の始まり‐01 一夜明けて 1

東京 病院生活の始まり‐01 一夜明けて 2

東京 病院生活の始まり‐01 一夜明けて 3

東京 病院生活の始まり‐01 一夜明けて 4

 明けない夜はないと言われているように どうにか一夜の安らぎの夜を送り、
 朝を迎えることが出来たことが出来た。
 人は簡単に死んでしまいそうで 案外しつこいものである。
 あっさりというのも楽でいいのであるが、なかなかそうは問屋が卸さないようだ。

 救急外来用の入院患者のための6人用の大部屋に たった一人の入院患者である。
 ベージュ色のカーテンで仕切られた一人当たりの空間は 約2畳、
 清潔なベッドと小さな物いれ用のたんすが用意されていれば 身体の疲れを癒すには
 十分である。

 それにしても日本の病院の暑さには驚いてしまう。
 常夏のバンコクからやって来た私が 暑く感じてしまうくらいで 
 室温は25,6度以上かもしれない。
 寝苦しい夜が明け、朝も6時を過ぎると 病院内は活気にあふれてくる。
 午前7時を過ぎると 朝食の時間は近づいてくる。
 今朝の朝食は 食パン2枚に 味のしない野菜炒め、牛乳、そしてオレンジ半分、
 食べることが出来たのは パン1枚、半分のオレンジ、牛乳だけである。
 明朝からは パン食をお粥に替えてもらい、牛乳は果物ジュースに替えてもらう。

 午前10時には 6階の救 急外来用の部屋から 7階の内科(呼吸器科)の部屋へと引越し、
 6人部屋で通路を真ん中にして カーテンで仕切られた部屋が 3部屋ずつ並んでいる。
 6階にいるときは窓際だったけれど、7階では真ん中の部屋で両脇の部屋の住民の存在が
 気にかかかる。
 慣れるより仕方のないことだ。

 大半の部屋の住民は皆、しっかりカーテンを閉め切っているので 
 誰がこの部屋の住人なのか よくわからない。

 今から35年前に急性肺炎で入院した池袋の下町の中にあった総合病院の大部屋との
 違いに驚いてしまっている。
 その病院は 大学の学生保険と国民健康保険を両用すれば、入院費も治療費もただだった。
 ベッドも5,6台 置かれており、如何にも下町風という大雑把な様子だった。
 私のすぐ近くにいた当時脳軟化症と呼ばれていた病気の大柄のおじいさんが寝ており、
 夜になると勝手に逃げ出したり、暴れないように両手、両足を縛りつけられていた。
 お尻にはおしめがつけられており、時折、その臭いには閉口したものだった。

 私の大学での専門は心理学で 大学3年、4年のときは 情緒障害児いわゆる自閉症・
 アスペルガーの子供たちや親たちとの活動に精出していた時期で その無理がたたって、
 過労気味になり、急性肺炎にかかってしまったのである。
 だから、その入院の折は 入れ替わり立ち代わりの訪問者が多く、1ヶ月という入院期間は
 瞬く間に過ぎ去り、同じ部屋に誰が入院していたのかという記憶は 能軟化症(認知症)の
 おじいさんのことと、確か早稲田大学の学生だったと思うが、やはり 急性肺炎で入院し、
 翌日には亡くなった若者のことだけである。

 ほとんど同じ年齢だった若者であったにもかかわらず、一方は亡くなり、
 一方は生き残っている。
 もうあれから35年の月日が流れたのである。
 そして 私は今、再び 病院の一室で肺がんとの闘いの中にいる。
 闘いというより 肺がんという病をどう受け入れるか そのことの方が重要な事がらになっている。

 今日は昼食あたりから 少しずつ 食欲が出てくる。
 今日一日は 検査も治療もなく 昨日の疲れを癒すようにうつらうつらと 
 日長一日 寝ているだけだった。

 この日、主治医、担当医、担当看護師が決まる。
 主治医は40歳前後のF先生、担当医は30歳前の研修医のT先生、
 看護師は25歳前後のTさん、
 他にも数人の看護師の援助の中での生活が始まった。

 夕方 夕食後 のんびりと寝込んでいると Yがやってきた。
 日本を離れてからの26年間 何かにつけ、大きな援助をしてくれている。
 その報いに応えることができず いつも心苦しい思いをしている。

 彼女が帰っていくと 今日1日の病院の生活も終わりに近づき、後は痛み止めの薬をもらって
 寝るだけである。




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徒然なるままに | 10:33:19 | Trackback(0) | Comments(0)
東京 成田空港から東京へ‐02
東京 成田空港から東京へ‐02 1

東京 成田空港から東京へ‐02 2

 エレベーターで区役所の2階に上っていく。
 広々としたフロアである。
 国民健康保険の申請窓口の場所を訊きながら、動き回っていると 女性が受付の窓口が見つかる。
 26年前に日本を離れ、それ以後 日本では健康保険には加入しておらず、その後は大半タイ、
 ネパールを中心に生活しており、日本での収入はないことを伝えると、パスポートを調べ、
 それに見合った国民健康保険の支払額を決めてくれ、それに伴って、国民健康保険限度額適用
 認定書も作ってくれる。
 奥に座り込んでいる男性職員の上司が何かいろいろと注文をつけているようだったが、
 30分あまりでどうにか出来上がる。

 次は飯田橋にある東京厚生年金病院を目指すだけである。
 国民健康保険課の窓口の職員に飯田橋までの行き方を尋ねると 区役所から東西線の東陽町まで
 徒歩5分、小雨振る中、荷物を下げて、東陽町の駅を目指す。
 徒歩5分だというのに 10分以上に思えてくる。
 東西線といえば、東京でも古いタイプの地下鉄、階段の上り下りが昔ながらの不便さで 
 鬱陶しい。
 運が悪いことに やって来た地下鉄の電車はほぼ満員で座れる席はないし、
 東陽町と飯田橋までは意外と
 遠いのである。
 4,5駅目でやっと席が空く。
 かなり体力の限界点に近づいてくる。
 
 やっと飯田橋の駅には着いたが、エスカレーターはなく、階段の上り下りは 
 ひたすら自分の脚力である。
 地下鉄の構内をぐるぐる回り、やっとの思いで地上に出るが、病院の建物は目に入らない。
 はあはあ、ぜいぜいと息を吐きながら、病院の方向に向かって 坂道を上って行く。
 小雨は 止むことなく 降り続いている。
 小雨とともに暮れなずむ夕暮れの東京の街並みの中では すべての建物は灰色がかって 
 皆 同じ建物に見えてしまう。
 近くにいた中年夫婦に病院の場所を尋ねると 道路の向こう側にある灰色の10階建ての建物を
 指し示してくれる。

 どうにか辿り着いたのだ。午後4時半である。
 命はどうにかつながったようだ。
 脈拍も血液中の酸素濃度も最悪の状態で 話を進めていくのが一苦労である。
 救急外来のT先生に通せば、話は伝わるはずである。

 受付で5分近く待っていると 電話で呼び出されたT先生がやって来る。
 救急外来室で早速診察である。

 血液検査、レントゲン撮影、心電図、血圧などバンコクの国立チューラロンコン大学病院で
 調べたことをもう一度検査をするうちに、午後6時近くなり 6階の救急外来患者用入院用の
 大部屋に移動、この部屋の入院患者は 6人部屋でありながら、私一人である。

 午後6時過ぎに病院の夕食が運ばれてくる。
 ご飯、ほうれん草のおひたし、山芋の千切り、イカのフライに冷凍野菜(コーン、にんじん、
 えんどう豆)少し、食べているうちはおいしく感じたが、食べているうちに、食べることに
 飽きてくる。

 窓際の席だったので 閉め切った窓のガラスの向こう側に 東京の夜景が浮かんでいた。
 明日から 本格的な検査の始まりである。
 とにかく 疲労回復に努めなくては…。



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徒然なるままに | 19:30:04 | Trackback(0) | Comments(4)
東京 成田空港から東京へ‐01
 ノースウェスト航空の飛行機を出ると 車椅子が待ち構えており、成田空港構内の迷路のような
 通路を通って、検疫、入管、税関を抜け、外へ出る。
 知り合いの人間がいるかと眺めて見るが 見当たらない。

 車椅子で公衆電話のある場所へと運んでもらい、そこから ブログを通して知り合ったタイ好きの
 知人に電話をかける。
 東京での病院の手配をお願いして置いたのである。
 電話をかけると 病院のほうは すぐに行けば入院できる形になっており、まずは救急外来に
 行けばいいことになっていると言われる。

 時刻は午後1時45分 自分の体力に合わせて これからの計画を立てて見る。
 京成電車を利用するか、JR総武線快速を利用するか、京成電車であれば 
 時間は短縮出来るが、船橋で乗り換えの手間がかかる。
 少ない荷物であるにしても 階段の上り下りは 身体に堪える。
 総武線快速の時間表を見ると 具合のよいことに午後2時発の東京行きがある。
 錦糸町駅到着は 午後3時22分だ。
 1時間22分の時間の長さは気になるが、始発なので座っていける、
 どうにか体力は持つだろう。

 斜め前の席には 中国人風な数人の若者たちが 大きな荷を前に 楽しげに話し込んでいる。
 目が向くのはそのくらいで ただただ 電車が錦糸町駅に到着するのをひたすら待つだけだ。
 
 同じ姿勢で座り続けていることが辛くなってきたころに 電車葉錦糸町駅に滑り込んでいく。
 再びの決断である。
 時間は午後3時22分 もう一頑張りすれば、江東区役所へ行って 国民健康保険の申請・
 取得、国民健康保険限度額適用認定書の交付を受けることが出来そうだ。 
 江東区猿江のいつもの居場所に行っても、辛い夜を迎えることになりそうだ。
 そのくらいなら、無理をしても 今日中に必要なな手続きを済ませておけば、
 入院も出来る。

 エスカレーターのない階段を 小さなリュックサックと小さな旅行バッグを提げ、
 よたよたしながら 改札口へと向かう。
 どうなるかは 時の運に任せるより仕方ない。
 駅の外では 小雨が降っている。
 日本の冬の寒さの中に置かれても 寒いという感覚は生まれてこない。
 それだけ 緊張しているのだろう。
 タクシー乗り場まで行き、江東区役所と行き先を告げる。   

 度重なる信号待ちを繰り返しながら タクシーはやっと江東区役所に到着する。
 タクシー料金は1160円だった。

 日本を離れる前までは 江東区で働いていたし、日本を離れた後も 住所は江東区に
 置いていたが 江東区役所にやってくるのは 初めてのことである。
 区役所の国民健康保険課は 2階の窓口である。
 どういう対応を受けるのか不安は不安である。
 息切れしている呼吸を整え、次の戦いに備える。



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徒然なるままに | 10:47:09 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク バンコクから東京へ
 1月12日 夜中の3時が近づき、バンコクの国際空港 スワンナブーム交際空港へ
 向かう時間になった。
 隣の部屋では息子のBが テレビを見ながら 待機している。
 重く息苦しい身体を持ち上げ、着替えを済ませ、荷物の最終チェックを済ませ、
 小型のスーツケースと
 リュックサックを息子に持たせ、部屋を出る。

 マンションの外に出ると 辺りはまだ闇の中である。
 タクシー料金350バーツを息子に渡し、やってくるタクシーを
 待っていると 1台のタクシーが すぐさまやってくる。
 スワンナブームまでの運賃交渉は 350バーツで成立である。
 若い息子は十分に体力は残っているが、私のほうは体力も消耗していて、口数も少ない。
 スワンナブームに行くのは 息子にとっては初めての体験である。
 ドンムアン空港には 数え切れないくらいに通った。
 インド、ネパール、東京と 何度 一緒に通ったことか。
 
 夜のしじまの中のバンコクの街を30分もしないうちに タクシーは空港へと到着した。
 タクシーを降り、二人で空港の中に入り込んでいく。
 ノースウェスト航空のチェックインカウンターへと向かう。
 並んでいる乗客の数は少ないが 一人一人のチェックにやたら時間がかかる。
 エコノミックス用のカウンターは二つしかしかないのに 一人のアメリカ人がごねていて、
 やたら時間がかかっている。
 元気そうに振る舞い、乗車拒否にあわないようにするのもなかなか辛い。

 短い時間 息子との短い別れの時間を告げ、出国手続きのカウンターへと向かう。
 再びいつ会えるのかは定かではない。
  
 出国手続きは簡単に終わり、荷物検査を終え、ゆっくりゆっくりとG3搭乗口へと向かう。
 体調のよくないときには 普通でも長いG3までの距離の長さがやたら長く感じられる。。
 どこか寝転がれる場所を見つけたいと思うが、どこも一杯である。
 やっとのことで長いG搭乗口までたどり着く。

 いつもならここで煙草を一服ということになるのだが、もうそんな状態ではない自分を
 再認識する。

 G3の搭乗口前で 形だけの荷物チェックを受け、搭乗口前の待合室へと急ぎ、
 やっと横になることができる。
 30分も待っていると 搭乗が始まる。

 私のとこの席が空席であることを祈るが、残念ながら、ミネソタ州出身のアメリカ人が
 座り込む。
 近くに日本人客室乗務員がいたので 体調が悪いことを告げ、居心地のよい席があれば
 見つけてくれることを頼んでおく。
 6時間のフライト中耐えられるかと訊かれるが 当然大丈夫と答えて置く。

 飛行機が飛び立つと この女性日本人客室乗務員が 2座席分の場所を確保してくれる。
 後に4座席分の場所を確保してくれるが、あまりに悪いので遠慮してしまった。
 そんな遠慮をしていたら、その4座席分を私より健康的に見える外国人が利用し、
 眠り込んでいた。
 つまらない遠慮はするものではないとつくづく感じてしまった。


 寝やすい形を作りながら、6時間近い飛行時間中の半分は耐えることが出来た。
 ビールとワインは無料だったので 感覚を麻痺させるには都合がよかったのかもしれないが
 飲む気にはなれなかった。

 身体を丸くして 朝食も取らず、耐え続けていると やっと成田が近づいて来た。
 上空の天気はよくないようだ。
 体力づくりのために 出されたクロワッサンサンドだけは無理しても食べることにした。
 昨日の夕食以降 何も口にしていなかった。
 成田到着後の体力が心配だったからだ。
 無理やり飲み込んで、食べる。

 小雨降る中を 飛行機は成田空港の滑走路へと滑り込んでいった。
 日本人の客室乗務員に 車椅子の手配を頼んでおく。
 残っている体力は出来るだけ温存しておく必要がある。

 この客室乗務員の母親も10年以上前に子宮がんに係り、手術をしたが この10年再発の
 気配もなく、今なお健在のようだ。
 飛行機を降りる寸前にくれたティッシュボックスは 私への思いやりだったのかもしれない。

 さあ 飛行機から出て 成田空港へと移動すると 飛行機の出口では 車椅子が待っていた。



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徒然なるままに | 15:42:39 | Trackback(0) | Comments(5)
バンコク 日本帰国まで あと1日
 昨日は 朝8時半過ぎに 息子がやって来てくれたので 外に出掛ける必要もなく、
 彼が食事の手配や細々とした用事を片付けてくれたので、1日中 ベッドで寝ている
 ことが出来、身体を休めることが出来た。

 次の日の午前11時に再びやって来ると言って 夕方7時過ぎに自分の部屋に帰って
 いった。

 彼が帰り、夜10時過ぎには 寝る態勢に入ると、再び、息苦しい状態になってきた。
 横になると どうも胸に溜まった胸水が影響を与え、呼吸を難しくするようだ。
 気管支に痰が詰まり、ゼイゼイと音をたて、深い呼吸が出来ない。
 朝までこんな状態が続いている。
 昨日は 息子が来て のんびり休むことが出来、体力が回復出来たと思ったら、
 この挙句である。 

 今日はいくつか しなくてはならないことがある。
 お金の両替をすること、電気料金支払いのための銀行口座にお金を振り込んで置くこと、
 この二つだけは済ませて置かなくてはならない。
 いつもなら何でもない仕事が、大きな負担になっている。
 息子に任せればいいのだが、都合の悪いことに通帳の残りのページがなくなり、
 通帳を新しくしなくてはならない。

 それが終われば、帰国のための最低限の荷物をまとめ、あとは寝ていればいい。
 そして 12日の真夜中の2時半にタクシーで 息子とともに空港へ向かえば良い。

 ノースウェスト航空276便 バンコク5時40分発、成田到着13時35分に
 乗り込めば、いいだけである。6時間のフライトである。
 緊急用の酸素吸入器があればとアドバイスされ、息子に探してもらったが、
 見つからなかった。
 いざとなれば、客室乗務員に頼むよりしかたないだろう。

 スワンナブーム空港へ行くまで ひたすら体力回復に勤めるだけである。

 もう運命に任せるしかない。



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徒然なるままに | 14:48:13 | Trackback(0) | Comments(4)
バンコク 日本帰国まで あと2日
バンコク 日本帰国まで あと2日 1

バンコク 日本帰国まで あと2日 2

バンコク 日本帰国まで あと2日 3

バンコク 日本帰国まで あと2日 4

バンコク 日本帰国まで あと2日 5

バンコク 日本帰国まで あと2日 6

 帰国まであと2日になったが、昨日は体調が最悪の状態だった。
 胸膜内に溜まった胸水が 増えてきたせいか 呼吸がしづらくなってしまっていた。
 昼前に タイの息子に連絡し、日本への帰国当日は 空港まで付き添ってもらうことを
 頼んで置く。

 午後4時から 今 日本からバンコクにやって来ている日本人の方に会うことになった。
 私が今まで タイやネパールで撮り続けてきた写真を ホームページ作りや何か企画を
 作って活かしたいということだった。
 何らかの形で 私の見てきたタイやネパールの姿が 伝えられていくのは必要かも
 しれないと思い、ちょっと大変だったが、タイ、ネパールの写真のすべてを DVDに
 焼き込んで渡した。
 MBKセンターの1階のカフェでお会いしたが、体調が悪くて、自分の部屋から
 MBKセンターまでの少しの距離を歩くにも苦労してしまった。
 関西出身の方で 私より少し若いかたで 誠実そうな人柄で安心した。

 彼が興味を持っているイスラム教徒 チャム族の集落 バーン・クルアを少し案内した。
 体調が良ければ、集落 バーン・クルアや周辺にある下町や市場なども案内して差し
 上げたかったが、体調がひどくなってきたので 途中で別れて、部屋に帰ることにした。

 ゆっくりゆっくりと歩きながら、マンションの入口に入ってくると タイの息子が
 心配してやってきていた。
 昼前にかけた電話が 余程苦しそうに聞こえたようだ。
 1時間半ばかり私の様子を見て 自分の部屋に帰っていった。
 明日又、やって来ると言う。

 息苦しさが収まらず、横になって 呼吸が普通になるのを待っていた。
 体力をつけるために 牛乳を飲んだのはいいが、これが気管支に詰まって呼吸困難に
 なり、大変な想いをした。
 嗽をしたり、深呼吸をしたり、いろいろ試してみる。
 いよいよ 高額な治療費の私立病院での治療になるか、野垂れ死にになるかと
 心配したが、以前 近所のクリニックで貰っていた気管支拡張剤を飲むと、少し、
 回復してきたので安心した。
 とにかく 回復した状態を維持するようにしなくてはならない。
 12日の早朝のフライトまでとにかく頑張らなくてはならない。

 少し楽になったので 私のブログの訪問者を確かめていると 今まで見慣れない
 訪問者の方がいた。
 その方のブログの中で書かれている記事の中にこんなものがあった。 
 『小澤征爾の食道癌 』
  http://blogs.yahoo.co.jp/jngwk691/50003684.html

 ― それに、もう一つ、皆さんがわかっていないことで、非常に大切なことがある。
 それは、人の寿命なんて、医者の技術や、薬の力や、本人の努力で、どうこうできる
 ものではないんだよ。

 つまり、人の寿命というものは、あっちにいる人しか、決められるものではないんだよ。
 医者も、本人も、誰も、決めることはできないんだよ。

 あっちにいる人が、「この人は、もう、こっちに引き上げよう」と思ったら、
 どんな名医にかかって、どんなに高価な薬を飲んだって、ダメ。死ぬものは死ぬんだよ。

 人間は、大抵、何らかの病気によって死ぬんだが、死ぬ運命にある病気になったら、
 どうもがこうと、努力しようと、死ぬ病気は死ぬんだよ。

 反対に、医者に行かなくたって、薬を飲まなくたって、治る病気は、治るんだよ。

 医者に行っても、どんな高価な薬を飲んでも、死ぬものは、死ぬし、死なない病気は
 放っておいても死なない。

 だったら、何も、入院して苦しい思いをしたり、治療費とか、薬代だとか、
 ただでさえも、乏しい財布の中身を、更に、乏しくしたりして、周りの者に迷惑
 かけることないじゃないか。―

      ~ 気と心と宇宙法則 http://blogs.yahoo.co.jp/jngwk691

 私を勇気づけるために訪問してくれたのだろうか。

 私自身 人間の寿命というものを受け入れたいと思うし、無理をしてそれに逆らう
 つもりもない。
 私を生かそうという力が 何処かにあれば、少しは寿命も伸びるかもしれない。
 ただそれだけのような気がする。

 今 日本へ帰るというのも 長生きをしたいというより、タイ、ネパールでの
 後片付けのための体調の回復のためだ。
 その後のことは考えていない。

 だから、そのためにどうにかして 日本に辿り着く必要がある。



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徒然なるままに | 10:32:31 | Trackback(1) | Comments(2)
バンコク 日本帰国まで あと3日
バンコク 日本帰国まで あと3日 1

バンコク 日本帰国まで あと3日 2

バンコク 日本帰国まで あと3日 3

バンコク 日本帰国まで あと3日 4

 食欲不振から 体力が少し 落ちてきたせいか 少し辛くなってきた。
 そのためか 胸水の量が増えてきているのか ちょっと息苦しい。
 日本への帰国のための飛行機の出発日は 1月12日 火曜日の午前5時40分、
 空港には 午前3時半過ぎには到着する必要がある。
 今の具合なら、息子に空港まで付き添ってもらう必要がありそうだ。

 変な話だが フランスの有名な詩人 アルチュール・ランボーのことが思い出されて
 きた。

 若くして一躍有名になったランボーだが、その名声には眼も向けず、詩の世界を捨てて、
 アフリカの砂漠の商人としての生活を選択する。
 エチオピアのアデンを中心にして 商いに励むが ちょっとした事故から足を痛め、
 そこに骨肉腫が出来てしまう。
 治療のために アフリカからマルセーユの港に帰り、フランスで足の切断手術を受けたが、
 病魔は体中に広がり、回復の可能性はなかった。
 再び エチオピアのアデンを目指し、最愛の妹とマルセーユにやってくるが、
 時はすでに遅く マルセーユで亡くなってしまう。
 享年37歳だったように記憶している。

 20数年間 海外で生活していると いつも気になっていた存在が アルチュール・
 ランボーだった。
 人生半ばにして その一生を閉じたランボーと私とは違うし、60歳近くまで生きて
 きた自分は彼よりもずっと恵まれている。
 別段 何の成功もなかったけれど、好き勝手に生きることが出来たのは 本当だ。

 ランボーがフランスに帰ってきたのは 足の治療のためで その治療が終われば、
 再び エチオピアのアデンへ向かうつもりだったのである。

 私も同じである。
 体調が回復するための一時的な治療が済めば、バンコクに帰ってきたいし、ネパールの
 カトマンズにも行かなくてはならない。

 とにかく頑張って 1月12日の飛行機には乗り込まなくてはならない。
 成田に到着すれば、区役所での国民健康保険加入の手続き、病院の手配を行わなければ
 ならない。
 これが辛い作業になるだろう。
 東京の昔からの友人は 仕事中で 職場を離れることは出来ない。
 ひたすら 身体が動くための体力が残っていることを 願うだけだ。

 私が大病に罹り、病院に入院したのは 大学4年の秋のことで 病気は急性肺炎だった。
 この時は 国民健康保険と学生保険の二つが使えて、入院費も治療費も無料だった。
 入院生活は 1ヶ月近くに及んだ。

 あれから 35年以上の月日が流れてしまった。
 今回は どういう事になるのだろう。
 世界も私もすっかり変わってしまったのだ。



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徒然なるままに | 10:13:41 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク 家族の絆
バンコク 家族の絆 1

バンコク 家族の絆 2

バンコク 家族の絆 3

バンコク 家族の絆 4

バンコク 家族の絆 5

 私が生まれたのは 瀬戸内海の小島である。
 9人兄弟の末っ子として この世に生を受けたのである。
 父親は造船所の工員として、母親はその傍らで蜜柑農業を営んでいた。
 いわゆる兼業農家である。

 1950年代でも9人兄弟 11人家族というものはやはり大家族であった。
 兼業農家だったから どうにか生活が成り立っていた訳で、父親の収入だけでは
 家族を支えることは困難だっただろう。

 家族、兄弟が多いのは賑やかでいいですねという人がいるが、一番小さい末っ子の
 眼から見て、兄弟が多くて 得をした、いい思いをしたという記憶はあまりない。
 むしろ、次から次へと問題が起こってきて、心を悩ますことの方が多かった。

 いくらたくさん子供を産んで育てても 助けあいの精神や兄弟間の思いやりを育てる
 気がないなら、兄弟が多いというのは 子供にとって大きな負担になるものである。
 不幸な生い立ちの中に生まれた父親は 助けあいとか人間同士の思いやりといった
 面では 欠けていた人だった。
 彼の一生の中では 子供の心の中に入ってくることは 一度もなかった。

 そんな問題の多い家族を末っ子として 下から絶えず見つめているというのは 
 どうも人間に対する猜疑心、人間に対する信頼感を失わせてしまうものである。
 私にとって 家を離れることは そうした家族のしがらみから逃れることだった。

 ネパールのカトマンズで 親兄弟や幼なじみ同士の関わりを見ていると、素朴で
 暖かく、その人間関係を大切にしていることが そばで見ていてもよくわかり、
 貧しく、経済的に豊かでない家族ほど 家族間のつながりを大切にしている姿には
 こちらの心も暖かくなってくる。

 家族というものが 人間の何を育てるのかが 本能的にわかっているのである。
 ただ家族の中にいても 両親や祖父母が 家族の絆をどう育てて行くのか
 わかっていなければ、家族は 大きな争いの原因になるし、憎しみを生み出す
 ことだってある。
 今の日本社会は 家族の持つ負の力の証明にすらなってしまっている。



    夕御飯です  
             
               高木護

   灯がゆれると
   私の胸に想いがいる
   想いを 箸でつつくと
   おまえらの瞳の中に
   遠い湖があり
   青い魚が跳ねている
   呼ぼうよ 遠い日を

   ここには父が座っていたね
   そこには母が座っていたね
   今その暗い影に
   私が座り
   お前らが座っているね

   時の流れ
   それは 哀しみのぎっしり
   敷き詰められた小径だった
   私が歩いていく
   どんどん歩いていく
   お前らは手を振っている

   私が引き返す
   お前らは泣く
   時の流れ
   みんなもう遠い湖だ
   跳ねている青い魚だ
   屋根はひおり
   天は星の冷たさ



 今から20年前 9歳のタイの子供を育てることになった。
 ストリートチルドレンで 9歳になっていても学校に通っていなかった。
 その頃は ガリガリに痩せていて 太り気味の今の彼からすれば、嘘のような
 姿だった。
 
 最初は知り合いのタイ人の家に預けながら、学校に通わすことから始まったが、
 結局は 私が育てることになった。
 家庭という温もりを知らない彼に少しでも家庭らしさというものを伝えるのに
 家では出来るだけ 自炊し、市場への夕食の材料の買出しは 二人出一緒に行くのは
 いつものことだった。
 私がタイにいる間は 彼の服の洗濯、学校へ来て行く制服のアイロンがけは 私の
 仕事だった。
 二人の人間が 一緒に生活していれば、それは 家族だと思っていたからだ。
 早く自立出来るように 厳しく育てたが それが 彼にとっては負担だったようだ。
 いろいろ紆余曲折の中で 20年の歳月が流れた。
 この20年の中で 二人の間にあったものが 何かが少しずつ、見えてきた。

 そして 私が最後に与えることが出来るものは 厳しいかもしれないが、私の死である。
 だから、私は 死に場所をタイのバンコクにしなくてはならない。
 このバンコクに 意地でも戻ってこなくてはならない。
 私が 彼にとって少しでも大切な存在であるとしたら、私の死を 彼はしっかり
 見極める必要がある。
 その時に 初めて一人前の大人になるのではと期待している。
 それが 私の彼に対する最後の愛である。



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徒然なるままに | 11:02:59 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク 来週 日本に一時帰国することに決めた
バンコク 来週 日本に一時帰国することに決めた 1

バンコク 来週 日本に一時帰国することに決めた 2

バンコク 来週 日本に一時帰国することに決めた 3

バンコク 来週 日本に一時帰国することに決めた 4

 もう少し 身体の具合が良ければ、先にネパールのカトマンズに行って、後片付けを
 したいと思ったが あの不便な環境の中で身体を動かして作業する自信がない。
 1番大変なのは 食事のことである。
 食欲と体力があれば、どうにか適応出来て行く世界であるが、今の状態では無理だ。

 ネパールへ行くか 日本に帰国するか 心は揺れたが 結局日本に帰国することに
 決めた。
 ノースウェスト航空のマイレージが貯まっているので それを利用して帰国しようと
 思い、わざわざ BTS高架鉄道駅のラーチャダムリの近くにあるペニスラ・プラザの
 4階にあるノースウェスト(デルタ)航空のオフィスに行ったが、1月、2月中には
 マイレージ用のシートはないと言われる。
 席は空いていても マイレージ用のシートに空きがない。

 仕方がないので 近所のいつも旅行会社で バンコク-成田往復チケットを 
 17150バーツで購入することにした。
 どうもマイレージを使う機会はなさそうである。

 1月12日の朝発の東京行きの飛行機である。
 日本帰国次第 すぐ様 検査・治療の形を作りたいと思うが、26年間の半分
 浦島太郎のような生活をしてきたから、日本の役所からどういう医療援助を受ける
 ことが出来るのかよくわからない。
 わたしが 一応住民票を置いているのは 江東区である。
 江東区辺りのその辺の事情の詳しい方、病院事情に詳しい方、是非 情報を伝えて
 くれると助かります。
 江東区役所のどこへいけばいいのか、どんな援助が受けられるのか、教えて頂けると
 有り難いです。

 日本に行って まず行わなければならないことは CT検査をして 癌の状態と
 転移の状態を調べ、どの程度の化学療法が可能であり、延命効果がどのくらいあり、
 どの程度体力を回復出来るか、そのことに関心がある。
 タイのこととネパールのことの後片付けをきちんと出来るだけの時間がほしい。
 それだけである。

 どちらにしても費用を要することで、ご協力頂ける方が いらっしゃいましたら、
 インドやブータン、アジアの布をご購入頂けると有り難く存じます。
 誠に 不躾なお願いですが 宜しく協力のほどをお願いします。
 布についてのご質問に関しては 管理者のみ閲覧可能なゲストブックをご利用ください。
 又、売ってくださるという方があれば、嬉しく思います。

 日本帰国まで後4,5日 少しでも体力が維持出来ることを願うばかりだ。
 ここに来て、急激に食欲が落ちたことには驚いてしまった。
 豆腐なり 何か食べやすいものを求めて、体力維持に努めなくてはならない。
 今日は 朝から モンキーバナナばかりを食べている。
 中華街の漢方の薬局で買ってきた癌の治療薬は なかなか効果を発してくれないようだ。
 能書きは しっかり書かれているが 口程にもないようだ。
 日本である程度有名になっているものは バンコクでは売られていないようなので
 効果の程は わからない。
 少し 身体が辛くなってきたようだ。
 帰国出来るのだろうか。


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徒然なるままに | 05:53:36 | Trackback(0) | Comments(4)
バンコク 都に雨の降るごとく
バンコク 都に雨の降るごとく 1

バンコク 都に雨の降るごとく 2

バンコク 都に雨の降るごとく 3

 どういう訳か 乾期のバンコクに雨が降る。
 眠れず うつらうつらしていると ベランダ辺りから雨音がする。
 日本なら差し詰め 今の時期なら雪ということになるのだろうが、
 この暑いバンコクでは 季節外れの雨である。

 フランスの詩人 ベルレールの詩 『都に雨の降るごとく』の一節が思い浮かぶ。

      都に雨の降るごとく
      わが心にも涙ふる 。
      心の底ににじみいる
      この佗びしさは何ならむ 。

      大地に屋根に降りしきる
      雨のひびきのしめやかさ
      うらさびわたる心には
      おお 雨の音 雨の歌 。


 暑いバンコクの暗闇の中に降りしきる雨は パリに降る雨とは 異なった雰囲気の
 ものではあるが、若い頃から口ずさんでいたこの詩は 雨が降れば、自然に思い
 浮かんでくる。

 一刻の爽やかさと涼しさが この雨によってもたらされ、少しばかりの心地良い眠りを
 楽しむことが出来た。

 さて朝である。
 雨はすっかり止んでしまっている。
 これからの生活をどうして行こうかと考える。
 体力のあるうちにネパールのカトマンズへ行くことを考えるが、カトマンズの生活に
 耐えられるほど どうも体調は良くない。
 そうすると 日本で肺癌の初期治療を済ませることも考えなくてはならないが、
 国民健康保険の加入、短い間にしても 生活場所のことも考えなくてはならない。

 今 中華街の漢方の薬局で買ってきた中国製の免疫力増加、がンに対する抵抗力を
 謳っている漢方薬を飲んでいるが 効果が出てくるには時間がかかる。
 少し状態が回復できればと願っているのだが。

 午前10時を過ぎて タイの息子に電話を掛け、昼間、部屋にやって来るように
 伝える。
 今後のことを話しあって置きたかったからだ。

 午前11時過ぎにやって来る。
 癌が確定したことは 昨日伝えて置いたが、今後どういった経過を辿る可能性が
 あるかをきちんと伝える必要があった。
 小さな部屋であるけれど、一応 私の持ち物なので、いざとなったら、彼の名前に
 名義変更する必要もある。
 実際 一応生活の拠点であるから 売るわけにも行かない。
 大したものではないが、このくらいのものなら 残して置いてやりたい。
 そして、そのための手続きに必要な住民票や戸籍謄本のこともきちんとしているかを
 確かめる。
 28歳になっていても 子供のようなところがあって心配なのだ。

 そんなことを考えながらも タイでのこれからの生活を考えれば、唯一の頼りに
 なる存在であることは確かである。
 体力のあるうちはいいが、なくなったときに手伝ってくれるかどうかを確かめると
 いざとなったら、この場所に越してくることは決めているようだ。

 二人で中華街の漢方の薬局に がん治療のための漢方薬を買いに出かける。
 病気を機会に 二人の距離は再び近づいてきたようだ。
 血はつながっていない親子であるが、気持ちの上では 他の人間よりも近いと
 言えるのかもしれない。
 タイ国内、マレーシア、インド、ネパール、日本と 彼が幼い頃から二人で
 よく旅をした。
 9歳から20歳までは お互いにとって 怒涛の日々だった。
 そんな時代から 8年近く経つと 互いに許すべきところは許すという気持ちに
 なっている。
 漢方薬を抱えて 部屋に帰ってきた。
 彼は夕方の4時からのレストランの仕事が待っているので バイクに乗って帰って
 いった。

 夕方5時を過ぎると 再び 季節外れの雨が降り始めた。



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徒然なるままに | 17:30:26 | Trackback(1) | Comments(2)
バンコク 運命の瞬間
バンコク 運命の瞬間 1

バンコク 運命の瞬間 2

バンコク 運命の瞬間 3

 国立チュラロンコン大学病院の予約は 1月12日だったけれど、どうも具合が
 よくないので 呼吸器の専門医の来る今日の火曜日に予約日を変えてもらった。
 30日に検査のために採取した胸水と胸膜の細胞の検査結果を聞き、何らかの
 治療を早くしてもらおうと考えたからだ。

 朝10時半に1階の受付で呼吸器の専門医の診療 13時から15時までの予約を
 済ませ、2階の診察のための受付で 時間のくるのを待つ。
 午後1時が来て、診察室の前に並べられた三つの椅子の一つに座る。
 順番は2番目である。
 重症の患者らしく 車椅子に乗ってやって来ている50歳代の男性で 
 娘が付き添ってきている。
 専門医が20分以上 診察している。
 その診察も終り、私の番である。
 専門医の最初の言葉が 「予想に反して 悪い結果が出てしまった。胸水の中に
 癌細胞があり、肺癌である。」
 今後の治療の形を訊かれる。
 タイで治療するつもりなら、癌の専門医に引き継ぐ必要があるし、その前にCT検査を
 する必要があると告げられる。
 国公立の病院であっても タイの治療費は安いものではない。
 CT検査だけで 2万円近くの費用がかかる。
 その後のタイでの抗がん剤治療を考えると 他の方法を考えなくてはならない。
 それよりも 半分覚悟していたことだが、今後の予定、計画が気になってくる。
 やって置かなくてはならないことが 幾つかあるからだ。

 1番大きなことは ネパールのことである。
 ネパールの部屋をきちんと整理して置かないと 大家のネパール人に迷惑がかかる。
 どういう形でネパールに行くか、体調をどう整えて行くのか 考える。
 山ほどの品物があるが、大半は大家に処分してもらうことになるだろう。
 1番大変なことは いつどういった形で行けるかだ。

 別に今までの人生の中でやり残したことがあるといった悔いがあるわけではないので、
 後片付けをどうするか そのことだけが 気にかかる。

 あとは 残された時間を 経済的な意味でどう過ごしていくかだ。
 延命のための延命など考えていないから、痛みに対する対応だけは考えて置かなくては
 ならない。

 生まれてくるのも順番であれば、死ぬのも順番だから、それは受け入れるより、
 仕方のないことだ。
 順番が来れば 皆のもとへやって来るのである。
 それでも考えなくてはならないこと、片付けて置かなくてはならないことは山ほどある。



    行ってきます        
            高木護

  北方の雲が夕焼けた時
  むなしい出発の笛がながれた
  あなた達は死刑執行人のこころで手を振った
  黒い粗野な花束ではあるが
  感謝しよう
  さあ起立だ
  父の腐った泥を踏み
  ひとりの盃をおき
  では行ってきます
  行ってきます

  袋には汚れた地図をしまい
  地図には非情の旅程線が記入されてある
  永劫の旅程線よ
  北方へ
  今夜 旅立つのです
  牛のような歩調でもなし
  鳥のようなかるやかなものでもなし
  まして堅い誓いのあるものでもなかった
  では行ってきます
  行ってきます

  ある駅ではしどろの言葉が売られていた
  ある駅では拳銃のようなものが売られていた
  しかし眠いのである
  いくつかのうつらうつらの駅を通過して
  はっと目覚めては
  過去一切の無意味さがわかってしまった
  ぼくをささえてきたものは
  あなたの瞳でもなし
  憧れでもなし 
  まして約束や悲壮なものでもなかった
  行かなければならないのはぼくの性
  では行ってきます
  行ってきます



  ***
  こんな具合ですから これからのブログの更新は不定期なものになりますので
  よろしくお願いします。



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徒然なるままに | 13:38:28 | Trackback(0) | Comments(6)
バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて
バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて 1

バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて 2

バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて 3

 正月2日目は 日本からタイ語を学びにやって来ている知人のTさんも タイ語の
 授業が午前中、午後と入り、かなりハードなスケジュールのようだった。
 この日のお付き合いは 遠慮させて頂いて、夕方から息子と二人で新年会を行う
 ことにした。

 約束の時間は夕方の5時である。
 時間通りに 息子は5時にやってくる。
 いつもであれば、二人で市場やスーパーに行き、食べたい食材を買ってきて、
 作って食べるのであるが、今回は私の状態が こんな具合なので 
 外で食べることにした。
 ペッブリー通りに並んでいる屋台で イサン料理でもと思ったが、私の病気のことを
 心配しているのか、刺激のある食べ物は避け、大型スーパー ロータスの1階にある
 飲茶を安く出すチェーン店 カントンハウスで食べることに決めた。

 最近になって利用するようになった店で、値段が安いわりには そこそこには
 美味しい店である。
 いつもは昼間に行っていたが、今回は夕方過ぎに行ってみた。
 昼間には空いている店も 夕方からは 家族連れで溢れている。
 いわゆるバンコク庶民というより、バンコクの中産階級の家族連れのようだ。

 家族4,5人でやって来て、ビールを飲まなければ、4,5百バーツ
 (千3百円前後)で十分に食事が楽しめる場所である。
 たまに家族連れでやって来て 外食を楽しむには安心できる予算だ。
 飲茶だけでなく、野菜料理や魚料理、麺類、チャーハンなども安い。
 飲茶類は 一皿 15バーツ均一、簡単な野菜中心の中華料理であれば、
 一人前50バーツ、チャーハン、焼きそばなども50バーツという安さである。
 体長30cm近いシーバスの揚げ物、煮物、蒸し物も2百バーツである。

 そんな料理を注文して タイ人の家族連れが 食事を楽しんでいる。
 顔つきを見ると 中国系の人たちが多い。
 自営業をやっている人たちだろう。
 一緒にやって来ている年寄りの女性を見ると、服装も顔つきも完全な中国人だ。
 中国系の人たちは 安くて美味しい店をよく知っている。
 中華街の中華レストランで食事をすれば、眼が飛び出るような値段の料理も
 このカントンハウスでは その半分いかの値段で料理を楽しむことが出来る。

 私たちも 17種類の飲茶、焼きそば、ビール2本を注文して 新年会を始めた。
 タイの有名なシンハービールの大瓶が80バーツ、これも安い。
 近ごろは 路上の屋台でシンハービールを頼んでも 70,80バーツするように
 なっている。
 冷房付きのこの場所では 十分に安い値段である。
 これだけ注文して 465バーツ 約1300円である。
 税金もサービス料もつかないところが嬉しい。
 ビールを飲まなければ、7,800円で飲茶を楽しむことが出来る。
 超一流の店の飲茶は それなりに美味しいだろうが、私たちにはこれで十分である。
 1時間ばかりの息子との新年会、腹を一杯にして 息子は自分のアパートへ帰って
 行った。
 お金が無いから 十分にお年玉を与えることは出来ないが、それでも心ばかりの
 お年玉を持たせた。
 彼も1月4日から仕事始めである。



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バンコク 食べ物 | 10:22:46 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 元旦のパッポン通り
バンコク 元旦のパッポン通り 1

バンコク 元旦のパッポン通り 2

バンコク 元旦のパッポン通り 3
バンコク 元旦のパッポン通り 4

バンコク 元旦のパッポン通り 5

バンコク 元旦のパッポン通り 6

バンコク 元旦のパッポン通り 7

 元日は 日本からやって来ている知人のTさんに チャオプラヤ川の川向こうの
 トンブリ地区の下町界隈を案内しようと思ったが、大晦日の動きが ハードワークに
 なり、昼過ぎても体調が回復せず、午後3時の約束はキャンセルしてもらい、
 夕方午後6時に待ち合わせをすることにした。

 たまには スクムビットのソイ・ナナ辺りと並ぶバンコク一の歓楽街 パッポンを
 散策するのも一興と思い、午後6時にBTS高架電車の駅 ラーチャ・テェヴィで
 待ち合わせ、電車に乗り込み、サイアム駅で乗り換え、サラ・デーン駅へと向かった。

 サラ・デーン駅で降り、電車の反対方向に向かって通路を歩き、敢えて 昔の
 ロビンソンデパートを出発点にして歩き出す。
 ラーマ四世道路とシーロム道路の交わる交差点の一角にあったデパートである。

 20年以上も昔、中華街の中にあった日本人の溜まり場 ジュライホテルに泊まって
 いた頃は 4番のバスに乗って シーロム道路を目指した。
 国立チュラロンコン大学のすぐ近くのバスの停留所で降り、すぐ後ろの横断歩道橋を
 渡るか、少し先の横断歩道を渡って ロビンソンデパートの前から歩き始めるのが
 いつもの定番のコースだった。

 そのコースを連れの知り合いと一緒に歩き始めた。
 夕方も6時を過ぎると 遊歩道には衣料やアクセサリー、民芸品を売る露店が立ち並び、
 昼間のビジネス街から夜の歓楽街へと姿を変えるのは 昔ながらのことである。

 露店と行き交う人で混雑するシーロム道路の歩道を 縫うように歩いていく。
 10分近く歩くと タニヤ通りにぶつかる。
 タニヤ通りのネオンサインのほとんどは 日本語で描かれている。
 昔から 日本の企業御用達の高級ナイトクラブの並んでいる界隈である。
 ビジネスマンではなかった私にとっては あまり馴染みのない場所である。
 ナイトクラブ、バー、日本食の料理屋、ラーメン屋などが並んでいる。
 時間が早いのか、不況のせいか まだ 日本人の姿は多くない。

 タニヤ通りを抜けると スリウォング道路の歩道へ出る。
 シーロム道路が表通りなら、スリウォング道路は裏通りである。
 この裏通り スリウォング通りも昔に比べると 随分明るくなり、健康的な雰囲気に
 変わっている。
 20年前のシーロム道路とスリウォング道路に囲まれたバンコクの一大歓楽街といえば、
 性の無法地帯といってもよく、外国人が求める性のほとんどが用意されているような
 場所だった。

 連れの知人と偽ブランド品の並ぶパッポン通りを歩き、パッポン通りのすぐ横の路地を
 歩く。
 時間が夕方の7時だったせいか、数多くのバーが並んでいるにもかかわらず、
 呼び込みもなく、至って静かな姿で 拍子抜けしてしまった。
 悪も善も、聖も汚れもすべてが一体化され、混然、混沌の中にあったこのあたりも
 様々の法的な規制が厳しく行われ、健康的な歓楽街へと様変わりをしてしまった。

 二人で再び、スリウォング道路に戻り、歩道脇のビア・バーのテーブルの前に座り込み、
 ビア・チャンの小瓶を傾けながら、通りを歩いていく人を眺める。
 正月休みに入っているせいか 若者から中年まで日本人旅行者の姿も多い。

 簡単にただの遊びと思ってやって来たこの歓楽街で 性と愛を錯覚して 
 地獄のような世界に足を踏み入れる人たちも多くいるのだ。
 それは理屈でどうなるものでもなく、体験してみなければ 分からない世界だ。
 体験して何かを学び取る人もいれば、どこまでも不毛な愛の世界に嵌り込んでいく
 人もいる。

 再び歩き始め、裏通りを散策しているとこの界隈の有名レストランなのか
 多くの外国人旅行者が席を求めて 立ち並んで待っているレストランがあった。
 昔はこんな裏通りにこんなレストランはなかった。
 レストランの名前は マンゴツリー、外国人の間では有名なレストランなのだろう。

 表通りのシーロム道路に出て、露店で混雑する歩道を抜け、BTS高架鉄道に乗って
 ラーチャ・テヴィ駅に帰ってきた。
 毒気のなくなったパッポンには何の魅力もなくなってしまった。



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バンコクを歩く | 10:26:46 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 大晦日
バンコク 大晦日 1

バンコク 大晦日 2

バンコク 大晦日 3

バンコク 大晦日 4

バンコク 大晦日 5

バンコク 大晦日 6

バンコク 大晦日 7

 去年の12月31日は 日本からやって来ている知人と一緒に バンコクを流れる
 大河 チャオプラヤ川に架かるサファン・プットの橋上から向こう岸に沈む夕陽を
 眺め、再び 73番のバスにのって 中華街を目指した。
 ヤワラート通りの隣の道路 チャロンクルン通りへとバスは入っていく。
 道路は混んで降り、バスはなかなか進んでいかない。

 やっと目当ての場所で降りて、中華街の中を歩き始める。
 チャロンクルン通りに出る屋台は 中華街に住む地元の人々によって占められ、
 ヤワラート通りに出る屋台や店は 外国人旅行者のためのものであることがよく分かる。

 食道楽の街 ヤワラートを歩き回り、今夜の食事場所 タイスキの店 テキサスに
 やって来た。
 人気の店のせいか 順番を待つ人が多い。
 我々は二人だったので あっさり座る席を手にいれることが出来た。
 この中華街のタイスキの店 テキサスでタイスキを食べるのは 14,5年ぶりである。
 昔に比べると 店も小奇麗になった。
 客層も外国人旅行者が多くなった。
 実際 注文して食べてみると どうも味が落ちている。
 昔は 地元の人相手の店だったが、外国人旅行者が大勢入り込んでくるようになり、
 材料の選択が いい加減になってしまったようだ。

 不満足な思いでテキサスの店を出て、昔の日本人旅行者の溜まり場だったカラカッダ・
 イーシップソン・ロータリー辺りを 二人で歩いてみる。
 通りの歩道には 立ちん坊の娼婦たちが 客を求めて 座り込んでいる。
 ジュライホテルも楽宮ホテルも廃業になり 昔からのホテルは台北ホテルだけに
 なってしまった。
 連れの知人は ここが昔の日本人の溜まり場だったのかと感慨深そうに眺めている。

 スリクルンホテルの近くにあるバス停までやってくるが いくら待っても73番の
 バスはやってこない。
 しばらく待ったが、バスはやって来ないので フアランポン駅に向かって歩くことに
 した。
 そこに行けば、MBKセンターへ向かう他のバス路線もあるからだ。

 連れが 折角だから、フアランポン駅の中を見てみたいというので 駅の構内に
 入ってゆく。
 12月31日だというのに 田舎へ帰省するタイの人たちで溢れている。
 座る席が十分ではなく、大勢の人たちが 床の上に座り込んでいる。
 昔からのフアランポン駅構内の風景である。
 大急ぎで田舎に顔を出し、大急ぎで再びバンコクに戻ってくるのだろう。
 親兄弟、我が子と顔を合わせ、稼いだお金を田舎に残し、再び バンコクにやってくる。
 昔の日本の上野駅と同じである。

 30分ばかり駅の構内の姿を眺め、帰路につくために 29番のバスに乗り込んだ。
 赤い色の普通バスだったが、このバス、料金がただのバスだった。
 料金がただのバスも後3ヶ月経てば、廃止になると云われている。

 バスをアジアホテルの前で降りて、連れはホテルの部屋へ、私は 自分の部屋へと
 向かった。

 夜中の12時近くになって マンションの屋上に登ると 12時を過ぎ、
 新年になると街の到るところで 一斉に花火が上がり始めた。


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バンコク風情 | 10:08:00 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 行く年 来る年
バンコク 行く年 来る年 1

バンコク 行く年 来る年 2

バンコク 行く年 来る年 3

バンコク 行く年 来る年 4

バンコク 行く年 来る年 5

 私のような生活をしていると 1年の終りも始まりも あまり心が動くことはない。
 寒さにすっかり弱くなったから、大抵 大晦日と正月は バンコクで過すことが多い。
 盆とか大晦日とか正月とか 社会の慣習であるから、日本社会にしっかり根を
 下ろしていない私にとっては 生活の節目には なっていかない。
 季節 季節の行事は 家族や親戚との深いつながりがあって 初めて大きな意味や
 役割を持つことがよく分かる。

 この26年の間 一体何度 正月を日本で過ごしたのか 忘れてしまうほど
 少なかった。
 最近は ネパールでもインドでもタイでも 西洋式のニューイヤーに合わせて、
 それなりの催しをすることが多くなった。
 特に外国人旅行者向けの歓楽街を抱えているバンコクでは 大晦日、新年の行事は
 なかなか派手である。

 ブログで知り合った知人が 12月29日からバンコクにやって来ている。
 体調は万全ではないが 出来る範囲内で お付き合いさせて頂いている。

 12月31日 今年 最後の日、この知人と二人で チャオプラヤ川に架かる橋
 サファン・プットの上から 今年最後の夕陽を眺めに行くことにした。

 タイ語のレッスンを受けている彼の授業が 午後4時までなので 
 4時半にナショナルスタジアムで待ち合わせ、73番の冷房バスに乗って 
 終点のサファン・プットを目指した。

 サファン・プットまでの道筋の中華街、サンペン市場などは歓楽街を除けば、
 休みに入っておリ、バスは渋滞することなく スムーズにサファン・プットに
 到着した。

 午後5時30分近く、夕陽が沈むには少し時間がある。
 橋の上を歩き回って 沈みゆく夕陽を待つ。
 12月31日のためか いつもはあまり見かけないタイ人たちも 
 夕陽を見にやって来ている。

 今年最後のメインエベントは チャオプラヤ川の向こう岸に沈みゆく夕陽を
 眺めることなった。


 沈みゆく夕陽を異国で眺める。
 季節の変わり目や年の移り変わりに際した時に浮かんでくる一つの詩がある。
 日本の放浪詩人 高木護の『桜』という詩である。


    桜       高木護

   ことしも花が咲く
   美しいと見上げようが
   うなだれようが
   花は散る
   散った花びらの上を
   ぼくは歩いていく
   なまぬるい風があるので
   耳たぶあたりに
   ぼくは一つの国をぶら下げてみる
   この国にうまれてしまってからの愛を
   この国にうまれてしまってからの凶を
   ぶらぶらさせる
   いまさら 
   散ってしまった花びらの無数から
   ぼくの悔いや哀しみを
   捜り出そうとは思わないけれど
   こうやって
   ぼくはまた一年を生きながらえて
   何ごともなく
   ふたたび花の季節にめぐり逢うのを
   ねがおうとしているのだろうか


 日本なら桜の花が季節の移り変わりの象徴であるかもしれないが、
 異国で生活することの多い私にとっては、バンコクなら チャオプラヤ川の
 流れや夕陽、ネパールなら ジャガランタ、ブーゲンビリア、ハイビスカスの花
 お祭りのことが思い浮かんでくる。

 日本、タイ、ネパールと1年の中で生活場所を変えながらの生活、
 国とは私にとって何だろうと考える。



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徒然なるままに | 10:27:06 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐05
バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐05 1

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バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐05 8

バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐05 9

 痰が気管支に詰まり、ゼイゼイと音を立てるので 息苦しくて 熟睡することが
 出来ないまま 朝を迎えた。
 朝5時に眼が覚め、6時過ぎから 再び少し寝る。 
 目を覚ますと 7時半になっていた。

 30日 今日の検査は 国立チュラロンコン病院で9時から始まる。
 検査でも、簡単な外科的技術を要する検査で少し、危険も要するものである。

 昨日約束していた時間の午前8時に 息子はやって来る。
 二人で8時20分過ぎに 部屋を出て、BTS高架鉄道のナショナルスタジアム駅に
 向かう。
 駅の終点方向にエスカレーターがあるので そこから 高架鉄道の駅へと上っていく。
 目的地のラーチャダムリ駅までは 電車で10分もかからない。
 ラーチャダムリで降りた方が近い、その先のサラデーンで降りた方が近いと 話を
 しながら、検査場所の建物のある場所を目指す。

 約束時間の午前9時前に 検査をする建物へ到着し、検査室のある2階へと上っていく。
 29日の肺疾患の検査の際 見かけた看護婦や医師がこの建物の中にいる。
 週に1度の火曜日に 総出で 本館の方へ 一般外来診察のために やってきていた
 ようだ。

 昨日出会った看護婦が 検査室へと案内してくれる。
 この場所で 胸水の溜まっている場所から注射器を使って胸水を取り出す胸腔穿刺、 
 同じく注射器を使って胸膜の細胞を取り出す胸膜針生検を行う。
 道路の渋滞のせいで 担当の医師の到着が遅れている。
 到着する時間がはっきりしないので 別の医師の手で 二つの検査をすることになった。
 レントゲン写真だけで 胸水の場所を探すのかと思っていたら、きちんと手順どおり、
 エコー検査でしっかり 胸水の溜まっている場所を特定していたので安心した。

 背中で行われていることなので どういった検査が行われているのか見当はつかない。
 どうも まず麻酔薬を注射し、その後に 二つの検査をするための針を差し込み、
 100ccほどの胸水と何箇所かの胸膜の細胞を取り出したようだ。
 針はかなり深いところまで差し込むようで、間違って肺に穴を開けると 気胸になり
 大変な事になる。
 所要時間は20分もかからなかった。
 針を差し込んだ場所に絆創膏を貼り、三日間 剥がさないようにということと
 もし肺の状態が急変したら すぐに救急窓口へ直ぐ様来るように言われる。
 どうも 肺に穴を開けてしまった時の用心のためのようだ。

 検査の終了後に 検査料の支払いと 取り出した胸水と細胞を専門のラボトリーに
 運ぶ仕事がある。
 それはすべて 患者側の仕事である。
 麻酔の覚めやらぬ私はまだ動くことが出来ないので 支払いと胸水と胸膜の細胞を
 ラボトリーに運ぶ仕事を息子にやってもらう。
 国立チュラロンコン病院は 新館、旧館が入り乱れるように立ち並んであり、
 目的の建物を探すのは 簡単なことではない。
 胸腔穿刺、胸膜針生検の検査の費用は 1200バーツだった。
 日本円で約3000円である。
 検査の結果がわかるのは 1月12日の午前中である。

 検査も終り、息子とゆっくり病院内を歩く。
 2,3年前 彼の母方の祖母もこの病院で亡くなっている。
 死ぬ4,5日前 娘たちでは見切れなくなり ここに運ばれ 亡くなったようだ。
 そんな話を息子はしている。
 彼には父親の記憶はない。
 彼が母親のお腹の中にいたときに 父親はどこかに行ってしまった。
 父親も息子が生まれたことは知らないままだろう。
 彼が生まれても 母親は彼を育てようとせず、母親の女兄弟の間をたらい回しされ、
 8際、9歳の頃は 知り合いの近所のおばさんのところで 魚売りの行商の手伝いを
 していてそれが嫌になり、ストリートチルドレンになってしまった。

 時間が十分にあるので 近くのルンビニパークの中を二人で歩く。
 出会ってから 20年の歳月が流れてしまったのが嘘のようだ。
 公園の一角では 教師に連れられた小学生の集団が 芝生の上に座り込んでいる。
 小学校1年から中学3年、そして バンコクでの専門学校、毎日が戦いのような
 日々だったことが思い起こされる。
 子供を育てることの大変さをしみじみ実感した。
 公園の中を歩いている二人を見て、9歳から20歳過ぎまで どんな戦いの歴史が
 あったのか 誰も気がつかないだろう。
 私も年をとり、彼も大人になった。



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タイ事情 | 11:35:33 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐04
バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐04 1

バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐04 2

バンコク 国立チュラロンコン大学病院で検査‐04 3

 12月29日 国立チュラロンコン大学付属病院での肺疾患の専門医による診断の
 日がやって来た。
 23日の一般的な健康診断の結果 レントゲン検査の結果が 思わしくなかった。
 肺に陰があり、その上、胸水も見られるということだった。
 それで 24日の昼前に そのことを 血はつながっていないが タイで9歳の時
 から20歳過ぎまで育てた28歳になる息子に伝えた。
 レストランの仕事は 午後4時からなので 大急ぎで様子を聞きにかけつけてきた。
 レストランの仕事納めは 12月27日、28日からはレストランのオーナーの
 田舎で過ごすのが 従業員たちの定例の行事になっている。
 てっきり オーナーの田舎へと行っていると思っていたら、29日の午前中に
 電話をかけてきて、オーナーの田舎へ行くのはキャンセルしたから、病院に付き添うと
 言ってきた。

 29日の専門医との約束の時間は 午後12時半から1時半までの予定である。
 二人で待合室に座り込んで 診察までの時間を待つ。
 午後1時近くなって 名前が呼ばれ 診察が行われる診察室の並ぶ別の待合室で
 診察を待つ。
 診察室へ入るように 看護婦さんに指示され、診察室で専門医を待っているが
 専門医はなかなかやってこない。

 やっときた専門医は 40歳前後の医師で 白衣など身につけておらず、
 淡いグリーンのシャツにネクタイを締めた格好で 見た目は医者らしく見えない。
 医学を学んだのは アメリカの大学でのようだ。
 レントゲン写真を見ながら 診断してくれる。
 聴診器を使っての診察、指を使って 肺部分の音を確かめるという診察も
 丁寧にやってくれる。
 レントゲン写真、病状の経過からすると 1番 可能性のある病名は 肺結核で
 ある可能性が高いようだ。
 途中 チュラロンコン大学の医学部で学んでいるインターン生が 3人入ってくる。
 専門医は大学の教授でもあるらしく レントゲン写真を見せ、病状を判断させている。
 私は いわゆる彼らの実験台になってしまった。

 病名をしっかり確かめるために 29日は 喀痰検査を行うことになった。
 結核であれば、病原菌に合わせて薬を何種類か選び、数カ月から1年に渡る
 薬物治療ということになる。
 病原菌の培養ということで 結果が出るまで 時間がかかりそうである。
 診察は 2階のフロアだったが、喀痰検査は 4階のフロア、そこへ 容器にいれた
 痰を持っていく。
 検査費用は 60バーツである。

 喀痰検査の簡単な検査が出るのを待っていたが、専門医の診察時間は 午後1時から
 3時まで、検査結果が出るには 間に合わなかった。
 結局 30日の午前9時に 胸水の中に含まれている細菌や癌細胞を検査するために
 試験穿刺という方法で胸水を取り出すこと、そして 胸膜針生検という方法を使って、
 胸膜細胞を取り出し、感染の具合を確かめることになった。

 レントゲン写真は受付に預け、30日に二つの検査を受ける場所と検査のことを
 書いた書類を受け取った。
 国立チュラロンコン病院の敷地は広く、検査をする場所がどこなのか確かめるために
 タイの息子とともに 場所を確かめた。
 確かめた後、歩いて 二人でBTSの高架鉄道のラーチャ・ダムリ駅ヘ向かい、
 電車に乗って ナショナルスタジアム駅に帰ってきた。
 胸水を検査のために抜く、胸膜の細胞を取り出すという外科処理があることから、
 取り出した胸水や胸膜の組織を 各ラボトリーに運ぶ仕事もあり、30日の朝8時に
 息子は再びやって来ることになった。
 二人で遅い昼食を済ませると、息子は 自分のアパートへと帰っていった。

 29日の夕方に 日本から知り合いがやって来ることになっている。
 宿泊するホテルが決まっているので ホテルの方へ電話をかけ、到着したら、
 電話をくれるようにことづけた。
 それまで 疲労回復のための一眠りを始めた。



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タイ事情 | 11:27:30 | Trackback(0) | Comments(0)

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