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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐06 メコン川へ
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 8月25日 夕方近く

 トンカンカム市場探索を終えて 元来た道を引き返す。
 ビエンチャンの午後の陽射しは 相変わらずの強さで 着替えてきたTシャツも
 湧き出す汗で すっかりびしょびしょになってしまっている。
 新興地区の味気ない風景の中を歩いて行くうちに やっとサムセンタイ道路の
 近くまで辿りつく。

 サムセンタイ道路に行き着く手前には 前回のビエンチャン訪問の際、
 カーオ・ピアグというベトナム風ウドンを食べた路地がある。
 夕方近くなると この路地には 屋台が出てくる。
 今 路上でその準備に忙しいのは カイ・ヤーン(鶏肉のラオス風照り焼き)の屋台と
 ベトナム風ウドン カーオ・ピアグの屋台で カーオ・ピアグの店ではすっかり売る
 態勢になっている。
 腹が空いていれば、食べたかったのであるが 昼前に噴水のある公園脇で
 カーオ・ラオを食べたし、市場でもカーオ・ラオを食べた。
 このカーオ・ピアグの屋台は 以前のカーオ・ピアグを食べた屋台とは違う。
 「道の反対側にあったカーオ・ピアグの店はどうなった」と訊くと 
 「今はやっていない」と言う。
 変化の著しいビエンチャンの街 それに合わせて、人の生活の変化も著しいのだろう。
 (バンコクに帰ってきてから この路地のことを調べてみたら、ナイト・バザールと
 呼ばれ、夕方になると たくさんの屋台が建ち並び、地元市民の食事場所になっている
 ということを知った。夕方遅く行かなかったのは 返す返すも 残念なことである。)

 この路地を出てから そのまま 宿に帰ってもよかったのだが、再びTシャツを
 着替えるのも嫌だったので 汗まみれのついでにラオスとタイを隔てる大河 
 メコン川まで 足を伸ばすことにした。
 サムセンタイ道路から 歩いて10分くらいの距離である。
 その途中 餃子館と書かれている店を見つけた。
 ビエンチャンでは どうも話題の店らしいが、眼にしたのが 後で災いのもとになった。

 吹き出る汗を拭きながら、メコン川までやって来た。
 前回やって来たのは 乾期でメコン川の水量も落ちていたが、今は雨期、メコン川の
 大河の風格を存分に現している。
 前回の滞在のときは メコン川近くのゲストハウスに泊まったが、この辺りは
 外国旅行人租界のような場所になっており、ローカルな雰囲気を感じることは
 出来なかった。

 夕方が近づいてきているせいか、メコン川沿いの空地には たくさんのテーブルが
 並べられ、外国人旅行者を迎える準備に余念がない。
 この辺りでは 素朴なメコン川の風景を楽しむ場所ではなくなっている。
 5百メートル以上に渡って テーブルが立ち並んでいるが、この時期 それだけの
 旅行者がいるとは 到底 思えない。
 こんなところで タイから送られてくる海産物でも食べれば、腹を壊しそうだ。

 そうだ 忘れないうちにこの近くにあった中国人の店で タバコを買っておかなくては。
 ラオスはタイに比べると 格段にタバコが安い。
 ラオス産のタバコであれば、大体が 4千キップ(約15バーツ)でタイのタバコの
 値段の3分の1である。
 2カートンのタバコを買って、ゆっくりと宿の方に向かうことにした。
 外国人租界には興味はない。



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ビエンチャンへの旅 | 13:59:40 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐05 トンカンカム市場
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 8月25日 午後

 バンコクの暑さに比べれば、格段に暑いビエンチャンの暑さには 体力の消耗も
 激しい。
 宿泊することになったThawee Guest Houseの部屋で水浴びをし、汗まみれの
 シャツを干し、1時間ばかり身体を休める。

 身体を休めながら、地図を取り出し、今日 歩く場所を探してみる。
 観光客目当てのタラード・サオ(モーニング市場)は明日、タイビザの受け取りの際、
 行けばいいので、別の市場を探すと トンカンカムという市場がある。
 地図上に描かれている建物の大きさを見ると タラード・サオに匹敵するくらいの
 大きさで描かれている。

 今日のメインコースは このトンカンカム市場にすることにした。
 午後2時、陽射しはまだまだ強いが、明るいうちに行動する方が 安全である。
 着替えのTシャツを着て、ゲストハウスの外に出るが、午後の暑さは相変わらずである。
 ゲストハウスの前の道を少し歩くと Chao Anou道路に交わる。このChao Anou道路を
 ひたすら北に向かっていけば、トンカンカム市場に出会うはずである。
 距離にすれば 1キロちょっとだ。

 このChao Anou道路 北へ向かえば向かうほど 新興地域のようで味気ない。
 1975年のラオス人民民主共和国成立以降に作られた道なのだろう。
 道の両側に立っている建物も 古くても4,50年前のものでセメントを使ったものが
 大半である。
 市場を見落とすことがないように 右側の建物に気をつけながら歩いていると、米を
 盛り上げて売っている路地が眼に入る。
 どうもここが市場の入り口のようだ。
 ぼんやりしていると見落としてしまいそうだ。
 米を売っているラオス人に 「ここがトンカンカム市場か」と訊くと
 「そうだ」と応える。
 外から見ると 小さな市場のように見えたが、中に入ってみると奥行きがあり、
 なかなか大きな市場である。
 生活必要品(衣料、台所用品)、食料品、肉、魚、野菜が中心の市場で、ビエンチャン
 市民の台所のような場所だ。
 雰囲気や市場の形は タイの地方都市の市場と同じである。
 スーパーマーケットの発達していないビエンチャンでは 市場も活気にあふれている。
 朝夕に行けば、多くのビエンチャン庶民であふれていることだろう。

 衣料、食料品、雑貨、肉・魚、野菜売り場は それぞれの区画ごとに売られている
 ようだ。
 古めかしい昔風の市場の形である。
 しかし、ここにはビエンチャンで生活する人々の生活感覚が感じられて、
 ほっとするところもある。

 30分ばかり 市場の中をぐるぐる回る。
 市場の中にラオス風麺(牛肉麺)カーオ・ラオの店がある。
 25年近く前に 東北タイの地方都市 コンケンの市場でよく見かけたような店の
 姿だ、
 市場と街の中の店と 値段の違いはあるのか 確かめてみるために 食べてみることに
 した。
 味は 町の中心部 噴水のある公園脇のカーオ・ラオの方がいい。
 値段はというと、驚いたことに 街から離れているこの市場の中のほうが 値段は高く、
 噴水のそばのカーオ・ラオは40バーツ、ここは50バーツである。
 どうも 外国人プライスだったようだ。

 どうも ビエンチャンの街には 外国人用の値段と地元の人間用の値段があるようだ。
 タイやネパールでは そんなことはなかった。
 2百年前にはタイの支配下に入り、その後、フランスの植民地、戦後独立は果たす
 けれど ベトナム戦争時代には その影響を被り、アメリカに干渉され、1975年に
 やっと 今の国の形、社会主義のラオス人民民主共和国になったという歴史の中で
 ビエンチャンの人々は 案外 外国人というものに親近感を抱いていないのかも
 しれない。
 ビエンチャンの街の中で主だった商売をしているのが ベトナム系の人間が多いことも
 影響しているのかもしれない。
 彼らの商いの形をまねているのかもしれない。
 ベトナム人の商売は 打算的で こすずるいところがある。
 ビエンチャンの人間が 素朴な山の民であると信じてしまうのは うかつなことかも
 しれないぞ、そんな風に感じてしまった。
 むしろ、外国人旅行者の集まるところのほうが 値段が表示されていて 安心できる。

 昔ながらの姿を残す市場の様子であったが、どうもここに生きる人々は 一筋縄では
 行かない人々のように思えてきた。


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ビエンチャンへの旅 | 16:47:35 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐04 街の中心へ
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 8月25日 昼前

 タイ大使館から トゥクトゥクに乗って タラード・サオまでやって来る。
 途中 トゥクトゥクの運転手がしきりにホテルを紹介しようとしていたが、
 街の様子を見ながら、宿は決めるつもりだった。

 タラード・サオといえば、街の中心的な場所で ビエンチャンの中で一番大きな
 市場である。
 すぐ前には 地方へと向かうバス乗り場もある。
 この市場を訪れたのは もう12,3年以上前のことである。
 タラード・サオでトゥクトゥクを下りたのはいいが、土地勘がすっかり失われている。
 前回のビエンチャン訪問の際、手に入れた地図を眺め、自分の位置を確かめる。
 タラード・サオもすっかり様変わりをして 冷房の入った近代的な建物が建ち、
 私の持っていたイメージをすっかり変えてしまっていた。

 道路の名前を確かめ、地図上の自分の位置を確かめ、街の中心的な道路 Samsenthai
 Roadへと足を運ぶ。
 ここまで来れば、街の地理はわかる。
 ここから 今回泊まる宿探しの始まりである。
 この辺りには 高級ホテルも並んでいるが 私には縁がないので、噴水のある公園へと
 向かう。
 噴水まで行く途中にいくつかゲストハウスがあったが、皆、6,7百バーツ以上である。
 ここは諦めて、噴水のある公園へと向かう。

 この公園の横の路地には 前回の訪問の際、立ち寄ったカーオ・ラオ(ラオス風麺)の
 店がある。
 日本で働いていたというラオス女性の店だ。
 店を覘いてみると その女性とよく似た女性はいたが、彼女の姿はない。
 今は 彼女の妹がやっているようだ。
 その妹に 「お姉さんはどうした」と訊くと 「もうここにはいない。」と応える。
 まあ、とにかく ラオス風麺 カーオ・ラオを注文して食べる。
 値段は40バーツ、ラオスのお金なら 1万キップだ。
 タイの麺類より量は多いが、ラオス人の収入から見れば、安い値段ではない。
 それにしても ビエンチャンは暑い。
 タラード・サオからここまで歩き、そしてカーオ・ラオを食べただけで、
 もう汗まみれになっている。

 懐かしのカーオ・ラオを食べ、再び、宿探しである。
 カーオ・ラオの路地の反対側の道を歩き始める。
 中国の援助によって建てられた国立文化会館の裏の通りだ。
 その道を右に曲がり、少し歩き、今度は左に曲がると、わき道に入る。
 この辺りの新しい中級ホテルは、どこも3,40ドルである。
 お金に余裕のある人は この辺りのホテルを利用するのもいいだろう。

 どんどん歩き続け、Chao Anou道路を越えたところに ゲストハウスを見つけた。
 中に入って、受付で部屋の値段を訊くと ホットシャワー、冷房、テレビ付きで
 5百バーツだと言う。
 ビエンチャンの旧中華街に近く、場所的には活気のある地区である。
 早速、部屋を見せてもらうと、意外と小奇麗で、冷房、バス・トイレ付き、テレビ、
 その上、冷蔵庫までついている。
 部屋の窓からは、通りもよく見える。
 部屋の状態も、ホテルの場所も気に入ったので、とにかく1泊することにした。
 前金5百バーツを支払い、パスポートは タイ大使館に預けていたが、パスポート
 番号は憶えていたのでそれを書き入れ、部屋に行き、冷房をつけ、水浴びをして、
 一休みをすることにした。
 着ていたTシャツは すっかり 汗でびしょびしょである。
 ビエンチャンの暑さは 半端ではない。


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ビエンチャンへの旅 | 03:01:14 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐03 タイ大使館へ
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐03 タイ大使館へ

 8月25日 午前

 朝6時過ぎに 眼を覚ます。
 列車は 東北タイの中心都市 コンケンを過ぎたばかりのようだ。
 この調子だと 9時過ぎには 終点 ノンカイに到着するようだ。

 寝台ベッドから出て、トイレに行き、顔を洗っているときに 日本人らしき60歳
 前後の人間を見かける。
 寝台ベッドを 車掌が座席に変えてくれている。
 この車掌、このバンコク-ノンカイの夜行寝台列車では いつもお目にかかる車掌で
 ある。
 口数の少ない愛想のよくない車掌であるが 仕事はきちんとしている。
 見かけるようになってから 14,5年以上になると思う。
 タイの国鉄では 給料は上がっていくのだろうが、15年経っても 仕事内容は
 変わらないようだ。

 ベッドから座席に変わり、その座席に座り込んでいると 例の日本人らしき人が
 通りかかったので 声をかけてみる。
 やはり、日本人だった。
 タイのビザが切れ、新たにビザを取り直すために、ラオスに向かっているが、
 タイでの滞在が残り2週間以内なので、ビエンチャンにあるタイ大使館には行く
 必要はないようだ。
 バンコクでは バンコクの東の果て バーンナーにアパートを借りて住んでいるという。
 仕事をしているか、私のようにバンコクでぼんやりと過ごしているのかは 詳しくは
 訊かなかった。
 ここ1年何度もビザの更新のために ビエンチャンを訪れているということなので
 いろんな情報を教えてもらう。

 ノンカイから ビエンチャンへの途中まで鉄道が走るようになり、その出発時刻が
 午前10時であること。
 タイ大使館が 移転して別の場所になったこと。

 ノンカイへの到着時間が 午前9時半を過ぎるようなら、利用しても良いと思ったが、
 列車は午前9時過ぎに到着した。

 彼は ノンカイの駅で少しのんびりしていくというので 私は駅前に泊まっている
 乗り合いのトゥクトゥクに乗り込み、タイ・ラオス友好橋へと向かった。
 タイ側のイミグレも らおす側のイミグレもさほど込み合って居らず、簡単に出入国の
 手続きを済ませることが出来た。
 時間が 9時45分、急いでビエンチャンにあるタイ大使館へ向かう必要がある。
 ラオス川に入ると 旅行者目当ての運転手たちが待ち構えている。
 タクシー運転手との3百バーツから交渉が始まり、2百バーツで交渉が成立。
 タクシーに乗り込み、タイ大使館を目指す。
 午前10時半には タイ大使館に到着しそうである。

 運転手は ラオス人かと思ったら、東北タイのウドンタニ出身のタイ人だった。
 奥さんはラオス人で 子供は5人いると言う。
 ウドンタニの人間もラオスの人間も ほとんど同じラオ語を話す。
 昔、ラオスからタイにかけて支配したラーンサーン王国をオリジンにしている。
 ラーンサーン王国が 勢力を失っていく中で メコン川の向こう側はタイ領土となり、
 イサンと呼ばれ、メコン川のこちら側がラオスという国になってしまっただけのことで
 住んでいる民族は 同じなのである。

 タクシー運転手と話をしているうちに 車は新しいタイ大使館へと到着した。
 時間は予定通り、10時半である。
 タイ大使館の前にあるコピー屋でパスポートのコピーを撮り、タイ大使館の中へ
 入って行く。

 順番票を取り出す機械が 新しく取り付けられている。
 番号が 受付の壁に取り付けられた電光表示板に表示される。
 ビザの申請書類に 必要事項を書き込む。
 訳のわからない項目が増えている。
 適当に書き込んでいると 目の前の机の上で書類に書き込んでいたのは 日本人だった。
 話をすると、リタイアー・ビザを取得していたが リタイアー・ビザのルールが変わり、
 取得してから3ヶ月経つと 1度 他の国へ出て ビザを取り直す必要があると言う。
 チェンマイからやって来た人である。

 他にも70歳過ぎの日本人の旅行者もいた。
 ビーチサンダル履きの老人である。
 貧乏旅行に徹しているらしく、如何に安く旅をしているかを自慢げに話している。
 人の話を聞くよりも 自分の自慢話ばかりをする老人は 若い旅行者の間では
 敬遠されてしまう。
 適当に相槌を打ちながら、自分の順番がやってくるのを待つ。

 私の前の順番だったリタイアー・ビザの延長にやって来た日本人は 面倒なことに
 なっているようだった。
 本館の方に回されてしまった。

 私の場合は ダブルエントリーの観光ビザなので すぐに終わってしまった。
 タイ大使館の外に出ると 屯していたトゥクトゥクの運転手が すぐに寄ってくる。
 国境からまっすぐ新しいタイ大使館にやってきたから、タイ大使館がどこにあるかは
 よくわからない。
 とにかく タラード・サオまで行けば、後はどうにかなる。
 50バーツで タラード・サオまでの交渉が成立して トゥクトゥクに乗り、
 タラード・サオへと向かった。



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ビエンチャンへの旅 | 16:00:25 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐02 列車の中で
 8月24日

 缶ビール2缶の酔いの中で 夜行列車は出発する。
 列車の中を 夕食の注文を取りに 食堂車のウェイターが行き来する。
 どうも酔いが足りないので ビール大瓶の値段を訊くと 136バーツ、
 店頭販売の3倍近い値段である。
 2倍までの値段だったら、注文するつもりであったが、あまりの暴利にあきれ果て、
 飲むのは諦める。

 列車の車掌が 何やら回覧板のようなものを持ってくる。
 料理のメニューかと思ったら、乗車中の注意書きだった。
 英語、中国語、タイ語で書かれている。

 見知らぬものから飲み物や食べ物を貰って食べないこと
 貴重品は肌身離さず身につけておくことなどが記載されている。

 この頃は 睡眠薬強盗も多いらしく、つい1ヶ月前も ツーリストバスの中で
 フランス人らしき外国人に睡眠薬入りの食べ物を貰い、貴重品を奪い取られた
 日本人旅行者の話が タイのニュースで報道されていた。
 こんな話は 昔からよくある話で インドのバラナシやベトナムあたりでは 
 日本人旅行者は よく罠にかかっている。
 くわばら、くわばらである。

 寝台の準備がされるまでの間、辺りの様子を眺める。
 通路を挟んだ隣の席には 30台中頃のイギリス人旅行者とビア・バーで
 働いているらしい20台後半のタイ人女性のアベック、彼女の使っている英語は 
 ブロークンイングリッシュで 如何にも水商売をしていることを感じさせる。
 イギリス人の男の使っている英語は きれいな英語で 母国ではそれなりの教育を
 受けていることを感じさせる。
 パタヤあたりのビア・バー辺りで働いている女の子を このイギリス人が口説いて、
 1日いくら支払うことで契約し、旅行に連れ出してきたのだろう。
 どうもラオスへ行くようだ。

 こうした夜行列車に乗ると 必ず、外国人とタイ女性のカップルを見かける。
 1週間、10日単位で契約して、一緒に行動するという遊び方が 欧米旅行者の
 一つの遊び方である。
 一般的なタイ人からすれば、印象はよくないのであろうが、無視を決め込んでいる。

 タイには アユタヤ王朝時代から 多くの外国人が入り込んできている。
 アユタヤ王国の傭兵として雇われたポルトガル人、イスラム教徒のペルシャ人、
 インド人たちとタイ人たちとの通婚によって 作られた多くの集落が今でも残っている。
 ラオス人、カンボジア人、ミャンマー人との混血も少なくない。
 しかし、これらの通婚は どちらかといえば、対等な関係の中で生まれてきたもの
 だろう。

 ラーマ4世、5世の時代に入ると 多くのフランス人、イギリス人が入り込んでくる。
 列強の武力を背景にした不平等な通商条約(ボーリング条約)は ヨーロッパ人と
 タイ人との間に上下関係をもたらしたはずである。
 治外法権を含んだ不平等条約は フランス人やイギリス人に特権的な地位を与えて
 きたのである。
 ヨーロッパ人が タイ国内で法を犯しても タイの法律では裁くことが出来なかった
 のだ。
 それは イギリス、フランスの植民地からやって来たインド人やベトナム人などにも
 適用された。
 その時代以降、タイ人の中にはヨーロッパ人に対する劣等感、トラウマが形成された
 ように思われる。
 それに拍車をかけたのが ベトナム戦争時代の米軍の駐留である。
 米軍の駐留基地だった場所には 米軍兵士のための多くの娯楽施設が作られ、
 アメリカ兵相手の娼婦が生み出されることになる。
 ベトナム戦争は終わっても アメリカ兵の保養施設として開発されたパタヤが 
 その後を継ぎ、一大娯楽地域になっている。

 力と金の象徴欧米諸国からの旅行者に タイ人たちはひれ伏すように群がるように
 なってしまっている現状である。
 買春旅行をたたかれた日本の旅行者であるが、その基礎を作ったのは欧米諸国なので
 ある。
 顔も体つきも近い日本人には タイ人も恐怖感も感じないで 簡単に攻撃の槍玉に
 あげてしまうのである。

 欧米人種には媚を売るタイ人も 日本人には嫌がらせもどきの対応をするというのを
 タイ生活の長いものは よく知っているはずである。

 隣に座っているイギリス人の男とタイ女のカップルを見ながら、そんなことを考えて
 いた。

 そろそろ 夜も10時を過ぎてしまった。
 ベッドに横になり、寝ることにした。



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ビエンチャンへの旅 | 21:04:30 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク スコールの中で
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バンコク スコールの中で 11

 うだるような暑さのラオス ビエンチャンから逃げ出し、東北タイのウドンタニから
 ツーリストバスに乗り、8時間かけて 昨日の夜中の1時半にバンコクに到着した。
 冷房の効きすぎた座りっ放しの8時間の長旅で 筋肉が硬くなり、帰ってきてからも、
 身体の節々が痛く、ぼっとした1日をごろごろと過ごしてしまった。
 よる年波で すぐには 身体は回復してはくれない。
 それにしても ラオス ビエンチャンは暑かった。
 バンコクが涼しく感じられるくらいである。

 夕方近くになって、西の空を眺めると、夕焼けの中に 積乱雲が湧き起こっている。
 夕立でもやってくるのだろうか。
 遠くで雷の音も鳴っている。
 夕焼け空を眺めに24階建てのマンションの屋上に上ってみる。
 遠くに稲光と雷鳴、こわごわと屋上に立って 西の空を眺める。
 西の空は まだ晴れているが 東、南、北の空は すっかり雨雲に覆われている。
 急いで夕食の惣菜を買いに行かなくてはと 部屋に戻る。
 もう夕方の6時だ。
 雨雲が空を覆っているせいか、外は薄暗くなっている。
 マンションを出て、センセーブ運河の向こう側にある下町の市場へと向かう。

 運河を渡り、運河の向こう側沿いの歩道に下りて、市場へと向かう。
 対岸には ジム・トムプソンの家が 夕焼けを背景に浮かび上がっている。
 この運河沿いの歩道を歩いていると バンコクに帰ってきたという実感が湧いてくる。
 運河沿いの歩道を左に曲がり、市場にと向かう。

 市場に近づくと 夕闇の中で 行き交う人々の姿が目立ち始める。
 路上脇の食堂の中では 人々はそれぞれに夕食を摂っている。
 いつも見慣れた有暮れ時の光景だ。
 空では 稲光と共に激しく雷が鳴り響き始めている。
 どうもスコールは近くまでやってきているようだ。
 急ぎ足で市場の中を抜け、惣菜を売っている露店へと足を運ぶと、大粒の雨が
 落ちてきた。
 
 露店では 大慌てで 売られている惣菜の上に ビニールシートがかけられている。
 私の方も大慌てで 惣菜を二品 買い求めると、雨は土砂降りへと変わる。
 動きようもなく 軒下に佇んで、スコールをやり過ごすだけしか 方法はない。
 激しいスコールの中でも 人々は 夕餉の惣菜を求めてやってくる。
 そんなバンコク庶民たちの姿を見ていると、生きているな、生きることに精一杯
 向き合っているという姿が感じられる。
 スコールの中でのバンコク庶民や庶民相手の露店の商いを見ていると 
 雨宿りも少しも気にならない。

 屋根やパラソルから激しく流れ落ちる雨水、雨期には当たり前のようにやって来る
 スコールに対しては 当然のこととして受け止め、動じるところなど少しもない。
 バンコクの2百年の歴史の中で身につけてきた知恵が そこには現れている。

 30分近くスコールも終わりに近づき、雨も小雨に変わってきた。
 私も もう1品おかずを買い、家路に向かうことにした。
 豚の肉団子と豆腐のスープ、もやし炒めは買っている。
 あとは プラー・ニン(テラピア)の塩焼きを買うだけである。
 小雨になり、露店の惣菜にかかっていたビニールシートを取り除き始めている。
 プラー・ニン(テラピア)の塩焼きは30バーツ、他の2品は2袋で20バーツ、
 私の今日の夕食である。
 ご飯はもう炊いてある。
 あとは 部屋に帰り、食べるだけである。


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バンコク風情 | 12:37:38 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01
バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01 1

バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01 2

バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01 3

バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01 4

バンコク ビエンチャンへの旅 PARTⅡ‐01 5

 8月24日

 夕方6時半になり、旅の荷物を詰めたリュックを背負い、マンションの部屋を出る。
 昼間に降っていた雨も止み、湿気を含んだ粘りつくような大気が 身体を覆う。
 MBKセンターの中を通り、MBKセンターの前の道路の向こう側にあるバスの
 停留所へと急ぐ。
 29番のバスか113番のバスに乗り込めば、バスは 終点のフアランポン駅構内へと
 入って行く。
 113番の古い型の冷房バスがやってくる。
 冷房は申し訳程度に効いているだけだ。
 タイのビサ取得のためのラオス ビエンチャン行きであるが、面倒だなという想いは
 消えない。
 バンコクから国境の町 ノンカイへの12時間の列車での一人旅、国境での出国、
 入国の手続き、国境からビエンチャンへの交通手段などを考えると 鬱陶しさが
 増してくる。
 若い頃と違って 旅に希望を見出すことはなくなっている。
 ただ 気分転換になるだけである。

 20分で バスは フアランポン駅の正面玄関に到着した。
 照明でイルミネートされたフアランポン駅が 昼間の姿とは異質な建物に見え、
 如何にも旅へと人を誘っているようにすら見える。

 建物の中には 大勢の列車待ちの人々がいる。
 建物の正面に座り込んでいる人々は 東北タイ イサンの人々のようだ。
 出稼ぎを終えて、村に帰っていくのだろうか。
 昔は フアランポン駅構内には 出稼ぎのイサンの人々であふれかえっていたものだが、
 今では 皆 旅のために着飾った人が多く、出稼ぎの人々のようには見えない。
 この20年の間に フアランポン駅の構内も その装いを変え、今風な店が並び、
 駅にやってくる人々の姿もすっかり変わってしまった。
 バンコクから村へ帰る人、村からバンコクにやってくる人の喜怒哀楽も同じように
 変わってしまったのだろう。

 自分の乗る列車を確かめるために プラットホームの中に入って行く。
 端っこのホームには 私が乗る夜行列車がすでに停車し、出発を待っている。
 私の乗る客車を確かめ、もう一度待合室に戻り、構内にあるコンビニエンスストアで
 缶ビールを買う。
 ビア・シンハとビア・チャンと1缶ずつ買う。
 それを持って、再び、夜行列車に戻る。
 中に入る前に 入り口の外にある喫煙所で タバコを一服、これからの12時間は 
 タバコを吸うことは出来ない。

 寝台車の中に入り、自分の寝台番号を見ながら、座席を探す。
 まだ寝台車の設置はしていない。
 見つけた自分の座席に座り込み、買ってきたビールを飲み始める。
 午後8時出発の列車が 8時になっても出発せず、30分遅れの8時30分に
 出発した。
 夜景を見ながら、ビールを飲むと考えていたが、列車が出発したときには 2缶の
 ビールは飲み終えていた。

 薄暗いホームを後に 夜行列車はノンカイへ向けて 走り出した。




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ビエンチャンへの旅 | 15:42:04 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ラオス ビエンチャンに向かう
 今夜 ラオス ビエンチャンに向けて 夜行列車の旅に出る。
 短い旅なので 別段 大げさな準備はいらないのだが、この2,3日気持ちが
 落ち着かない。
 他国で生活しているのだから、その国のビザルールに合わせて 生活するのは
 当然のことだが、鬱陶しいというのは本当である。
 
 この頃では300日ビザというのもあるらしく、それなりのお金を払えば 
 取得することが出来るらしい。
 私のように ほとんど無職に近い存在で、細々と生活しているものにとっては
 無縁のものである。
 300日の間にネパールに行く航空運賃、日本への航空運賃を考えれば、そのほうが
 安上がりかもしれないが 300日連続してバンコクに居続けることには抵抗がある。
 飽きてしまうのである。

 カトマンズからバンコクに移ってきてから 明日でちょうど1ヶ月ということになる。
 怠惰な生活に慣れてしまうと 動くのが面倒になるが、気分転換にラオスに向かうと
 いうのは 具合がいいのかもしれない。

 1年近く前 ラオスのビエンチャンに行った時、バンコクからノンカイへ向かう夜行
 列車は 午後8時45分発だったが、時間が変わって 午後8時出発になった。
 ノンカイ到着は 翌日の朝8時であるから、予定通りに到着すれば、余裕を持って、
 その日のうちに ビエンチャンのタイ領事館でビザの申請が出来そうだ。
 嬉しいことに 来年の3月までは観光ビザは無料で ダブルエントリーの観光ビザも
 取得が出来るらしい。
 出来れば ダブルエントリーのビザを取ってこよう。

 面倒なのは 宿探しである。
 短い期間なので 少し贅沢をして20ドル前後のホテルに泊まるつもりである。
 20ドル出せば 最低 冷房とホットシャワーぐらいは備えているはずである。
 雨期に入っているとはいえ、東北タイに近いビエンチャンは かなり暑いに違いない。
 仕事がらみであれば、もう少しは贅沢も出来るが、ビザ取得のためだけであれば、
 余分な出費は抑えたい。
 のんびりと街の様子を見てみたいから、最低 2日はビエンチャンに宿泊したい。
 前回もそうだったが ビエンチャンの下町らしき場所を見つけることは出来なかった。
 今回は ビエンチャン庶民の生活する下町辺りを歩いてみたい。
 何回か ビエンチャンにはやってきているが どこか捉えどころのない街なのだ。

 夕方の6時半過ぎには部屋を出て、フアランポン駅へ向かわなくてはならない。
 あと2,3時間で 準備、部屋の片づけを済ませなくてはならない。

 ブログの更新はビエンチャンから帰ってくるまで 休むことになります。



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徒然なるままに | 19:42:27 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場
バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場 1

バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場 2

バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場 3

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バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場 10

バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐03 花市場 11

 雨期になると植物たちも 息を吹き返すのだろう。
 湿気と暑さは 亜熱帯の植物たちにとっては 有難い贈り物なのだろう。
 パッククロン野菜市場の道を挟んで向こう側には バンコクでも名の知れた花市場が
 ある。
 行き交う車の流れに気をつけながら、道の向こう側にある花市場へ行く。
 歩道を埋め尽くすように 多くの花々が売られている。
 やはり主役は蘭の花である。その次は薔薇の花だ。
 雨期に入っているせいか 蘭の花の種類も多く、その色合いも多様である。
 赤紫、紫、黄色にオレンジ、白、淡いピンクに 薄緑の蘭の花がある。
 こんなに蘭の花に多彩な色のものがあるとは知らなかった。
 薔薇の花は 昔からよく売られている花だ。

 小ぶりな薔薇の花が多く、妖艶な大きな薔薇の花はない。
 ネパールでも タイでも 花屋ではよく見かける薔薇の花であるが、
 どの気候にも適応できる花なのだろうか。
 百合の花、蓮の花、市場は様々の花であふれているが、花の香りはしない。
 これだけの花にあふれていれば、花の香りだって 漂っているはずなのに 
 それがないのは不思議なことである。

 私はやはり日本人のせいか 花は 可憐で清楚な雰囲気のものが好きである。
 どんなに色鮮やかでも あまりに主張の強い花は 敬遠したくなる。
 当たり前に野に咲いている花のほうがいい。

 この花市場の花の色合いに圧倒され、少し疲れてしまった。
 歩き回っているうちに 汗だくだくになってしまった。
 着ていたTシャツの前は 汗でびしょびしょになってしまった。
 もう限界である。

 再び サファン・プットの下にある73番の出発点になる停留所へと向かった。
 停留所にやって来ると 具合のいいことに73番の停留所に停まっている。
 冷房が効いているのは嬉しいが、汗でびしょびしょになったTシャツが 今度は
 冷たくなって気持ちが悪い。

 バスの運転手と車掌は 夕食の最中だ。
 運転手が食べ終わったところでバスは発車したが、車掌はまだ食べることに夢中である。

 途中、70近い年配の白ずくめのインド人が乗り込んでくる。
 車掌が 乗車賃を要求しても お金がないと言って、乗車賃を払おうとしない。
 着ているものは 洗濯が行き届き、決して貧しそうには見えない。
 車掌がしきりに 「駄目だよ。お金を払わないと。皆お金を払って乗っているんだから。」
 いくら言っても お金を払おうとはしない。

 20年も昔のバンコクなら、代わりにお金を支払うバンコク市民もいただろうが、
 当節 そんな優しいバンコク市民もいなくなった。
 お金、お金ばかりの世知辛いバンコクになってしまった。
 車掌も 昔なら、仕方がないと諦めてしまったが、あまりにしつこく 回りも閉口して
 いる。
 乗車賃を払うつもりもなく、バスに乗るインド人もよくないが、年寄りいじめのように
 見えて どうにも頂けない。
 バスが動き始めても 仕事そっちのけで 夕食を食べ続けていた所掌である。
 インド人の老人は 所掌のしつこさに負けて、次の停留所で降りて行った。
 タイ語を話していたから、バンコクには長く生活しているインド人のようだった。

 混みあった道の中を1時間ばかり かかって、バスはやっとMBKセンターの前に
 やって来た。
 家路に向かう路地に入り、その路地にあるいつもの東北タイ料理の屋台で 
 夕食の惣菜を注文した。
 ソムタム(パパイヤサラダ)が出来上がるのを待っていると、大粒の雨が落ちてきた。
 買った惣菜を抱えて、大急ぎで部屋へと向かった。
 部屋につくと、雨は激しい土砂降りに変わり、久し振りの大雨、激しい雷を伴う雨が
 2,3時間続いた。
 雨の後の涼しさは 今日の心よい眠りを誘ってくれるはずである。


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バンコク風情 | 17:17:03 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐02 パッククロン市場へ
バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐02 パッククロン市場へ 1

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バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐02 パッククロン市場へ 7

 バンコクのこの湿気の多い時期には あまり動き回りたくないというのが本音である。
 汗かきの私にとっては あまり快い季節とは言えない。
 あと20分ほど歩けば 回り道ではあるが ワットアルン(暁の寺)まで行けるが、
 汗だくだくになるのは避けがたいので、今回はワットアルンには行かず、目の前に
 ある渡し舟に乗って、対岸のパッククロン市場へと向かうことにした。

 バンコクの人たちにとっては あまり主要な渡し舟ではないらしく乗客の数も少ない。
 外国人は私一人のようだ。
 渡し舟の上からは 上流には 雨期特有の雲が湧き上がっている。そして下流には 
 サファン・プット、対岸には ポルトガル人の末裔たちの信仰の中心 カソリックの
 サンタクルーズ教会が聳えているのが見える。
 5分もしないうちに 渡し舟は 対岸のタールア・タラード・パッククロンに到着する。
 すぐ横にあるチャオプラヤ・エクスプレス 水上バス乗り場 ラチニ船乗り場へ行く。
 ここから、チャオプラヤ川の向こう岸にあるワットアルンが 聳え立っているのが
 優雅に見える。

 三島由紀夫の小説の「豊饒の海」第三部「暁の寺」ではこのワットアルンが取り
 上げられている。
 30年以上前に読んだはずであるが、その内容の記憶は全くない。
 25年前に日本を離れるときは タイ・バンコクに住むことなど考えてもいなかった。
 バンコクに1泊して 次の日にはバングラディッシュのダッカへ、その翌日には 
 カトマンズへ向けて出発したのである。
 再び タイ・バンコクとのつながりが生まれてくるのは カトマンズでの生活を経た
 3年後のことである。

 シルエットは美しい寺院ではあるが、私にとってはさほど心を惹かれる寺院ではない。
 一つには 切り貼りモザイクのような装飾と インドの寺院を真似た建築様式から
 来るのかもしれない。

 川向こうに聳えるワットアルンのシルエットを満喫したあと、タラード・パッククロン
 (パッククロン市場)の表通りへと向かう。
 パックというのは口、クロンというのは運河を意味し、運河の口、運河の入り口を
 意味する。
 バンコクの人々が この言葉を口に出すと、パッククロンとは聞こえず、パコンとしか
 聞こえてこない。

 このパッククロン市場は バンコクの主要な野菜市場と花市場である。
 この市場へ来れば、バンコク市民たちがどんな野菜を食べているかが一目でわかる。
 亜熱帯育ちの野菜たちは 日本のものとは違うけれど、多くの中国人が生活する
 バンコクでは 中国野菜も多い。
 白菜、大根、青梗菜、青ねぎなどは 中国人の好む野菜である。

 表通りには食べ物屋の屋台、果物売り、お菓子売りが 所狭しと 軒を並べている。
 バンコクの下町の雰囲気のあふれている場所だ。
 2百年以上の歴史を持つ歴史的な場所でもある。
 サファン・タクシン(タクシン橋)辺りから中華街、サファン・プット、そして、
 このパッククロン市場、旧王宮に至るまでのチャオプラヤ川沿いの地域は 
 ラッタナコウシン王朝の歴史が 色濃く刻まれている場所である。
 この周辺を散策すれば、バンコクの歴史を膚で感じることが出来るだろう。


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バンコク風情 | 11:01:08 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク チャオプラヤ川にご挨拶‐01
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 今回 まだバンコクを流れる大河 チャオプラヤ川に挨拶をしていなかったので
 73番の冷房バスに乗って サファン・プット(仏陀橋)に向かうことにした。
 今日はちょうどいい具合に薄曇りで 陽射しも強くない。
 国立競技場前のバス停で やって来た73番の冷房バスに乗り込む。
 運賃は 終点のサファン・プットまで12バーツである。
 冷房バスは 快適ではあるが バスを降りた後の外の暑さが倍増する。

 ラーマ四世道路を走り、フアランポン駅の前を通り、中華街へとバスは入って行く。
 ヤワラートを過ぎると、中華街は凄い人込みである。
 ニューマーケット周辺では 輸入物の果物を売る露店であふれている。
 バスはヤワラート通りを左に曲がり、インド人街 パフラットを抜けて サファン・
 プットへと向かう。

 冷房バスを降りると 熱気が襲ってくる。
 サファン・プットへと向かう階段を上り、サファン・プットの橋の上に立つ。
 チャオプラヤ川上流では 激しい雨が降り、洪水に見舞われている地域もあるせいか、
 水の色は 濁った茶色に変わっている。
 とはいっても この川の色は いつも茶色ではあるが…。

 雨期特有の雲を背景に やはり雄大なチャオプラヤ川だ。
 対岸のトンブリ地区にワットアルン(暁の寺)が聳えている。
 行き交う大小の船はいつもながらの姿である。
 この橋の上からのチャオプラヤ川の風景を見ないことには やはりバンコクへ
 やって来たという実感は湧いてこない。

 橋を渡り、トンブリ地区側へと足を踏み入れる。
 橋の下のチャオプラヤ川沿いには 小奇麗な遊歩道が整備されている。
 川面を吹く風は心地よく夏のバンコクの暑さを しばし忘れさせてくれるが、
 それは立ち止まっている間のことで 歩き出すと汗が吹き出してくる。
 行き交う船、対岸のパック・クロン市場の建物を眺めながら、足を進めて行く。
 後ろを振り返れば、今しがた渡ってきたばかりのサファン・プットの全景が
 眼に入ってくる。

 10分も歩けば、ポルトガル人の末裔たちの住む地域に入り、カソリックの
 サンタクルーズ教会が見える。
 いつもはポルトガル人の末裔が住む集落の中を抜けていくのだが、
 今日は新しくつながった遊歩道をそのまま歩いて 前へと進んで行く。
 ポルトガル人の集落の中からは 良く見えなかった古い木造家屋が 遊歩道から
 良く見える。
 150年ほど経た古い有力な貴族の屋敷だったようだが、今は誰も住んでいないようで、
 朽ちるに任せている。
 きちんと手入れをすれば、美しい木造の屋敷もこれでは 早晩 姿を消してしまう
 だろう。
 そのすぐ横には 庶民の住む安普請の木造の家があるが、貸家らしく 手入れも
 行き届かないらしく、前方の家などは倒れかけている。
 昔ながらの古い住宅は どんどん失われ、バンコク特有の建築様式の木造家屋は
 どんどん失われ、セメント作りの家屋に変わっていき、特色がなくなっている。

 先まで行くと 古い中国廟があり、その向こうには ワット・カンラヤナミットが
 ある。この寺の中にある金ぴかの大仏はなかなか見事で、多くの参拝者を集めている。

 向こう岸に渡る渡し場のすぐ横では 休みを利用して 子供たちが釣りを楽しんでいる。
 大鯰が目当てのようだ。

 いつものコースを歩いたので、向こう岸のパック・クロン市場へと渡ることにした。


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バンコク風情 | 18:41:48 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 静けさを求めて
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 雑然とした大都会 バンコクの生活が長くなると 妙にカトマンズのことが
 懐かしくなってくる。
 カトマンズを流れるバグマティ川の岸辺近くの寺院の持つ静けさが恋しい。
 バグマティ川に架かる黒い鉄製の吊橋を渡り、レンガ造りの階段を下り、
 バグマティ川に沿って歩き始める。

 この当たりには 二つのシバ寺院がある。
 一つは サハ家によって建てられたもの、もう一つはラナ家によって建てられたものだ。
 サハ家のものはネワール族の建築様式で建てられ、ラナ家のものはインド様式を取り
 入れて建てられているが ネワール族の建築様式も所々には残っている。
 サハ家の建てたシバ寺院を通り過ぎると ラナ家の建てたシバ寺院へと続くわき道が
 あり、そのあたりから、風景の中に静けさが漂い始める。
 赤いレンガの塀にはさまれた石畳の道、百年以上前から続いているその姿である。
 人口増加の激しいカトマンズの中にあって、ここだけは 静寂が今なお残っている。
 雨の降らない今年の雨期の暑い最中にあってさえ どこか清涼な空気がここにはある。

 ラナ家の創始者 ジャンバハドール・ラナの死後、ラナ家を継いだその兄弟のラナ・
 ウディットによって建てられたシバ寺院であるが、そのラナ・ウディットも 他の
 兄弟たちに暗殺されてしまう。
 ラナ家の血で血を洗うような権力争いの始まりである。
 ラナ家の創始者であるジャンバハドール・ラナも 狩猟中の事故であったと言われて
 いるが、暗殺であったという疑いがある。
 ラナ・ウディット暗殺の後、その兄弟ビル・シェムシェルの一派によって、
 ジャンバハドールの直系である息子や甥たちの多くが虐殺されたのである。

 当然、この寺院はその後の権力によって打ち捨てられてしまった。
 この寺院を参拝するものは ジャンバハドール一派であると思われたに違いない。
 私は この寺の中にあるシバ寺院より 寺の周辺の姿に惹かれる。
 丸みを帯びた石畳の上を独りのネパールの中年女性が歩いていく。
 日々のお勤めのためだろうか。
 シバを祭っている古い祠が 彼女の大切な信仰の対象のようだ。
 この寺院にやってくる数少ない信者の一人である。

 未だに打ち捨てられているという姿を多く眼にするこの辺りの光景は 
 心の中に深く染みこんでくる。
 深い悲しみと静寂、こうしたものが辺りを支配しており、
 その雰囲気が実に魅力的なのだ。

 ここにやって来れば 大抵は独りきりになれる。
 この寺院の持つ静寂を 心行くまで独りきりで楽しむことが出来る。
 これほどの贅沢はない。
 私が生きている間はどうにか 今の姿を保ってくれそうだ。
 どんなに有名な場所であっても 騒がしい場所はお断りである。
 心落ち着く場所 時間の流れが緩やかで その流れに身を置く心地よさが
 感じられる場所、そんな場所の一つが このシバ寺院の周りなのである。



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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 02:36:42 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク マンションの屋上から
バンコク マンションの屋上から 1

バンコク マンションの屋上から 2

バンコク マンションの屋上から 3

バンコク マンションの屋上から 4

バンコク マンションの屋上から 5

バンコク マンションの屋上から 6

 時折 スコールのような雨が降り、涼しくなっていたと思っていたら、ここ2,3日
 又、暑さがぶり返し、冷房をつけず、扇風機だけの生活だと 汗が じっとりと
 吹き出してくる。
 夜も寝苦しく、にわか雨の降ることを期待しているが 入り込んでくるのは蒸し暑い
 風ばかり、これも亜熱帯の夏だと思って受け入れている。

 再び 昨夜の11時過ぎから インターネットが使えなくなり、業者には連絡したが
 いつものことですぐにやって来ないことはわかっている。
 いらいらと待つのも嫌なので 昼前に コンピューターマーケットのパンティップへ
 出掛ける。
 今日も午後の陽射しは 暑く耐え難い。
 
 これからも 時々 インターネットがつながらないことがあることを見越して、
 時間で売られているダイアルアップのカードを買うためである。
 タイの場合は 何時間インターネットを利用しても 切らない限り、3バーツである。
 10日に1度くらいは インターネットに問題が起こることを考え、一番安い85時間
 使えるカードを139バーツで買った。
 カードといっても ユーザーネームとパスワードを書き入れただけのものである。

 夕方近くまでインターネットの業者はやって来そうにないので ダイアルアップで
 インターネットを使うが その遅いこと、こんなに遅かったかと思わせるほどである。
 2時間ばかり インターネットと使い、WIFIのインターネットをつけてみると、
 いつのまにか使用可能になっている。
 昨日の夜と今日の朝は 大奮闘したにもかかわらず、使えるようになっている。
 一体どういうことだったのか さっぱりわからない。
 業者のほうも やって来てはいない。
 それでも昨日の夜11時から今日の午後3時まで14時間 インターネットは
 使用不能になっていたが、その保証がないのがタイのインターネットの零細業者の
 対応である。

 夕方ベランダから 西の空を眺めると 夕焼け空が美しい。
 早速 エレベーターを使って 屋上に上がってみる。
 大都会のバンコクの真ん中に住んでいると 自然との関わりがすっかり失われてしまう。
 カトマンズにいたときは周りに雑木林や田畑、草原が残っていて、自然に親しむことも
 出来たし、散歩の合間に地元の人たちとの会話も楽しむことも出来たが、このバンコクでは
 人々とのんびりした会話を交わすなど皆無である。

 時々、屋上に上り、暮れ行く街並み、夕空を眺めるのが 精一杯だ。
 24階建ての建物の屋上からバンコクの街、西の空を赤く染める夕焼けを眺める。
 訳あって、こんな大都会の真ん中に住むことになってしまったが、自分とは合わないと
 感じていても 引越しの手間を考えると 動きづらい。

 何か新しいことを始めるという歳でもないし、今そこにいることを受け入れていくより
 仕方がないと思うようになっている。
 25年間も日本、タイ、ネパールという生活を繰り返していると 刺激というものから
 だんだん自分を遠ざけようとするし、余程のことがない限り、刺激を感じることも
 なくなってしまうものだ。 

 来週は ビザ更新のためのラオス行きである。
 美味しいカーオ・ラオでも食べてこようか。小さな公園の横の路地のカーオ・ラオの
 麺屋のおばさんは まだ私のことを覚えているだろうか。


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徒然なるままに | 11:45:32 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ジュライホテルに向かって
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 フアランポン駅構内のチケット予約オフィスで ノンカイ行きのチケットを手に入れ、
 駅の外に出てみると、フアランポン駅のすぐ横を流れるクルンカセーム運河の向こうに
 スリクルンホテルが見える。
 このホテルにも 昔は何度となく泊まった想い出のホテルである。
 その頃から随分時が流れてしまった。

 バンコクの暑い陽射しの中を 昔と同じように フアランポン駅からジュライホテルに
 向かって歩いてみることにした。
 クルンカセーム運河に架かる橋の上に立ち止ると、緑色の運河の水の向こうに
 スリクルンホテルが見える。
 23年前にカトマンズからバンコクにやって来たときには 大してお金もなく、
 泊まることができるホテルといえば ジュライホテルぐらいだった。
 運河の水の色も当時は真っ黒に濁った水の色で 悪臭を放っていた。

 この橋を越えると 道が三つに分かれており、三つの道のうち真ん中の道が 
 ジュライホテルへと向かう道だった。
 その道の右側を歩くと、西洋風の白い建物がある。
 その建物の1階が マッサージパーラーで 大きなガラス張りの窓の向こうには
 ひな壇があり、上に 胸に番号をつけた女性たちが座り込んでいた。
 マッサージパーラーと名づけていたが そこは 女たちが春を売る場所だった。

 その建物の横には 細い路地があり、路地の入り口では 昔と同じように今でも
 雑誌を売る露店があり、健在だった。
 雑誌を売る露店の向こうには カーオ・マンカイ(鶏飯)の屋台があり、この店も
 昔からあったような気がする。
 昔の気分に浸るため、カーオ・マンカイの店の前のテーブルに座り込み、
 カーオ・マンカイを注文する。
 バンコクならどこでもお目にかかる料理 カーオ・マンカイだ。
 「30バーツのカーオ・マンカイか」と訊くので 「そうだ」と応える。
 うらびれた路地にふさわしいカーオ・マンカイの味は 美味しいといえるほどの
 ものではなかった。
 吹き出した汗を拭き、お金を払い、再び歩き出した。

 今度は道の左側を歩く。
 道の向こうには カラッカダ・イーシップソン・ロータリーが見える。
 ロータリーにまで行かず、ジュライホテルのちょうど裏の路地に入っていく。
 ジュライホテルが閉鎖されたせいか、昔のような賑わいはない。
 私が 朝 いつもブラックコーヒーを飲んでいた御茶屋も閉じてしまっている。
 ジュライホテルの裏口とつながっていた御茶屋だった。
 中国人たちと混じって コーヒーを飲みながらのぼんやりとした朝のひとときだった。

 ジュライホテルの道の向こうには 台北ホテルがあり、台北ホテルの横の路地の
 入り口には 毎朝 店を出す、チョーク(中国粥)の露店があり、「チョーク・サイ・
 カイ」(卵入りお粥)と注文しては よく食べたものである。
 今でも朝行けば、食べることが出来るのだろうか。
 豚肉の団子に豚の臓物の入った美味しいチョークで、さすがチャイナタウンと思わせる
 味だった。

 それにしても 20年はあっという間に過ぎ去ってしまった。
 そんな気持ちを抱えながら、バス停に向かって歩いていくと、年齢が 40,50に
 近づいている立ちんぼうの娼婦たちが 昼間から立ち並んでいる。
 商売として成り立つから、通りで立ちんぼうをしているのだろう。
 20年前の自分、20年前の彼女たち、そして今の自分、今の彼女たち、
 眼を合わせるわけにもいかず、無視を決め込んで バス停に向かって歩いた。


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バンコク ある風景 | 22:15:24 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク そろそろ ビザの更新にラオスへ
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バンコク そろそろ ビザの更新にラオスへ 8

バンコク そろそろ ビザの更新にラオスへ 9

バンコク そろそろ ビザの更新にラオスへ 10

 ここ数日 バンコクではしのぎやすい天気が続いている。
 1日に1度は 雷が鳴り響き、雨が降る。その雨のため、夜が涼しく、扇風機だけで
 十分だし、明け方近くに寒さを感じて眼を覚ますこともある。

 バンコクでの生活も 3週間以上が過ぎ、そろそろタイビザの更新のために、ラオスに
 出掛ける準備を始めなくてはならない。
 バンコクからノンカイまで出掛けることになるが 夜行の長距離バスは 体力的に
 消耗が激しいので、後は飛行機でウドンタニまで行き、ビエンチャン行きの国際バスで
 行くか、バンコクからノンカイまで夜行寝台列車で行き、橋を渡り、ビエンチャンに
 行くか そんなことを考えていた。
 飛行機を使うと ウドンタニまで 安いもので1200バーツ、タイ航空やノックエア
 を使えば、1600バーツ前後になるし、わざわざ スワンナブーム空港か、
 ドンムアンの国内線空港へ行かなくてはならない。

 結局 時間的な余裕がないわけではないので ノンカイ行きの夜行寝台車を利用する
 ことに決めた。
 早速 今日は バンコク中央駅(フアランポン駅)の中にある予約オフィスに行った。
 MBKセンター前で フアランポン駅構内が終点である113番のバス(29番でも
 良い)がやってきたので それに乗り、フアランポン駅へ向かった。
 乗車賃は 8バーツである。
 使い古されたバスで 終点がフアランポン駅なので乗客も少ない。
 このバスに乗っているだけで 20年前の想い出が甦ってくるような気がする。
 昔は 中華街の入り口近くにあるスリクルンホテルやジュライホテルに泊まることが
 多かったから、フアランポン駅周辺は馴染みの場所で お金の両替のために 
 フアランポン駅構内にある銀行の両替所もよく利用した。
 パッチョンやコンケンに住んでいた頃も フアランポン駅が始発である29番のバスに
 乗り、昔のモチット、北タイ、東北タイ方面行きバス乗り場へ向かったし、コンケン
 行きの急行列車もよく利用した。

 タイでは昔から鉄道は マイナーな乗り物で 多くの人々は 冷房付の長距離バスを
 利用することが多く、鉄道を利用する人といえば、出稼ぎの人が多く、フアランポン駅 
 といえば、日本の昔の上野駅のような存在だった。
 今は昔に比べると小奇麗になったが 昔は駅の構内で荷物を入れた段ボール箱の横に
 座り込んで列車を待つ多くの人々を見かけたものである。

 フアランポン駅の構内にあるチケット予約オフィスは なかなかわかりにくい場所に
 ある。
 構内の有料トイレの奥にある。
 入り口のドアを開けると、順番を書き込んだ紙をもらい、その番号が電光掲示板に
 表示されるのを待つのである。
 自分の番号とカウンターの番号が表示されたら、そのカウンターへ行けばいい。
 今日は待っている人の数も少なく、すぐに電光掲示板に自分の番号が表示された。
 24日夜8時発のノンカイ行きの夜行寝台列車の冷房車の下段寝台はすぐに予約できた。
 寝台の下段と上段では 下段の方が 値段が高いが 下段の方が広く、揺れも少ない。
 又、列車の入り口近くは 人の出入りが激しく、冷房もあまり効かないので 中央部の
 寝台を頼むとそれも要求通りになった。
 受付の職員も当たりが柔らかく、気持ちが良かった。
 ノンカイまでの急行冷房下段寝台車の料金は 758バーツだった。

 列車のチケットの予約を済ませ、駅の周辺を歩いてみた。
 この当たりは 昔の姿のままである。
 駅のすぐ横にある食べ物屋も昔ながらの姿のままで商いをしている。
 カオ・カー・ムー、クイティアオ、そして 東北タイ料理、タイ人の間で人気のある
 食べ物屋が並んでいる。
 私もこの当たりで 列車の待ち時間を利用して 食事をしたものである。
 タイ国鉄の地方へと向かう始発駅であるということからすれば、この20年で駅周辺も
 もっと開発されていてもいいと思うが、近くに地下鉄の始発駅が出来たくらいで、
 あまり変化もなく、車やバス中心のタイの現状を象徴している。
 バンコクの中でも 変わるテンポの速い場所、そうでない場所があることは面白い。
 来週の初めの夜には 再びフアランポン駅にやって来て、夜汽車の旅の旅情に
 浸ることになる。
 ノンカイまでの12時間の長旅、時間を持て余してしまいそうだ。


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徒然なるままに | 19:36:32 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコクから 隷属の認識
 8月18日に衆議院選挙の公示が行われた。
 鹿児島での民主党決起集会で、日の丸の旗を切り貼りした党旗が掲げられたことが
 波紋を呼んでいる。
 支持者が不用意に作ってしまったというが、麻生首相が公示前日の党首討論で取り
 上げる騒ぎにもなっているということである。

 ネット右翼と呼ばれる人たちのブログでも 日本の国旗を切り刻んだという記事が
 氾濫している。

 国家や国旗に大きな意味を感じない私からすれば、何を大騒ぎしているのだろうと
 しか思えない。
 2,30年前なら 大して問題にはならなかったことも 国旗・国歌の議論が風化し、
 そんな中で育った若者たちは 国旗・国歌の裏に流れている歴史の重みについては
 考えなくなっている。
 そんな若者たちがネット右翼として 国家存亡論を繰り広げている。

 私がよく読むブログの一つに 
 晴耕雨読(http://sun.ap.teacup.com/souun/)というブログがある。
 良質の知が 至るところにあふれているブログである。

 そのブログの中の記事にこんなことが書かれていた。

 「抜け出す第一歩は「隷属の認識」」 
 http://sun.ap.teacup.com/souun/178.html からの抜粋

 ~ 「感じにくい隷属」
 国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや
 隷属していることを感じたり認識しないようにしてきた。

 「自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していないこと」を、
 土地に縛られない自由の獲得だと説明している。

 民主制を基礎とした国家にすることで、自分が命を失うことになったり、相手を殺す
 ことになる侵略戦争を担うことを義務と考えたり愛国心の発露と信じるよう仕向けて
 いる。

 女性は男性に隷属させられており、女性が“社会”に進出して経済的に自立することが
 解放だとされている。

 そして、失業者が大量に発生しながら財が余るという過剰な生産力(高い生産性)が
 実現されていながら、市場原理や経済理論を持ち出して、それは仕方がないことであり、
 年金などが切り詰められるのもやむをえないことだと説明している。

 今書いた四つのことを一つでもその通りだと考えている人は、国際寄生者にすっかり
 隷属していると断言する。

 人は、生きていくために、他者と共に外的自然と巧く付き合いながらそれを自分の
 ために改変しなければならない。

 人(人的自然)は、否応なく、土地(外的自然=自然的自然)に縛られている存在
 なのである。

 縛られていないと考えがちなのは、お金でお金を稼ぐ人・知的活動でお金を稼ぐ人・
 政治的支配者といった、圧倒的多数の他者を自分の生存から快楽の手段と位置付けて
 いる階層である。

 女性が家族の面倒を見るのは、役割分担でしかなく、別に男性への隷属ではない。
 (男女が逆でもいいのだが、出産と育児という役割を女性が担うほうが 都合が
 いいだけのことである。)

 女性を家族から切り離すのは、個人主義的自由主義と同じで、人々のバラバラ化を
 通じて隷属構造をよりスムーズに維持するのが目的である。

 共同体を崩壊させて国家的統合に変えたように、家族を崩壊させることで人々の絆を
 なくし、寄生者に直接的に隷属させようとしている。

 国際寄生者は、人々の絆を恐れている。それは、自分たちへの対抗力につながるもの
 だからである。無力な個として、持っている活動力を自分たちの“養分”吸い上げの
 ために発揮してもらえばいいと考えている。

 もう一つの目的は、経済合理性である。家族を養うために一人が働くだけであれば、
 家族分の生存費を給与として支払わなければならない。

 しかし、家族から複数の人が働きに出れば、一人に支払う給与は抑えることができる。
 (米国の50年代から現在に至る“中流家庭”の変遷を顧みればこのことがわかる。
 かつては、お父さんが働くだけで、家と自動車を持ち、子供たちを大学に送ることが
 できたのである)

 長期にわたる学校教育と日々発信される膨大なメディア情報を素直に受け入れることで、
 隷属性が高まる仕組みができ上がっている。

 現在の多数派の人々(寄生されている人々)は、奴隷以下家畜以下の存在になって
 いながら、自由だと錯誤する倒錯的隷属者になっているのである。

 国際寄生者が、ここまで巧妙につくり上げた「隷属システム」を捨て去り、寝た子を
 覚ますような奴隷化政策をとることはないのである。
 (近代奴隷制を廃止させたのは、国際寄生者であることをお忘れなく)

 国際寄生者は、米英の国家支配層を先兵として「対イスラム戦争」を展開しているが、
 それとてただの“戦争狂”であるが故に行っているわけではない。

 彼らとて、目的を早期に完遂させて“平和な世界”を築きたいと考えている。

 早期に完遂させて“平和な世界”を築けば、先進諸国の多くの人が素晴らしい現実が
 戻ってきたと感じ、さらに隷属性が高い新たな「世界」を素直に受け入れると夢想
 しているであろう。

 国際寄生者は、「近代以後」(ポストモダン)を構想しながら、それに向け現在を
 動かそうとしている。

 「対イスラム戦争」は、行き詰まった「近代」を根底から変えるためのものである。

 それを完了させれば、ブッシュ的圧制も終わり、国民国家の在り様も変わり、経済的
 政治的国際システムも変わることになる。

 現在でもいいし、バブルに浮かれていた時期でもいいし、目に見える勢いで生活が
 良くなった高度成長期でもいいが、どの時点でも隷属性を感じなかったという人は、
 今後の世界でも隷属性を感じることはないのである。

 感じ取りにくくなった隷属構造から抜け出すためには、隷属性を論理的に認識する
 しかない。そして、隷属性を認識すれば、隷属性を感じることになる。

 ハイテク物語とおどろおどろしい表現で予言される「未来の奴隷化」を危惧するのも
 大事だが、それ以上に重要なのは、現在の隷属性をきちんと認識し、そこから抜け出す術を
 見つけ出すことである。

 現在の隷属性を認識していても、落胆することもあきらめることもない。

 隷属性を認識しながらも、自分や家族のために働き、片隅で束の間の心地よさを味わい、
 “その時”がやってくるのを待てばいいのである。
 (刹那的な快楽や物欲も忌避する必要はない)

 隷属性を認識していれば、心地よさを感じる対象も変わり、刹那的な快楽や物欲の
 充足行動も変わる。

 “その時”はそう遠くないうちに(もうまもなく)やってくる。

 しかし、“その時”に、神が審判を下したり、救世主と悪の大魔王が壮絶な戦いを
 繰り広げた結果として、隷属のくびきから逃れられるわけではない。

 “その時”までに現在の隷属性を認識する人が増え、“その時”までに見出した隷属
 克服法が合理的なものであり、“その時”までにそれを実現しようと思う人が多数派を
 形成しているかどうかで決まることになる。

 それができていなければ、“その時”がやってきても、巧妙な「隷属システム」は
 継続し続ける。(“その時”は既にやってきているのかもしれない)

 自覚していないとしても、隷属を強いられている人々が主体的に動くことがなければ、
 “その時”がそのままずっと続くだけである。

 主体に取り組むことなく、神や救世主の力もしくは世界史的理性や自然の摂理によって、
 “その時”が解決されることはない。~


 この四つの視点は この10年の日本の姿を如実に現しているものだ。
 いや それは戦後日本の歩んできた経過に他ならないが、この10年間がその集大成
 であったのかもしれない。
 伝統的な家族制度の崩壊、人々のつながりの希薄になった地域共同体、日本の国益など
 考えようともしない政権や大企業、増え続ける悪質な犯罪、偏向し、批判力を失った
 マスコミ(新聞・テレビ報道)、こんな集団が 愛国だの、国旗だの国歌だのと声高に
 主張し始めることには嫌悪の感情しか湧いてこない。

 企業の都合に合わせて安い賃金で派遣社員を雇い、都合が悪くなれば、さっさと解雇、
 年収2百万円以下の労働者は1千万人を超え、年収3百万円以下の労働者の数は 
 50%を超え、医療も福祉も 悪化の一途、凶悪犯罪は 増える一方、こんな国に
 誰がしたと訴えたい。

 こんな現状を見据えることなく、国旗だの国歌だの愛国だのと言わないでほしい。
 皆 安心して住める場所がほしいだけである。


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徒然なるままに | 12:18:36 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネパールの女たち‐01
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 ネパールには 数多くの民族が住んでおり、どの民族に生まれるかによって、
 その後の生活の行方が左右されることがある。
 その上、様々のカーストもある。

 ネワール族、タマン族、マガール族、ライ・リンブー族、タルー族、シェルパ族などは
 古い昔からネパールに住んでいたことから 先住民族と呼ばれている。
 
 バウン族、チェットリ族は その多くは3,4百年前からインドからやって来た人々で
 カトマンズの先住民族 ネワール族のマッラ王国を侵略し、ネパールの統一を果たした
 サハ王朝の創始者 プリティビ・ナラヤン・サハ、その後のラナ家による専制、そして
 サハ家の王政復古までは チェットリ族がネパールの支配階級であり、ネパールの政党
 政治の中でバウン族は権力を手に入れてきた。
 軍、警察などの治安組織はチェットリ族、政治中枢はバウン族といった形で ネパール 
 の支配階級を形成している。

 そうした権力を志向するのは男たちの世界であるが、その影でネパールの生活を支えているのは
 働き者のネパールの女たちである。
 
 カトマンズを歩いていると 何かしら仕事をしているネパール女性の姿をよく見かける。
 野菜売り、焼きとうもろこし売り、洗濯、農作業、水汲みと 朝から夕方まで立ち働いて
 いるのは 女性たちである。
 こうした女性たちを眺めていると 生きてきた歴史のようなものが立ち振る舞いや
 顔つきにしっかり表れていて、地面にしっかり足をつけて生きているなというものを
 感じる。
 苦労の多い先住民族の女性ほど 生活感にあふれていて、逞しさを感じる。
 又、苦労してきた人生の一端を その顔の中に窺わせる。
 彼らの後ろに控えている子供たちの存在すらしっかりと感じさせてくれる。

 こうした顔は 昔の日本ではよく見られたが 今の日本では数少なくなってしまった。
 生活実感のない顔ばかりで、小奇麗でお洒落に精出していても 人間的な魅力が
 感じられないのである。
 ネパールの女性の場合は 貧しさゆえに 何が生きていくために必要なのかが 
 その生活経験の中から 学び取っている。
 頑張って生きているなということが そばにいても感じられる。
 ネパールの先住民族の30代、40代の女性であれば、小学校だって卒業していない
 女性が大半だろう。
 しかし、生活していくための知恵や能力は 日本女性以上かもしれない。
 それが 大人としての顔をしっかり表している。
 大地に根ざした土の香りを感じさせるネパールの女性たちである。

 4,50年前の日本映画のテーマに 母親を題材にするものが多かったが、
 今の日本ではそれはテーマにならないのはどういうわけだろう。
 その答えが、ネパール女性の顔を見ていると 判るような気がする。
 貧しさと戦おうとする姿、貧しさに負けないという意思、それが残っている限り、
 生活は苦しくても 不幸ではないだろう。
 そういう姿勢が 昔の日本の母親たちにはあったような気がするし、
 それが先住民族の貧しい女性たちの姿に重なっていく。
 物質的な豊かさだけでは 人間は充実した人生を送ることは出来ない。


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カトマンズ 生き抜く人々 | 17:50:58 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐72 サドゥー
アジアの街角 1枚の写真から‐72 サドゥー

 カトマンズの街を歩いていると 多くのサドゥーたちに出会う。
 特にカトマンズの有名な寺院の中には 多くのサドゥーたちが住み着いている。
 サドゥーというのは 世俗を離れ、真実の道を究め、神々への信仰に身を捧げる人
 なのだろうが、カトマンズでの彼らの姿を見ていると そういったことは感じさせない。

 私の住んでいる近くにあるバグマティ川に架かる橋の近くに ラーマ寺院、
 ナラヤン寺院という今から 150年前に建てられた寺院があるが、そこは
 サドゥーたちの溜り場のような場所で 寺院を囲む建物の中には多くのサドゥーたちが
 住み着いている。
 老いたサドゥーもいれば、若いサドゥーもいる。
 昼間の3時を過ぎると 寺院近くの路上のネパールのミルクティーを飲ませる店の
 周りに群がって 話に夢中のサドゥーたちの姿を見かける。
 夕方を過ぎると 住み着いている寺院の建物の前で 夕餉の準備をしている。

 インドの叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハバーラタ』の中にも こうしたサドゥーたちの
 話が出てくるが、そのサドゥー達の大半は 森や山の中に住み、俗世間から離れ、
 自給自足の生活をしていることが多い。
 そして厳しい修行を通して様々の超能力を身につけるという話がよく出てくる。

 しかし、インドからやって来ているカトマンズのサドゥーたちは 俗世間を離れては
 生活出来ないようである。
 私が住んでいる家にも 毎朝のようにサドゥーがやって来て 「ラーム、ラーム、サー」
 と大声を張り上げ、お金なり、食べ物の喜捨を求めている。
 家の家主が出てくるまで 10分でも20分でも叫び続けている。
 街中でサドゥーにカメラを向け、サドゥーがそれに気がつくと すぐさま お金を要求
 されるから、うっかり写真など撮ることも大変だ。
 外国人観光客からすれば、その異様な姿、メイキャップから興味深い存在なのだろうが、
 観光客に媚を売る様子を見ていると 一般人より余程世俗的で生臭く見えてしまう。

 私などから見ると ヒンズー教という宗教を利用した高級物乞いのように思えて、
 心惹かれることはない。
 サドゥーは 菜食主義者といっても インドでは 菜食主義など珍しいことでもなく、
 むしろ、太古の昔のように森や山に籠り、修行に勤しみ、超能力を極め、そのことから
 一般の人から尊敬を集めたり、恐れを抱かせるサドゥーであれば、これはこれで 興味
 深いものであるが、この頃のように お金を苦労しないで簡単に手に入れることの
 手段として サドゥーになるというのでは 魅力は感じない。

 この前も家への帰り道 私の前をサドゥーらしき老人が歩いていた。
 そのサドゥーの前を 彼の家族らしい若い母親と幼い子供が歩いていた。
 彼の娘と孫なのか、あるいは若い妻と子供なのかはわからない。
 サドゥーとは世捨て人なのかと思っていたが そうではないらしい。
 履いている靴なども 今流行りの靴で サドゥーのイメージとは かけ離れている。
 彼らの後ろについて歩いていくと 私のいつもの帰り道と同じ道で バグマティ橋の
 袂のラーマ寺院を囲む建物の中へと入っていった。
 彼らもラーマ寺院で生活するサドゥー達の仲間だったのである。

 ラーマ寺院に住み着いているサドゥーたちが 何か修行らしきものをしているのを
 見たことがない。
 大半は 午前中は お金と食べ物(米、小麦粉、豆など)集め、それが終わると、
 午後は 群がって話し込んでいるだけである。
 カトマンズでは そんなサドゥー達が年々増えている。
 昔は パシュパティナートでの祭り、シバラットリーの際、多くのサドゥーたちが
 インドから押し寄せてきたが、今では1年中いつでも多くのサドゥー達がいる。
 過酷なインドに比べて カトマンズは居心地の良い場所なのだろうか。



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アジアの街角 1枚の写真から | 16:38:55 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 表通りと裏通り
バンコク 表通りと裏通り 1

バンコク 表通りと裏通り 2

バンコク 表通りと裏通り 3

バンコク 表通りと裏通り 4

バンコク 表通りと裏通り 5

バンコク 表通りと裏通り 6

バンコク 表通りと裏通り 7

バンコク 表通りと裏通り 8

 今では すっかりバンコクの中心的な場所になってしまったサイアム・スクウェアー
 から歩いて10分にかからない場所に住んでいるのであるが、我ながら おかしな
 場所に住んでいると思う。
 この場所に住み始めてから10年以上の月日が流れてしまったが、住んでいるのが
 マンションのような場所であれば、日本と同じで人々とのかかわりは生まれてこない。
 気楽でいいといえばそうだが、味気ないことも確かである。

 マンションの住民といっても 大半は別の場所に本宅を持っている人たちで、仕事の
 都合上、あるいは子供たちがバンコクの高校や大学に通うためのセカンドハウスとして
 利用している人たちがほとんどで 地域とのかかわりもほとんどない。

 マンションの表通りといえば、ラーマ一世通りでバンコク有数の一大消費センターで
 ある。
 歩いて20分以内の場所に MBKセンター、ディスカバリーセンター、サイアムカフェ、
 サイアムパラゴン、セントラルワールドプラザ、伊勢丹、そごうなどが建ち並んでいる。
 こうした場所に行けば、日本と同じで 消費に明け暮れる現代人の姿、浮遊する現代人 
 の姿を見るだけだ。
 お金があれば、楽しめるが なければ寂しい思いをするだけである。

 そんな地域もマンションの裏にあるセンセーブ運河を渡れば、一変する。
 渡った運河の向こう側には 150年以上にわたって住み続けているイスラム教徒
 チャム族の古い集落があるし、その向こうには 昔ながらの市場のある通りもある。
 私の好みに合う場所といえば、この界隈である。
 高いビルの谷間のような場所で バンコク庶民たちが 昔ながらの生活を続けている
 地域だ。
 路上には 果物や食べ物屋の屋台、市場の中には安い気さくな総菜屋、八百屋、肉屋、
 魚屋、雑貨と百年前と変わらぬ佇まいで商いをしている。
 この地域の中に入ると、人間が地に足をつけて、生き生きと生活していることがわかる。

 バンコクの表の顔が一大消費センターのある表通りであれば、昔ながらの生活を営む
 市場周辺の庶民たちの姿は バンコクの裏の顔である。
 皆が普段着で生活できる場所こそ 人間が生きて生活出来る場所である。
 気取りもなく、気楽で 無理をすることのない場所である。
 お金などたくさんなくても どうにかやっていける。
 暴利を貪ろうとする人間などいないし、高い値段を押し付け、値段を誤魔化して商いを
 する人間もいない。
 安心して買い物をし、気楽に食べることの出来る場所だ。
 路上に並ぶ屋台で食べるのもいいし、市場で惣菜や果物、おやつを買って帰り、
 家で食べるのもいい。
 表通りの半額で生活できるのだ。
 表通りに行けば、生き馬の目を抜くような世界が待っているけれど、この裏通りなら
 庶民に優しい気さくな世界である。

 今日も古い市場のある裏通りで夕餉のための買い物を済ませ、イスラム教徒 
 チャム族の住むバーン・クルアの集落の中を抜け、センセーブ運河の岸辺に架かる橋の
 上に立ち、暮れなずむ集落を眺める。
 黒く色を変えた運河の水の上を 家路に向かう人々を乗せた水上バスが行きかう。

 世界の中の光と影、表通りと裏通り、これほど 人間の生活の違いを見せ付ける所は
 ない。
 新しいバンコクと古いバンコク、やはり 私は古いバンコクの中で 気楽に暮らしたい 
 と思う古い人間である。


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バンコク 運河の辺の街 | 21:06:33 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ
バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 1

バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 2

バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 3

バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 4

バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 5

バンコク コンピューター・マーケット パンティップへ 6

 昼の12時過ぎに 電話がかかってくる。訛りのひどいタイ語で何を言っているか
 よくわからない。
 英語に切り替えるが その英語もタイ語に増して わかりづらい。
 話す言葉の中に パンティップという単語を聞分け、やっとどこからかかって来た
 電話なのかがわかった。
 
 1週間前に ネパールのカトマンズで使っていて、壊れてしまったハードディスクを
 二つ バンコクにあるコンピューター・マーケットに持っていった。
 タイでハードディスクなどのコンピューター部品を買うと 壊れた場合の保障期間が
 あり、その保障期間の範囲内であれば、修理、交換が可能である。
 カトマンズで使っていたハードディスクは バンコクのコンピューター・マーケット
 パンティップで買い求めたものであり、その保障期間は5年間だった。
 一つは 今年の10月まで、もう一つは来年の1月までの保障があり、どうにか 
 保障期間内の故障で 交換が出来るようだった。

 そのハードディスクの修理が終わったので、受け取りに来るようにという電話だった。
 この頃のハードディスクは 5年もしないうちに壊れることが多いようである。
 昔と比べて その容量は大きくなる一方であるが、突然 使えなくなって、
 ハードディスクに保存してあるデーターを失ってしまうこともあり、右往左往して
 しまうことになる。
 ハードディスクは交換できても 失ったデーターは帰ってこない。
 それが怖いから、写真などのデーターは出来るだけ DVDなどに保存するようにして
 いる。

 ハードディスクの受け取りの連絡が来たので、早速 コンピューター・マーケットの
 パンティップへ出掛けることにした。
 よりによって 今日は強い陽射しの射す上天気である。
 私が住んでいるところから パンティップまでは徒歩20分のところにある。
 バスを使うと 停留所のあるMBKセンターまで出る時間、待ち時間、そして 
 パンティップまでの乗車時間を加えると 30分以上かかることになるので 
 大抵は歩いていくことになる。

 暑い陽射しの中 面白みのない大通りを20分歩き続けて、パンティップに到着、
 建物の中は 相変わらずごった返している。

 ハードディスクの保障会社の事務所は5階にあるので エレベーターでそのまま
 5階へ直行する。
 DCOMという会社で 何度もやってきている場所だから、すぐわかる。
 受け取りのための受付に行くと 訛りのひどいタイ人が 座り込んでいる。
 直接 話を聞いていても やはり 何を言っているかわからないような話仕方である。
 交換の二つのハードディスクを受け取り、パンティップの中を歩いてみることにした。

 このコンピューター・マーケットにやって来始めてから10年近くになる。
 タイでコンピューターを買い求めたのもこの場所である。
 10年前は セットになっているデスクトップのコンピューターが 3万バーツ以上
 したものである。
 いろいろ揃えると 12,3万円はかかった。
 それが 今では もっと性能の良いものが 1万4,5千バーツ(4,5万円)で
 買える。
 10年前は ノートブックパソコンといえば、売られているものの大半が 中古品で
 あったが、この頃では バンコクでもデスクトップのパソコンより、ノートブック
 パソコンの方が主流になってきている。
 中級のノートブックパソコンが2万バーツ前後で手に入る時代になっているのである。
 小型の安いノートブックパソコンであれば、1万バーツ前後で買える。
 バンコクも日本並みのノートブックパソコンの市場になっているのである。

 2年前には デジタルカメラ用のSDメモリーカードも 2GB容量だったものが 
 今では16GB容量のものが 千バーツ前後で売られている。
 しばらくパンティップに顔を出さないうちに どんどん新製品が出てきているので
 驚いてしまう。

 この10年の間に ノートブックパソコンなど 贅沢品ではなくなるほど 
 このバンコクは変わってしまった。
 いわゆる中産階級が増えているのである。
 しかし、それでもコンピューターとは縁のない人々は 7,8割はいるだろう。
 東北タイを中心とした出稼ぎの人々にとっては 縁のない世界である。
 2か月分の給料を コンピューターを買うために支出する余裕などあるはずもないし、
 必要もないものだろう。

 二つのハードディスクを抱えて、再び暑い陽射しの中を家路へと向かった。


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徒然なるままに | 04:04:14 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコクから この10年 日本はどうなったのか!
 この25年以上 日本に定住することなく、1年の大半をタイかネパールで暮らす
 ことが多く、日本の政治とも縁のないところに身を置いていた。
 ただ、ここ10年 日本に帰国するたびに 日本の国のあまりの変貌振りには
 驚くばかりだった。
 私の日本の生活というイメージは 25年前に日本を離れる前の日本の姿で、
 そのイメージから、あまりにかけ離れてしまった日本を感じるばかりである。
 日本を離れての最初の15年ばかりは あまり気にならなかった日本の姿も、
 その後の10年のあまりの変貌振りに たまに帰っても 日本の現状に適応する
 ことが出来ない自分を感じるばかりである。
 特にあまりに変わり果てた若者の姿には 眼を覆うものがあった。
 電車に乗れば、大半の若者たちは携帯を使って メールを打ち込んでいる。
 優先席には 平気で皆座り込み、年寄りが近くにやってきても知らん顔、
 公共道徳などどこにも期待できない世の中になっていた。

 10年前といえば、小泉政権が誕生したころである。
 日本の終身雇用制は崩れ、日本人がマネーゲームに明け暮れていたこの10年である。
 お金さえ手に入るなら、何をしてもいいという風潮、年寄りを騙す悪徳商法、
 振り込め詐欺、違法薬物の蔓延、止まる事を知らない世の中になってしまっている。

 ネパールやタイで生活することが長いから、ネパールやタイの政治や文化には関心を
 持っていたし、外国人が異国で暮らすには その国の政治や文化に関心を持つのは
 当然のことだし、それは身の安全にもつながる。

 日本という国は 私にとっては もう異国のような存在になってしまい、ここまで
 日本という国が変貌してしまえば、日本に帰ったときの身の安全のためにも 日本の
 政治や文化にも関心を持たざるを得なくなってしまった。
 私の持っている日本の常識が通用しなくなっているのである。

 政権交代が焦点になっている衆議院選挙まで残り2週間ばかり、この10年 日本では
 何があったのかが インターネットのブログなどで 分析されている。
 タイやネパールでは 書籍を手に入れることは難しいし、手に入れることは出来ても
 やたら高くて 手が出せない。
 その点、インターネットの普及は情報を手に入れるには便利である。

 良識のある人間味のあふれる人の発信するブログを見極めること、これが大切なことである。
 ある意味では ブログの記事からブロガーの人間性を知るということが大切なことである。
 国民の生活に眼を向けているかどうかが 大切な視点である。
 インターネットのブログの世界に 『ブログランキング』というものがある。
 政権交代を望むブログもあるし、反対のブログもある。
 この期に及んでも相変わらず、自公明政権の存続を願うブログも ブログランキングの
 上位を占めているが、彼らのブログを読んでいても 国民の生活という視点は 
 ほとんど感じられない。
 この10年で国民の年間所得の平均が百万円減っていること、年収三百万円以下の
 人の数は50%を超えてしまっていること、年収二百万円以下の人が一千万人を
 超えていることなどには眼を向けようとしない。
 こうしたブログを発信している人はどういう人なのか、その人間性が全く見えてこないから
 不思議である。
 生活のにおいが全く感じられないのである。
 それは自公明政権が 発する言葉と重複してくる。

 『反日勢力』という言葉が多用され、政権交代が起きれば、日本は『反日勢力』の
 思うままになるという論法で攻めてくるのであるが、この『反日勢力』なるものが
 『反日』『反日』と政権交代派を責めながら、政権交代を阻止しようとしているように
 しか思えない。
 それは自公明政権や自公明政権と癒着した大企業や暴力団、『反日勢力』にお金で
 雇われたブロガーのように思えてくる。
 それか この10年間 うまく立ち回り 甘い汁を吸ってきた人間たちなのだろう。
 だから、国民生活を言う視点や論点は 少しも見えてこない。
 この10年の自公明政権の中で 甘い汁を吸ってきたのであるから、自公明政権存続を
 願うのは当然のことであるが…。
 私は こうしたブロガーには全く興味はない。

 昨夜も この10年 日本では何が行われてきたのか、戦後 日本の政治の歩みは
 どうだったのかという良識ある視点で書かれているブログの記事に出会った。

 Aobadai Life (http://ameblo.jp/aobadai0301/)というブログを発信するブロガーの
 方の記事である。

 テレビ朝日スーパーモーニングが、浦上天主堂保存におけるアメリカの対日工作を放送
 http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10320950013.html

 その中にこんな記事があり、日本の現状を知るには大いに役に立った。

 「秘密のファイル CIAの対日工作」から考える戦後史(1)
 http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10296880008.html

 「秘密のファイル CIAの対日工作」から考える戦後史(2)
 http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10296880008.html

 戦後64年の日本の政治の中で行われてきたこと、アメリカの影響力の大きさを
 改めて知らされたという思いである。
 こうした良心的で良識を持つブロガーの記事が 多くの人に読まれ、日本に対する
 現実認識を深めていければと願うばかりである。


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徒然なるままに | 10:22:03 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ ラーマ寺院の周りで
カトマンズ ラーマ寺院の周りで 1

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カトマンズ ラーマ寺院の周りで 11

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カトマンズ ラーマ寺院の周りで 8

カトマンズ ラーマ寺院の周りで 9

カトマンズ ラーマ寺院の周りで 10

 バグマティ橋の袂には サハ家の王を幽閉し、ラナ家を起こし、ラナ家専制政治の
 基礎を作ったラナ家の創始者 ジャンバハドール・ラナの建てた二つの寺院がある。
 一つは ラーマ寺院、もう一つはナラヤン寺院である。
 少し足を伸ばすと サハ家三代目の王を偲んで、その王妃が建てたマハデブ寺院がある。

 ラーマ寺院、ナラヤン寺院を囲む建物には多くのサドゥーが住み着いている。
 本物のサドゥーもいれば、偽者のサドゥーもいるようで、ここで寝起きし、煮炊きを
 しているようだ。

 この近辺は私の散策コースの一つで 暇があれば、このあたりをうろうろと歩き回っている。
 サドゥーとここに住み着いているネパール人を除けば、参拝にやってくる人々も
 まばらで のんびり出来る場所の一つで ネパール人たちも参拝ではなく、私と
 同じように暇つぶしにここにやってくるようだ。
 又、寺院の周りには共同の水場が多く、洗濯にやってくる人もいるし、朝夕の食事の
 仕度のための水汲みにやってくる人もよく見かける。

 ラーマ寺院もナラヤン寺院も 160年近く前に建てられた寺院であるが 
 ジャンバハドール・ラナの死後、権力争いがあり、ジャンバハドール・ラナ家の血縁は
 迫害され、それに代わって、シェムシェル・ラナ家が権力を握ったことから、寺院の
 管理も十分になされなかったようだ。

 ラーマ寺院の中や周りには猿や牛たちが棲み、なんとも牧歌的な雰囲気があり、
 ここにやって来ると心も穏やかになってくる。

 ふらふらと寺院の周りを歩いていると、昼間の暑い陽射しの中、ナラヤン寺院の
 入り口から二人の女の子が 水を家まで運んでいる。
 寺院の入り口では 昼寝を決め込んでいる男と犬たち、こんなことはいつものこと
 らしく、女の子たちは気にもせず、せっせと水を運んでいる。

 女の子たちの後について歩いていくと マハデブ寺院の入り口近くまでやって来た。
 この寺院は 二百年前に建てられた寺院で、サハ家の王がまだ権力を持っていた時代に
 建てられたものだ。
 ラナ家の寺院はインド建築の模倣とネワール建築の融合であるが、このマハデブ寺院は
 ネワール建築である。
 寺院を囲む建物の入り口を抜けると、寺院に向かって祈りを捧げている像がある。
 サハ家 三代目国王 ラナバハドールの王妃の像のようだ。
 この寺の管理をする人間はいるようだが、いつ行っても参拝者の姿はない。
 この寺院もこの寺院を囲む建物に住み着いている人たちの生活のにおいを感じさせる
 だけだ。
 日本の寺のようにやたらきれいに管理されているために、逆に居心地の悪いということが
 ないのが、ネパールの寺院の良さである。
 寺院の中で 人が普通に生活している。
 その生活のにおいが 堅苦しい宗教の枠を取り除いてくれるから、不思議である。

 寺院の中の自分の好きな場所、気に入った場所に座り込んでいても誰も文句を言う人は
 いない。
 二百年前に建てられた国宝級の寺院を独り占めしたような贅沢を味わえるのである。
 こんな贅沢、そしてのんびりと流れる静かな時間、これはネパールの寺院の良さだ。
 観光地の寺院なら そういうわけにはいかないが、バグマティ川岸辺に建てられている
 寺院なら、観光客も少ないから、贅沢な時間を過ごすこともできる。
 こんな場所が残っている限り カトマンズの魅力は まだまだ失われない。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 18:59:38 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク やっと 雨期らしい雨
バンコク やっと 雨期らしい雨 1

バンコク やっと 雨期らしい雨 2

バンコク やっと 雨期らしい雨 3

 ここ数日 寝苦しい蒸し暑さのバンコクの夜が続き、扇風機をかけても 風の当たらぬ
 ところには じっとりと汗がにじむという不快な夜を過ごしていた。
 今日の明け方4時前から 激しい雨が降り始め、やっと涼風が部屋の中に入り込んで
 きた。
 やっと一息ついたという気持ちである。
 私の住んでいるMBKセンター近くは 雷の通り道らしく、雨が降り始めると 激しい
 雷雨になる。
 雷、稲光 そして激しい雨、やっとバンコクらしい雨、雨期の風物詩である。

 日本では 総選挙まであと2週間近くに入ったようだ。
 衆議院の解散から選挙までの期間が長いせいか、ニュースを見ていると、何やら、
 中だるみの様子である。
 降って湧いたように報道される、押尾、酒井容疑者の違法薬物使用事件、如何にも
 国民の目を選挙から背けようをする異様な報道機関の姿勢が見て取れる。
 何でこの時期に警察はこの事件を取り上げたのか、その展も不可解な事件である。

 『ネットゲリラ』(http://shadow-city.blogzine.jp/net/)と呼ばれている情報発信の
 ホームページからの情報を読むと、この事件の根は深く、警察、暴力団、政治家、
 北朝鮮絡みの問題まで内包しているようだが、どこまで真実が暴かれるのか、どうも
 トカゲのしっぽきりで終わり、国民の関心を選挙からそらすだけで終わりそうだ。

 政権交代選挙とも呼ばれる今回の選挙の中でも 相変わらずの新聞、テレビを使っての
 偏向報道の激しさは増すばかりである。
 どの政党に投票するかの判断は、現自公明政権が この10年、少なくともこの4年間
 国民の生活のために尽くしてきたか、それだけが判断の材料である。
 生活が豊かになったのか、貧しくなったのか、福祉はどうなったのか、庶民に関心が
 あるのはそれだけである。
 又、それだけで判断すれば、充分である。
 国民、庶民を大切にする政治であれば、国防、安全保障という難しい問題も安心して
 任せることが出来るはずである。
 アメリカの国債を買い続けることで、自国がますます貧しくなる、他国を援助する
 ことで 自国民の生活がますます苦しくなるというのは 異常なことである。


 国民にとって大切なことは 『生活第一』に尽きるのである。
 国民の90%の人々の収入は目減りし、10%の国民だけが 富を独占する社会が
 正常であるとは思えない。
 政権交代は不必要、今の自公明政権で十分と声高に叫んでいる人間がいるようだが、
 余程、この10年の自公明政権の中で、いい思いをしてきた人間たちなのだろうと思う。
 違法薬物、振り込め詐欺団、暴力団まがいの右翼、警察組織、与党政治家、大企業、
 報道機関などこれらの集団はすべて裏でつながっているのが うすうす見えてきている。
 大元は アメリカCIAである。
 民主党政権が誕生すれば、余程困る人間たちなのだろう。
 『反日』と声高に叫ぶ輩も信用できない。それを叫んでいる人間たちが当の『反日』の
 人間たちのような気すらしてくる。

 今の生活に満足できないなら、余計な理屈に惑わされることなく、政権を交代させれば
 いいだけの話で、政権を交代させて 満足が行かなければ、再び政権を交代させれば
 いい。
 物事は複雑に考えるより、単純に考えることの方が正しい判断を導き出すものだ。
 自分の生活を眺め、どう考えてみてもおかしい、納得がいかないという感覚が
 大切なのである。
 こうした生活感覚を研ぎ澄ませて行くことによってしか、生活は向上していかない。


 2時間降り続いた雨がやっと止んだ。タイ時間の午前6時である。



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徒然なるままに | 11:19:54 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 拡がる貧富の格差の中で
バンコク 拡がる貧富の格差の中で 1

バンコク 拡がる貧富の格差の中で 2

バンコク 拡がる貧富の格差の中で 3

バンコク 拡がる貧富の格差の中で 4

バンコク 拡がる貧富の格差の中で 5

 カトマンズでもバンコクでも どんどん貧富の格差は拡がっている。
 それでも 貧しい人たちは どうにか生きていくことが出来る。
 それは 貧しい人たちが 細々とした生活の中で どうにか生きていけるための
 システムが息づいているからだ。

 贅沢をしようと思えば、いくらでも贅沢三昧の生活の出来るバンコクである。
 私の住んでいる近くにあるサイアム・スクエアー近辺は 今ではすっかりバンコクの
 一大消費センターの装いを整え、バンコクの中産階級以上の人たちが、多く訪れ、
 高級品を買い込んでいく場所になっている。
 MBKセンター、高級デパート サイアム・パラゴン、ディスカバリーセンター、
 その先まで行けば セントラル・ワールドプラザ、伊勢丹、そごうと建ち並んでいる。
 月収1万バーツ前後で生活するバンコク庶民にとっては 暑いバンコクの気候の中、
 涼みがてらに行く場所であっても 買い物や食事をする場所ではない。

 収入の少ないバンコク庶民にとっての救いの場所は こんな高級消費センターではなく、
 昔ながらの姿を残している市場、路上の屋台の総菜屋、八百屋、肉屋、果物売りである。
 私も贅沢が出来る身分ではないから、こうした場所の世話になることが多い。

 今日も 近くにある東北タイ料理を売る路上の屋台で 昼飯の惣菜を買ってきた。
 ソムタム(パパイヤサラダ)20バーツ、東北タイ風たけのこときのこのスープ
 (ハーブを使った味付け)15バーツ、そして カイヤーン(鶏の照り焼き)
 25バーツ 締めて60バーツ(約170円)の惣菜である。
 これでも独りで食べる惣菜としては贅沢なくらいで、バンコク庶民や出稼ぎ労働者で
 あれば、2,3人で食べるのに充分な量である。
 私の場合は 大抵ご飯は自分の部屋で炊くから、蒸かしたもち米やご飯は要らないが
 大半の人は 袋に詰めたもち米かご飯を買っていく。

 夕方遅く行けば 市場で売られている惣菜は すべて一袋10バーツになる。
 3種類の惣菜を買って帰れば、これも2,3人で食事をするには充分の量である。
 贅沢さえしなければ、貧しい人々も生活できるシステムが バンコクにはまだ残って
 いる。
 住む場所だって ピンからキリまでで 安ところを捜せば、千バーツぐらいからある。
 トイレや水浴び場所は共有であるというのは 仕方のないことだ。

 私が 40年前に池袋に近い東長崎近辺で借りしていた4畳半のアパートの部屋は
 トイレ共同、小さな台所がついていて 1万5千円だった。
 街の定食屋のセットメニューの値段も 1セット 2,3百円だった。

 あの頃の日本にはまだ収入の少ない人間がどうにか生きていくだけのシステムが
 残っていたが、今の日本ではどうなのだろう。
 10年前までは 1億総中流社会と呼ばれ、国民の生活水準が上がり、人々の生活も
 贅沢になり、社会のシステムも それに合わせて変わっていった。
 それから10年経った今、国民の収入は大きく目減りをし、年収3百万円以下の数は
 50%以上、年収2百万円以下の数は1千万人を超えてしまっている。
 その上、派遣切り、倒産で失業者の数は増える一方である。
 しかし、収入の少ない人間が生きて生活していくためのシステムは失われ、どうにか
 こうにか食べていくことすら 困難な時代、社会になってしまっている。
 又、貧しさに耐えていくだけの耐性すら 日本人が失っているというのも本当である。
 こんな現状が続いていけば、日本社会もかなり 悲惨なことになることは見えている。

 どうしてこんな日本になってしまったのか、これから日本はどこに向かおうとして
 いるのか、しっかりと見極めようとしなければ、日本の豊かな未来はないという
 ところまでやって来てしまっているのである。

 そんな現状をどうして行けばよいのか訴えている『ギャラリー酔いどれ』様の記事に
 こんなものがあった。
 特にその中の「日本のフィリピン化」という記事には 日本もここまで来たかという
 恐れを感じてしまった。

  夏雲をⅤ
  http://blog.goo.ne.jp/55yasuji/e/397a0b71368e9d482890012895f8d6f7

 興味のある方は是非お読みください。


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徒然なるままに | 11:55:48 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐71 カンチャ
アジアの街角 1枚の写真から‐71 カンチャ

 ネパールでは 家族の中で 一番下の子供のことを 男の子ならカンチャ、女の子なら
 カンチーと呼ぶ。
 そこから来たのだろうか、ローカルな食堂や裕福な家庭で細々した下働きをしている
 子供たちを カンチャと呼ぶことが多い。

 10歳ぐらいから田舎の村から出てきた子供たちが ローカルな食堂や裕福な家庭で
 した働きをするというのは ネパールの古くからの習慣である。
 日本でも昔は丁稚奉公のような形で 貧しい家庭の子供たちが働いていたし、
 4,50年前までは 中学を卒業した子供たちが集団就職し 金の卵と言われ、話題に
 なっていた。

 私が25年前に初めてカトマンズを訪れたときも 滞在した宿の近くにあった
 貧乏旅行者のよく行くチベット人が経営する食堂でも 12,3歳の子供たちが
 働いていた。
 レストランの名前は 『ロースト・ホリズン』(失われた地平線)、中年過ぎの
 チベット人夫婦が経営していた。
 そのレストランでは ネパール人とドイツ人の混血の12,3歳の男の子が働いていて、
 その子の名前は 確かラムという名前だったような気がするが、ネパール人と外国人の
 間に生まれても こんなところで働かなくてはならないのかと不思議に思ったものだ。
 あれから25年経ってしまったが、あのラム君も40歳を過ぎているが その後
 どういった人生を歩んだのだろう。

 カトマンズにやって来たときに知り合った王族とのつながりのある家庭でも 
 10歳ぐらいの男の子がいて、その家の子供だと思っていたら、その子も下働きをする
 カンチャだった。

 昔、よくタカリ族の経営する安宿をよく利用したが、そこでも12,3歳前後の
 カンチャが働いていた。
 当時はこうした子供たちが下働きをして 安食堂や安宿を少なからず 支えていたの
 だった。
 当時は 給料なんて すずめの涙程度で、三度の食事と食堂の経営者の家族の子供の
 服のお古、寝る場所も 後片付けを済ませた食堂の机を並べ、ベッド代わりにして
 寝ていたり、安宿であれば、廊下の端っこに布団を敷いて寝ていたのをよく見かけた。
 それでも 村の貧しい家の子供たちが 米の飯にありつけるのは 贅沢なことで、
 村ではとうもろこしやひえ・粟のつぶした粉に湯を入れて作るディロ(蕎麦がきの
 ようなもの)に比べれば、数段に美味しく感じられただろう。
 米のご飯など 何か行事でもなければ、口にすることは出来なかった。
 ネパール最大の祭り ダサインの時には まとまったお金と新しい服が与えられ、
 里帰りはしていたようだった。

 私の住んでいる家の近くにも 12,3歳のカンチャが働いている。
 バウン族の家だから、働くカンチャもバウン族の子供である。
 洗濯、掃除、野菜を洗ったり、食後の後片付けは 彼の仕事である。

 私が 時々 屋上に上がると 雇われている家族の洗濯物を干している姿を
 よく見かける。
 このバウン族の家主は 私立大学の経営に参加しており、瞬く間に家を増築、土地も
 買い増ししたが、このカンチャを学校に通わせているかどうかはわからない。

 良心的な家庭で働けば、学校に通わせてもらえることも多い。
 近くに公立小学校を見学したことがあるが 朝6時から10時まで働き、10時から
 夕方の3時、4時まで学校で学び、家に帰って、再び、雇い主のした働きをするという
 子供たちが多かった。
 雇い主の子供たちは有名私立学校へ カンチャやカンチーは その家の下働きを
 しながら、お金のかからない公立学校へ通う。
 中には学校にも通わせてもらえないカンチャやカンチーもいるから そういう機会を
 得ただけでも良かったのかもしれないが、貧富の差、教育の機会均等からは程遠い
 ネパールの現実が カンチャ、カンチーの姿から伝わってくる。


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アジアの街角 1枚の写真から | 14:55:03 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ
バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ 1

バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ 2

バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ 3

バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ 4

バンコク 久しぶりにバーン・クルアの集落へ 5

 カトマンズからバンコクに移動してから 2週間近く経つというのに 心も身体も
 バンコクの生活にうまく適応していかない。この傾向は年々ひどくなってくるようだ。
 一つには 自分の求めている世界が 今 バンコクから失われているからだ。
 だから、期待するものがないのである。

 少しでも好奇心を持とうと思い、運河の向こうのチャム族の住むバーン・クルアの
 集落まで 昼の惣菜を買いに行くことにする。ご飯は タイ産の日本米を炊いている。 
 雨期に入り、チャオプラヤ川の水門を閉じているせいか、運河の水はすっかり、黒く
 濁ってしまっている。

 東北タイのコンケンからこのバンコクに越してきて以来、多少、運河の水はきれいに
 なったような気もするが、やはり、季節によっては その汚れに違いがある。
 バンコク市内の至るところに 高層ビルが建ち並び、近代都市の装いを整えてきている
 バンコクだが、運河を見る限り、バンコクの街の発展が、そこに住む人々の生活を
 大切にしていることにつながっているとは思えない。

 運河を越え、運河に沿って バーン・クルアの集落の中に入っていく。
 運河沿いの道には 中央タイ風の総菜屋、東北タイ風の総菜屋、雑貨屋などが多く
 建ち並んでいるが、イスラム教徒の集落、ここでは豚を料理したものは売られていない。

 今日は イスラム教徒が商いをしている総菜屋へ行くことにした。
 この総菜屋の惣菜は ビニールの小さな袋に入れて売られており、1袋15バーツで
 ある。
 量は少し、少なめであるが、ひとり暮らしの私にとっては、そのほうが 都合が
 良い。
 細々と商いをしている店で 儲けが生活の足しになればといった感じの商いで、
 家庭料理風な味付けで、あまり、刺激的でなく 薄味なところがよい。

 惣菜を買って帰っている途中、運河沿いの木造の家の表で 母親が、はさみを上手に
 使って 子供の頭を刈っている。その様子を見ていると 母親は昔、床屋で仕事を
 していた手つきである。
 子供も文句をいうこともなく、任せているところを見ると 小さいときから頭を
 刈るのは母親の仕事なのだろう。
 こんな親子のかかわりは 子供の記憶に一生残っていく貴重な思い出になるだろう。

 少し 歩き続けると、お金を入れると使える全自動洗濯機が置かれている。
 容量の小さい洗濯機は 1回20バーツ、大きいものは30バーツである。
 若い人たちにとっては、便利な文明の利器であるが、年寄りにとっては、手洗いの方が
 汚れがしっかり落ちるといって、昔は洗濯機など信用していなかったが、今はどうなのだろう。

 一昔前にはこうした集落の中には 洗濯を生業にする女性たちがいた。
 各家庭と1ヶ月契約で 家族数に応じて 洗濯物を引き受けるのである。
 田舎からやって来た特別の技術を持たない女性にとっては、唯一の生活の糧を稼ぐ
 仕事だったようだ。
 といっても 上手に洗濯ができるということも一つの技術で、やはり、創意工夫して
 きれいに洗濯物を洗い上げる女性のところには 仕事が集中していた。
 私の住んでいるマンションの1階にも クリーニング屋があり、マンションの住民は
 このクリーニング屋と1ヶ月の洗濯物の枚数に応じて 契約しているようだ。
 収入が少ない間は 自分で洗濯するが、収入が増えれば、洗濯は他人任せというのが
 田舎は別にして バンコクや地方都市では それが当たり前のようだが、洗濯機を
 使う家庭も増えてきているようだ。

 コイン式の全自動洗濯機の近くには コイン式の飲料水の自動販売機もあった。
 こうした文明の利器と手仕事の世界が奇妙に並存している集落の姿である。
 コイン式全自動洗濯機の横では 昔から変わることのないやり方で 東北タイ風の
 麺類を売る店が 昔ながらの姿であった。
 この頃では この集落に住むイスラム教徒のチャム族の数も減り、東北タイからの
 出稼ぎの人々が 多く住むようになってきている。
 あと10年もすれば、この集落も様変わりをしていくのだろう。



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バンコク 運河の辺の街 | 17:57:25 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し
カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 1

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 2

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 3

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 4

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 5

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 6

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 7

カトマンズ 子供たちの素顔‐11 仲良し 8

 バグマティ川に架かる橋の下には バラック建てのスラムが広がっている。
 そのスラムの中の細い道を 仲良しらしい二人の子供が テクテクと歩いている。
 並んで歩いていたと思ったら、仲良く手をつないで歩き始めた。
 今度は立ち止まって、大きな高い木の枝にとまっているカラスを眺めている。
 そうした二人の動きが あまりに自然でつい眼を留めてしまった。
 私が小さかった頃の子供たちの様子は こんな姿だったような気がする。
 子供だけが持つ独特の時間の流れが 昔はあったような気がする。
 この二人の後姿を見ていると 何やら懐かしい気持ちがしてくる。

 こんなほのぼのしたのんびりした子供の姿が今の日本にあるのだろうか。
 スラムの中に住み、貧しい生活の中にいる子供たち、そんな中でも人と人の
 関わりの中には 暖かい余裕のようなものを感じさせる。

 別のスラムの端にある草原で 二人の子供がなにやら、
 真剣な表情で話し合っている。
 どうもその中の一人の子供が 悩みを抱えているようだ。
 それをもう一人の子供が しっかり受け止めている。
 人間が育っていくための基本的な姿がそこにある。
 友達とは何かという答えが 彼らの姿から感じられる。
 こんな心の余裕は 今の日本の子供にはあるのだろうか。
 あまりに勉強や塾、習い事に追われ、じっくりと友達と話すという
 時間もないのではと思える。
 相手の心の中に入り込んで、相手の話にしっかり耳を傾ける。
 これは 人間が共生していくための基本的な態度である。
 これがないから、いじめが起こるに違いない。

 幼いときから 手をつなぎあうことを忘れた子供たち、そこには手をつなぎあうことを
 忘れた大人の姿がある。
 スクムバシと呼ばれるカトマンズのスラムの中では 皆 少しでも生活しやすいように
 協力し合って生きている。
 水が不足すれば、お金を出し合って 井戸を掘り、地下水の汲み上げ手押しポンプを
 備え付ける。
 スラム住民の生活の拠点になるセンターを建てる。
 そんな大人の姿を見ていれば、子供たちだって、助け合うことの大切さ、協力し合う
 ことの大切さを学んでいく。

 授業料の高い私立学校に行くことはできなくても 貧しいものが生きていくには
 何が必要かを 親や近隣の大人たちの行動を見ながら、成長していく。
 スラムの中で育つ子供たちが 生き生きと生活力のある表情を見せるのは
 そんなところから来るのかもしれない。
 大人も子供も 貧しくても どこか ゆとりを感じさせる。
 人間関係にもそうしたゆとりが感じられ、子供たちの姿を見ても 今の日本の子供には
 見ることの出来なくなった豊かな関わりを感じ取ることが出来る。


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カトマンズ 生き抜く人々 | 10:55:46 | Trackback(0) | Comments(4)
アジアの街角 1枚の写真から‐70 家財道具
アジアの街角 1枚の写真から‐70 家財道具

 雨期の激しい雨の後のぬかるみを 家財道具を荷車に積んで、引越ししていく人たちが
 通り過ぎてゆく。
 汲んできた水を貯めておく黒いポリタンク、バケツ、たらい、ガス台、布団などが
 積み込まれている。
 カトマンズの外の村から出稼ぎにやって来た人々の平均的な家財道具である。
 1部屋 6畳ぐらいの広さの部屋に家族3,4人が生活するための必要最低限度の
 家財道具である。

 水不足の深刻なカトマンズでは 水を汲み貯めておくポリタンクは必需品である。
 自炊が当然のネパールの生活では ガス台、もしくは灯油を使うコンロも必需品である。
 お金に余裕があれば、ガスボンベとガス台が利用できるが、お金に余裕のないものは
 灯油を使うコンロを利用する。
 私も25年前にカトマンズで生活を始めた頃は 灯油を使うコンロの世話になった。
 当時 カトマンズでは プロパンガスは普及していなかった。
 燃料費を考えれば、ガス器具を使うほうが安上がりであるが、ガスが切れたときに
 千ルピー以上のガスの交換は 難しい。
 灯油であれば、1リットル 60ルピー、無くなれば、買い足すことも出来る。
 近所の知り合いの雑貨屋の前に座り込んで 品物を買いに来る人を見ていると、
 大半の人は 米 1,2キロ、豆500グラム、香辛料を少しといった具合に
 その日に必要なものを買うだけで、纏め買いするだけの余裕はない。

 この荷車に載せた家財道具を見ると 戦前、戦後のどさくさ時代の庶民の生活が
 思い起こされる。
 夜の暗闇に紛れて、夜逃げをする庶民たちの姿は こんなものだったのだろう。
 皆が貧しければ、それを当たり前のものとして受け入れ、耐えていくことも
 出来たはずだ。
 又、そんな生活が出来る社会的なシステムも出来上がっていたに違いない。
 このカトマンズでも 店主と親しくなり、信用されれば、普段は付けで買い、
 月末にまとめて支払うということも出来る。
 タイの田舎あたりでも それが 昔は普通のことだった。

 貧しいもの同士が融通しあい、助け合うという習慣は 貧乏人にとっては 
 優しい人間関係をつくり、それに支えられて、皆どうにか生活していたのである。

 その時代に比べれば、今の日本は物質的にははるかに豊かになっているはずなのに
 皆 助け合うこともなくなり、近隣に対する関心もなく、隣近所で人知れず、餓死
 したり、病死する人も出てくる有様だ。
 寒々とした都市生活の日本である。
 こんな社会を目指して 戦後60年間 日本人は 頑張り続けてきたのだろうか。
 生き生きした共生できる社会であれば、多少貧しくても助け合って生きていけるはず
 である。
 カトマンズの地方からやって来た人々の生活は 決して豊かなものではないが、
 路上生活者をあまり見かけることもないし、餓死した人の話を聞くこともない。
 切羽詰れば、どこか救いの手が差し伸べられるのである。

 カトマンズでは 昔から村を逃げ出してきた子供たちが多かったが、夜遅くなると、
 レストランや食堂の主人が 子供たちに残り物を与えているのをよく見かけたものだ。
 家で飼われていない路上の犬たちだって、食べ物にありつき、どうにか生きていける
 世界である。

 いくら豊かになっても 優しさを忘れてしまえば、社会は地獄の様相を見せてくる。
 それが 今の日本である。
 貧富の格差が拡がり、分け合うことを忘れ、支えあうことを忘れてしまえば、
 人にとって 社会は 地獄でしかない。
 勝ち組、負け組みを当然のことにしてしまう社会に未来はない。


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アジアの街角 1枚の写真から | 11:15:50 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ カトマンズのお茶屋さん
カトマンズ カトマンズのお茶屋さん 1

カトマンズ カトマンズのお茶屋さん 2

 ここ2,3年 すっかり紅茶党になってしまった。
 その前までは コーヒー党で コーヒーの味を覚えたのは 中学生の頃からで、
 サイフォンを使って コーヒーを入れ、その薫りを楽しんでいた。
 日本で仕事をしていた頃は サイフォンを使うなど面倒なので カリタを使っての
 フィルタコーヒーを飲むことが多くなった。

 海外で生活するようになってからは ますます ずぼらになって、インスタント
 コーヒーで我慢するようになってしまっていたし、昔はタイでもネパールでも
 ナチュラルコーヒーはそれほど一般的ではなかった。
 朝の目覚めのためには インスタントコーヒーでも コーヒーが必要で コーヒーを
 飲むと眼が覚めたような気になったものだ。

 それが ネパールでネパール産の紅茶を買い、その紅茶の味を確かめているうちに
 強いコーヒーを避けるようになり、すっかり紅茶党になってしまった。

 1ヶ月に飲む紅茶の葉は 大体200gから300gの間で ネパールを離れるときは
 必ず、ネパールを離れている期間分の紅茶を買い込むことになる。
 ネパールでは インドのダージリンと国境を接する地域 イラム地方のイラムティーが
 有名であるが 天候も地域もほとんど同じであるにもかかわらず、紅茶の薫りに天と
 地ほどの差がある。
 もう26年ほど前のことだが、ネパールのカトマンズからバスを利用して 
 20時間以上かけて インドのダージリンまで行ったことがある。
 そのときに 大して高級品ではなかったが、ダージリンティーを買って、ネパールで
 ミルクティーにして飲んだことがある。
 さすが高級品ではなくても、ダージリンティー特有の香りがあり、驚いたものだ。
 当時1級品のダージリンティーは優先的に輸出用に回されていたから、本当の1級品は
 ダージリンにはなかったはずだが、1級品でなくとも、ダージリンティーであることが
 すぐにもわかるくらいに ダージリンティーの薫りの特徴を持っていた。

 そんな記憶を頼りに ネパールで東ネパールのイラムティーを買って、
 いろいろ試してみたが どうも特徴のない味で 薫りに欠けるのである。
 ネパールでもインド ダージリンから運んできてダージリンティーを売っているが
 いいものは 1キロ3000ルピー位するが、それでも 25年前に飲んでいた
 ダージリンティーの味わいには到達しない。
 そこまでお金をかける気はしないので イラム地方産の1キロ500ルピーから
 1キロ1200ルピーまでの紅茶を飲むことが多いが 癖がないので飲みやすいが 
 紅茶の薫りを楽しむには物足りない。

 この前 ネパールを離れる前に 紅茶を買い込んだが、いつもは カトマンズの
 キチャポカリの近くにあるインド出身のマルワリ商人のところで購入するのだが、
 そのすぐ近くにある『 HIMALAYA TEA CONER 』という店が 眼に入ってきたので
 入ってみた。
 中に入ってみると 意外に小奇麗な店で 紅茶の種類も多い。
 店にいたのは カトマンズの先住民族 ネワール族のマハルザン・カースト
 (農民カースト)の女の子で 店は彼女の夫と共同経営者のイラム出身の先住民族
 ライ族の男性で運営していると言う。
 ライ族というのは東ネパールの山岳地方からダージリン、シッキムあたりまで多くいる
 民族であり、カトマンズ盆地で最初に成立したキラティ王国を造った民族であると
 言われている。
 イギリス傭兵としてのグルカ兵としても有名で 狙撃兵として優秀な能力を持っている。
 狩猟民族に近いせいか、眼がよく、獲物をねらう能力にも優れている。

 店番をしているネワール族の女の子はなかなか愛想もよく好感が持てる。
 店の場所も いわゆる観光客の来る場所ではないので 紅茶の値段のリーズナブルで
 ある。
 この店の近くには 私がいつも買うインド出身のマルワリ商人の店と、他に1軒同じ
 インド出身のマルワリ商人の店がある。
 しかし、気をつけなくてはならないのは 紅茶を売っているからをいって、
 紅茶の専門家であると思ってはならない。
 彼らは 大抵 家では安いアッサムティーを使った甘いミルクティーを飲んでおり、
 イギリス人のようにお茶の薫りを楽しむ習慣はないから、お茶の値段はわかっていても
 味についてはよくわかっていない。
 これだけは 自分でいろいろ試して 確かめるより仕方がない。

 もう一つ 気をつけることは 観光客の集まるような場所ではお茶は買わないこと、
 店の家賃が高いから それがお茶の値段に上乗せされ、同じ質のお茶の値段が
 5割は 高いと考えてもよい。
 ネワール族の女の子が店番をしている場所であるが、カトマンズのニューロードに
 あるプリティビ・ナラヤン・サハの銅像を左に曲がり、キチャポカリに行く途中の
 DHARMAPATHという路地にある。
 紅茶の試食も出来るから、是非行ってみるとよい。



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カトマンズ 街の風景 | 17:59:51 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズから 子供の教育と未来
カトマンズから 子供の教育と未来 1

カトマンズから 子供の教育と未来 2

カトマンズから 子供の教育と未来 3

カトマンズから 子供の教育と未来 4

カトマンズから 子供の教育と未来 5

カトマンズから 子供の教育と未来 6

カトマンズから 子供の教育と未来 7

カトマンズから 子供の教育と未来 8

 アジアの発展途上国では それぞれの国の財政事情から公教育にまで 手が回らない
 ことが多い。
 そのために子供たちの学力は 親の社会的地位や経済的地位に左右されることが多い。
 ネパールなども同じことで カトマンズについて言えば、公立学校はお金に余裕のない
 貧しい家庭の子供たちが行くところで お金に余裕のある家庭は 自分の経済状態に
 合わせて、ピンからキリまである私立学校を選んで 自分の子供を通わせている。
 
 公立学校であれば、教育レベルが低く、私立学校は教育レベルが高いということ
 らしいが、要は 私立学校では ネパール政府の行う高校卒業資格試験に高い得点で
 合格するための受験教育に熱心であるという理由からである。
 これに合格しないことには ネパールでは 大学進学は出来ない。

 貧富の差の激しいネパールでは 子供の教育にお金のかけられない貧しい家庭の
 子供には 教育の力によって未来を切り拓く機会が失われている。

 ところで日本はどうだろう。
 先進諸国といわれている日本の子供たちの教育状況はどんなものだろう。

 ブログでこんな記事を見つけたので読んでみた。

    *** 子ども世帯の貧困化政策が少子化・子どもの学力低下化を招く、
                     自民党政権の責任は極めて重大 ***
  
     http://jiyugaichiban.blog61.fc2.com/blog-entry-502.html

 ~ 文部科学省がお茶の水女子大学に、全国学力テストの結果(小学6年生)の
 分析を委託した調査で、「保護者の収入が多い家庭、教育支出が多い家庭ほど子どもの
 成績がよくなる傾向がある」ことがわかりました。

 調査は全国学力テストを受けた小学6年生の中から約6000人をピックアップし、
 その保護者の年収を尋ねて、学力テストの結果との相関関係を調べました。
 下のグラフに示されたように、知識中心に問うた国語A、知識の活用を問う算数B、
 いずれの問題でも、年収1200万円以上の家庭の子どもは、年収200万円未満の家庭の
 子どもに比べ、20~23ポイント正答率が高くなりました。
 年収が多い家庭の子どもほど、成績がよいことが確認されました。・・・・・

 ・・・・・ 政治は何のためにあるかというと、自分の力ではどうにもならない、
 困っている人達を救うのも、大きな役割です。
 貧しい家庭があるならば、それを最低基準まで支援する、特に若い世帯では所得が低く、
 子どもに教育費を掛けられなくなりがちです。
 そのため、政府は色んな施策を使って、税金を再配分することによって、
 収入の少ない若い家庭でも、子育てできるようにしています。
 OECD主要国における所得再配分前後での、子どもの貧困率をみると、
 唯一、日本だけが所得再配分後の貧困率が高くなっています。
 何と、日本政府は、政策によって、子どもの貧困率を悪化させているのです。
 欧米先進国では、様々な制度を駆使して、子どもの貧困を無くそうとしているのに、
 自民党政権(自公政権)は子どものいる世帯に対して、負担は高く、給付は低い、
 正反対のことをしています。
 所得の再配分によって、格差を是正しよう政治の機能を自民党政権は果たしていません。

 日本政府は、政策によって、貧困社会を作り、子どもの貧困を招いてきました。
 子どもを大事にしない国に、未来はありません。
 政権を担当してきた自民党政権の責任は極めて大きいです。

     ~ 自由が一番!( http://jiyugaichiban.blog61.fc2.com/ )より抜粋

 今の日本の教育の現状が 他の先進諸国との比較が図表を使ってなされているので
 子供を持つ親の立場にいる方が是非お読みになると良い。

 『自由が一番!』さんのブログ記事を読んでいると 何だ ネパールだって 
 日本だって大して変わらないじゃないか そんな風に思えてくる。
 ネパールについていえば、教育制度の充実は 遅々たるものではあるが、その予算は
 外国からの援助も含め、向上していることは確かで、日本のように教育予算が 年々
 減っていることはない。

 子供の生活の向上、子供の未来のために 声高に叫ぶ教育評論家はたくさんいるが、
 この10年間の子供の教育の現状をどう見ていたのかと疑いが湧いてくる。

 子供を護るというのは 掛け声だけで 少しも実質を伴っていないではないか。
 教育現場は 不必要な管理体制ばかりが強化され、教師の自主性は奪われ、子供に
 近いはずの教師が 子供たちを護る弁護者になっていないし、子育てを真剣に
 考えなくてはならない親たちの教育に対する無関心ぶりも眼に余るものがある。
 自分の子供さえ良ければいいという自分勝手さは 子供をばらばらにし、ゆくゆくは
 無関心で身勝手な若者を作り出していくだけだ。
 子供を持つ親であれば、どうしてこんな世の中になってしまったのか、こんな社会を
 子供たちに残していいのか 考えるのが当然のことであるが、そうした思考力すら
 働かなくなっているようだ。
 学校もその機能を果たさず、家庭でも充分な家庭教育・躾けが行われなくなれば、
 どこに安心して生活できる社会が生まれ、共生できる暖かい社会が実現できるのだろう。

 ネパールに比べれば、親たちの教育水準は高いはずなのに、社会や政府、マスコミに
 対する批判力、理解力が大して違わない、あるいはそれ以下というのはどういうこと
 だろう。
 どんなに学んだ教育年数が長くても、それが批判力、自立的な思考を生み出すことが
 出来ないようなら、奴隷の従順さを教え込まれるだけで、ますます 社会を駄目に
 していくだけである。

 8月30日の衆議院選挙の投票日までに 誰に、どの政党に票を投じるか、情報を
 集め、子供たちの未来のことも考え合わせて 投票する必要があるだろう。



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徒然なるままに | 11:46:03 | Trackback(0) | Comments(0)
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