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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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バンコク プラカノン運河の寺院‐01 ワット・タイへ
バンコク パラカノン運河の寺院‐01 ワット・タイへ 1

バンコク パラカノン運河の寺院‐01 ワット・タイへ 2

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バンコク パラカノン運河の寺院‐01 ワット・タイへ 7

バンコク パラカノン運河の寺院‐01 ワット・タイへ 8

 日本は寒さがぶり返しているというのに バンコクはこのところ うなぎのぼりの
 暑さだ。
 午後になれば 部屋にいても暑い、外へ出ても暑い。
 外へ出かければ、たとえ暑い中でも 気分転換になると パラカノンまで行ってみる
 ことにした。

 ラーマ1世通りに出て、バスの停留所で プラカノン方面に向かう48番の冷房なし
 バス、508番の冷房つきバスを待つ。
 BTSの高架電車もプラカノンの先 オンヌット駅まで行くが お金の節約のために
 バスを利用する。
 しばらくバスを待っていると 冷房なしの普通バス 48番のバスがやってくる。
 運賃は 8バーツである。
 今日は プラカノンでバスを降りずに オンヌットまで行く。
 プラカノンへ行けば プラカノン運河を走る水上定期船に乗り込んで、のんびりと
 運河の周りに広がる自然あふれる景色を楽しむことが多いのであるが、今日は
 スクムビット ソイ77の道側から 運河の方に歩いていくことにした。

 バンコクの街の中心部から見れば、昔はプラカノン運河の手前が バンコクの街の
 果てあり、場末にあたり、その向こうは全くの田舎だったのだろう。
 東京でいえば、江戸時代の隅田川の手前とその向こうといった感じだったように
 思われる。

 20年以上前 パタヤからバンコクに帰ってくると、このプラカノンあたりに入って
 くると バンコクに到着したという実感があった。
 今で はプラカノンのずっと先 バンナー辺りまで開発され、場末といった感じは
 薄れたが それでも プラカノン運河の船着場周辺の市場や古い木造住宅に 
 昔ながらのプラカノンの風情が残っている。

 プラカノン運河を越え、このプラカノンを過ぎると すぐにオンヌット スクムビット
 のソイ77の道にぶつかる。
 バスを降り、このソイ77の道を歩き始める。
 ソイ77の道の入り口周辺には 大型スーパーマーケットが建ち、モダンな建物が
 並ぶが 5分も歩けば、昔ながらの姿が残っている。

 ソイの脇に入った路地には 小奇麗になった市場がある。
 プラカノンの船着場にある昔からの市場に比べると 面白みがない。
 その市場の脇には たくさんの種類の銘柄の米が売られている。
 タイの米の値上がりは 激しく 大抵の米は 1キロ40バーツ近い。
 20年近く前は1キロ 14,5バーツだった米が、2倍、3倍以上になっている。
 タイで売られているタイ産の日本米が 1キロ50バーツから60バーツで売られて
 いるから 結構タイ米もいい値段である。
 市場の中の食料品の値段は プラカノンの古い市場より高めである。

 再び表通りに出て、熱い太陽の照りつける中を歩き続けていると プラカノン運河へと
 つながるような黒く濁った細い運河にぶつかる。
 この運河沿いに道が続き、その奥には集落があるようだ。
 こんな路地をみると ついつい奥まで行ってみようとするのが、私の悪い癖だ。
 運河沿いに続く細い路地を入っていくと、小さな古めかしい雑貨屋の前で 二人の
 年老いた男女が 世間話に花を開かせている。
 「この運河沿いに歩いて行けば、プラカノン運河に出るか」と訊くと
 「そうだ」と応えてくれる。
 運河の水は すっかり黒く汚れてしまっているが、運河の周りの木々は豊かで、
 タイの夏を告げるブーゲンビリアの花も咲き始めている。

 運河沿いの木々や草花を見ながら、あたりに漂う静けさに浸りながら、奥へと進んで
 行くと 道はなくなり、民家の庭に入り込み、犬が吠え掛かってきた。
 プラカノン運河までは至らず、ここが行き止まりだった。
 プラカノン運河への道筋を訊くが 寺院の中から行けると教えてくれるが、その寺院が
 見えない。

 再び、雑貨屋の前にいた二人の年老いた男女に訊くと 寺院への道を詳しく教えて
 くれる。
 曲がりくねった細い路地を歩き続けているうちに やっと寺院の裏に出、
 寺院の姿が見えてきた。

 この寺院は ワット・タイという名の仏教寺院である。
 バンコクでは どこでも見かけることの出来るような平凡な寺院である。
 プラカノン運河の定期水上船の上からはよく見かけていた寺院であるが、出発点から
 あまりに近く、この寺院に運河側から降り立つことはなかった。
 寺院の中の壮麗な火葬場の脇では この日の死者の火葬のためか タイの人々が
 集まっていた。
 日本の味気ない火葬場とは大違いだ。豪華絢爛な火葬場である。
 火葬場の後ろには大きな高い煙突が 聳えている。
 死者に対する畏怖が タイでは色濃く残っている。
 死者を蔑ろにすれば 死者は悪意を持って甦ってくるという恐れを
 感じているタイの人々である。
 死を蔑ろにする社会では 人間の生すら 蔑ろにされる。
 今の日本が その典型である。

 再び、ソイ77の大通りへと戻り、次の寺院へと歩き始めた。
 このあたり、運河沿いには歩くことが出来ない。



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バンコクの運河 | 01:02:14 | Trackback(0) | Comments(0)
タイ バスの旅‐03 タイ編
 バンコクに初めて訪れたのは25年前であるが、そのときは一晩のトランジットで
 何一つわからないまま、バングラディッシュのダッカを経由して、カトマンズに
 向かった。

 それから3年後の22年前から タイとの深いかかわりが始まっていく。
 タイでは 鉄道よりもバス路線の方が発達しており、タイ国内の移動は バスに
 頼ることが多かった。
 数え上げれば 一体 何百回 タイの地方への旅にバスを利用したかわからない。
 冷房のついていないローカルバス、冷房付のツーリストバスと数えようもないくらい
 乗った。 
 コンケンやパッチョンに住んでいた頃は どこに行くにしてもバスの旅だった。

 ネパールやインドでのバスの旅に慣れていた私にとっては タイのツーリストバスが
 どんなに豪華に見えたものか。
 リクライニングシートは 本物だし、冷房は寒くなるほど効いている。
 車掌は ひっきりなしに飲み物のサービスをしてくれる、箱入りのおやつはくれる、
 途中の停留地では 食事のサービスはあるはで それは至れり尽くせりだった。
 ネパール・インド世界とこうも違うものかと 驚くことばかりだった。

 コンケンーバンコク、コンケンーチェンマイ、コンケンーノンカイ、バンコクーパッチョン、
 パッチョンーコラートーブリラムースーリン、 バンコクーウボン、バンコクーチェンマイ
 ーチェンライーメーサイ、バンコクーウタイ、バンコクーパッチョン、バンコクーパタヤ

 列車もよく利用したが 回数からすればバスの比ではない。
 ベトナム戦争時代に物資の輸送ということから 22年前の当時から タイは道路が
 整備されており、夜間のツーリストバスであれば 百キロ近いスピードで飛ばし、
 平均時速5、60キロの列車よりはるかに早く目的地に到着する。
 その分、事故の話もよく耳にした。大半は居眠り運転だ。
 東北タイ、北タイ行きのバス乗り場は 昔は 有名なサンデーマーケットの向かい側に
 あった。
 地方へ向かう冷房なしローカルバス乗り場と冷房付のツーリストバス乗り場と二つに
 別れていた。
 コンケンからバンコクにやってくるときは 大抵は夜行バスだった。
 コンケンにあるナコンチャーイというバス会社のバスには 後部に喫煙室があった。
 バンコク-コンケン間では 一番時間がかかず、どこにも停まらず直通、
 バンコク-コンケンを 6時間半で結ぶというのがうたい文句だった。

 こんな夜行のバスに様々な思いを乗せて、タイの国内を旅した。
 猛スピードで走っていくバスの背後に多くの想い出を残して。

 そんなときに こんな曲が 頭の中で鳴り響く。


      夜のバス
           作詞・作曲:井上陽水

  夜のバスが僕をのせて走る
  暗い道をゆれる事も忘れ
  バスの中は僕一人
  どこにも止まらないで風を切る

  バスの中はとっても寒いけれど
  君の嘘や偽り程じゃない
  君のくれた青いシャツを
  今日は着ていないだけ まだ暖かいよ

  君なら一人で明日を 
  むかえる事も出来る

  夜のバスが僕をのせて走る
  広い窓もただの黒い壁だ
  なにもかもが闇の中に
  ただ、夜のバスだけが矢の様に走る


  井上陽水    夜のバス
http://www.youtube.com/watch?v=FGD_UCMPPgM  


 この曲が 胸に響くようなバスの旅は もうはるかな昔のことだ。
 タイでは バスの旅には 多くの想い出がある。
 それだけ 心が動くことが多かったのだ。
 今では 快く夜のバスの旅を味わうためには 気力・体力が許してくれなくなった。
 年月の流れは 嘘をつかないものである。


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エピソード | 14:23:00 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生
カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 1

カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 2

カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 3

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カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 6

カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 7

カトマンズ 川辺の新しい生命の誕生 8

 カトマンズという街は 変わった街である。
 カトマンズ盆地の中の人口は 今や3百万人に届こうとしているのに カトマンズの
 中心部から歩いて2,30分のところに 田舎を感じさせるような場所がある。
 私がカトマンズで住んでいるバグマティ川の川辺の周辺がそうなのである。
 わずかばかりであるが 田畑も残っており、農民たちの農作業を通して、季節感も
 感じることが出来る。
 バグマティ川周辺には 広い河川敷もあり、牛や山羊の世話をしている人々の姿も
 よく見かける。

 環境汚染の進行の只中にあるカトマンズ、ひどい電力不足と水不足の中でも 
 カトマンズにやってきて 年間 何ヶ月か楽しく生活できるのも こんな地域に
 住んでいるお陰かもしれない。

 このバグマティ川周辺には 人間の生活の形のすべてが揃っている。
 古い寺院もあれば、火葬場もある。
 スラムもあれば、分譲高級マンション、高級住宅もある。
 その上 田畑もある。
 ゴミ捨て場もあれば その中から お金になるビニールやペットボトルを集める
 人たちの集落もある。
 このあたりを散策していると 飽きることはない。
 毎日が 人間ドラマの連続なのである。

 つい先日も バグマティ川のカトマンズ側の岸辺沿いに歩いていたら、
 いつも挨拶をかわすチェットリ族の家の前に 生まれたばかりの子牛がいた。
 まだ立ち上がることもおぼつかない様子で、家の者たちは 母牛のところへ連れて
 行って しきりに母乳を与えようとしていた。
 そんな子牛も 1週間もすれば 顔つきも足取りもしっかりしてきて、すっかり
 牛らしいの姿に成長している。
 額と耳の後ろを掻いてやると 最初は警戒心から嫌がっていたが、慣れてくると 
 私の顔を覚えてくれたようだ。

 再び、子牛のところにやってくると、茶色の別の子牛がいる。
 別の母牛から生まれた子牛である。
 黒い白斑の子牛は 黒い母牛から 茶色に白斑の子牛は 茶色の母牛から生まれたと
 聞いた。
 まるで同じ母牛から生まれた姉妹牛のように仲良く座り込んでいる。
 私の姿に慣れたせいか、額を掻いてやってみたり、耳の後ろを掻いてやっても
 嫌がらない。
 日を追うように成長する姿には目を見張るばかりである。

 こんな光景をネパールの首都カトマンズで それもカトマンズの中心部から歩いて
 2,30分のところで体験できる。
 実に持って カトマンズは不思議な街である。
 カトマンズの持つこうした面を知らないと カトマンズの楽しさも半減してしまう。
 ツーリストの溜り場 タメル地区ばかりに滞在していれば、雑踏と街の汚れしか
 知らないことになってしまう。
 すべてがごっちゃ混ぜのなかにあるそれがカトマンズの魅力の一つでもある。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 01:08:35 | Trackback(0) | Comments(0)
インド バスの旅‐02 インド編
 インドの旅でもよくバスを利用した。
 インドはイギリスの植民地であったことから、鉄道も発達している。
 しかし、特別な急行列車を除けば、列車のスピードが遅い上に、駅での停車時間も
 長く、平均時速50キロ以下というのもざらだった。
 列車の旅ならのんびりしていいだろうということになるが 昔から過剰人口を抱えて
 いるインドのこと、列車の中の過密も半端なものではない。
 ACファースト、ACセカンドクラスならともかく、セカンドクラスの三段ベッドの
 寝台車などは 昼間は 誰でも乗り込んできて ぎゅうぎゅう詰めになる。
 普通列車でも乗り込もうなら、殺人的な状況になる。

 バスでも同じことで ローカルバスなど乗ろうものなら、バスの中はすし詰め状態で
 屋根の上に座り込んで目的地に行くなどということもあった。
 これにインドの気候の暑さが加わると、もう地獄の有様になる。

 25年前に真夏の砂漠地方 ラジャスタンでの旅をしたときがそうだった。
 ラジャスタンのナゴールという小さな町からマハラジャの城があるビカネールまでの
 7,8時間のバスの旅は凄かった。
 朝9時頃 バス乗り場に行くときには 太陽の陽射しも容赦なく照りつけ、気温は
 40度近くまで上がり、バスの屋根の上に荷物を載せるにも バスの屋根への鉄製の
 はしごが焼けていて 握ることにも難儀した。

 座る席は確保したが、砂漠の荒野を走るうちに気温はうなぎのぼり、バスの窓という
 窓は閉め切り、バスの中はサウナのようになってしまっているが、窓を開ければ、
 室内の気温よりも暑い熱風が入り込んでくるのだ。
 全くの耐久レースのようなものだった。

 しかし、インドのバスの旅が過酷なものばかりだとは限らない。
 外国人観光客の目玉である観光地デリー、アグラ、ジャイプールのゴールデン・
 トライアングルと呼ばれる三つの場所を結ぶ路線には 当時インドでは珍しい
 冷房バスが運行していた。
 高速道路らしき道を走るせいか、なかなかスピードも出た。
 途中の中継地点では 小奇麗なドライブインにも停まり、食事も出来た。
 私が良く利用したのは ピンクシティ ラジャスタンの州都で有名なジャイプールから
 ニューデリーまでの路線だった。
 6,7時間の夜の旅だったが、ビデオテレビも設置されており、それでインド映画を
 見ていると退屈することもなかった。
 インドのことだから、途中で冷房が壊れ、窓を開けて走るということもあったが、
 20年以上前のインドの旅にしては おおむね快適なバスの旅だった。

 地獄の沙汰も金次第という言葉は インドの旅のためにある言葉かと思われるほど、
 インドではお金しだいで快適な旅を手に入れることも出来た。
 どこでもというわけではなかったが、都市周辺ではそうだったが、田舎へ行けば、
 やはり苛酷な旅は 相変わらずだった。

 体力のある時代にインドのバス旅行が出来たことは 強烈ではあったが 
 忘れがたい想い出にはなっている。
 今の若者たちも 快適な旅ばかりを求めるのでなく、自分に挑戦するような旅を作ることも
 長い人生の中では役に立つのではと思う。
 ローカルなバスの旅では 外国人は自分ひとりということもよくあるし、そういうときには
 自分と向き合う機会にも恵まれるし、アジアの人々とも触れ合う機会にもなる。
 五感を拓き、第六感を養うには もってこいである。
 空気が読めない、感働きが出来ない今の若い人には 自己開発の旅にもなるはずである。

 ざらざらとした触感のある旅、動物が嗅覚を働かせるような緊張感のある旅、
 こんな旅の形は 自分の人生に 忘れがたい足跡を残してくれるものである。


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エピソード | 14:09:33 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修
カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 1

カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 2

カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 3

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カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 6

カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 7

カトマンズ ネワール族のシバ寺院の改修 8

 カトマンズとパタンを結ぶバグマティ川に架かる橋を越えて、パタン側に入ると
 大通りから中に入っていく道がある。
 私がカトマンズから帰ってきたときにはいつも使う道で その道の奥まで歩いていくと
 私の住んでいるところに行き着く。

 その道に入るすぐ脇に 小さなシバ寺院がある。
 ネワール族の上位カースト シュレスタに属するアマテというカーストの人たちが
 建てたシバ寺院である。
 寺院そのものは この寺院の脇の路地を着きあったところに住むアマテの一族によって
 管理されている。

 私が住んでいる近所の人たちの井戸端会議の中で このアマテ一族のシバ寺院の改修の
 ことが話題になり、ちょっとその様子を見に覗いてみたのである。
 この寺院の小さな庭の中にある手押しポンプから出てくる地下水は 豊かで 水不足に
 悩む近所の人たちにとっては 大きな恵みになっている。
 カーストや民族に関係なく水を汲みだすことの水道ポンプで、ここに宗教に対する
 ネワール族の寛容さ、おおらかさを見ることが出来る。

 本来ならば、このシバ寺院を管理するネワール族のアマテ一族が改修すればよいので
 あるが、それだけの財力がなく寄付を募っているが、その寄付をした人の名簿を見ると
 ネワール族、バウン族、チェットリ族、インドからやってきて定住したマルワリ商人と
 様々であるが さすが仏教徒の民族やカーストの人は いなかった。
 総額を見ると 20万ルピー(約24万円)ほどあり、改修には充分な費用が
 集まっているようだ。

 20万ルピーということで思い出すのは バグマティ川の川辺の水場の開発のことだ。
 ここでもパタン市が10万バーツ、寄付で10万ルピーを捻出するという取り決めらしいが 
 この寄付によるお金が集まらず、四苦八苦しているようだ。
 寺院の修復のための寄付はすぐに集まるが、庶民の生活のために必要な水場の開発の
 ための寄付は なかなか集まらない。
 これが カトマンズのおかしなところである。
 宗教のために寄付するものは多くいても、社会のために寄付するものは少ない。
 こうしたネパール人の姿勢が、生活場所の改善の遅れ、貧富の差の拡大を生む要因に
 なっているようにも思える。

 このシバ寺院を管理するアマテ一族が住む集落にも行ってみた。
 シバ寺院から歩いて2,3分のところに彼らの住む場所があるが、
 ここから引越しした人たちも多く、かなりの部屋を賃貸しにしているようだ。
 昔は 羽振りも良かったことが 古い建物の造り、木彫りの窓などに現れている。
 昔はこの集落には 血族・親戚が 百人近く住んでいたのだろう。
 本来は ネワール族のアマテというカーストは マッラ王朝時代の支配階級に属する
 人たちで 王宮近くに住んでいるのが普通であるが、分家してこの場所にやってきたか
 マッラ王朝がゴルカ王朝に征服されたときに 元の居場所を追い出され、
 ここに新しく住居を構えたのかもしれない。

 そんなアマテ一族の守り神なのか、庭の一角に あまり見たことない三体の神様が
 祀られていた。
 一人の神様の周りで 二人の女神が踊っているようにも見える。
 今度、再びこの場所に来たら、この神様の話や、ここに移ってきた理由などを訊いて
 みたいものである。



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カトマンズ 街の風景 | 04:59:53 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク シーナカリン王母の生家の周り
バンコク シーナカリン王母の生家の周り 1

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バンコク シーナカリン王母の生家の周り 5

バンコク シーナカリン王母の生家の周り 6

バンコク シーナカリン王母の生家の周り 7

バンコク シーナカリン王母の生家の周り 8

 現国王 ラーマ9世の母 シーナカリン=サングワン・タラパットは 1900年に
 ノンタブリ出身の金細工職人の娘として生まれたが、早くにこの父を亡くし、
 母親の手で 先に説明した公園の中にある今は崩れかけたレンガ造りの家で育てられた。
 その母も病身で娘の面倒を見ることも出来ず、 8歳になったときには王室に奉公に
 上がるが、9歳になったときには その母も失い、天涯孤独の身になったが、
 運よくシリラート王室医療院付属の看護学校に通い1916年卒業することが出来た。
 勝手な想像だが、タラバットの一族は 王室や貴族お抱えの金細工職人の一族で
 あったのかもしれない。
 そのことから、王室につてがあり、王室に奉公に上がることもできたのだろう。

 その後の経過については 次のホームページを参照されると良いだろう。

 王家/父母姉兄
 http://www.1046.in/royalhousehold1.htm

 現国王の王母 シーナカリンを偲んで造られた公園の周りは 下町風な情緒の色濃く
 残る場所である。
 表通りには戦後移民してきたと思われる中国人たちが住み、裏通りにはタイ人たちが
 住む。
 豊かな成功した中国人であるというより、細々と生活しているような中国人たちが多く、
 タイ人たちはといえば、下働きをしているような人たちだ。

 王母 シーナカリンの生まれた時代なら 随分うら寂しい界隈だったのではなかろうか。
 公園の周りの建物の様子を見ても 第2次世界大戦以後建てられた木造住宅が多いようだが、
 ところどころには 百年以上前に建てられたような貴族の屋敷も残っている。
 そんなことから、王母 シーナカリンの生まれた百年以上前の時代といえば、
 広大な敷地に囲まれた貴族の屋敷とその使用人たちの住まいがあったぐらいだろう。

 戦後 チャオプラヤ川の対岸にある中華街の商人たちの商品の保管場所として、
 倉庫なども建てられたようだが、今では 中華街も昔ほどの勢いもなく、
 あたり一帯は裏寂れた雰囲気を漂わせている。

 夕方近くなると 近くの公立学校に通う小学生や中学生が 路上のカキ氷の店に
 群がっていたりするし、木造の長屋風の昔風の商店には 近所の住民たちも
 集まっている姿は如何にも下町的な風景である。

 裏通りに入っていくと 時代の流れなど忘れてしまったような人々の生活もある。
 古きよき時代のバンコクが そのまま残っているような感じなのである。
 時間の流れが止まってしまったところに 間違って入り込んでしまったような
 気持ちにもなってしまう。
 こんな不思議な場所が トンブリ地区には 何箇所かある。
 物価が安い、部屋代が安い、簡単に住む土地が手に入った、開発は遅れているといった
 様々の要因が絡み合って、昔ながらの生活が そのまま残っているのだろう。

 バンコクの中心部での生活に疲れたときには トンブリ地区にやってきて、
 のんびりとした時間の流れの中に身を置いてみる、下町の気さくな雰囲気に触れてみると
 いうのは 心の健康のためには いいのかもしれない。
 それも昼間のことで 夜になるとちょっと危険な界隈で 表通り以外は歩けない
 雰囲気があるので要注意である。
 何処か人間の吹き溜まりのような場所でもあるからだ。
 気さくで人の良さもあるが、半面、分けのわからない怖い人間もいるのも本当である。
 下町めぐりは バンコク庶民の生き生きした姿を見るにはいいが、それも昼間に
 限定された世界である。
 バンコクの下町歩きも 五感と第六感を駆使して、危険の匂いを嗅ぎ取る必要がある。


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バンコクを歩く | 14:51:22 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコクから 三感人間ばかりの日本の国
 三感人間とはおかしな言葉であるが、人間は本来 五感、そしてその五感に支えられた
 第六感を使って、自分の住む世界を生きているものだが、今の日本人を見ていると、
 五感+第六感が作用しなくなり、こうした能力の中で使われているものといえば、
 視覚、聴覚、そして味覚の三つであるようにも思われてくる。
 そんなことから、今の日本人を三感人間と命名してみたのである。

 そう言っている私も 日本に帰ると それに近い状態になってしまう。
 日本の社会の情報と言えば、マスコミ(テレビ・新聞・インターネット)を介して
 視覚、聴覚から入ってくるものがほとんどである。
 様々の事件のニュースなど 現場にいないのだから、どこまで真実なのか確かめようもない。

 ネパール、タイで生活することが長くなると、テレビ、新聞の報道というものが 
 その時代の政権、あるいはそれを支える経済界によって かなり操作されたもので
 あることがよくわかる。
 ネパール人にとっても、タイ人にとっても その報道を鵜呑みにしないというのが
 一般的な態度であるし、巷の会話によってその胡散臭さも見極めていく力もある。
 大体において テレビだの新聞の報道をそのまま信用しないというのが 
 一般的な国民の態度である。
 五感と第六感を使って、真実を見極める能力が 備わっているのである。
 基本的には 政府や報道のいうことなど そのまま信用しないというが普通だ。
 まともに信用していたら、生活防衛など出来るはずもない。

 今の日本を見ていると、世間を騒がす事件でも起きたら、すぐに情報操作の手が
 入るようにも思える。
 日本においては マスコミ・報道の公平などは もう何処かに行ってしまい、
 すべてのマスコミが こぞってひも付きの有様だ。

 MSNのホームページが 何年前からか 毎日新聞のニュースから産経新聞のニュースに
 変わっている。
 この二つの新聞社は 報道の姿勢が全く異なる新聞社である。
 このMSNのホームページのニュースを通して流れる情報が これほど異なっていいものかと
 思える方向転換である。
 政府・企業の求める偏向したニュース、解説によって 読者を情報操作しようとする
 姿勢が透けて見えてくるのである。
 思うが あたかも事実であり、真実であるかのように見せかける。
 公平に異なった立場の事実を並べるという報道の良識は もうそこにはない。

 テレビなどは 根っから報道の良識などどこを探してもない。
 視覚と聴覚を駆使した報道というものが それがあたかも真実であったかのように
 錯覚させ、人々に伝えることは容易である。
 一つの面だけを強調して見せるように情報操作をすれば、事実の片面しか見えてこない。
 嗅覚とか触覚というものは 快不快を含むから、なかなか騙しようがないが、
 視覚と聴覚は 簡単に騙されやすいものだ。

 現実への手がかり、足がかりを 視覚・聴覚に頼ることの多い今の日本人の生活の形は
 大変危険なものを含んでいる。

 視覚・聴覚に訴える広告から消費に走る、味覚に訴えて、グルメをあおる。
 強烈に視覚・聴覚に訴えてくれば、脳が麻痺して、判断を下すことも出来ないだろう。
 何かおかしいと訴えてくる第六感の力も失われ、世の中の情報の流れに身を任せていく日本人、
 怖いと言うより言いようがない。

 そんな折、民主党の小沢党首への攻撃が始まった。
 あることないことが でっち上げられ、マスコミを通じて流れていく。
 事実もデモも一緒くたになり、どこに真実があるのか 見極めようもないが、
 この政権交代可能な時期に来て、嘘も本当も分けもわからないまま、流されていく。
 真実であるかどうかを 確かめるには 五感を駆使し、第六感を使って、胡散臭さを
 嗅ぎ取るしか方法はないが、今の日本人には もうこうした能力は 失われている。
 裏では アメリカもかなり絡んでいると思うがどうだろう。
 田中角栄のロッキード事件のように。
 どうも小沢党首は アメリカにとっては望まれざる人間のように思うが、どうだろう。



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徒然なるままに | 03:03:40 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク チャオプラヤ川に御挨拶
バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 1

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 2

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 3

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 4

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 5

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 6

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 7

バンコク チャオプラヤ川に御挨拶 8

 バンコクの中心部のMBKセンター周辺だけに籠っているのも拙かろうと思い、
 今日は 折角バンコクに来ているのだからと思い、メナム チャオプラヤ
 (チャオプラヤ川)に挨拶に行くことにした。
 バンコクも もうすっかり夏の装いで 外の暑さを考えると 外を出歩くのも 
 腰を上げるのに ちょっとした決心が必要なのである。
 といっても 部屋にいても暑いのは同じことで、同じように暑いのなら、
 たまには外を動き回るのもいいかもしれない。

 いつものように 安物のデジカメ片手に 73番の冷房バスにのって、
 終点のサファン・プット(仏陀橋)へと向かった。
 バスを終点で下りて、サファン・プットの橋の上へと上っていく。
 何一つ 陽を避けるもののない橋の上では 太陽の陽射しも肌を突き刺してくるようだ。
 暑い、その言葉しか 頭に浮かんでこない。

 夏の厚い陽射しを浴びて 遠くに見える寺院や建物の屋根もきらきら光っている。
 風景はすっかり夏のものである。
 カトマンズのどぶ川のバグマティ川を見慣れた目には このチャオプラヤ川は 
 いかにも川らしく 優雅にも見える。水が伸びやかに悠々と流れている。

 橋の上に立ち止まり、川の流れと周りの光景を眺めていると 橋の向こう側の
 遊歩道を 二人の日本人の学生が 「地球を歩く」というガイドブックを片手に
 歩いている。
 そこまではいいが、チャオプラヤ川上流の景色が見たくなったのか、
 交通の激しい橋の車道を越えて こちら側に来ようとしている。
 ちょっと危ない判断である。さすがに危ないとわかったのか 諦めたようだ。

 橋を渡りきり、チャオプラヤ川の川辺に下りていくと さっきの学生が 
 向こうからやってくる。
 「どこに行くの」と尋ねると 「ワット・アルンまで行く」と言う。
 ここからだと随分距離があるから、「ちょっと遠いよ、道もわかりにくいよ」と言うと、
 「ワット・アルンに行くつもりで来たら、下りる場所を間違えてしまった」と言う。
 道順を説明しようとすると 「大丈夫です。わかります」と自信たっぷりで答え、
 「観光で来ているんですか」と尋ねてくる。
 「観光できているのは お前たちだろう」と言いたくなるが 「はい、そうですよ」と
 言って別れる。
 無事にワット・アルンに行き着くことを願うばかりである。

 私は観光客の向かう方向には向かわず、トンブリ地区の下町に向かって歩いてゆく。
 サファン・プットの下流のトンブリ地区は 現国王の母上の生家があったことで
 有名な場所で その生家のあった場所が公園になっている。
 雑然とした街並みの中では オアシスのような場所で 私の好きな場所でもある。
 まずはそこを目指して歩いた。

 公園の中に入ると ダイエットのためか 太り気味の人たちがのんびりランニングを
 している。
 本当は 私も仲間入りしたほうがいいのだが、この暑さの中では遠慮したい。
 木陰のベンチに座り込んで、仲間同士で世間話をしている老人たちの仲間入りを
 する方がいい。
 この公園、決して広くはないが 緑がふんだんにあるのが嬉しい。
 大木もたくさんあって 木の精霊たちに囲まれているような気持ちになるから 
 不思議である。
 あまり、観光客には知られていない隠れた名所である。
 ここで私も一休みである。



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バンコクを歩く | 18:07:21 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団
カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 1

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 2

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 3

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 4

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 5

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 6

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 7

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 8

カトマンズ パチャリ・バイラブ寺院の楽団 9

 バグマティ川の岸辺にある二つのシバ寺院の裏手に バイラブ神(シバ神の破壊神と
 しての化身)を祭ったパチャリ・バイラブ寺院がある。
 随分古い寺院らしく その由来はリッチャビ時代(1500年前)あたりまで遡る
 ことが出来るようだ。
 この寺院のプザーリ(神様の世話をする人)はネワール族の農民カースト マハルザン 
 である。
 カトマンズにあるバイラブ神を祭ってある寺院では どこもプザーリは 農民カースト
 マハルザンのようである。

 又、この寺院の周辺には 多くの火葬場がある。
 カトマンズのネワール族の仏教徒のカーストや農民カースト、下位カーストの人々の
 ための火葬場で、その火葬場はカーストごとに異なっている。
 ヒンズー教を主に信仰するシュレスタ・カーストの人々は パシュパティナート寺院にある
 彼らの火葬場で火葬される。

 先日、このパチャリ・バイラブ寺院に行くと 寺院の一角から 宗教歌のようなものが
 耳に飛び込んできた。
 歌と楽器の音のするところに行ってみると、4人の男たちが トライアングル、手押し
 オルガン、シンバル、タブラを演奏しながら、唄うことに没頭していた。

 農民カースト マハルザンの人たちが演奏しているのかと思ったが、どうも使う楽器が
 違うようだ。
 カーストを尋ねてみると サイ・カースト(家畜の堵殺、肉を扱うカースト)の人たちだった。
 彼らが演奏している部屋の正面には 怒り狂った女神 カーリが 夫のシバ神を
 踏みつけているタンカが飾られていた。
 どうも彼らは 女神 カーリを讃える音楽を専門に演奏するようだ。
 ネワール族の最下位カーストのデオラ(魚とり、豚の飼育、汚物の処理をするカースト)
 の人々も バドォラカーリ(女神 カーリ)の祭られている寺院のプザーリである。

 ネワール文化の奥深いところは 包容力、受容力の深さ、幅の広さである。
 何でも取り入れるという貪欲さである。
 インドのヒンズー教では 純粋性を尊ぶあまり、排他的になってしまうし、
 インドから4,5百年前から入り込んできたネパールのバウン・チェットリ族にも
 同じようなところがある。

 ネワール族の文化は カトマンズ盆地の中に入り込んできた人々の持つ文化を
 どんどん 受け入れ、その混合によって発展してきた文化であるが、
 ネワール族の王朝 マッラ王朝時代のジャスティス・マッラ王によって、
 インドのカースト制を導入するあたりから、カーストが固定され、生き生きとした混合、
 融合の文化の傾向が失われ、次第に衰退の傾向に向かい、最後には ゴルカ地方の豪族 
 チェットリ族のプリティビ・ナラヤン・サハに征服される原因を作ってしまったようである。

 私としては 現在のネワール族の人々が 昔のネワール族の混合、融合の精神を理解し、
 再度、生き生きしたネワール文化の再生を望むものであるが 一旦固定してしまった
 カーストの枠を取り外すのは至難の業のようだ。

 ネワール族の大半を占める農民カースト マハルザンの人々は 今でも混合、受容の
 精神を残しているが、どうも上位カースト シュレスタ、サキャ・バジャチャーレの
 人々は カーストにこだわる傾向が強いようである。

 サイ・カーストの人たちの演奏を聴いて、寺の外に出ようとすると 
 変わった石造りの像が 眼に入った。
 通りかかりの人に訊くと 音楽の神様であると教えてくれた。
 音楽の神様は サラサティだと思って訊き返すと、サラサティはシタールの神様、
 この神様は 音楽全般にわたる神様だと言う。
 神様の名前を教えてもらったが、あまり長すぎる名前で忘れてしまった。



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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 02:25:44 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール バスの旅-01 ネパール編
ネパール バスの旅-01 ネパール編 1

ネパール バスの旅-01 ネパール編 2

ネパール バスの旅-01 ネパール編 3

ネパール バスの旅-01 ネパール編 4

 私が 外国で長距離バスというものを利用したのが 25年前のネパールでのこと
 だった。
 25年前に初めて外国生活を始めたのは ネパールのカトマンズからだった。
 当時のネパールのツーリストヴィザのルールでは 3ヶ月滞在したら、一度他国に出る
 必要があった。
 隣国といっても陸路で移動できる国といえば 当時はインドしかなかった。
 3年間 ネパールに住むつもりだったから、3ヶ月ことにインドで出国し、
 ヴィザを取り直すということは 避けることの出来ないものだった。
 最初の3ヶ月の滞在が終わりに近づき、インドへの出国が必要になり、
 その目的地をインドのダージリンと決めた。
 一番簡単な方法は ネパール・インド国境のバイラワ・スノウリへ行き、インドに
 出国し、再び、ネパールに入国する方法であったが、せっかくインドへ行くのだから、
 インド旅行も楽しもうと、ダージリン旅行を決めたのである。

 インドヴィザを取り、当時は必要だったダージリン入域パーミッションも取り、
 インド国境 カーカルビッタ行きのバスのチケットも予約した。
 初めてのインド行きであり、ネパールの長距離バスの経験だった。

 バスは 夕方の5時頃、カトマンズを出発した。予定ではカーカルビッタには
 13時間後の翌日の午前6時過ぎには 到着するはずである。
 このバスというのが 時代物のインドのタタ製のバスで、形だけのリクライニング
 シート、快適とは程遠いものだった。

 カトマンズ盆地の出口であるタンコットのチェックポストを過ぎて、バスが下りに
 入ると 辺りは夕闇に包まれ、時は夜の闇の世界へと向かっていた。
 カトマンズ盆地を出ると 見渡しても 電気の明かりなど見ることは出来なかった。
 遠くに明かりらしきものが見えても それは電気の明かりではなく、家々の夕べの
 食の用意のための燃える火だった。
 それ以外は 全くの暗闇だった。
 カトマンズ盆地の中を除けば、盆地の外は まるで 江戸時代にでも迷い込んだような
 気持ちがしたものである。

 途中の停留場所 ムグリンまでそんな暗闇の世界が続いた。
 ムグリンに バスは30分ほど停車し、乗客はそれぞれタカリ族の経営する食堂で
 ダール・バート・タルカリ、それに地鶏のカレーのネパール定食を食べることになる。
 このムグリンのタカリ族の作るダール・バート・タルカリは 美味しかった。
 25年前からタカリ族の作るダール・バート・タルカリは 健在だったのである。

 ムグリンまでは スムーズにバスの旅は進んでいったが、ヘタウダという南ネパールの
 東タライ地方の入り口を過ぎたあたりから、様子がおかしくなってくる。
 バスが30分ごとに止められ、乗客と荷物のチェックが始まったのである。
 夜行バスなのに30分おきに乗客と荷物のチェックがあるのでは 眠れたものではない。
 30分おきに5分、10分と停車するようでは バスもスピードを出せない。
 こんな状態がカーカルビッタまで続き、カーカルビッタに到着したのは 午前9時、
 バスの旅は なんと17時間に及んだのである。

 カトマンズに帰ってから、話を聞くと カトマンズでバスが出発した日、王宮のゲート、
 アンナプルナホテルなどの何箇所が爆破され、そのためにチェックが厳しくなったと
 いうことだった。
 まだ若かった時代であるから、おんぼろバスでの17時間の旅も耐えることが出来たが
 今では 到底 無理だろう。
 こんな目にあったら、疲れで2,3日は旅どころではないだろう。

 17時間のおんぼろバスを降り、ネパール側で出国手続き、インド側で入国手続きを
 済ませ、ジープで次の街 シルグリへと抜け、そこから 山の町 ダージリンへと
 向かうバスに乗り込み、2時間以上かけて、カルシャンという小さな町に到着した。

 初めてのバス旅行が こんなひどい状態であったから、このあと経験するバス旅行が
 すべて大して過酷なものだとは思えなくなったのは 怪我の功名である。

 ネパールには鉄道というものがないのだから、カトマンズ盆地から地方、インドへの
 旅行は インドのタタ製の使い古したおんぼろバスに頼るより仕方なかった。
 このバス、上り坂に弱く歩くような速さで カトマンズ盆地へと上っていくのである。
 これには あきれ果ててしまったものだ。

 ネパール滞在の3年間 ネパール・インド往復をこのおんぼろバスで 
 何度 繰り返したことか。
 その間 バス事故の多いネパールのバスの旅であるが、1度のそんな目に合わなかった
 ことだけでも運が良かったと言っていいだろう。


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エピソード | 14:30:31 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ
カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 1

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 2

寺院と映画ロケ 03

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 4

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 5

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 6

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 7

カトマンズ 川辺のナラヤン寺院と映画ロケ 8

 バグマティ川の上流探索を終え、自転車を押しながら、いつもの私の散策コースの
 一つであるラナ家独裁制時代に ラナ家によって建てられたナラヤン寺院の前まで
 帰ってきた。

 ラナ家独裁制時代に建てられた寺院に祭られているヒンズー教の神様は シバ神、
 そして、ナラヤン神(ビシュヌ神の化身)、あとは 数は多くないが ラーマ王、
 クリシュナ神などもいる。
 寺院の形も インドのものを模しているといった感じが強い。
 チェットリ・バウン族が重要視する神様と カトマンズ盆地土着の民族 ネワール族の
 重要視する神様は 異なる。

 ネワール族の場合は パルバティ(シバの奥さん)が重要な神様であり、バグワティ、
 バールクマリ、カーリーと名前を代え、いたるところにこの神様を祭った寺院がある。
 もう一人の重要な神様は シバとパルバティの子供であるガネーシャ信仰も根強い。
 他には シバ神の化身 破壊神 バイラブ神もカトマンズのネワール族の重要な神様で
 カトマンズの大きな祭り インドラ・ザットラでは 大きな役割を果たしている。

 この川辺のナラヤン寺院 ラナ家によって建てられたが 今から60年前のラナ家
 独裁制が終止符を打たれてから 荒廃していくばかりである。
 私がこの寺院の周辺が好きなのは 崩れ行くものの持つ美のようなものを感じるから
 である。

 前置きが長くなったが、このナラヤン寺院の外では ネパール映画のロケが行われて
 いた。
 邪魔にならないところに自転車を置き、その様子を眺めていると、その中のスタッフが
 私に話しかけてきて、この映画の監督は 日本人であるという。
 よくこんな場所を見つけたものだと感心した。
 日本人スタッフは 日本人監督と助手の二人のようだった。
 話を少し聞くと、ネワール族の女性作家によって書かれたラブストリーを映画化する
 とのことで、俳優はネワール族の俳優かと思ったら、タマン族のハンサムな30を半ば
 越えた俳優だった。
 この日のカットは ナラヤン寺院の前を悩ましげに歩く主人公の姿だった。

 このナラヤン寺院の人間模様を眺めにやってくる自分にとっては 映画のロケという
 せいか、なにやら場面にしっくりこないうそ臭いもののように見えた。

 異国に身を置いて生活するということは 自分が映画の中にいるような気持ちに
 なることも多い。
 カトマンズにいると 毎日毎日が 新鮮な発見の連続で飽きることがない。
 人々との会話、生き生きとたくましく生活するカトマンズ庶民、表情豊かな子供たち、
 どれをとっても 映画以上に心を動かすものが多い。
 こんな中にいると 映画など見ようという気にはならない。
 架空の映画の世界より、現実のカトマンズの人々の姿の方が はるかに映画的である。

 カトマンズ庶民やその子供たちが何を感じ、どんな思いの中で生活しているのか、
 民族やカーストの違いの中で生まれてくる生活感情、軋轢、貧富の格差、幸福のあり方、
 喜怒哀楽、そんなことを見つめ続けていると 飽きることはないカトマンズでの生活であるし、
 このバグマティ川の岸辺には 多くのドラマがあり、人々の多様な生き様がある。

 この世界は 映画以上に魅力的なものだし、視覚と聴覚だけを使う世界と違って、
 五感と第六感を使う世界であり、ざらざらとした手触りのある世界である。
 ラブストリーより この川辺に住む人々や朝夕の寺院、川辺の風景や人々の生活場所を 
 ドキュメント映画にするほうがはるかに感動的で面白いだろうと思いながら、
 この映画のロケ地を後にした。



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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 02:23:46 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 旅の行方
バンコク 旅の行方 1

バンコク 旅の行方 2

バンコク 旅の行方 3

バンコク 旅の行方 4

バンコク 旅の行方 5

バンコク 旅の行方 6

バンコク 旅の行方 7

バンコク 旅の行方 8

 カトマンズでも3年間の生活、その3年間の間に繰り返したネパールからインドへの旅
 穏やかな安定した3年が過ぎて 22年前 バンコクに再びやってきたときには 
 そのあまりの違いに驚いてしまったものだ。
 平和で牧歌的な刺激のないカトマンズの生活から一変して バンコクの亜熱帯の世界は
 あまりに刺激的で 刹那的な世界だった。
 泊まった宿が 中華街の中のジュライホテルということもあったのかもしれない。

 通りには屋台があふれ、深夜の12時を過ぎても眠ることのないバンコクの街、
 カトマンズであれば、夜の9時、10時を過ぎれば 街は闇に包まれ 眠りに入る。
 通りの安宿の前には 娼婦たちが屯し、中華街の中には 冷気茶室と呼ばれる置屋も
 数多くあった。
 バンコク一の繁華街 パッポン通り、タニヤ通り近辺も 無秩序、無法地帯の有様で
 バンコクという社会は どうなっているのかと驚くばかりだった。

 かたや カトマンズというのんびりとした日常が何一つ変化することのない当たり前の街、
 かたや バンコクという人間の欲望がむき出しになった街、同じ地球の中にあって、
 こうも違うものかと 驚くことばかりだった。

 25年前のトランジットの一夜も 驚く世界だったが じっくり眺めてみると 
 その人間の欲望に応えるための場所が バンコクのいたるところにあるのは 
 これも 驚きの一つだった。
 そうした欲望を求めてやってきた日本人の牙城が ジュライホテルであり、楽宮ホテル、
 台北ホテルだった。

 22年前の日本帰国をはさんだ暑いバンコクの4月、5月の夏を 私はバンコクで
 過ごした。
 日本帰国の際に 友人から貰った井上陽水のテープが その当時私が 安宿の一室で
 繰り返し耳にしていた音楽であり、そのテープは 確か 『陽水Ⅱ センチメンタル』 
 というアルバムだった。

 暑い 暑い4月、5月のバンコク このテープの中の曲を聴くと 当時のバンコクの
 街の姿、バンコクの街の中をひたすら彷徨していた自分の気持ちと姿が 甦ってくる。


     かんかん照り
       作詞・作曲 井上陽水

  やけついた屋根がゆらいで見える
  お日様は空であぐらをかいて
  スズメ達はやけどをするのが恐いのか
  どこかに隠れている

  水道の水が「ぐらぐら」たぎり
  セッケンはすぐに「どろどろ」とける
  恋人はレモンのジュースを作るのに
  困った顔してる

  いやな夏が Uh Ah
  夏が走る Uh Ah

  帽子を忘れた子供が道で
  直射日光にやられて死んだ
  僕の目から汗がしたたり落ちてくる  
  本当に暑い日だ

  動かない事が一番いいと
  ねころんでいても汗ばむ季節
  恋人はやさしくよりそってくるけれど
  心も動かない

  いやな夏が Uh Ah
  夏が走る Uh Ah

  あつい夏が Uh Ah
  夏が走る Uh Ah


  かんかん照り 井上陽水
  http://www.youtube.com/watch?v=3m_S1SYtpGQ


 この曲を聴くと ゲーテのファーストの冥界めぐりのような気持ちで 
 暑い夏の焼けつく陽射しの中を バンコクの路地裏を、スラムの中を 
 夜の歓楽街を歩き回ったことが 昨日のことのように思い出されてくる。
 それはどれもこれも危険な匂いの漂う場所だった。
 それだけに魅力的な場所だったのかもしれない。

 私が よく通った線路上に並んでいたバラック建てのスラムは姿を消し、
 クロント・トーイのスラムも放火による火災のため 今は 姿を変えた。 
 そして 住んでいた人々も何処かへ消えてしまった。



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徒然なるままに | 18:23:58 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備
カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 1

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 2

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 3

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 4

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 5

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 6

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 7

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 8

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 9

カトマンズ 二つのマチェンドラナートの祭りの準備 10

 カトマンズでは バイサーク(大体4月15日~5月15日)という月に入ると 
 二つの大きな祭りを迎える。
 その祭りの名前は マチェンドラナート、この祭りには カトマンズで行われる
 セト・マチェンドラナートとパタンで行われるラト・マチェンドラナートの二つがある。
 お祭りは カトマンズのものが先行し、3週間遅れでパタンのものが始まる。

 マチェンドラナートというのは 仏教の観音様の化身らしく、雨をもたらし、作物の
 豊穣を司る神様のようだ。
 この祭りの中心は ネワール族の仏教徒カーストのサキャ、バジャチャーレの人々と
 農民カースト マハルザン(ネワール語でジャプー)の人々が中心になって行われる。
 この祭りの基礎は カトマンズ盆地にネワール族が住み始めた2千年頃前に造られた
 ものだろう。

 カトマンズ盆地に住む人々は 乾季の4月、5月の暑い夏の最中、雨の恵みを神様に
 お願いし、1年の作物の豊穣、社会の安全・平和を願って、マチェンドラナートの
 神様を乗せた山車を引っ張り、町中を練り歩くのである。

 私がカトマンズに滞在していた3月中、その祭りの準備がカトマンズ盆地の中では 
 着々と進められていた。
 カトマンズでは タパタリにあるラナ家の創始者 ジャンバハドール・ラナが建てた
 ナラヤン寺院の広場で パタンでは バグマティ川の川辺に近いサキャ・カーストの
 人たちが建てたイェンピ・マハビハールの裏で 神様を乗せる山車の木製の車輪が
 新しく作られている。

 カトマンズの車輪は バクタプールのシラパカールと呼ばれるネワール族の木工職人
 カーストの監督の下に 南ネパールのインド系の木工職人の手で、パタンのものは 
 ネワール族のバーライと呼ばれる寺院やこうした山車の木工芸を行う木工職人の手で
 造られている。

 1本の大きな樹を切り出し、それにプザ(祭儀)を施したあとに 製作が始まる。
 3週間ほど祭りの時期の早いカトマンズのものは 車輪の形を成し、製作も終了に
 近づいていたが パタンのものは 製作が始まったばかりだった。

 前回のセト・マチェンドラナートの際には 山車が倒れ、その1年 不吉なことが
 起こると予想されたが、案の定、王制は廃止され、ネパールの暦の1年の終わりも
 近づき、人々は水不足に苦しみ、雨の不足からの電気不足による停電で苦しんでいる。
 その上、物価高も庶民の生活を直撃している。

 物価はこの1年で2,30%以上高騰しているにもかかわらず、政府は インフレ率は
 10%以下にして公示するように指示しているという。

 自然の恵みからも見放され、粗末な政治からも見放され カトマンズ庶民たちは
 踏んだり蹴ったりの1年だったようだ。

 2月26日から計画停電も1日14時間から7時間に半減されるという話があったが、
 最近では 逆に 停電時間が増え、16時間を超えているようだと話に聞く。
 そのうち18時間になるのではという噂も実しやかに流れているようだ。

 国民の生活に無関心な政治家たち、賄賂・汚職の機会に目を光らせている官僚、
 拡がるばかりの貧富の格差、こんな人間たちの悪行を見ていれば、マチェンドラナートの神様も
 天の恵みを与えようという気にもなるまい。

 多くの神々の棲む街 カトマンズは ひどい環境汚染の中にある。
 こんな街からは 神様たちも逃げ出したくなるのは 当然だろう。

 ラト・マチェンドラナートの祭りについては 次の記事を参照にされたし。

 http://asiancloth.blog69.fc2.com/blog-entry-416.html

 http://asiancloth.blog69.fc2.com/blog-entry-417.html



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カトマンズ 街の風景 | 01:13:28 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 旅の形
バンコク 旅の形 1

バンコク 旅の形 2

バンコク 旅の形 3

バンコク 旅の形 4

バンコク 旅の形 5

バンコク 旅の形 6

 バンコクを始めて訪れたのは 25年前の3月の終わりの暑い盛りだった。
 ネパールへ行く途中の1日のトタンジットで 一夜バンコクで過ごしただけだった。
 泊まる場所も空港で見つけたタクシー任せ、夜のバンコク案内もこのタクシー任せ、
 何が何やらわからぬまま、一夜が明け、翌日には ダッカへと向かった。
 タクシーの運転手の案内で 夜のバンコクを見物したのであるが、
 なんとも いかがわしい雰囲気のあふれた街であることに驚愕したものだった。

 私が再びバンコクを訪れるのは ネパールのカトマンズでの3年間の生活を終え、
 日本に帰国する途中に寄ったバンコクが 2度目のバンコク訪問で泊まったのは
 ジュライホテルだった。
 それ以来、インド、ネパールへ行く途中の行き帰りに寄っているから、バンコクの
 空港に降り立ったのは 百回以上になる。

 22年前に訪れたときは 初めてのバンコク訪問のときと違って、インド、ネパールの
 旅で 充分に旅の経験を積んでいたので あまり戸惑うこともなかった。
 やっとバンコクやタイをじっくり得る機会を得た。
 そんなときに 井上陽水の歌をよく聴いた。
 初期の井上陽水の曲が バンコクの持つ雰囲気に合っているようにも思えたし、
 その当時の自分の気持ちにも合っているように感じられたからだろう。

 井上陽水の曲の中にこんなものがある。
 アルバム 『陽水Ⅱ センチメンタル』の中に入っているものだ。

   冷たい部屋の世界地図
          
         作詞・作曲 井上陽水

  はるかなはるかな見知らぬ国へ
  一人で行く時は船の旅がいい
  波間にゆられてきらめく海へ
  誰かに似てるのは空の迷い雲
  潮風に吹かれて何も考えず遠くを見るだけ

  やさしさがこわれた海の色はたとえようもなく悲しい

  汽笛をならしてすれちがう船
  こんにちはの後はすぐにさようなら
  見わたすかぎりの地平線の
  かなたにあるだろう僕の行く国が
  とびかうカモメは陸が近いのを
  教えてくれる

  はるかなはるかな見知らぬ国へ
  ひとりでゆく時は船の旅がいい


  井上陽水  冷たい部屋の世界地図 
http://www.youtube.com/watch?v=w_A6eudpRo0

 旅の始まりは この歌のような形が理想的なのであろうが、こんな旅情を味わえる
 こんな旅の形は 戦前に 詩人 金子光晴が 中国、東南アジアを経て 巴里に向けて 
 船旅をした時代のもので 今 船旅をしたとしても 港に寄港する楽しみも 
 一昔前のものとは違ったものだろう。 

 外国への旅は 今では 飛行機が 当たり前で 旅の情報は日本を出る前に集める
 必要があるし、飛行機の中での渡航先の情報集めは難しい。
 同じ飛行機に乗っていても 全くの見知らぬ他人同士のままで、お互いに異国に旅に出て
 不安だろうから、助け合いましょうという気持ちはさらさらない。
 飛行機が空港に到着したらしたで 先を争うように入管に行き、大急ぎで預けた荷物を
 受け取り、タクシー乗り場を目指す。
 
 そして、街の中心部までの交通の確保に神経を使い、異国に着いたという
 実感が生まれてくるのは ホテルに荷を降ろし、一段落着いてからである。
 なんともあわただしい旅の形である。
 この殺風景な感じが 年々ひどくなり、『袖すり合うも他生の縁』『旅は道連れ』などと
 いう言葉は死語に等しくなっている。

 世の中が世知辛くなれば、旅の形も世知辛くなる。


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徒然なるままに | 12:42:37 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって
カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 1

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 2

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 3

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 4

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 5

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カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 7

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 8

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 9

カトマンズ 自転車で バグマティ川上流に向かって 10

 毎日のようにバグマティ川の川辺を散策しているうちに このバグマティ川の
 上流のどの辺りまで行けば、汚れきった川の水が川らしい水の流れになるのか
 興味が湧いてきた。
 まだこうした好奇心とそれを確かめる体力が残っていることを嬉しく思う。
 カトマンズの街の中心部に行くには あまりに混雑が激しく、あまり利用することが
 なかった自転車に空気をいれ、朝8時に家を出て、バグマティ川沿いに造られた
 大通りを バグマティ川上流に向かって自転車を走らせた。

 カトマンズとパタンに架かる橋の下を潜ると 左手に 1年ほど前から出来始めた
 川辺のスラムが見えてくる。
 そのスラムを横目に見ながら、自転車を走らせると 道は舗装道路から砂利道へと
 変わってゆく。
 いくらマウンテンバイクの体裁をしているとはいえ、タイヤなど普通の自転車と
 変わらず、大した安定感はない。
 アメリカの造成した川辺の公園の横を通り、私の好きなナラヤン寺院のある区域に
 入ってゆく。
 バグマティ川の水は 当然汚いままである。
 ナラヤン寺院の近くに架かる小さな橋を渡り、パタン側からカトマンズ川に入る。
 ここまでは私のいつもの散策のコースである。

 カトマンズ側の川に沿った道を上流に向かって進んでいくと、川が二つに分かれている。
 一つはどぶ川のような細いもの、もう一つは本流のように見えた。
 その川の分かれ目の丘の上にネパール人の若者がいたので 
 「バグマティ川の上流はどこか」と尋ねると 
 小さな細い川の流れを指差し、大きな本流の方はマノハラという川の名前だと言う。
 ネパールでは 川のことを ナディと言ったり、コラと言ったりする。
 このマノハラはコラと言われている。
 小さなどぶ川のようなバグマティ川の上流に向かっても、再び街中に入っていき、
 パシュパティナート寺院方面に向かうだけである。
 これでは面白みがない。

 バグマティ川本流のように見えたマノハラ川の上流に向かうことに決めた。
 川に沿って 自転車を走らせ、カトマンズを囲むように造られたリングロードを超えて
 しばらく行くと いつの間にか川沿いの道はなくなり、先に進めなくなってしまった。
 近くの新興住宅の中の細い道の中をぐるぐる回っているうちに やっと川辺に
 出ることが出来た。
 しかし、そこは今までのような街並みの風景ではなく、のびのびとした田園風景が
 広がる場所だった。
 しかし、カトマンズの中心部から10キロほど離れたこの田園地帯の周辺では
 宅地造成がどんどん進行しており、この田園地帯も早晩 住宅地域に変わって
 いくのだろう。

 川の水も きれいとは言えないまでも どぶ川のあの黒ずんだ色ではなく、茶色っぽい
 水の色で、川の岸辺では その川の水を使って女たちが洗濯をしている。
 その向こうには 広々とした畑地も広がり、農民たちが 畑仕事に精を出している。
 すぐ近くには 竹と萱で組んだ温室のようなものがある。
 ネパール人に聞くと きのこ栽培をしているという。
 バグマティ川の川辺のバラック建てのスラムを見慣れていた私にとっては、
 一瞬スラムかと見間違えてしまった。
 カトマンズの市場で売られている平茸やマッシュルームはこうした場所で作られるのだ。

 田園地帯の中の道をゆっくり走り抜けていくと、再び川に出合ってしまった。
 女たちが洗濯をしていた小川のような川ではなく、川らしい川であり、
 車の行き来できる立派な橋もかかっている。

 橋の下の川の中州の中で ネパールの南部タライ地方からやって来た家族が 
 砂利を集め、生活の糧を稼いでいる。
 日長1日の重労働で得ることの出来る収入は、2,3百ルピー 家族5人が
 生活するにはやっとの額だ。
 食べる ただそれだけの生活である。
 この川の名前は ハヌマンテ川 水量はないが それなりの川幅はある。

 わかったことは バグマティ川は カトマンズ盆地を流れる一つの川ではなく、
 カトマンズ盆地の中のいくつかの川が集まり、カトマンズの中心部で一つの川に
 なっているということだ。
 なんともあっけない幕切れだった。

 今度は バグマティ川下流に向かって パタン側の川沿いの道に向かって 
 自転車を走らせ、帰路へと向かった。
 ここに至るまで 3時間の時間を要してしまった。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 02:25:26 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク どんどん暑くなるバンコク
バンコク どんどん暑くなるバンコク 1

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バンコク どんどん暑くなるバンコク 8

 雨期に入るまでの3月から5月までは 気温はうなぎのぼりのバンコクである。
 ここ何年かは この暑い時期は バンコクを避け、ネパールのカトマンズにいたように
 思う。

 朝も11時を過ぎると 部屋の中にいても暑さを感じるようになる。
 こんな時は あえて外に出て 昼飯でも食べに行くことにしている。
 朝昼兼用の昼飯である。
 アパートを出て 運河を渡り、このあたりの下町へと向かう。
 運河に架かるサファン・フア・チャンの橋の上から 運河を眺めると、
 今までサンセーブ運河では見かけたことのなかったごみ収集船が ゴミを集めている。
 1ヶ月前は センセーブ運河の水はどす黒く濁り、悪臭すら漂わせていたが、
 今は 水の量も増え、その濁りも以前ほどではない。
 どうもチャオプラヤ川の水門を開け、川の水を引き入れているようである。
 運河の水がきれいになったといっても 東京の運河の水のように澄んではいない。

 橋を渡り、アジアホテルの横を左に曲がり、このあたりの下町情緒の残る界隈に
 入っていく。
 いわゆるこのあたりの下町の繁華街の通りの一本手前の通りに入り、そこから路地に
 入り、市場の中に入っていく。
 その路地は 長屋のようになっており、暑いバンコクのこと、どの家も開けっ放しで
 人々が ご飯を食べていたり、仕事をしていたりの姿が眼に入ってくる。
 路地を抜けると そこは市場になっている。
 野菜、肉、惣菜と料理に必要なものは ここで何でも揃えることが出来る。
 今日は 地鶏と並んで 丸々と肥えた蛙の皮をむいたものが売られていた。
 昔、田舎で食用蛙を捕まえては 父親が 醤油につけて あぶって食べていたことを
 思い出した。
 私も食べたことがあるが 鶏肉のような味わいだった。

 市場を抜けて 目抜き通りに向かうと 中国正月の名残か、簡易な中国廟が造られて
 おり、京劇めいた舞台も設えられていた。
 今日のお目当ては 牛煮込み麺である。
 目抜き通りがペチャブリ道路とぶつかる通りの入り口に 昔ながらの姿を残している
 中国人の牛煮込み麺の店がある。
 醤油味のスープの中に麺を入れ、煮込んだ牛の内臓、牛肉、筋肉と一緒に食べるものだ。
 今日は センミー・ナーム ヌア・プアイ・ヤン・ディアオと注文して、ビーフンと
 牛肉の煮込みを入れてもらう。
 朝昼兼用だから、2杯も食べてしまった。
 1杯30バーツ、2杯食べ、冷茶を飲んで 62バーツ ちょっと贅沢をしてしまった。

 満腹したところで、のんびり路上で売られている果物を見て歩くが、私の好きなソム・
 サイ・ナーム・プン(蜂蜜入り蜜柑)も時期も終わりに近づき、値段も高い。
 この時期は 私の好きな果物が少ないのだ。
 マ・カム、大きなギャバ、スイカ、マップラーンと呼ばれる枇杷のような果物もあるが、
 値段を聞くと、1キロ200バーツ、高いと声を上げると、産地のナコンナイヨクでは
 300バーツだと言ってくる。
 予算外の値段、仕方がないので 小さなスイカ半分を20バーツで買い、手にぶら下げ、
 イスラム教徒の集落 バーン・クルアの中を通って家に帰る途中、古い民家の前を
 通り過ぎようとすると、家の中から知り合いのおばあさんが 
  「どこに行ってきたの」と声をかけてきた。



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徒然なるままに | 12:40:36 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 川辺のラーマ寺院と井戸
カトマンズ 川辺のラーマ寺院と井戸 1

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カトマンズ 川辺のラーマ寺院と井戸 8

 今年のカトマンズの水不足は 例年になく、ひどい状態である。
 自宅を持たない間借り住まいのカトマンズ庶民たちは 洗濯、食事後の洗い物の
 水を求めて右往左往している。
 政府から供給される5日ごとの1時間の水道水の供給では 焼け石に水といった
 状況だ。
 その上、春から夏にかけての季節も変わり目に降る雨も降らず、いきなり季節は
 夏へと突入してしまった。

 降らない雨は 街のところどころにある救いの神であったドゥンゲ・ダーラ(マッラ
 王朝時代に造られた石造りの共同水場)にも大きく影響を与え、水の出ないドゥンゲ・
 ダーラも増えてきている。
 土地付の家を持つ金持ちたちは 井戸を掘り、地下水を汲み上げ、水不足に対応して
 いるが、貧しい庶民たちの間借り生活では そんなことも出来ない。
 水の手に入る場所では どこでも庶民たちの人だかりである。

 バグマティ川の岸辺に沿って散策していると 水の湧き出る場所を利用して、
 洗濯に精を出す人々の姿を見かけるのが カトマンズの風物詩と行っても良い。

 バグマティ川のカトマンズ側には 水の湧き出る井戸が少なく、あっても湧き出る水の量が
 少なく、狭い水場で 押し合うように洗濯している人たちを見かける。
 私はいつも顔を出す川辺の寺院 シバ寺院の近くに ラナ家が150年前に建てた
 インドの叙事詩 ラーマーヤナで有名なラーマ神を祭ったラーマ寺院がある。
 その先に広場があって、その広場のすぐ下の川べりに 小さな水場がある。
 朝から夕方まで 洗濯する人、水を汲みに来る人で絶えない水場だ。
 混みあうと 水場が空くまで 広場に座り込み 順番を待っている人も大勢いる。

 その広場には 水の出る二つの井戸があるが 錠がかけられており、
 水不足に苦しむ庶民には 解放されていない。
 この二つの井戸が この広場のすぐ近くにあるラーマ寺院のもので 
 寺院のためにしか使用が 許されていないのである。
 バグマティ川の岸辺には チェットリ・バウン族の支配体制を確立したサハ家、ラナ家 
 の建てた寺院、火葬場が多くある。
 特に寺院は 民衆のためにというより、自らの権力の誇示のために建てられ、
 民衆の信仰とは遠いものだった。

 ネワール族のマッラ王朝時代に建てられた寺院などは 今なお、カトマンズ庶民、
 特にネワール族の人々に支えられながら、生き続けている。
 寺院の造りも 誰でも入りやすく、近くにはドゥンゲ・ダーラと呼ばれる水場も
 造られ、寺院のすぐそばが 庶民の憩いの場にもなっている。

 ネワール族の信仰の形、すべての人々を受け入れるという姿勢が 寺院の姿にも
 現れているのに対して、王室寺院であったパシュパティナートを頂点したサハ家、
 ラナ家の建てた寺院は 信仰の純粋性を強調して、すべての民衆を受け入れるものでは
 なかった。

 その信仰の形、姿勢というものが 寺院の衰退にも大きく影響を与えている。
 サハ家、ラナ家の寺院を訪れてみても 王室寺院であったパシュパティナート寺院を
 除けば、ほとんど参拝者の姿がないというのが 現状である。
 こんなところにも チェットリ・バウン族による支配体制が 民衆とともにあったものでは
 なかったことが、証明されている。

 水不足で困っているカトマンズ庶民の姿を見ても 水の穢れを嫌って、井戸を
 解放しない信仰とは何か、チェットリ・バウン族の作り出した信仰とは 
 何であったのか、疑問も湧いてくるのである。
 どうもチェットリ・バウン族には 受容・寛容の精神に欠けるようである。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 01:17:27 | Trackback(0) | Comments(0)
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