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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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カトマンズ もう1つの祭り‐3
カトマンズ もう1つの祭り‐3 1

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カトマンズ もう1つの祭り‐3 3

カトマンズ もう1つの祭り‐3 4

カトマンズ もう1つの祭り‐3 5

カトマンズ もう1つの祭り‐3 6

カトマンズ もう1つの祭り‐3 7

 インドラ・ザットラの祭りに対する政府の予算削減に発したカトマンズの先住民族
 ネワール族のゼネストも インドラ・ザットラの終わりとともに終焉に向かっている
 ようだ。
 ダサインの祭りを2週間後に控え、ダサインの準備のためのネパール人の購買意欲が
 盛り上がっている時、毎日のようにゼネストを実行されては、ニューロード、アッサン・
 バザールに多くの商店を持つネワール族の商店主も痛手である。

 今回の騒動は マオイスト主導の政府を混乱させるために 裏でネワール族の中から
 選出された野党ネパール国民会議派の国会議員によって扇動されていたようにも思える。
 カトマンズのデモや抗議運動は 政党から日当が出て、そのお金目当てで人が繰り出
 されるという話をよく聞くが 中心になって動き回っている若者たちを見ていると
 そんなことも見え隠れしている。

 デモ1つ見ても散発的で盛り上がりも見せず、治安警察隊と若者たちとの
 いたちごっこのような有様で、商店主も店を開けていると嫌がらせをされることを
 恐れて 店を仕方なく閉めているというのが実情のようだった。

 240年前に ゴルカから侵略者 プリティビ・ナラヤン・サハによって、
 カトマンズのネワール族の築き上げていたマッラ王国を征服され、被支配民族になり、
 耐えがたきを耐えてきたネワール族であるが、新しい支配者ゴルカ王朝の支配下で
 生き残るためにネワール族の結束を造り上げてきたが、それが他民族を排他的に
 見下すという姿勢や利権に対する過剰な関心を生み出してきたことも事実である。

 ゴルカからプリティビ・ナラヤン・サハが カトマンズ征服のために
 カトマンズにやってきたときには カトマンズのマッラ王国は 三つの王国に分かれていた。
 カトマンズ、パタン、バクタプールの三つの王国である。
 その三つの王国は それぞれに重要な大きな祭りを持っていた。
 カトマンズは インドラ・ザットラ、パタンはラトー・マチェンドラナート、
 バクタプールは ビスケット・ザットラ、これはカトマンズ盆地の中の三大祭りと
 言ってもよいだろう。

 カトマンズのマッラ王国の王ジャヤ・プラカース・マッラに代わって、
 ゴルカ王朝の本拠地としてカトマンズを選んだナラヤン王は、プラカース王の始めた
 王に対する生き神様 クマーリのティカを継承することで、自分がカトマンズ盆地の
 中の最高統治者であることを権威づけたのである。
 人口的には圧倒的に優位を示すネワール族懐柔のために 
 インドラ・ザットラを利用し続けてきた。
 それはネワール族にとっては 屈辱の歴史でもあったはずだが、
 新しい国王に取り入ることで、利権を手にしたネワール族も
 少なからずいたのも確かである。

 そうした利権を持つ一部のネワール族は ネワールの伝統文化をつぶすための
 新政府の予算削減だとけしかけているようにしか思えない。

 インドラ・ザットラのネワール族にとっての歴史的な意味を見れば、
 それが時の統治者によって、如何に政治的に利用されていたのかは明らかである。
 インドラ・ザットラが今回の処置によって、本来のネワール族の祭りに戻るなら
 それはむしろいいことである。
 生き神様クマーリは その年のネワール社会に最も貢献した人物にティカを授ければ
 いいのである。

 良識を持ったネワール族の知識人、知恵者は もっと正しくネワール族の歴史を
 民衆に伝えていかなくてはならない。
 インドラ・ザットラの祭りを再び、政治的な場に引き出すことなく、
 本来の民衆の祭りとして再生させていかなくてはならない。



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カトマンズ 街の風景 | 22:46:01 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち
川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち 1

川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち 2

川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち 3

カトマンズ 川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち

カトマンズ 川辺の子供たち‐5 河川敷の広場の子供たち 5

 バグマティ川に架かる橋の周りには それぞれ 子供たちの縄張りがあるらしく、
 子供たちは 別の子供たちの縄張りの中に入っていかないようだ。
 それは大人たちの縄張りなのかもしれない。

 バグマティ川の河川敷には 子供たちがクリケットやサッカーを楽しむことの出来る
 広場があり、その近くには 洗濯の出来る井戸や湧き水の出る場所がある。
 この広場には インドからやって来た廃品集めの子供たちやゴミ捨て場で生活する
 子供たちはやっては来ない。
 何か暗黙の了解のようなものがあるようだ。

 この広場の中に入っていく途中で 広場のすぐ外にある雑木林の中に 
 一人で寂しげに佇んでいる13,4歳の少年がいた。
 棒を手に持っているが、牛の姿も見えず、牛の世話をしているわけでもなさそうだ。
 「何をしているの」と尋ねても はっきりした答えは返ってこない。
 カーストについて訊くと 「ポリヤール」と答える。
 ポリヤールというのは、別名ダマイと呼ばれ、縫製の仕事を主にするカーストであり、
 ヒンズー教のカースト区分によれば、スードラに属する低カーストであり、
 ネパールでは 低カーストのダリットと呼ばれている。
 平日であるにもかかわらず、学校に入っていない。
 家で仲たがいでもあったのだろうか、表情が寂しげである。

 彼に別れを告げ、広場の中に入っていくと 井戸があり、
 そこでは 3人のインド人のような顔つきをした子供たちが、大声をあげて、
 ふざけ合いながら、自分たちの衣類を洗っている。
 「どうして学校に行かないの」と訊くと 
 「今日は着ていく制服がないから、こうやって洗っているの」と笑いながら答える。
 「お母さんは洗ってくれないの」と訊くと
 「お母さんは 手術をしたばかりで洗濯できないの、だから自分で洗っているの」

 インドからカトマンズにやって来て、間借りをしながらも生活できるようになった
 親の子供たちだ。
 お金にゆとりが出来れば、安い私立学校ぐらいなら、親も子供たちを学校に通わせる
 ことぐらいは出来る生活レベルの子供たちだ。
 貧しいということにはかわりない。
 貧しさにも 豊かさにも様々のレベルがあるのが世の中だ。

 井戸を離れ、広場に向かって歩き始めると 芝の上に洗濯物が広げられ、
 日に当てて干してある。
 そのすぐ近くに赤い服を着た少女が立っている。
 顔つきを見ると、やはり情熱的なインド人の顔である。
 インド映画にも出てきそうなそんな雰囲気を持つ少女だ。
 カメラを構えると、何も言わないのに 勝手にポーズを取っている
 おしゃまな女の子である。
 洗った洗濯物の番をしていたようだ。
 この少女と話をしていると、彼女のおばあさんらしき女性が 
 何事かと心配してやってきた。
 少女はネパール語が話せるが、おばあさんはヒンディ語しか話せない。
 話を聞いていると このおばあさん 洗濯を仕事にしており、
 芝の上に干している洗濯物は彼女の顧客のもののようだ。
 頼まれて洗濯の仕事をするものを ネパールやインドでは ドビと呼んでいる。
 昔は 洗濯の仕事は ドビと呼ばれる低カーストの人たちの仕事だったが、
 今は 生活に困った人たちの仕事になりつつある。

 少女は おばあさんの洗濯の手伝いに 一緒にこの広場にやってきたようだ。
 未来のインド映画、ネパール映画のヒロインにでもなれば、面白いと思うが、
 それは、夢のまた夢で 彼女がそこに辿りつく道は どこにも見えてこない。
 富を持たないものの成功への道は 針の穴より小さい。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 12:39:22 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐29 交通
アジアの街角 1枚の写真から‐29 交通

 バンコクは 昔から交通渋滞で有名な街である。
 BTSの高架電車、地下鉄がまだ出来ていなかった頃は、
 バンコク市内の移動は、公共バス、タクシー、トゥクトゥクに限られていた。
 夕方の渋滞の折には たった1キロの移動に30分もかかるというのも
 当たり前のことだった。
 今でも、スクムビット道路など、夕方になると相変わらずの渋滞である。
 ただ、BTSの高架電車が出来たおかげで、これを利用すれば、時間通りに
 移動は可能であるが、冷房バスの2倍の料金で、誰でも利用できるものではない。

 20世紀初めまで、バンコクの交通の中心は 運河だった。
 人の移動も、物の移動も すべて運河に頼っていた。
 もともと沼地であったバンコクは、運河を造ることは、難しいことではなかった。
 隣国との戦争のたびに、戦争捕虜を連れ帰り、運河造りに従事させることも出来た。

 それが道路を利用した陸上交通に変わってきたのは、
 20世紀初めのラーマ6世の時代からである。
 タイの近代化が始まるラーマ6世の時代までは運河造りは行われていたが、
 ラーマ6世の時代には、道路造りが盛んになり、運河の上に橋をかけ、あるいは、
 運河をつぶし、主要な運河を除いては、交通の用を為さなくなっていった。
 第2次世界大戦以後、運河は使用されないことで、段々ドブ川に変わっていったのは
 今のバンコクの運河を見れば、明らかである。

 1980年以降の経済成長の中で、多くの幹線道路、高速道路も造られていったが、
 人口増加と車の増加には、追いつかないのが現実だ。
 日本の大半の自動車メーカーもタイでの現地生産を始め、車の増加には歯止めが
 かからなくなっている。
 月賦販売も生まれ、無理をすれば、車を手に入れることも出来るようになったことも
 車の増加に拍車をかけている。

 あのバンコクの渋滞を見ていると、車を持つ生活が快適だとは到底思えない。
 タイ人にとっては、車を持つことは、一種のステイタスシンボルのようだ。
 自分の財力を見せ付けるには、車を運転することが手っ取り早い。
 車の車種でも 人々は、人を判断する。
 ベンツ、ボルボ、日本車、韓国車と それによって、人の力を見ようとするし、
 見せようとする。
 車の増えてきたネパール、インドでもそんなところがある。

 地方への人々の移動もツーリストバスを利用し、大量輸送の可能な鉄道は、
 ここ30年間、発展してきた姿はなく、昔のままである。

 ガソリン高騰の今、タイはどういう方向転換をはかっていくのか、興味のあるところだ。
 ガソリンからガス利用へと、転換しているようだが、この程度では、問題は解決しないだろう。
 今出来ることといえば、不必要な車の使用は避けることぐらいだろうが、
 見栄っ張りのタイ人が、車の使用をひかえるとは考えられない。
 便利さだけでなく、そこには、見栄という心の問題も含んでいるのだから。

 しかし、車を造り、それを売る、そして道路を造るという政策自体が、
 もう限界にきているのだろう。
 資源は有限、経済成長は無限というのは、論理的に成り立つことではない。


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アジアの街角 1枚の写真から | 01:35:37 | Trackback(0) | Comments(2)