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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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懐かしい風景‐01 寺院の上の人たち
懐かしい風景‐01 寺院の上の人たち

 この世界には 激しく変わっていく風景もあると思えば、二十年一日のごとく
 変わらない風景もある。

 パタンの町からカトマンズにやってくると よく通りかかるのが インドラ・チョークだ。
 インドラ・チョークで道は二つに分かれ、一つは外国人旅行者の集まるタメル地区へと
 向かい、もう一つは アッサン・バザールを抜けて、アッサン・チョークへと向かう。

 このインドラ・チョークには 昔からの小さな寺院があり、昼間には 
 そこを商いの場所にして、インド、ネパールの安価なウールショールが売られている。
 その商人たちの一人のネパール人は 20年前からの私の知り合いである。
 20年前は 私ももっと若かったし、彼も同じように若かった。
 その頃から 私の生活も代わり映えもしないが、彼も同じように同じやり方で
 同じ商売をしている。
 この場所を通りかかるとき、互いに顔を見合わせ、笑顔で挨拶するし、
 気が向けば、私もこの寺の上に上がって、人の流れを眺めてみたり、彼と話をしたりもする。
 時には甘いミルクティー(チアー)をご馳走になることもある。
 いつも この寺院の上に上がれば、「チアー カネ(お茶を飲むかい)」と訊かれるが、
 あまり商品が売れていないようだと、「今、飲んできたばかり」と言って 遠慮してしまう。

 カトマンズの外の村から出てきて 20年以上も この場所でこつこつと商いをしながら、
 未だに土地も買えず、家も建てられない間借り生活の彼である。
 結婚し、子供を育て、学校にやることだけで精一杯だった彼の20年である。

 カトマンズにやってくるようになって もう25年になる。
 街の姿は ずいぶん変わってしまったけれど、人々の持つ人懐っこさは健在だ。
 東京であれば、人間同士のかかわりは 求めようとしなければ、なかなか得られないが、
 カトマンズは、そこにいるというだけで、自然に人とのつながりが出来てくるという
 不思議な町である。

 ネパール人は 日本人は金持ちであるという先入観を持っているから、
 確かにそれを目当てに近づいてくる人間もいないではないが、人と人との距離がない
 という面は旅行者を惹きつける大きな魅力のようだ。

 日本で道を歩いている人に声をかければ、怪しがられることも多いし、
 道を訊くぐらいが関の山だが、ネパールでは、小さな問いかけから、話が発展し、
 弾んでくることは当たり前のことである。
 決して豊かに生活しているわけではないが、人と人のかかわりにゆとりを
 感じさせるものがある。
 お金がなくても追い詰められているといった雰囲気がないのである。
 明日はどうにかなるさという楽観主義は 一体どこから生まれてくるのか、
 不思議でならない。
 そんなカトマンズから東京にやってくると 暗い気持ちになってしまうのは
 どういうわけだろう。
 人間が 幸福感を感じることとは どういうことかと考えざるを得ない。
 日本にやってくるネパール人たちは 一体 日本でどういった気持ちで
 生活しているのだろう。


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懐かしい風景 | 09:14:22 | Trackback(0) | Comments(3)
バンコク バンコクから東京へ‐3
 何時間かうつらうつらしているうちに 航空機は日本上空に差し掛かる。
 腹の足しにもならないサンドウィッチとコーヒーが出る。
 食べ終わると 千葉上空に近づき、降下体勢に入っていく。
 そして着陸、もう何の感慨も湧いてこない。
 入管を済ませ、税関を抜け、まずは空港の外にある喫煙所へ直行、タバコ吸いには
 どんどん世知辛くなる日本である。

 喫煙所の中にいた若者に話しかけると、中国人の若者だった。
 日本でコンピューターのシステムエンジニアーとして働いているらしい。
 休暇を利用して、上海に遊びに行ってきたらしい。
 出身地は大連だと言う。
 礼儀正しい人懐っこい若者で話をしていて気持ちがいい。

 タバコを吸って、京成電車に乗ると、隣に座った人間がこの中国人の若者である。
 彼も船橋で乗り換えるというのでそこまでおしゃべりが弾む。
 途中で彼が 「彼があなたは日本人ですか」と尋ねてくる。
 どうも日本人とは見られていなかったようだ。
 彼によれば、インド人かと思ったという話である。
 何がそう思わせたのか、私には日本人らしさはなくなっているのだろうか。
 いわゆる今の日本人の持つ雰囲気はないのかもしれない。

 船橋で彼を別れ、国鉄の船橋駅へ 総武線に乗り換える。
 電車に乗ると、電車の中の日本の若者たちのほとんどが 携帯電話を使って、
 メールのやり取りをしている。
 携帯電話への依存度が帰ってくるたびに 大きくなっているようだ。
 アジアの他の国からやってきた私にとっては いつもながらに異様な光景として
 目に映る。
 そして、今回の日本滞在の2ヶ月、どう適応していこうかと考える。
 私の日本での居候先のある駅で下り、家へと向かう。

 周りの景色を見ていても、自分とは無縁の世界のように思えてくる。
 もう10年近くに渡ってこの場所に帰ってくるというのに、この地に根付いていない
 こととは こういうことだということが よくわかる。
 まったく困ったものである。

 部屋に入って、コンピューターにスウィッチを入れてみると、うまく起動しない。
 どうもハードディスクが 壊れたようである。
 OSの入れ替えをしてみるが、うまく行かない。
 2,3時間近くいろいろ試してみるが、駄目で、新しくハードディスクを買い、
 始めからの入れなおしになってしまった。
 店に行ってみると、ハードディスクは年々安くなっている。
 IDEの320GBのものが 8千円である。
 昨日の睡眠不足の中で、朝の三時近くまでコンピューターと取り組むことに
 なってしまった。


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徒然なるままに | 09:11:25 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク バンコクから東京へ‐2
バンコク バンコクから日本へ‐2 2

バンコク バンコクから日本へ‐2 1

 午前4時半過ぎの空港の中は 普段でも照明が充分でなく、暗い感じなのに
 この乗客の少ない時間帯では、閉まっている店も多く、近代建築を網羅した
 この空港は ますます素っ気なく感じられる。
 何でこんな温かみのない味気ない空港を造ったのか不思議でならない。

 前の国際空港 ドンムアン空港は 見送りの人、国を離れる人とそこに情愛が
 感じられたものだが、そんな感情を交し合うことができるような空間もない。
 使う人の立場に立って造られた空港ではないことが つくづくわかる。

 ノースウェスト航空の搭乗待合室に向かって通路を歩き始める。
 行き交う人の姿もまばらで、下の階のエスカレーター近くの椅子の上では
 朝のフライトを待つ人々、トランジットの人々が眠り呆けている。

 搭乗待合室に行って座り込んでいると、多くの乗客たちが入ってきて、
 このフライトが満員に近い状態であることがわかる。
 アメリカの航空会社だけあって、アメリカ人の乗客が多く、日本人、タイ人が
 それに続く。

 席に座っていると 私の対面の席に 日本の若い女の子が二人座り込む。
 一人は普通のスカート姿、もう一人は太もも丸出しのショートパンツ姿、
 二人で互いに記念写真と撮っている。
 そこまではよかったが、ショートパンツ姿の女の子が 胡坐をかいてみたりして、
 絶えず足を動かしているので 目のやり場がなくなってしまう。
 早速の日本の洗礼を受けてしまった。
 バンコクでも特別なサービス業の女の子もそんな格好をするが、立ち振る舞いは
 もっと注意深い。
 あまりに鬱陶しいので 別の場所に移る。

 搭乗の案内が始まり、機内に入っていく。
 窓側の通路に接した席だ。
 隣に誰が座るのかと思い、待っていると 顔つきと服装を見ると日本の若者、
 日本語も話すので 日本人かと訊ねると ビエンチャンのラオス人だった。
 日本在住5年で 日本の大学で電気関係を学んでいるらしいが、今は学費を稼ぐのに
 休学して学費を稼いでいるようだ。
 働き場所は 東京にあるタイレストランだ。
 話を聞いていると どうも有機農法をラオスでやりたいようだ。
 南ラオスのチャンパサック地方に農地があるらしいが、親戚にそのまま貸している。
 来年当たり、日本人のヴィザのルールも変わり、長期滞在もできるようになるらしい。
 それよりも日本食の技術を身につけたほうが 役立つように思えるがどうだろう。
 そんな話もしてみたが、そっち方面には興味はないらしい。

 話をしているうちに朝食のサービスが始まる。
 前回 乗ったときもそうだったが、貧相な食事である。
 20年近くまえに ノースウェスト航空を利用したときには 幕の内弁当が出て
 感激したことが 嘘のようだ。
 小さな四角い容器に白いご飯と豚肉の炒め物が入っているだけだ。
 それと果物と丸いフルーツケーキ、ヨーグルト、ただ食べ物ですよというだけだ。
 超大国アメリカの航空会社が これではさびしい限りである。
 国際線航空機も ただ人を荷物のように運ぶ乗り物になってしまった。

 席の前の取り付けられているモニターで映画でも見て時間をつぶそうかと思ったが、
 どういうわけか、音声部分が壊れていて、見ることはできても、聞くことはできない。
 こうなったら 目を瞑って、寝る態勢にはいるだけだ。


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徒然なるままに | 08:04:07 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク バンコクから東京へ‐1
バンコク バンコクから東京へ‐1 1

バンコク バンコクから東京へ‐1 2

バンコク バンコクから東京へ‐1 3

バンコク バンコクから東京へ‐1 4

 カトマンズでもバンコクでも 移動する日が近づくと落ち着かない気分になる。
 部屋の片付け、移動のための準備、買い物などに時間を使っていると、
 すぐに夕方になってしまう。
 今回のフライトは 朝6時発のノースウェスト航空である。
 深夜 午前3時には部屋を出なくてはならない。
 これが実に厄介なことである。
 早寝をしようと思っても 結局眠ることはできず、睡眠をとることもできず、
 空港に向かうことになる。

 午前3時に部屋を出て、アパートの外に出てくると、雨、夜降り始めて雨が
 止んでなかった。
 とにかく 濡れながら バッグを引きながら とおりに出ると 待っていたように
 タクシーの運転手が旅行会社の軒下から飛び出してくる。
 あまりのタイミングの良さに驚いてしまい、猜疑心も湧き、警戒してしまう。
 スワンナブーム空港までの料金の交渉をすると、あっさり、300バーツと言って来る。
 350バーツまで出すつもりだったから、それはいいのだが、心配になる。

 雨の中、急いでタクシーに乗り込む。
 出身地を訊くと 東北タイのロイエットだと言う。
 奥さんはやはり東北タイのシーサケット、鶏肉のラーメンの屋台をやっている。
 そんなことを話しているうちにお互いに打ち解けてくる。
 タクシーが10分も走ると 雨はどこやら、夜空には雲もまばらで雨のあの字もない。
 どうも、私の住んでいる地域だけの雨だったようだ。

 空いている道路を走り タクシーは30分も経たないうちに 空港についてしまう。
 チップに50バーツを上乗せすると、タクシーの運転手は喜んでいた。

 空港の建物の中に入る前に タバコを一服と思うが、入り口の前にあった灰皿が
 なくなり、入り口から遠い場所にまとまって移動している。
 人の出入りの激しい場所から遠ざけたようだ。
 バンコク市内の人通りの多い場所での喫煙は禁止されたという話も耳にしている。

 タバコを吸い、ノースウェスト航空のチェックイン・カウンターへ行く。
 チェックインはもう始まっている。
 チェックインの前にいろいろ質問されて鬱陶しい。
 タイで仕事をしているのか、どうしてタイで航空券を買うのか、余計なお世話だが、
 まったく鬱陶しい。

 やっとのことでカウンターに行き、手続きをすると、通路側の席はないと言う。
 ごねていると どうにか通路側の席をもらうことができた。
 今日のフライトは混んでいるようだ。

 こんな時間帯のノースウェスト航空など使いたくないが、
 東京行きの往復航空券は この航空会社が1番安いのだから 仕方がない。
 それでも 21500バーツ、今日の日本円は 1万円で3700バーツ近かったはずだから、
 航空券の代金の支払いのころに比べると 300バーツも上がっている。
 1800バーツの損である。
 これだけのお金があれば、1階下のあるレストラン街で美味しいものが食べられたのにと
 恨めしくなる。
 そんなことを思いながら、出国手続きを済ませた。


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徒然なるままに | 10:29:25 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク そろそろ日本へ
バンコク そろそろ日本へ 1

バンコク そろそろ日本へ 2

バンコク そろそろ日本へ 3

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バンコク そろそろ日本へ 5

バンコク そろそろ日本へ 6

バンコク そろそろ日本へ 7

バンコク そろそろ日本へ 8

 2週間近いバンコクでの滞在も今日が最終日になってしまった。
 今のバンコクという街に馴染んでいくには、2週間という時間は短すぎるように
 思えるようになってしまった。
 年を取り それだけ適応性がなくなってきている証拠かもしれない。

 少しずつ心惹かれる街の姿が見え始めると、帰国が迫ってきているというのが
 今回の滞在だった。
 今日もいつもは歩くことのない路地裏を歩いてみた。
 大型マンションや大型オフィスビルに囲まれ手いる谷間のような界隈だった。
 そんなところにも人々は ひっそりと自分たちの生活を営んでいる。

 路上には屋台が並び、人々は当たり前の営みの一つとして、昼ごはんを食べている。
 人々の派手ではない、地味な静かな日常生活がそこにはある。
 センセーブの運河を越えた向こう側には 巨大ショッピングセンターがあるが、
 そんなモダンライフとは縁のない生活を送っている人たちである。
 こんな生活場所が バンコクの街の所々に点々としている。
 人が生活し、生きているという実感を 感じさせる場所でもある。
 そんな場所が年々と少なくなっているというのが バンコクの現状だ。

 バンコクの街には 光の当たる場所ばかりが目立ち始め、人々が心を落ち着けて
 生活するための影の部分がなくなり、人々の心も殺伐としたものになっている。
 その殺伐とした様相に 親政府派 連盟と 反政府派 連合との争いは
 拍車をかけている。

 どこで歯車が狂ってしまったのか、誰一人 気がつかないまま、
 バンコクの近代化は進展していく。
 今回の世界金融危機が 巨大都市 バンコクにどのような影響を与えていくのだろう。
 表通りばかりを飾り付ける今のバンコク、近代と非近代が並立しているバンコク、
 一体 どこに向かっているのか、誰一人 わからない。

 あまりに急ぎ足で進んできたバンコクに 人々も適応しきれずにいる。
 そんなバンコクの姿を見つめて生きたいと思うが、それは疲労を伴う作業でもある。

 さあ、これから日本、この場所も疲れる場所であることには違いない。


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徒然なるままに | 17:55:58 | Trackback(0) | Comments(2)
ネパールの布 ムスタンの絞り染めのジャケット
ネパールの布 ムスタンの絞り染めのジャケット

 ネパールのムスタン地方には 羊毛で織られている長さ3メートル近い
 マフラーのような布がある。
 そして、その羊毛の布には絞り染めが施されている。
 実際に使われているのは マフラーとしてではなく、羊毛で織られた布で作られた
 チベット服のベルトとして使われている。
 冬場になるとカトマンズにやってくるチベット系の山岳民族が 
 このベルトを腰あたりにぐるぐると巻きつけている姿をみかけたこともある。
 幅25センチくらいのものと幅15センチくらいのものと2種類ある。
 これらのものと同じベルトは チベットにもあるようだ。
 ただチベットのものが15センチ幅の狭いものしかないようだ。

 昔は ムスタンは ムスタン王国と呼ばれ、チベット国境を接していた秘境だった。
 後にネパールに併合されたあとも、ムスタン王国の国王は、ネパール政府から手当てを
 もらい、王としての地位を維持していたが、今の政府の方針で その王としての地位を
 廃止するようだ。
 チベットと国境を接していることから、チベット文化の影響も強く、羊毛布の絞りは
 チベットからその技術を取り入れたものかもしれない。
 チベットも、中国あたりから絞り染めの技術が入ってきたのかもしれない。

 そんな絞り染めの施された羊毛のベルトをたくさん手に入れたことがある。
 ごわごわとした手触りで、マフラーとして用はなさない。
 そこで、その布を使って、ジャケットを作ってみた。
 デザインがよくなかったのか あまり売れなかった。
 私としては 面白いと思っているのだが、世間の評価は別のようである。


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ネパールの布 | 02:31:51 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 路上で行商する人たち
バンコク 路上で行商する人たち 1

バンコク 路上で行商する人たち 2

バンコク 路上で行商する人たち 3

バンコク 路上で行商する人たち 4

バンコク 路上で行商する人たち 5

バンコク 路上で行商する人たち 6

 バンコクの路上の物売りたちを見ていると、皆、移動しやすいように荷車に品物を
 乗せて商いをしている。
 このスタイルは カトマンズでは ネパール・インド国境あたりからやって来た
 インド人たちが、自転車に積み込めるだけの果物や野菜を載せうるスタイルに
 似ている。
 ネパール人たちは路上に座り込んで品物を売っていることが多い。

 私も バンコクでは こうした荷車を使って果物を売り歩いている人たちから
 果物を買うことが多い。
 買い物に出かけ、帰りに買おうと思って、果物売りの居た場所に再びやってくると、
 もうどこかに行ってしまっていることもよくある。

 私の住んでいる通りにも 荷車を利用した物売りたちが良く行き来している。
 野菜を売る人、果物を売る人、東北タイ料理をその場で作って売る人、様々の人が
 通りにやってきては去っていく。
 こうした人たちのほとんどは 東北タイからバンコクにやって来た人々である。
 郷里について聞いてみると、スーリン、ブリラム、シーサケット、カラシン、
 ロイエット、ヤソトーンなど、東北タイでも幹線道路から外れた地域の人々が多く、
 幹線道路に接するコンケン、コラート、ウドン、ノンカイの人たちは少ない。

 最初は建築現場で働いていたのだろうが、頑張ってお金を貯め、実入りの良い路上の
 商いに代わった人も多いだろう。
 建築現場なら、技術がなければ、1日200バーツから250バーツぐらいにしか
 ならないが、こうした路上の商いなら、1日500バーツぐらいにはなる。
 バンコクに昔から住み着いている中国系タイ人なら、店舗を持っての商いも出来るが、
 裸一貫で東北タイの村から出てきた人たちが出来る商いは、こうした荷車を使った
 商いか、路上での東北タイ料理の屋台が精一杯である。

 果物好きの私は、荷車を引いてやってくる果物売りの常連である。
 いつも私の住む通りにやってくる果物売りの姿を見かけなくなった。
 どうしたのだろうと心配していたら、今日、散歩がてらにペチャプリ道路を歩いていたら、
 私の住んでいる通りから随分遠く離れたところで、ソム・サイ・ナムプーンという
 私の好きな蜜柑を売っていた。
 「こんなところで商売しているのか、どうしてやって来ない」と声をかけると
 笑っている。
 1キロ20バーツ、私の住んでいる通りにやってくる果物売りより5バーツも安い。
 買いたかったけれど、散歩の途中、諦めた。
 彼の売るものは安くて、質もいいので私のお気に入りで 
 いつもは 蜜柑なら、3キロぐらい買っている。

 彼は朝の3時、4時にボーベーの果物市場へ行き、果物を仕入れている。
 朝の10時過ぎに荷車を惹いて商いを始める。
 仕事が終わるのは夜の7時、8時過ぎまでである。
 果物売りは 皆そんな働き振りである。
 スーパーマーケットや市場より、彼らの売る果物や野菜の方が
 はるかに安くて、新鮮だ。
 私はこうした身体を使って商いをする行商の人たちが好きで、
 いつの間にか顔見知りになってしまう。
 彼らの姿には どこか東北タイの農民の持つ大地の匂いを感じさせるものがある。
 彼らに声をかけられると ついつい余分に果物を買ってしまう。
 果物が 部屋の中にあるというのは私の喜びの一つでもあるからだ。


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バンコク ある風景 | 11:18:33 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク 夕暮れから夜に向かう時
バンコク 夕暮れから夜に向かう時 1

バンコク 夕暮れから夜に向かう時 2

バンコク 夕暮れから夜に向かう時 3

バンコク 夕暮れから夜に向かう時 4

バンコク 夕暮れから夜に向かう時 5

 時々、セーンサーブ運河を越えて、イスラム教徒のチャム族の住む集落に夕食の惣菜を
 買いに行くことがある。
 フア・チャン橋を越えて、運河の向こう岸に渡り、橋の袂に降り立つと、目の前に
 水上バスの船乗り場 フア・チャン橋の上には 家路に向かう水上バスを待つ人々を
 見かける。
 皆、1日の仕事を終え、家路に向かう人たちである
 バンカピ方面に行くなら、陸上のバスを利用するより この水上バスを利用する方が
 時間がかからない。

 バンコクの街は 運河を利用した交通から発展した街であり、陸上交通の歴史は浅い。
 そのことから、昔からバンコクの運河沿いには多くの人々が住んでいたが、陸上交通が
 主流になり、運河を利用した交通が蔑にされてくると、バンコク市内に住んでいても
 陸の孤島になってしまうこともある。
 運河を走る水上バスは 運河沿いに住む人々にとっては救いになっている。

 そんな貴重な運河であるが、今年の運河の水の汚さは、半端なものではない。
 去年の今頃は、このセーンセーブ運河の水も少しはよくなり、バーン・クルアの
 チャム族の子供たちもこの運河の中で泳ぎを楽しんでいたようだが、この汚さの中では
 その臭さに鼻をつまむだけだ。
 政治の混乱は 行政の仕事にも支障をきたしているようだ。
 チャオプリヤ川の水門を閉じているために、汚水はこの運河からの行き場を失っている。
 カトマンズのバグマティ川の汚染のひどさも目を覆うものがあるが、バンコク市内の
 運河の汚染のひどさも同様の姿である。
 過度の人口増加の中で 行政はなす術もないといった有様だ。

 日本も3,40年前の東京の運河もひどいものだったが、今は魚が住めるぐらいには
 回復し、運河沿いは市民の憩いの場になっている。
 そこまで至るのに30年以上の月日を要している。
 それも経済成長という恩恵の下にである。
 国が近代化を進めていく中で 必ず通る道筋であるが、タイやネパールでは
 どうなのだろう。
 タイも見ていても、どこまで経済成長が続くというのだろう。
 贈与税、遺産相続税、固定資産税のないタイでは 富裕層は優遇されている。
 金持ちは 何か起こらない限りは その富を安全に護ることができる。
 今バンコクの大半の金持ちは バンコク市内には住まず、バンコク郊外に
 広大な敷地を持つ豪邸に住んでいる。
 運河が汚染されようと 彼らにとってはかかわりを持たないことだ。
 彼らにとって、バンコク郊外からバンコクにやってくる際の高速道路の整備の方が
 関心のあることだ。
 ベンツに乗ってバンコク市内にやってきて、ナイトライフを楽しんで再び、
 バンコク郊外に帰っていく。
 バンコクの一般庶民の生活からあまりにかけ離れ、庶民の生活の実態などには
 関心などはない。
 お金が入ってくるような投資であれば、いくらでもお金を投資するが、
 お金にならないバンコクの運河の浄化などには興味はない。

 この薄汚れた運河から数百メートルも離れていない場所には 今ではバンコク最大と
 入ってもいいような消費センター地区がある。
 東急MBKセンター、ディスカバリセンター、サイアムカフェ、サイアム・パラゴン
 デパート、ワールド・トレードセンター、伊勢丹、そごうと バンコク市民の消費を
 誘う一大消費センターである。

 汚染されたセーンセーブ運河という裏通りと、
 華やかなバンコク最大の消費センターという表通り、
 まさにバンコクの光と影の部分である。
 高々3百メートルの距離の中で 光と影が交差するバンコクとは 
 どういった街なのだろう。
 モダンな近代的な設備を持つ家に招待され、その家のトイレを借りると
 汲み取り式トイレだったといった感じである。
 何年、バンコクにいても この感覚にはなれることが出来ない。


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バンコク ある風景 | 10:14:07 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータンの布 ブータン布で作った作務衣
ブータンの布 ブータン布で作った作務衣 1

ブータンの布 ブータン布で作った作務衣 2

ブータンの布 ブータン布で作った作務衣 3

 もう20年も前のことだ。
 ブータンの野蚕の手紡ぎのセタと呼ばれるキラを使って、
 作務衣を作ってもらったことがある。
 目の詰まった厚地のシルク布だったので縫うのは大変だったと思われる。
 手縫いであったから、余計である。

 カトマンズにもって行き、何度か袖を通したが、あまりに目立つのでカトマンズで
 着ることは諦めてしまった。
 ブータン布が目立つのではなく、作務衣という服の形が目立つのである。
 本来、目立つことは好きではないので この作務衣はしまいこんでいた。
 世界に一つしかない作務衣である。
 日本では 作務衣は藍染め布と決まっているが、どうして ブータンの野蚕の
 シルク布の作務衣もなかなか洒落ていて貴重なものなので、ブログで紹介することに
 した。

 日本では作務衣は藍染め布というのが定番であることから、
 多くの工芸家が青染めの作務衣を着ているが、少なくとも工芸を目指すものが 
 藍染めの作務衣というワンパターンではステレオタイプで情けないのではと思う。

 ブータンの野蚕の手紡ぎシルクで作った作務衣なら、どこに着ていっても自慢できる。
 その人間の趣味の深さが見えて、彼の創る作品まで 素晴らしいものに見えてくるはずである。
 そんなことを勝手に思っているがどうだろう。


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ブータンの布 | 02:03:51 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 路上を眺めて
バンコク 路上を眺めて 1

バンコク 路上を眺めて 2

バンコク 路上を眺めて 3

 バンコクの街中の路上を眺めていると、ついついカトマンズのことを考えてしまう。
 ネパール政府が 今週の水曜日までにカトマンズ、ラリトプル、バクタプルの歩道の
 露店を撤去するという決定をし、2,3日前から警察を使って、撤去作業を進め、
 場所によっては、警察とのいざこざも生じていたようだ。
 私が カトマンズ滞在中、よく通った場所はどうなったのだろう。
 皆、他に仕事がないから、路上での商いをしているぎりぎりの生活をしている人たち
 だったが、マオイスト主義政党も政権の中枢に入ると、弱者に眼を向けることから
 遠ざかっていくようである。

 ネパールの政治の中枢にいるのは バウン族(ヒンズー教カーストの最高位に属する
 僧侶階級)、彼らは自分たちの血族にしか興味を示さない。
 自分たちより下のカーストは 自分たちに奉仕するのが当然であると思っている。
 インドのカースト制は基本的には様々のカーストを含んだコミュニティを持っており、
 その中でバランスを保っているところもある。
 この形は、カトマンズの先住民族 ネワール族のカースト社会に近いものだろう。

 ネパールのヒンズー教徒のカースト、特にチェットリ、バウン族のカーストは 
 そうしたコミュニティを持たない。
 4,5百年前から イスラム勢力との戦いに敗れ、ネパールに入り込んできた
 チェットリ、バウン族は ネパールに国境を接するインド側の様々の地域から
 入り込んできているから、バウン族、チェットリ族間の血縁関係はない。
 インドのベンガル州、ビハール州、ウッタル・プラディッシュなどインドの各地から
 ネパールに入り込んでいる。
 身軽にネパールに入り込めるカーストの人間といえば、支配者であったチェットリ、
 バウン族であり、武器を作る鉄職人カミといわれるカースト、カサイと呼ばれる屠殺カースト、
 ダマイと呼ばれる縫製職人を伴ってネパールに逃げ込み、農業を営むカーストの
 人たちはインドにそのまま止まっているはずである。
 その役割を押し付けられたのが、ネパールの先住民族 マガール、グルン、タマン族
 などである。

 ヒンズー教の高カーストであった彼らにとっては、ネパールの先住民族は、
 文化程度の低い扱いやすい人間に見えたのだろう。
 チェットリ族は武器を使い、バウン族は口を使い、先住民族を支配していったのだ。
 240年前にカトマンズのネワール族を征服したあとも、王族に群がるチェットリ族、
 バウン族優先の支配構造は ますます先鋭化していく。
 多民族を理解し、その文化を尊重するということなく、ヒンズー教によるカーストに
 よる支配を確立し、先住民族も政府の職(下級公務員、下級兵士、下級警察)を
 得るためにはヒンズー教への改宗を装うことが必須のことだった。

 ラナ家独裁専制時代には、ライ・リンブー族、グルン族、マガール族を
 イギリス軍に 傭兵グルカ兵として送り込み、莫大なお金を手にしたのである。
 ラナ家独裁専制時代に建てられた王宮の数々は グルカ兵の命と引き換えに
 手にしたお金によって建てられたものだ。

 チェットリ、バウン族による支配は、力による支配であり、民族融和をいう視点は
 持たなかった。
 彼らにとってコミュニティとは血族関係のみであり、血族が違えば、バウン族、
 チェットリ族であってもつながりを持たない。
 官僚、軍、警察の職に チェットリ族、バウン族を優遇することで成り立ってきた世界である。
 それ以外の民族はあくまで被支配者階級であったのである。
 バウン族、チェットリ族が 他の民族と結婚するなどということも ほとんどなかったのである。

 そうした身分制社会に反旗を翻したのが マオイストであったが、政党の党首であり、
 首相であるプラチャンダ氏も バウン族であり、やはり、バウン族の習性を併せ持っており、
 時折 バウン族優先主義が見え隠れしている。
 彼を支えるNO・2も同じくバウン族である。

 これでは 王政を支えたバウン族からマオイストというバウン族に権力が移ったに
 過ぎない。

 貧しい人々に新たに職を与えることなく、路上から追い出す、これでは従来の政府と
 同じことである。
 きっとバグマティ川沿いのスラム住民に対しても 同じような追い出しを図るのではと
 心配にもなる。


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バンコク ある風景 | 13:51:32 | Trackback(0) | Comments(2)
アジアの街角 1枚の写真から‐50 リンブー族の老人
アジアの街角 1枚の写真から‐50 リンブー族の老人

 カトマンズにいるときには 午前中 カトマンズのバグマティ川に沿って、
 散歩することが日課のようになっていた。
 パタン側のバグマティ川の河川敷を利用して造った広場の横に 
 公園というにはあまりに貧弱な公園があり、休日になると近所の子供たちが
 戯れていたり、大人たちがバトミントンのゲームを楽しんでいたりする。
 その公園の中に入っていくと、3歳ぐらいの幼児を抱きかかえた一人の老人に出会った。
 その老人の歳はといえば、65歳前後と思えた。
 眼が合ったので挨拶を交わし、少し話をしてみることにした。
 顔つきを見ると、ネワール族かと思ったが、尋ねてみると
 リンブー族ということだった。

 ネパールでライ・リンブー族といえば、ネパールでは最も古い先住民族といわれ、
 彼らのことをキラティとも呼んでいる。
 今から2千年以上も昔に このカトマンズ盆地に 最初に王国を創り、
 その王国の名前はキラティ王国と呼ばれているが、
 そのあとに現れるリッチャビ王国との戦いに敗れたのか、
 今では、ネパールの東の山岳部にからダージリン、シッキムあたりに
 多く見られる民族である。
 彼らの信仰もキラティと呼ばれる土着信仰で、その祭儀の際には、飼っている豚を
 彼らの神様に捧げる。
 仏教、ヒンズー教が主流のネパールにあって、独自の土着宗教を守り続けているのは
 さすがである。
 民族の誇りがそうさせるのであろうか。
 織物、刺繍の技術にも優れ、非常に集中力に優れる民族でもある。
 ライ族もリンブー族も多くの部族から成り立ち、各部族の持つ言語は微妙に異なり、
 部族が異なれば、言葉が通じないこともあるという。

 ライ・リンブー族で忘れてはならないことは、
 イギリスの傭兵 グルカ兵としての彼らの役割である。
 今から150年前のネパール・イギリス戦争でネパール軍の勇猛さを見せ付けられた
 イギリス政府は ラナ家専制時代にネパール軍兵士をイギリス軍の傭兵として
 雇い入れるようになる。
 数ある民族の中で選ばれた民族が ライ・リンブー族、グルン族、マガール族である。
 彼らは命令に忠実で死を恐れない。
 第2次世界大戦の際、ビルマからインドに向かう日本軍をインパールで苦しめたのも
 このイギリス傭兵のグルカ兵である。

 ネパールの貧しい山岳民族にとっては唯一の収入の道が グルカ兵という職業だった。
 ラナ家はネパール兵士をイギリスの傭兵として売り渡すことで、莫大な収入を得たが、
 イギリス軍の前線に立ち、一体どれだけのグルカ兵が命を落としたのか計り知れない。
 給与も正規のイギリス兵に比べ、はるかに低く、戦死してもその保障はイギリス兵に
 比べれば微々たるものであったらしい。
 それでも、ネパールに住むよりははるかに収入は良かったが、
 それはいつも死との隣りあわせだった。
 第1次世界大戦、第2次世界大戦では ネパールのグルカ兵の戦死者が多く出て、
 時の政府は、グルカ兵をイギリスに送り込むのに四苦八苦したらしい。

 この老人のふるさとは ダージリンと接するインド・ネパール国境地域メチ地方であり、
 イラムというネパールのお茶の産地である。
 彼の息子二人もグルカ兵であり、娘も元グルカ兵に嫁ぎ、香港で暮らしている。
 彼の生活費は 息子たちからの仕送りのようだ。
 抱きかかえていた幼児は 彼の孫だと思っていたら、後日、彼の息子であることが
 わかった。
 老いてもますます盛んな老人だった。
 しかし、彼の顔つきは、キラティ王国の末裔らしく、なかなか、威厳はあった。


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アジアの街角 1枚の写真から | 02:07:28 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク カトマンズぼけから抜け出せない
バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 1

バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 2

バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 3

バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 4

バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 5

バンコク カトマンズぼけから抜け出せない 6

 バンコクに到着して 3日目になったが、カトマンズの残像が 頭や心の中を
 占領していて、なかなかバンコクの生活に適応できないようだ。
 1ヶ月と言うカトマンズ滞在は 私にとっては短いもので、その短い期間に
 インドラ・ザットラ、ダサインの祭りとあわただしい行事も多く、
 街中を歩き回ることも多かった。
 カトマンズの街中が車や人にあふれ、自転車を使わず、徒歩で歩き回ったせいか、
 カトマンズで精一杯に生きる人々の姿にも触れることが多く、濃厚なカトマンズの
 空間に身を置いていたという気すらしてくる。

 路上でたくましく商いをしながら、生き抜いている人々、五感を思い切り作動させて
 生きている子供たち、今回のカトマンズ滞在は カトマンズの底辺で生きている人々の
 姿に密着してみた。
 そのインパクトが大きすぎて、未だにその影響力から抜けきることが出来ずにいる。

 カトマンズの街が 2千年の歴史を持ち、その文化の蓄積、そこで生きる人々、
 そして神々、そうしたものが 混然としてカオスのような世界を作り上げている。
 政治の形態がどう変化しようとも、簡単には影響を受けない世界だ。

 街でありながら、村的な世界も併せ持っている不思議な町である。
 カトマンズの先住民族 ネワール族の住む地域に行くと、何百年も前から
 続いてきた共同体のシステムが未だに残っている。
 カトマンズをネワール族から奪い取ったゴルカからの征服者 ゴルカ王朝の歴代の
 王たちもこのネワール族の強固な共同体を打ち壊すことは出来なかった。

 そんなカトマンズの街に 水道も電気もない村から 怒涛のような勢いで村人たちが
 カトマンズの街の中に 村の生活を持ち込んでくる。
 今、カトマンズの街のダイナミズムは エネルギーにあふれている。
 芋を洗うような人、人、人のカトマンズだ。
 街も川も大気も ゴミと人の排出物であふれ、狭いカトマンズ盆地は 
 人でどんどん膨れ上がっている。
 どうもその毒気にやられてしまったようだ。

 人間がその生地のままで生きているカトマンズからやってくると、
 バンコクの魅力も半減してしまう。
 日本が人間のダイナミズムを失ってきたように、バンコクも同じような経過を
 辿っている。
 人間の生の顔が見えなくなってきているのである。
 バンコクという街は もともと強固な共同体のないばらばらの世界だ。
 あえて共同体があるというなら、中国人社会とイスラム教徒集落、キリスト教徒集落
 くらいのものである。

 1932年の立憲革命までは バンコクは 王族と中国人、官僚たち、軍人、
 ラオス、カンボジア、パッタニー王国の戦争捕虜たちの住む街だった。
 立憲革命以後 人々の村からの移動の自由が許され、多くの人々がバンコクに
 入り込んでくるようになる。
 人々はてんでばらばらに入り込んでくるから、共同体など成り立ちようはない。
 それだけ、バンコクの人間関係は希薄なものだといえる。

 そういう社会にカトマンズからやってくると、何か物足りないのである。
 文化の持つ深みのようなものに欠けているそんな風にも感じられてしまう。
 カトマンズの2千年、バンコクの2百年、その歴史の重さの違いは大きい。
 その中で養われた人間関係は 濃厚で魅力的であり、興味は尽きない。


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徒然なるままに | 18:19:55 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク モダン・シティライフ
バンコク モダン・シティライフ 1

バンコク モダン・シティライフ 2

バンコク モダン・シティライフ 3

バンコク モダン・シティライフ 4

バンコク モダン・シティライフ 5

バンコク モダン・シティライフ 6

バンコク モダン・シティライフ 7

バンコク モダン・シティライフ 8

バンコク モダン・シティライフ 9

バンコク モダン・シティライフ 10

 今 サイアム・スクウェアといえば バンコクの中でモダンなシティライフを
 代表する場所である。
 BTS高架鉄道の二つの路線が交差するサイアム駅があり、ディスカバリー・センター、
 昔からのサイアムカフェ、その隣には 高級デパート パラゴンがある。

 東急MBKセンターを出発点にして、ラーマ1世道路をスクムビット方面に向かって
 歩いてみた。
 ディスカバリー・センターを見上げていると BTSの高架鉄道を2台の電車が
 走っていく。
 ディスカバリー・センターのそばの階段を下りて、ディスカバリー・センターの横を
 歩いていると、前をタイの女の子と手をつなぎながら、日本の若者が歩いていく。
 大丈夫ですかと少し心配にもなる。

 サイアムカフェを通り過ぎ、高級デパート パラゴン脇の階段を上って、パラゴンの
 2階のフロアに行く。
 デパートの2階フロアの周辺も余裕持って造られており、如何にもお金がかかって
 いますという感じだ。
 タイは 本当にこんなことでいいのかと不安も感じる。
 一部の人間に 富が集中している。
 バンコクのシティライフと地方の格差が 予想以上に開いているのではと感じてしまう。

 パラゴンの中を抜け、スクムビット方面側の出口に向かう。
 そこから、そごうデパートの先まで遊歩道が作られている。
 その遊歩道を歩くと、大きくなったワールド・トレード・センターの横を抜け、
 そごうデパートまで至る。
 この一帯は 一大消費センターになっている。
 この消費センターの建物も 出稼ぎの東北タイ農民の安い労働によって建てられたものだ。
 東北タイの出稼ぎ農民なしにどんな建築現場も成り立たない。

 この遊歩道を歩いている人たちの服装を見ても、ファッショナブルであり、
 如何にも中産階級以上といった様子だ。
 20年という月日の流れは すっかりバンコクを変えてしまい、驚きよりも
 溜め息の方が出てきてしまう。
 ここだけ見るなら、東京よりもモダンに見えてしまう。
 こんな状態が このタイで本当に続いていくのだろうか。
 どこかに落とし穴が あるように思えてならない。
 その一つの兆候が バンコクの政治的な混乱ではないかとも感じられる。

 すべての富をバンコクに集め、繁栄してきたバンコク、
 その影で地方農民は苦しい生活強いられている。
 バンコクにやってきている出稼ぎ農民とバンコク市民との生活の格差、
 バンコク市民は そのことに 眼を向けようとはしない。
 今回の政治的混乱が解決しないのも 自分たちの利権、富を護ろうとしているバンコク 
 の昔ながらの中国人を中心とした市民たちのわがままのようにしか見えない。

 このサイアム・スクウェア周辺の一大消費センターを見ていると、そんな思いになる。
 どう見ても こんな状態が普通であるとは思えない。

 そんな思いに駆られながら、やって来た道を帰ってくると、一本の樹が紅葉を
 迎えていた。
 紅葉なのか、排気ガスにやられたのか、こんな暑いバンコクでも紅葉があるのかと
 不思議な気持ちになった。


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バンコク ある風景 | 12:36:35 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐49 ある楽師
アジアの街角 1枚の写真から‐49 ある楽師

 ネパールのカトマンズに行ったことのある人なら、眼にしたこともあるだろう。
 ネパールの結婚のシーズンになると、街中で行われる結婚式のパレードを。
 赤い服を着た楽団を先頭に この日のために飾り付けられた花嫁・花婿を乗せた自動車、
 その後ろには大勢の親戚・縁者が 続いていく。

 その先頭で賑やかに楽器を打ち鳴らす楽団、その事務所をカトマンズの裏通りで
 見つけた。
 カトマンズの裏通りを散策していると、壊れかけている古い寺院を見かけた。
 近くにいたネパール人のおばさんたちに 何の神様を祭ってある寺なのかと
 訊いていると 一人の男がその会話を聞きつけ、暇つぶしに 会話に加わってきた。
 きちんとワイシャツとスラックスをはいた男である。

 何の仕事をしているのかと尋ねると 近くの建物にある事務所を指差す。
 彼と一緒にその事務所まで行ってみると 事務所の中には 多くの楽器が
 並べられている。
 結婚式の際に ネパール人がパレードに使う楽団の事務所だった。

 彼のネパールでのカーストは ダマイと呼ばれるカーストである。
 本来は 縫製の仕事を生業とするカーストであり、ヒンズー教の四つのカースト
 ブラーマン(僧侶)、クシャトリア(武士・戦士)、バイシャ(商人)、スードラ(職人)
 の中で、最下層に当たるスードラ・カーストにあたり、ネパールでは ダリットと
 言われている。
 カトマンズでは カーストに対する意識・掟は 随分ゆるくなってきているが、
 カトマンズを離れ、村に行くと昔ながらの掟がいまだに残っている。
 一緒に食事はしない、彼らの触った水は飲まない、家の中に入れない。
 彼らの持つ宗教的な穢れを嫌うためである。
 ダマイ(縫製)、サルキ(皮加工職人)、カサイ(動物の屠殺)、カミ(鉄職人)、
 チャミ・ポーレ(掃除人)などがいる。

 その中のダマイというカーストは 縫製とハレの際の楽団と言う二つの役割を
 持っている。
 結婚式の楽団として呼ばれると、1日につき一人当たり千ルピー(1600円)ぐらいに
 なるようだ。
 しかし、仕事は毎日あるわけではない。
 普段は ダマイと言われ、蔑まれている彼らであるが、結婚式と言うハレの舞台では
 彼らはパレードの先頭に立ち、一番目立つ存在になる。
 音楽的に言えば、それほどのテクニックは持たないが、太鼓、トランペット、
 クラリネット、トロンボーンと派手な音楽を 当たり一帯に吹き鳴らす。
 普段の憂さを晴らすように。

 昔、カトマンズ近郊の村に住んでいた頃、近所の子供たちが 何人かよく遊びに
 来ていた。
 その中に プルナという名のダマイ・カーストの子供がいた。
 素直ないい子であったが、遊び仲間の中に上級カーストの子供がいると
 その子供たちから、ダマイ、ダマイと馬鹿にされることもあった。
 その村はネワール族の村であったから、農民カーストのマハルザンの子供たちとは
 わけ隔てなく遊んでいたが、上級カーストのシュレスタの子供たちの中には
 強い差別意識があったようだ。

 何ヶ月か前に この村に行ってみたが プルナの家族が住んでいた家の近くを
 通ったが、その家は跡形もなく、なくなってしまっていた。
 彼の父親には、何枚かシャツを縫ってもらった。
 そのプルナも 今では、30過ぎになっているだろう。
 どこかの楽団でラッパを吹いているのだろうか、それとも、父親の後を継いで
 服をぬっているのだろうか。


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アジアの街角 1枚の写真から | 00:48:37 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク カトマンズライフからバンコクライフへ
バンコク カトマンズライフからバンコクライフへ 1

バンコク カトマンズライフからバンコクライフへ 2

バンコク カトマンズライフからバンコクライフへ 3

バンコク カトマンズライフからバンコクライフへ 4

 カトマンズから運んできた重い荷物を抱えて、アパートの自分の部屋に向かう。
 1ヶ月ぶりにドアを開け、部屋に入る。
 むっとするような黴臭い匂いは いつものことである。
 荷物を置き、窓を開け、空気の入れ換えをし、汗だくだくになった服を着替える。

 大急ぎで日本円を出し、近所の両替屋へと向かう。
 今日の日本円は 99円台、100円を切っている。
 1万円で タイバーツ 3450バーツだった。
 日本円が上がり、少しでも多くのタイバーツがもらえるのは嬉しいことだ。
 ひどいときは 百円で28バーツしか両替できない時期もあった。

 両替をした帰りに、先ほど通り過ぎた東北タイの牛肉入り麺 カオ・ラーオの屋台に
 よる。
 いつものおばさんが 疲れ果てたような顔をしている。
 そろそろ店じまいのようだ。
 私の好きな牛筋の煮込み部分はもう残っていない。
 それでも懐かしい味なので注文する。
 バンコクについてから、初めて口にするタイの味である。
 25バーツで味わえるタイの味覚、東北タイ イサンのロイエットからやってきている
 おばさんのイサンの味だ。

 帰りがけにいつも利用する旅行社で日本までの一番安いチケットについて尋ねる。
 東京直通では、ノースウェスト航空が安いようだ。
 ユナイテッド航空も1ヶ月オープンなら安いが、今回は日本滞在が1ヶ月以上に
 なるので利用できない。
 ノースウェスト航空の場合は 1年オープン、21700バーツである。
 前回より2千バーツ以上の値上がりである。
 カオサンあたりの旅行社でも調べてみる必要がある。

 再び、部屋に帰り、やっとのんびりした気持ちになれた。
 バンコクでの生活は 水・電気と24時間供給、インターネットはADSLが
 当然のことで、便利は便利であるが、便利さゆえに何も引っかかるものがないのだ。
 カトマンズであれば、水のこと、計画停電のことを考えて、1日の計画を立てる必要がある。
 それが、脳味噌に適度の緊張感を与えてくれていた。
 不便な生活であったが、生活を工夫して生きているという実感もあった。
 そんな中で人々が、生き生きと生き抜いている姿を眼にすることも多かった。
 そんなカトマンズ庶民の姿を眺めていることは 楽しみの一つだった。

 バンコクという都会のど真ん中にいると、便利さばかりが目立ち、
 人間の姿が霞んできてしまう。
 自分の中にある野生のようなものが そぎ落とされていくような気にもなってしまう。
 人間が生きている姿を生で見る魅力は カトマンズには敵わないようだ。
 年々バンコクに対する魅力が失われていくのがわかる。
 ひたすら、日本の都市ライフに近づいているバンコク、
 だんだんと素っ気ない街になっていっている。
 私にとっては、心を震わせるようなものが少なくなっている。
 
 今の日本の旅行者は 日本と同じものをバンコクに見つけては喜んでいる。
 私は、日本にないもの、日本では失われてしまった世界をバンコクの中で見つけては
 喜んでいる。
 おかしな性分である。



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徒然なるままに | 19:06:11 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク カトマンズからバンコクへ‐3
バンコク カトマンズからバンコクへ‐3 1

バンコク カトマンズからバンコクへ‐3 2

バンコク カトマンズからバンコクへ‐3 3

バンコク カトマンズからバンコクへ‐3 4

 イミグレションを出て 3階の到着フロアから1階下のフロアへと向かう。
 そのフロアを出たところに バンコク市内に向かうエアポート・バス乗り場がある。
 私の住んでいるとところまでだと パブリック・タクシーを使えば、
 メーター料金+手数料50バーツ、それに高速料金 スムーズに行っても
 350バーツ近くにかかる。
 昼間なら、荷物が少なく、場所さえわかっていれば エアポート・バスで充分だ。
 目的地近くまで運んでくれて150バーツである。
 冷房もあるし、荷物置場もついている。
 もっと節約するつもりなら、空港からシャッフルバスを利用して ローカルバス・
 ターミナルまで行き、そこからバンコク市内に向かう公共バスに乗れば、
 安上がりである。
 荷物が多い場合は、ちょっと無理である。

 私の場合、中型の旅行用カバンに23キロ、小型のリュックの5,6キロ、
 合わせて30キロ近くの荷がある。
 パブリック・タクシーを利用すれば、楽であるが、近頃は節約に心がけている。
 200バーツの節約になる。
 バンコク市内へのエアポート・バスには 目的地に合わせて4種類ある。
 バスの車体には AE1、AE2,AE3,AE4と書かれている。
 私の場合は MBKセンター方面行きだから、AE4である。
 バンコクのバックパッカーの溜り場 カオサン・ロード方面はAE2のようだ。
 AE4方面に向かうバスは いつも最後にやってくる。

 その間、近くに設置された椅子の近くで一服していると、すぐそばに 
 骨折でもしたのか、片手を肩からの紐で吊り下げている外国人旅行者がいる。
 「国はどこか」と訊くと、スペインだと答える。
 「私は日本人で、今日 カトマンズからバンコクへやってきた」と言うと
 「自分もそうだ」と応える。
 トレッキングでもして怪我をしたのだろうと思って、怪我について尋ねると、
 そうではなく、カトマンズの計画停電の闇の中で、事故にあったようだ。
 暗闇の中で自転車にぶつかったか、道のところどころにある穴にでもつまずいて
 転んだのだろうか。
 カトマンズでなら、ありうる話である。

 AE4と書かれたバスがやってくる。
 そのバスに乗り込むと 乗客は私を含めて、二人だけである。
 あとで乗り込んでくるだろうと待っていたが、20人乗りのバスに乗客は
 二人だけだった。
 これでは、ガソリン代、高速料金にもならないだろう。
 オランダから初めてタイにやってきたというオランダ人女性と私だけだ。
 大半のバックパッカーは AE2のバスで カオサンを目指すのに フアランポン駅
 に向かうと言う。
 宿はまだ決めていないようだった。
 少しアドバイスをしたが、私のほうも30キロ近い荷を抱えているので、
 どこで降ろしてもらおうかと思案中、MBKセンターの前で降りれば、荷物を抱えて、
 階段の上り下りがあるしと いろいろと考える。
 
 バスは バンコク市内に入っていく。
 少し 小奇麗になったバンコクの最大のスラム クロントーイの横を抜けて 
 バスは走っていく。
 ラーマ4世道路を横切り、スクムビット道路を横切り、ペチャプリ道路へと左折して
 入っていく。
 そして、パヤタイ道路へと入り、MBKセンターも間近に迫り、
 右手には 私の住んでいるアパートも見えてくる。

 ディスカバリー・センターの手前で下ろしてもらい、重い荷を引きながら、
 サンセーブ運河に架かるフア・チャン橋の下を潜る。
 道は悪いが、この方法だとアパートまで 階段を上る必要はない。
 フア・チャン橋の下を潜り、いつも私が惣菜を買ったり、東北タイ風麺を食べる一角を
 通り過ぎていくと、惣菜屋の親父から 「外国から帰ってきたのか」と声がかかる。
 向こうでは、いつものように カオ・ラーオという東北タイ風麺を作るおばさんの
 屋台が見える。
 やっと、我が巣に帰ってきたという実感が湧いてきた。


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徒然なるままに | 11:25:56 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐48 パッタニーから来た男
アジアの街角 1枚の写真から‐48 パッタニーから来た男

 バンコクの中心部を流れる運河 セン・セーブ運河を走る水上バスの停船する場所に 
 ボーベーという街がある。
 インドのボンベイをもじって名付けられたという。
 インドのボンベイも 一時期 外国輸出向けの衣料品マーケットとして
 名をはせたことがある。
 このボーベーも 同じようにバンコクの中では プラトーナムと並んで名高い衣料品を
 売る卸売りマーケットである。

 このボーベーで水上バスを降りると、運河の向こう岸に イスラム教のモスクが見えた。
 運河にかかる小さな橋を越えて、そのモスクのあるところに行ってみた。
 このモスクの周辺は イスラム教徒の集落だった。
 集落の中は 迷路のように入り組んでいるが、いわゆるスラムと違って、
 危険な感じはしない。
 このイスラム教徒の集落の人々は 古い昔、今から200年近く前、
 当時のパッタニー王国から戦争捕虜としてつれてこられた人々の子孫だといわれている。
 スコタイ、アユタヤ王朝時代から、当時のシャムの支配下にあったが、その支配から
 脱するための反乱のたびに敗れ、パッタニー王国から多くの人々が 戦争捕虜として
 バンコクに連れてこられ、戦争奴隷として バンコクの街づくりに従事させられた。
 この集落の横を流れるセン・セーブ運河も彼らの手によって造られた。

 この集落の中を歩き回っていると、集落の中には イスラム教の墓地もある。
 大半はこの集落で亡くなった人たちが埋葬されるのであるが、異国からやってきて
 このバンコクの地で不慮の死を遂げた外国人も埋葬されることもあるらしい。

 そんな話をこの集落の住民であるイスラム教徒の男から聞いた。
 なかなか 堂々としていた男だった。
 バンコクにあるヨルダン大使館に勤めていたが、今は退職してのんびりと過ごしている。
 彼の祖先は マレーシアのクランタン州である。
 パッタニー王国は 当時 タイ側とマレーシア側に領土を持っていた。
 それが、タイとイギリスとの交渉の折に タイ側とマレーシア側に分断されてしまったのである。
 14世紀から19世紀までは パッタニーはインドネシアのアチャと並んで
 南シナ海貿易の中心的な港であった。
 中国人、琉球、日本、そしてインドのイスラム教徒もこの地には多くやって来た。
 パッタニー王国の前身であるランカスカ王国の時代には イスラム教ではなく、
 ヒンズー教が信仰されていたというから、インドとの深いかかわりがあったに違いない。

 この男の顔を見ながら、その顔つきに 西方の血の流れを感じてしまう。
 どこかアーリア系人種の血が流れているようにも感じられる。
 中国人でもなければ、タイ人でもない雰囲気が 男の風貌にはある。
 古い時代に東南アジア貿易を支配したコスモポリタンなパッタニー王国の血が
 彼の身体には綿々と流れ続けているような気がする。
 不思議なものである。


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アジアの街角 1枚の写真から | 04:57:16 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク カトマンズからバンコクへ‐2
バンコク カトマンズからバンコクへ‐2 1

バンコク カトマンズからバンコクへ‐2 2

バンコク カトマンズからバンコクへ‐2 3

バンコク カトマンズからバンコクへ‐2 4

バンコク カトマンズからバンコクへ‐2 5

 歩いても2,3分の距離だが、航空機までのバスに乗り、航空機まで
 いつも見慣れた2百人乗りのボーイング機である。
 座席番号が航空機後方なので 後ろよりに据え付けられたタラップから
 機内に入っていく。
 少し経って 乗客の数を眺めると 定員の半分にも満たず、がらがらである。
 私の座席は28の番号だったが、私の後ろの35の番号まで誰も乗客はいない。
 私のところも3人掛けの席が独り占めである。
 全く快適である。

 少し先にタイ人たちの団体客、私の席の前はネパール人の女の子たちだ。
 少し話をする。
 フィリピンのマニラに医者の勉強に行くということで、彼らの前にも二人のネパールの
 若者が座り込んでおり、男二人、女三人のグループである。
 女の子は カトマンズの先住民族 ネワール族のプラダン・カースト二人と、バウン族、
 男の子のほうは ネワール族のラーズバンダーリとチェットリ族、いずれもネパールの
 高カーストの子弟たちである。
 バンコクの空港内で10時間のトランジット、そしてマニラへと向かう。
 近頃は、マニラの大学にも大勢のネパール人留学生がいると言う。
 昔は 医者の勉強と言えば、バングラディッシュ、インド、お金がもっとあれば、
 イギリスということが多かったが、この頃は安く資格が取れる国へとその範囲が
 拡がっている。
 といっても、財産家の子弟に限られ、バウン族、チェットリ族、ネワール族、
 タカリ族になどの民族が大半で、それ以外の民族には 医者になるチャンスは
 皆無と言ってもよい。

 飛行機が離陸を始めると、10分もしないうちにヒマラヤの山々が見えてきた。
 10月も中旬を過ぎると、ヒマラヤの山々がよく見えるようになる。
 いつもながらの雄大な風景である。

 タイ人の団体客の方に眼を向けるが、このヒマラヤの風景を見ようと、席を移動して
 左の窓際に移って しっかりこの風景を眺めようとするものはいない。
 ちょっと拍子抜けである。
 私の後方には いくらでも席は空いているというのに。

 機内食が出る前あたりから、タイ人の団体旅行者の中に一人だけ混じっていた、
 6,7歳の男児が 機内を運動場のようにして走り回り始める。
 跳んだり跳ねたりの大騒ぎであるが、注意をしようとするものはいない。
 タイでも中産階級の子供たちの躾は出来ていない。
 こんな子供の姿を見ても、注意をする大人はいない。
 バンコクで起こっている首相官邸占拠の中心になっているのも 
 バンコクの中産階級である。
 タイのこの2百年の歴史の中で、利権を一手に手にしてきた人々の身勝手さが
 この子供の行動に象徴されている。
 昔からバンコクに住み着いてきたのは、王族と中国人、
 そしてその後は 中国人と通婚した人々によって、利権を手に入れてきた人々である。
 1980年以降の東北タイ イサンからの出稼ぎの人々は 労働力を提供しているだけで、
 安い賃金で苦しい生活をしている人々で、儲けを昔からのバンコク市民に提供するだけの
 存在である。

 首相官邸を占拠する人たちは 昔から持っている自分たちの利権を護ろうとする
 バンコクの旧支配勢力を代表して、騒いでいるに過ぎない。
 バンコク市内では支持を得ることは出来ても、一歩バンコクの外に出れば、
 状況は一変し、中国系を除けば、支持者を得ることは難しい。
 それだけ、地方住民の声が大きくなっているのだ。

 そんなことを考えながら、うとうとしていると もうバンコク上空にさしかかる。
 飛行機の上から、タイのデルタ地帯を眺めると、その広さからしても 
 食料生産の豊かさを感じる。
 この国では 餓える人はいないだろうと思わせる広大さである。
 このデルタ地帯に住む人々と東北タイ イサンの塩分の多い荒地に住む
 農民の姿の違いはあまりにも大きい。
 このことを理解できなければ、バンコク市民と地方農民との理解は生まれてこない。

 飛行機はスワンナブーム国際空港に無事着陸、午後12時52分、
 イミグレに少し時間がかかったが、荷物も受け取り、急いで空港の外の市内へと向かう
 エアポートバス乗り場へと向かった。


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徒然なるままに | 11:22:30 | Trackback(0) | Comments(2)
アジアの街角 1枚の写真から‐47 セブンイレブン哀歌
アジアの街角 1枚の写真から‐47 セブンイレブン哀歌

 ここ10年で すっかりタイで定着してしまったコンビニ セブンイレブンだ。
 バンコクなど『犬も歩けば棒に当たる』ではないが、至るところにセブンイレブンが
 あり、この多さは日本の比ではない。
 バンコクの繁華街に行けば、通りのこっちと向こうにセブンイレブンが 
 顔を突き合わせていることもざらだ。

 売っているものはといえば、飲み物、お菓子、軽食、タバコ、酒、日常生活雑貨などが
 狭い店内に 所狭しと 並んでいる。
 このセブンイレブンの林立の影響で、バンコクの主だった通りにあった小さな商店は
 すっかり姿を消してしまった。
 百、2百メートルごとにセブンイレブンが並ぶようでは、小さな個人商店など
 やっていけるものではない。
 それに24時間営業では 到底 便利さからいっても、太刀打ちできるものではない。

 出来た頃は、客に対する応対もきちんと教育されていたようだか、
 この頃では 「ありがとうございました」の声すら聞かないことも多くなった。
 聞くことはあっても、機械がしゃべるような話し方で、仕方なく言っているようにも
 思えてくる。
 タイのセブンイレブンでは 従業員は 24時間を3交代制で働いている。
 正社員であれば、週一日は休みである。
 3交代制といえば、一人当たりの仕事は、8時間ということになるが、引継ぎ、
 商品の搬入などがあれば、10時間以上というのもざらである。
 1、2時間の残業は 残業手当に含まれない。

 狭い店内では休憩する場所もなく、全くの立ちっぱなしである。
 客はひっきりなしでぼんやりしていることなど出来ない。
 かなりの重労働でも 時給 30ルピー、約百円である。
 中卒で正規社員であれば、諸経費を引かれると 月6千から6千5百バーツ
 (約2万円)が精一杯で 交通費など出ない。

 苦労して働いても、バンコクの物価、生活費を考えると、親元がバンコク在住で
 あればともかく、地方からの出身者は大変だ。
 勤務時間中の食事は、米だけは支給され、おかずだけ買ってきて、交代で摂る。

 店のマネージャー助手、マネージャー、地区管理者へと昇進の形もあるが、
 大半は高卒、高卒より大卒にチャンスがあり、中卒にはチャンスは限られている。
 同じ仕事をしていても給料には 中卒、高卒、大卒で差がある。

 安い給料、きつい仕事ということであれば、中卒での従業員の入れ替わりも激しい。
 1年、2年と勤めているうちに 高卒、大卒(二流大学)の同僚は昇進していくのに
 中卒の昇進はなく、いつまで経っても同じ仕事のままである。
 儲かっているのは経営者だけだ。

 諦めて、別の仕事を探しても 結局あるのは 同じような条件の外食産業だけだ。
 仕事を辞め、簡単にお金を手にしようとするものは、薬物などの違法犯罪に 手を
 染めていくことになる。

 バンコクに行って、セブンイレブンに行く機会があれば、従業員たちが、こんな条件の
 中で、仕事をしていることを 頭の片隅に置いていれば、多少の無愛想も許せるかも
 しれない。


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アジアの街角 1枚の写真から | 00:40:47 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ アガサ・クリスティ ~ 『五匹の子豚』 から
カトマンズ アガサ・クリスティ 1

カトマンズ アガサ・クリスティ 2

カトマンズ アガサ・クリスティ 3

カトマンズ アガサ・クリスティ 4

カトマンズ アガサ・クリスティ 5

カトマンズ アガサ・クリスティ 6

 アガサ・クリスティは 昔から好きな探偵作家で 暇があれば、蔵書の中から
 選び出しては読んでいる。
 つい最近も何冊か読み、その中で『五匹の子豚』の中に出てくる家庭教師の言葉に
 なるほどと思ってしまった。

 ここに引用すると

 ~ たくさんの子供が、いいえ大部分の子供は、両親が世話をやきすぎるために
  いい影響をうけていないのです。あまり子供をかわいがりすぎて、世話をやきすぎるのです。
  それが こどもにとってはうるさく感じられるため、それからのがれようということばかり
  考えるようになります。
   これはひとりっ子の場合に例が多く、もちろん母親がいちばんの責任者です。
  この子供に対する偏愛の結果、結婚生活に破綻をきたすことも少なくないのです。
  いわば、主人がかまわれないために、慰安を外に求めるようになるのです。

  なんといっても、子供にもっともいいのは、親が愛しながら、必要以上にかまわないという
  “健全な なおざり”を実行することだと思います。
  こういうことは、子供がたくさんいる貧乏な家庭に自然に行われていることです。
  母親はあまり忙しくてかまっている暇がないのです。
  子供のほうは、母親が自分たちを愛してく れていることはじゅうぶん承知していながら
  よけいに世話をやかれないことが嬉しいのです。 ~

   - アガサ・クリスティ 『五匹の子豚』 訳 桑原千恵子 ハヤカワ文庫より -

 
 これを読んで、カトマンズの庶民といわれる貧しい家庭の子どもたち、中流家庭以上の
 子供たち、そして、4,50年前の日本の子供たち、今の日本の子供たちの姿が
 浮かんできた。
 カトマンズの貧しい庶民たちの子供たちは 親の制限をそれほど受けることもなく、
 学校が終われば、自由に遊びまわり、暗くなり、お腹が空くと家に帰っていくという
 生活を繰り返している。
 一方、中流以上の家庭の子供たちは、私立学校、寄宿舎制の学校に通い、
 絶えず大人に監視されている生活の中にいる。
 確かにその大人の監視から逃れようとしていることも確かである。
 ぐれる子供たちはこうした家庭の子供が多い。
 あまりに多くのことを親や周りの大人から期待され、期待に応えられず、
 押しつぶされてしまうこともある。

 ”健全ななおざり“の中で 庶民の子供たちは 生活力、たくましさを身につけていく。
 親による友達の選り好みもないから、多様な人間関係を結ぶことも出来る。
 原っぱで知り合えば、皆、友達なのである。
 こうしてたくましく育った子供たちは 可能性があれば、どんなことでも選んでいく。
 ここ10年以上、ネパールの外国への出稼ぎは増大している。
 中流以上の家庭では、出稼ぎは アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本なら、
 世間体がよいし、お金を稼げる。
 マレーシアや中東は 稼ぎも少ないし、自分たちのステータスには合っていないと感じ、
 避ける傾向がある。

 貧しい庶民の家庭の子供たちは そうではない。
 生活向上の可能性があれば、どんなチャンスでも掴もうとする。
 ネパールからコネの世界がなくなれば、実力の世界になる。
 そんなときに力を発揮するのは、彼らであることを期待したい。


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徒然なるままに | 16:41:15 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク カトマンズからバンコクへ‐1
バンコク カトマンズからバンコクへ‐1 1

バンコク カトマンズからバンコクへ‐1 2

バンコク カトマンズからバンコクへ‐1 3

バンコク カトマンズからバンコクへ‐1 4

 午前1時に寝付いたのはいいが、うとうとするばかりで4時前には起きてしまった。
 目覚ましは午前5時にかけておいたのだが、寝過ごしてしまうのは怖い。
 残っていた片付け、野菜の始末、残っていたご飯は おにぎりにして、空港の中での
 朝ごはん用に、そんなことをしているうちに午前6時、パッキングしていたバッグ、
 畿内持込用のリュックを背負って、通りへと出る。
 
 朝の仕事始めのタクシーに出会うが、空港まで4百ルピーを吹っかけてくる。
 2百ルピーで交渉するが、交渉不成立。

 バウン族の雑貨屋はもう店を開けている。
 このあたりでは、店を開けるのが一番早い。
 この店の前の椅子で一休み、店主と話をしながら、タクシーを待つ。
 次にタクシーが来たら、店主が交渉してくれると言うので、任せる。
 上限は250ルピーとした。

 ここ2,3年でタクシー料金は上がる一方である。
 3年前は 空港まで、百ルピー、2年前は150ルピー、今年の初めには2百ルピー、
 今回は バウン族の店主の交渉で250ルピー、石油と物価の値上がりの影響は大きい。

 乗ったタクシーの運転手は カトマンズ近郊のカブレ県からやってきている24歳の
 タマン族の若者、結婚はしており、3歳の娘がいるという。
 そんな世間話をしながら、15分でトリブバン国際空港に到着。
 空港入り口は込んではいない。
 空港に入ってすぐのところで、荷のチェック、空港税1695ルピーを支払い、
 レシートを持って、ネパール空港のチェックイン・カウンターへ ここも混んでいない。 
 カウンターの職員に訊くと 今日は混んでいないと言う。
 それではと思い、左側の窓際の席を要望、いつもは通路側を頼むが、
 この時期にはよくヒマラヤが顔を見せる。

 イミグレも簡単に通過して、待合室に、日本人の姿は一人も見かけず、中国人、
 韓国人、タイ人、ネパール人、そして、ヨーロッパの旅行者ばかりだ。
 タイ人は20人ぐらいのグループ旅行でやってきている。
 タイ航空は料金が高いので、ネパール航空を利用しているのだろう。
 ダサインの祭りは 海外で働く出稼ぎ労働者が帰ってくる時期で、
 ダサインの祭りの最中の今日、海外へ向かう出稼ぎ労働者の姿はない。
 再び、彼らが海外へと向かうのは ダサインの祭り終了後だ。

 バンコクへと向かう日本人に出会えば、話をして時間でもつぶそうと思ったが、
 一人もいないようだ。

 空港内の飲み物はやたら高く、プラスティックのコップに入った不味いミルクティでも60ルピー、
 街の路上のミルクティが5ルピーであるから、その12倍の値段である。
 馬鹿馬鹿しくて飲む気にもなれない。

 午前7時には登場口待合室へのチェックが始まる。
 このときにいつもライターを取られてしまうので、取られてもいいような使用済み寸前の
 ライターを用意していくが、日本のパスポートを見せると機内持込用のバックも
 チェックせず、そのまま通過である。

 ここでもやることはなく、近くのネパール人と話す。
 オーストラリアへ2年間の予定で留学すると言う。
 チェットリ族の若者で、親がビジネスでお金を儲けたから、そのお金で留学すると言う。
 なんとも頼りない雰囲気の若者だった。

 午前8時に航空機への搭乗が始まる。
 時間通りに飛びそうである。
 航空機に向かうバスに乗り込む。


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徒然なるままに | 12:55:44 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐46 栄光
アジアの街角 1枚の写真から‐46 栄光

 世界中にまだ 北京オリンピックの余韻が残っている頃だった。
 近頃のように様々な出来事が次々と起こると、2ヶ月前のオリンピックも
 はるか昔のように感じられてしまう。

 インターネット料金の支払いのために ラーマ1世通りに出て、
 スーパーマーケット ロータスに行きかけると、道端に大勢の人たちがあふれている。
 パトカーのサイレンが鳴り響いているので、王族関係者の行幸かと思ったが、
 それにしては、警備の体勢ではない。
 近くにいたタイ人に訊くと 北京オリンピックで金メダルを取ったボクシングの選手の
 祝賀会のパレードで、今から、国立競技場脇の室内競技場に入っていくところだと云う。

 タイのテレビのスウィッチをひねると、メダル獲得者のことが、報道されている。
 タイは ボクシングで金と銀、女子重量挙げで金、女子テコンドーで銀を獲得した。
 タイでは 金メダルを取ると、国と企業から1500万バーツ、
 銀メダルだと1000万が贈られるということだ。
 その後のテレビ出演、広告などを加えると 手にするお金はそれ以上だ。
 日本の貨幣価値からすれば、1億円以上の計算になる。
 タイの庶民がこれだけのお金を手に入れようとすれば、宝くじでも当てるより方法は
 ない。
 タイの中学での若者の給料が、6,7千バーツであることを考えれば、
 メダルを取ることは 現代のシンデレラ物語である。
 中国でも、韓国でもこんなケースはよくあるものなのだろう。

 能力が拮抗していれば、勝ってメダルを取るという動機付けは、こうしたシンデレラ
 物語は 大きな支えになるだろうし、勝ちにもつながるものだろう。
 国のためというより、自分の未来をかけてオリンピックに参加しているのだ。

 1964年 日本で 東京オリンピックが 開催された。
 このオリンピックで体操、バレーボール、柔道、レスリング、重量挙げなどの競技で
 多くのメダルを取ることができた。
 その当時の選手は 国のためという気持ちのほうが強く、報奨金など期待も
 していなかっただろう。
 ただひたすら、国家の名誉のためという意識の方が強かったのだろう。
 オリンピックに参加しているものも、観戦している国民も同じ気持ちだっただろう。

 あれから、44年の月日が流れ、北京オリンピックが開催された。
 日本選手の意識も国のためというより、自分のため、自分を支えてくれた人のためと
 いう意識の方が強いのだろう。
 日本という国のために頑張れといわれても、ぴんとこないのも事実だろう。
 金メダルを取っても、名誉は得ることは出来、名を残すことが出来たとしても、
 後の生活に対する保証がなければ、勝つという動機付け、意志には大きく影響を
 与えていくだろう。
 今回のオリンピックを見ていてもそんなことを強く感じてしまった。
 精神主義だけではどうしようもない時代になっているのである。

 今の日本では オリンピックは 国家意識の高揚の役割を果たさなくなっている。
 そういった部分がなくなっただけでも、日本にとっては よいことなのかもしれない。
 その方が参加する選手にとっても 精神的負担は少ないだろう。
 時代が変わっているのと同じように、オリンピックの意味も日本人とっては
 変わってきている。

 他の国とっては、どうかは知らないが、日本にとっては
 『オリンピックは参加することに意味がある』
 それで充分な気がする。


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アジアの街角 1枚の写真から | 00:33:31 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 金子光晴を読む
カトマンズ 金子光晴を読む 1   カトマンズ 金子光晴を読む 2   カトマンズ 金子光晴を読む 3

 計画停電の電気待ちの時間、寝る前のひと時、詩人 金子光晴氏の旅行記
 『どくろ杯』『西ひがし』『ねむれ巴里』の三部作と『マレー蘭印紀行』を読み返して
 いた。
 この本は25年前からカトマンズに置いてある本で何かにつけて何度も読んだ本で
 あるが、読むたびに新しい発見があって興味深い本である。

 さすが詩人であるだけに 文章の表現力も素晴らしく、東南アジア マレーシア、
 シンガポール、スマトラあたりの描写は ねっとりと熱帯の空気が纏わりついてくる
 ような雰囲気を持っている名文である。

 一番感銘を受けるのは 彼の持つ飽くことのない好奇心と、旅費を稼ぐために
 ジャングルの奥地へと向かう行動力である。
 そして、そこで眼にしたものを的確に表現していく力には圧倒されてしまう。
 詩人の研ぎ澄まされた視線は 正確に 当時の東南アジアに住む日本人の姿、
 中国人、現地人の姿を捉える。

 これ以上の旅行記を書いた日本人は いまだかつていない。
 旅行記三部作に登場する日本人たちも 個性的で生命力にあふれている。
 時代が 人間の生き方を創り上げていくというのが真実であれば、今の日本人旅行者も
 時代によって造られたものだろう。

 25年間に初めてバンコクを訪れた頃は、金子光晴の眼にしたアジアの片鱗があった。
 どうしようもなくけだるい雰囲気、法などあっても十分に機能していない、成り行任せの
 バンコクの姿だった。
 悪も善も混然とした世界の中で 人々はそれぞれの生活を謳歌していた。
 近代化した日本の社会から見れば、腐りかけた果実のような魅力にあふれていた。
 そこには 皆がそれぞれの生き方を認め合うという優しさもあった。
 それは 今のバンコクでは失われつつあるものだ。

 金子光晴の旅行記を読んでいると、そんな昔のバンコクの混然とした世界が
 思い起されてくる。
 それは同時に 世界がこの2,30年の間にあまりに変化してしまったことを
 思い起こさせる。人間も然りだ。
 一般大衆にとっては、どちらの時代が幸福だったのか、自由だったのか、
 考えさせられてしまう。

 お互いがお互いを干渉しあうことで 人々は自由から遠ざかって行っている。
 かといって、助け合いの社会があるわけでもない。
 怖い世界である。
 つまらない理屈ばかりがはびこり、人の心が読めなくなる。
 人の心が読めなくなれば、優しさもなくなる。
 世界は 息苦しくなるばかりである。
 それが爆発して 予想しなかったような犯罪が生まれてくる。
 こんな世界を本当に人々は 望んでいたのだろうか。


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徒然なるままに | 18:42:50 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 明日は バンコクへ
カトマンズ 明日は バンコクへ  1

カトマンズ 明日は バンコクへ  2

カトマンズ 明日は バンコクへ  3

 今日は ダサインの祭りの中の ダサミ・ティカの日である。
 目上の親戚の家に出かけ、年上の人からティカをおでこにつけてもらい、
 日頃のつながりを確かめ合うのである。
 ダサインのために買ったり、買ってもらったりした新しい衣服を見につけ、
 皆、目上の親戚の家へと出かけていく。
 ダサインの祭りは ヒンズー教徒の祭りであることから、バウン族、チェットリ族に
 とって、互いの絆を確かめ合う重要な祭りであるが、長い240年以上のゴルカ王朝も
 国家的行事として祝ったことから、他の民族も形だけは祝うようになっている。

 旅行者にとってはあまり縁のない行事で、ダサインの祭りも、店、官庁、レストランが
 閉まるばかりでむしろ迷惑なものである。
 ティカの始まりの今日などは、大半の店は閉店だ。

 そんなダサインの最中 明日はバンコクへと旅立つ。
 問題の多いネパール航空も明日は飛ぶらしい。
 バンコクへの航空チケットを買った旅行社とネパール航空本社へ問い合わせる。
 予定通りという話である。
 今は2機の国際便用の飛行機があり、ここ3回ばかり利用したネパール航空だが
 予定通りに飛んでいるというのは、奇跡としか言い様がない。

 フライト時間は 午前8時30分、チェックインは 午前6時30分、朝の6時には
 家を出なくてはならない。
 目覚ましをかけて、朝の5時には起きなくては。

 今回のネパール滞在はいつもよりは短い期間だったせいか、よく動き回り、
 少々疲れてしまった。
 ダサインを迎えて、街中が混雑し、自転車も利用できず、ほとんど歩きのカトマンズだった。
 歩く速さでのんびりと街や人を眺めることで、見えてくるものが多かった。
 次のカトマンズ訪問は いつになることか、お金の都合がつけば、4ヵ月後には再び、
 やって来たいと思っているが、どうなることやら。
 そのときは、もっと違ったカトマンズの姿を、報告できるのではと思っている。


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徒然なるままに | 11:21:54 | Trackback(0) | Comments(0)
アジアの街角 1枚の写真から‐45 迷路に向かって
アジアの街角 1枚の写真から‐41 迷路に向かって

 カトマンズの街の中には、迷路のように錯綜した路地がある。
 その路地がどこにつながっているのかを知っているのは、
 カトマンズの先住民族のネワール族だけだろう。
 自らの王国 マッラ王国を ゴルカから征服者 プリティビ・ナラヤン・サハに
 奪われてから240年、自らの生活を隠し、護るために 迷路のような街づくりを
 したのかもしれない。

 主要な通りから脇に入っていく路地は、旅行者にとっては別の世界を予測させ、
 魅力的なものだ。
 この路地に入っていくと、ネワール族の生活の場につながり、
 大通りの喧騒は 嘘のようになる。

 カトマンズのネワール族の王宮のあるハヌマンドカと中心として、
 カトマンズの街には様々の迷路が錯綜している。
 迷路の中に迷い込むと、突然広場に出会うこともある。
 そこはネワール族の仏教徒カースト サッキャ・カーストの集落であったりするし、
 ネワール族の農民カースト マハルザンの集落であったりする。
 広場では老人たちがのんびり話しこんでいたり、子供たちが遊び戯れていたりする。
 表通りからは 覗うことの出来ないネワール族ののどかな日常を 垣間見ることも出来る。
 旅が楽しくなるのは そんな瞬間である。

 カトマンズに古くから住むネワール族の生活を見たいなら、迷路の中を
 彷徨ってみなくてはならない。
 異国を理解することは、そんなかかわりの中から生まれてくるものだ。


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アジアの街角 1枚の写真から | 00:34:09 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上の視野
カトマンズ 路上の視野 1

カトマンズ 路上の視野 2

カトマンズ 路上の視野 3

カトマンズ 路上の視野 4

カトマンズ 路上の視野 5

カトマンズ 路上の視野 6

 カトマンズ滞在もあと何日は残すだけになった。
 計画停電、水不足、雨、インドラ・ザットラ、ダサインの祭りと息つく暇も
 ないような今回の滞在だった。
 私のように歩くことを基本にしている人間にとっては、1ヶ月という滞在期間は
 瞬く間に過ぎ去ってしまう。

 私がカトマンズにやって来て、最も心惹かれるものは、路上を生活の場をして
 生活している世間から忘れ去られている人々の姿である。
 政治の表舞台で生きる人々は 絶えず、世間の注目を浴び、話題を集める。
 ネパールでは 路上に生き、細々とした小さな商いで わずかばかりの収入を得て
 生計を立て生活してきた人々には 政治の力は及ばない。

 社会の底辺で生きる人々に目を向けることなく、政治を語っても意味のないことだと
 私は思っている。
 ネパールの政治は この240年間に渡って、強者のための政治であって、
 弱者のための政治であったことはない。
 今もそうである。
 ネパール政治の裏話を耳にしても、又かと思う程度で 週刊誌程度もので 
 興味は 湧いてこない。
 政治は 政治屋とその蜜に群がるジャーナリストに任せておけばいいとすら思えてくる。

 路上で生き抜く人たちには どんな政治の中でも 生き抜いていく雑草のような
 たくましさと生命力がある。
 今回の滞在では、こんな市井に生きる人々の姿を見つめてみたかった。

 今年で25年目に入るネパールとのかかわりであるが、この25年のかかわりの中で
 感じ取ってきたネパールの底辺を流れる生活のエッセンスのようなものが
 伝えられたらと思い、ブログに励んでいる。
 それが 25年間のかかわりの恩返しだとも思っている。
 カトマンズの人々の生活の光の当たらない場所に 光を与え、カトマンズの
 見えにくい部分が少しでも日本の人々に伝わっていけばと願っている。

 人間というものは ネパールにしても タイ、インドにしても どの階層の人と
 出会うかによって、その国の印象を作り上げてしまうものだ。
 私がいつも行く雑貨屋の井戸端会議の参加者たちの大半は 土地持ち、家持であり、
 ある程度収入のある人たちで ネパールでは中流以上の人たちだ。
 バウン族、チェットリ族、ネワール族の人たちが主で、政治には興味を持っている
 人たちで、何かにつけて議論を戦わしている。

 3階、4階建ての家屋を持ち、最上階に住み、他の階は 賃貸していたり、
 1階部分には店舗を何軒か持ち、かなり豊かな人たちだ。
 この井戸端会議には 狭い部屋を間借りして住んでいる人たちには無縁のもので、
 マガール族、タルー族、ライ族、タマン族、南ネパールのタライ地方からのインド系
 住民など地方からの出稼ぎ、あるいは地方で食べることが出来ずカトマンズにやって
 来た人々にとっては 生活に追われ、政治に関心を持つ暇などない。

 いくら政治、政治と言ってもその利益に預かっているのは カトマンズに住み着いた
 バウン族、チェットリ族、先住民のネワール族の土地持ちか高カーストの人ばかりで
 あることを 間借生活の人たちは知っている。

 彼らの持つ家屋に間借りして住む人たちと彼らの生活の違いはいやと言うほど
 身にしみている。
 こういう貧しい間借り暮らしの人たちは 口を閉じ、政治的な信条を口に出さない。

 私が興味を持って、見つめたい人々はこういう人々の生活である。
 ネパールでは カトマンズを離れれば、大半の人たちは貧しい。
 そこで生活できずに、カトマンズにやって来た人は それにも増して貧しい。

 いくら政治を熱く語っても、路上で生活し、ぎりぎりでその糧を稼いでいる人に
 眼が向かなければ、政治は意味を持たない。
 ネパールでは 貧しい者たちの政治は行われたためしはない。
 政治の形が変わるたびに その中枢に群がる人間を富ませてきただけである。
 一部の民族だけが その恩恵を受けてきた社会なのである。
 だから、私は出来るだけ 路上を歩き回り、路上に這いつくように生活する人たちを
 見つめて生きたい。


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徒然なるままに | 20:23:56 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ スラムから集落へ‐2
カトマンズ スラムから集落へ‐2 1

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カトマンズ スラムから集落へ‐2 7

カトマンズ スラムから集落へ‐2 8

 カトマンズのバグマティ川に沿って、いくつかのスクンバシと呼ばれる密集した
 スラムがある。
 ここ1年半の間で出来たスラムは カトマンズとパタンに架かるバグマティ橋の袂に
 拡がるスラムとバルクーと呼ばれる地域のバグマティ側沿いに広がるスラムだ。

 何年か前に出来て 建物もいつの間にかレンガ造りや木造の建物に変わり、
 集落らしい体裁を整えているものもある。

 どれも国の土地である河川敷に違法に住み着いたものであることには変わりない。

 これらのいくつかのスラムやスラムから形を変えた集落を見ながら、
 複雑な思いに駆られることもある。

 カトマンズから遠く離れた山の人たちが 村を逃げるようにして カトマンズに
 やって来ても 高い間借り住まいでしか住居を得ることしか出来ない。
 それに耐えられなくなった人々が、こうしたバグマティ川の河川敷にバラックを
 建て住み始める。
 間借り住まいであれば、6畳1部屋の家賃が千ルピーから2千ルピーほどかかる。
 スラムにバラックを建てて住めば、その分 節約できる。
 ビニール張りのバラックを建てる費用は 5千ルピーもかからない。
 人目さえ気にしなければ、安上がりであることも確かである。

 水も電気もない生活であるが、彼らにとっては、村での生活とは変わりはない。
 電気はなく、水といえば何キロも歩いて水場まで通うという生活は 山の中の村では
 当たり前のことである。
 スラムに住んでいても 近くの共同水場へ行けば、水は手に入る。
 スラムに住む人々にとっては、山の村に住むことも、不便なスラムに住むことも 
 さほど変わりないことである。

 又、インド人やネパール人のカーストの低い人間は 水場を一緒に使うと水が穢れると
 いうことから、部屋を貸さない大家もいる。

 生活苦からスラムに住み始める人もいれば、そうでない人もいる。
 カトマンズ盆地の中の土地は この人口増加の中でうなぎ上りである。
 不動産投資は お金儲けの手っ取り早い手段になっている。
 カトマンズの外からやって来た人間が 土地と建物を手に入れることは至難の技で
 手に入れることが出来る人間といえば、違法なビジネスでお金を稼いだ人間か、
 賄賂、不正によって蓄財を果たした政治家ぐらいのものだろうと言われている。

 村からカトマンズに出てきたお金も土地も持たない人にとっては、河川敷のスラムに
 住み着くことは、土地を手に入れる唯一のチャンスでもある。
 そんなふうにして土地を手に入れ、バラックの家からレンガ造りの家と建て替えた
 人間も多くいるのだ。
 それが今では スラムから集落へと変貌している。
 いつ何時、政府から追い立てを食らうかもしれないという不安に駆られながらも
 もしかしたらという思いを描いているのである。

 ちょっと頭の働く人間は カトマンズに家を持っていても、ここに住み着き、
 土地をうまく手に入れようとする人間もいる。
 早々とレンガ造り、セメントブロック造りの家を建てる人間も出てきている。
 どこかに早い者勝ちという姿もないではない。

 バグマティ橋の袂のスラムもバルクーのスラムも 制憲議会選挙のどさくさの最中に
 形成されていった。
 貧しいものの味方、マオイストが政権を取れば、ひどいこともしないだろうという
 期待からだ。
 その予測が当たるのか、当たらないのかはわからない。
 今のところ、不安定な政権の中にいるマオイストは 静観を決め込んでいるようだ。

 二つのスラムのうち、バグマティ橋の袂のスラムは 学校を作り、住民組織を作り、
 既成事実を積み重ねている。
 バルクーにあるスラムでは いつでも追いたてを食らっての困らないように、1年前と
 同じ姿のままである。
 追い立てのときの被害を最低限食い止めるためである。

 お金のある人間は 1千万ルピー(千5百万円)の建売住宅を買い、
 貧しいものたちは洪水の危険はあっても、河川敷に住み着こうとする。
 カトマンズでは 凄い勢いで貧富の差が拡がっている。
 目を覆いたくなるようなカトマンズの現実である。



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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 10:44:26 | Trackback(0) | Comments(4)
アジアの街角 1枚の写真から‐44 おしゃれ
アジアの街角 1枚の写真から‐44 おしゃれ

 バンコクのチャオプラヤ川の川向こうには、20年の間、時間が止まっていたのでは
 と思われるような美容室がある。
 バンコクでもサイアム・スクウェアーあたりにある日本と同じような洒落た美容室とは
 似ても似つかない。
 エアーコンディションもなく、天井に取り付けられた扇風機が回っているだけだ。

 20年以上のバンコクでは若い女の子たちの着ているものといえば、
 大き目のTシャツとジーンズというのがほとんどだった。
 今のように肌を露出させることもなかった。
 男だって、今のようにネクタイに背広という姿でもなかった。
 水浴びのあとには、サルメチール入りの白い粉を顔に塗りつけている女の子も
 よく見かけた。
 まだTシャツにタイ風巻きスカートを身に着けた女の子も多かった。
 ファッションとはまだまだ程遠い世界だった。
 田舎から出稼ぎに出てきた女の子、スラムに住む女の子が安心して利用した美容室は
 トンブリ地区にあるような美容室であり、おしゃれのためというより、
 髪を切ってもらうためのものだったのだろう。

 それがここ20年の月日の流れとともに変わってしまった。
 テレビ番組といえば、中流階級上を舞台にしたドラマ、音楽番組もアメリカ・
 ヨーロッパ風のファッションを身に着けたシンガーが視聴者を刺激している。
 同じファッションを身に着けたい、同じ生活をしたい、女の子たちはそれを
 夢見るようになる。
 昔は 身体を売ることは、生活のためだった。
 それが今では、遊びのためのお金がほしいというだけで、
 身体を売るようになっている。
 日本と同じだ。
 中学生、高校生がディスコや風俗店に行って、身体を売る。
 そのあまりのひどさに タイ政府は、お酒を出す店では、身分証明書の提示を
 義務付けたぐらいだ。
 タイの経済成長が何をもたらしたのか、日本の経済成長が何をもたらしたのか、
 人間の幸福とは何か、そんなことが問われることなく、ただ闇雲に突き進んできた
 結果だ。

 そんな世界と無縁の美容室、古めかしい設備に 木造の飾りのない店、何一つ
 奇をてらうものは置かれていない。
 人間のおしゃれなどこの程度で充分でないかと思えてくる。
 見苦しくないように身を整える。
 アジアのおしゃれの基本はそこにあったような気がする。
 アメリカ化、ヨーロッパ化されればされるほど、アジアの心は失われ、
 アジアの人々の美しさ、清楚さは失われていく。
 そして、伝統・文化も失われ、自分を見失ってしまう。


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アジアの街角 1枚の写真から | 00:14:23 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ダサインの日の散策
カトマンズ ダサインの日の散策 1

カトマンズ ダサインの日の散策 2

カトマンズ ダサインの日の散策 3

カトマンズ ダサインの日の散策 4

カトマンズ ダサインの日の散策 5

カトマンズ ダサインの日の散策 

 今週に入り、官庁も会社、工場も休みに入ったせいか、計画停電がなくなっている。
 60万人とも、70万人とも言われる人々も カトマンズを離れて郷里に向かった
 そうだから、カトマンズ盆地の電力消費量がかなり減ったためだろう。
 今週は停電に悩まされることはなさそうである。

 近所に住む人たちも1週間という休みということで、のんびり過ごしている様子である。
 表通りからちょっと路地に入った家の玄関では、一匹の犬が気持ちよさそうに寝ている。
 家の犬にもダサインの祝いをと 家の子供たちが ちょっといたずらでもしたのだろうか、
 赤頭巾の狼のように頭に布を巻いているが、気にもせず、眠り込んでいる。

 表通りといえば、どこもかしこも ラングルブルザというさいころを使った賭博である。
 この時期の賭博は政府公認だから、人々は大いに賭博を楽しんでいる。
 普段は 家の中で 知り合い同士でトランプ賭博を楽しんでいるようだが、ダサインの
 祭りには、小うるさい女房も文句は言わないのだろう。

 路上のさいころ賭博も 子供は5ルピー、10ルピー単位で遊んでいるが、
 大人の中には百ルピー札を賭けて遊んでいるから、負ける人間の額は
 かなりのものになるだろう。
 他人の懐のことを心配しても仕方がないので、どんどん歩いて行き、
 バグマティ橋の近くにあるタマン族が集まって住んでいる建物の前に行くと、
 子供たちがトランプ遊びを楽しんでいる。
 建物の中では大人たちがトランプ賭博に熱中している姿を見て、
 それではと子供たちも始めたのだろう。
 お金はかけておらず、ただのトランプ遊びのようだった。

 ここを抜けるとバグマティ川沿いの道に入る。
 川沿いに歩き始めると、向こう岸にビニール張りのバラックの建ち並ぶスラムが見える。
 スラムの中の学校の前の広場には ダサイン名物のブランコ ピンが備え付けられ、
 スラムの子供たちが、ブランコ遊びを楽しんでいる。
 この前このスラムに行った時に、ピンは作らないのかと尋ねた時、
 スラムの委員会の若者が 作らなくては言っていたのが実現されたようだ。
 スラムの中に入ってみようかと思ったが、今日は体調が悪い。
 いつもスラムの中に入って行くには、ある種の心の緊張感が必要だ。
 体調はよくないときには スラムの雰囲気に負けてしまう。自然体を保てないのである。
 こんな時には、スラムに入って行かないほうがいい。
 やはり、エネルギーがいるのである。

 バグマティ橋の下を潜り、川辺の市場まで歩いてくると、
 ここでもさいころ賭博が行われている。
 ここでは、女たちが中心になって遊んでいる。
 普段はこの市場で野菜や肉を売っているたくましい女たちだ。
 男並みの生活力のある女たちである。
 男たちほど大きなお金はかけていないようだが、目一杯ダサインの賭博を楽しんでいる。
 女たちの遊びの方が 男たちのものより 余程生き生きしているようにも思えた。

 川沿いの道では 男の子たちが 飽きもせず、凧揚げに夢中だ。
 凧合戦で糸を切られて落ちいく凧を求めて走り回っている。
 高々2ルピーの凧であるが、手に入れることが楽しみなのだ。

 カトマンズも10月中旬近くなると、夕方になると冷え込んでくる。
 先日降った雨で、季節は確実に秋へと向かっている。
 日中の陽射しは相変わらず強いが、部屋の中に入るとひんやりしている。
 日が落ちると 長袖がそろそろ必要になってきている。
 気候としては 絶好の季節の始まりである。


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徒然なるままに | 16:28:58 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族の初七日
カトマンズ ネワール族の初七日 1

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カトマンズ ネワール族の初七日 7

カトマンズ ネワール族の初七日 8

 秋晴れのダサインの祭りの中、バグマティ川にかかる黒い鉄製の吊橋のすぐそばの
 川辺のシバ寺院を歩き回ってみた。
 
 シバ寺院のすぐ近くの沐浴場の上の四角い石造りの休憩所で、4,5人の女たちが 
 何やら料理を作っている。
 カトマンズの寺院の近くでは よく見かける風景で礼拝のようでもある。
 しかし、礼拝のための僧侶はいない。

 近づいて行き、訳を訊くと 7日前に亡くなった母親のための供養を行っていると言う。
 彼らは ネワール族の中のカーランジットというカーストに属する。
 元々は 糸を染めることを仕事にしていたようだが、マッラ王朝時代には、王の占い、
 礼拝にも係わるようになり、マハブラーマンとも呼ばれるようになったカーストの
 人たちだ。

 このネワール族のカーストの人々は 母親が亡くなってから7日目に母親のための
 供養を行う。
 そこで母親の好きだった食べ物を用意し、亡き母親にご馳走するのである。
 子供のうち、結婚した娘たちが集まり、その中でも一番下の娘が 中心になって行う。
 彼女たちは5人の姉妹であるが、末っ子は結婚していないために参加できない。

 父親が亡くなった時にも同じ供養をするが、そのときには結婚している一番上の娘が
 中心になって行う。

 父親が亡くなれば、一年間 ダヒと呼ばれるヨーグルトを食べることはできないし、
 母親がなくなれば、一年間牛乳を飲むことはできない。
 ネパールのミルクティは一年間お預けである。

 今回の母親の供養の中心が 年の若い娘のため、供養の儀式の流れがわからず、
 一番年上の娘の指示に従って、行っている。
 一番年上の娘は父親が亡くなったときに同じ体験をしているから、要領はわかる。
 そのときには 親戚の年長者の女性が 手順を教えてくれたと言うことだ。
 下の娘は その間、口を利いてはならないし、他のものはその娘に触ってはならない。
 下の娘が 巫女の役割を担い、母親を呼び寄せる役目なのだろうか。

 私がネワール族の文化に興味があるというと、最後まで見ていけと言う。
 昔は 64ロプニの農地があったが、50年前のマヘンドラ王の時代に半分の農地を
 取り上げられてしまったこと、マハブラーマンとも呼ばれ、ネワール族の中でも
 高いカーストであること、母親は82歳でなくなり、亡くなる1週間前までは、
 元気で強健だったことなどを話してくれる。

 母親への供養ための料理が整うと、今度はすぐ近くにある丸い石造りの休憩所へと
 料理を運び、一番下の娘が きれいに並べて、亡き母親のための供養は終了する。

 すべての料理を並べ終えれば、したの娘も普通の娘に戻り、口を利くことも触ることも
 許される。
 その途端に そこに集まっていた四人の娘たちは 号泣し始める。
 それも儀式の流れに組み込まれているようだ。

 供養のための食べ物は、近くの犬たちにも与えられ、
 母親のために用意した食べものや衣類は 少額のお金とともに 
 呼ばれたカーストの低いものたちに与えられる。
 この日は 三人の低カーストの人たちが呼ばれていた。

 供養が済んだあと、家に帰るまで後ろを振り向いてはならない。
 名残惜しさを示すと、なくなった母親が再び、家に戻ってきてしまうからだ。
 母親は浄土に行けず、天と地の間を彷徨うことになる。

 彼女たちにお礼を言い、号泣する彼女たちを後に残し、家路へと向かった。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 10:09:50 | Trackback(0) | Comments(0)
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