投稿日:2008-07-30 Wed








上3枚の写真は カトマンズ 下5枚の写真は バンコク
カトマンズに初めて訪れたのは、25年前のことだ。
その頃は、路上の物売りといえば、数知れていたものだ。
よく見かけたものをいえば、道端で売られているチアーと呼ばれるミルクティーの露店、
バソンタプールの旧王宮広場でバウン族のおばあさんが売っていた揚げドーナツ、
揚げたては 美味しいが時間がたつと、硬くなり丈夫な歯が必要だった。
夕方近くなると広場の隅っこで 商いを始めるモモ屋さん、そんなもので、
あとはアッサン広場の果物や野菜売り、香辛料売りぐらいのものだった。
大半の食べ物は、店を構えているところで売られていた。
ところが、バンコクはといえば、20年前には、すでに屋台天国で、どこに行っても
屋台は隆盛を極めていた。
今よりもその頃の方が、路上の屋台は多かった気すらする。
しかし、バンコクの屋台文化は、いつ頃から始まったのだろうか。
20世紀初頭まで、バンコクの交通はといえば、水運、運河を中心としたものだった。
ラーマ5世の時代までは、まだ運河拡張工事が盛んだったのである。
次の国王ラーマ6世の時代から陸の交通に 眼が向けられ始めるようになるが、
本格的に陸上交通の整備が行われるようになったのは、第2次世界大戦以降のこと
だろう。
それまでは、運河の水路を利用した船でも物売りの方が盛んだったのだろう。
生活用品、食料の流通は船で行われていたし、道も発達していなかったから、
運河の水路を使う方がよほど便利だったはずだ。
そうとなれば、路上の屋台はまだ発達しておらず、今 屋台で売られているもの食べ物は、
船を利用して売られていたことになる。
中華街やその近くのラーマ5世によって開通した鉄道の起点となるフアランポン駅周辺には、
中国人による屋台の原点はあったのかもしれない。
タイ人であれば、棹の両端に籠をぶら下げ、食べ物を売り歩いていたのだろう。
古き情趣あふれる世界が、そこにはあったのだろうし、運河の水路を利用して、
船を漕いで 食べ物、麺類、商品を売るのんびりした時代、
古きよき時代があったはずである。
バンコクの川向こうのトンブリ地区にあるまだ生き続けている運河に行けば、
船を使って、ものを売る人の姿がある。
果物、惣菜、生菓子、生活用品と売るものは様々である。
バンコク側の運河といえば、すっかり水は 汚れ果て、水上バスは今なお走っているが、
舟を漕いで、物売りなどは出来なくなっている。
道路が整備され、陸上での屋台での物売りが盛んで、船を使っての物売りなど
無縁の世界になっている。
戦後、経済発展にあわせ、運河をつぶし、道路に変えていったことが、
路上での屋台を発達を促すようになったのである。
これは、タイ人式やりかたではなく、中国人式やりかただろう。
昔ながらの運河を利用した商いの姿は、観光目的のバンコク郊外の水上マーケットに
その姿を残している。
東洋のヴェニスと言われた古いバンコクの姿を見つけることは難しくなった。
便利さを求めれば、大切な別のものを失うことは避けられないことなのだ。
便利さだけを追及すれば、都市はどういう姿になっていくのか、
東京はそれの手本である。
バンコクの街もそれを追従している。
そのうち、バンコクから屋台そのものもなくなってしまうかもしれない。
日本がそうであったように。
++ブログランキングへの協力をお願いします。++
** 忘れないで **
↓
日本ブログ村ブログランキングに参加しています。
**面白いと思ったらクリック**
人気ブログランキングに参加しています。
**面白いと思ったらクリック**
人気ブログランキングへ
投稿日:2008-07-30 Wed


ラオス サム・ヌア地方のシルクの肩掛け
タイ・デーン族の織物だ。
使っている糸は、シルクの草木染である。
織り込まれている紫色は、化学染料だろうか。
複雑な紋織りの文様の中で、
紫色の糸が、ポイントになっている。
この肩掛けは、日常使うものではなく、
特別の行事の際、正式の民族衣装とともに
用いられるようだ。
自分のためや家族のために織り上げるものであって
売り物ではない。
ひたすら、織物の中に、祈りを織り込む作業だ。
今のラオスの織物を見ても、
この布の中にある緊張感を感じることは出来ない。
++ブログランキングへの協力をお願いします。++
** 忘れないで **
↓
日本ブログ村ブログランキングに参加しています。
**面白いと思ったらクリック**
人気ブログランキングに参加しています。
**面白いと思ったらクリック**
人気ブログランキングへ
△ PAGE UP


