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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐4 屋台の道具
屋台文化考‐4 屋台の道具 1

屋台文化考‐4 屋台の道具 2

屋台文化考‐4 屋台の道具 3

屋台文化考‐4 屋台の道具 4

屋台文化考‐4 屋台の道具 5

屋台文化考‐4 屋台の道具 6

屋台文化考‐4 屋台の道具 7

屋台文化考‐4 屋台の道具 8

屋台文化考‐4 屋台の道具 9

屋台文化考‐4 屋台の道具 10


 バンコクの東の場末の街 プラカノンへ行ってきた。
 このプラカノンには、プラカノン市場とイアム市場を結ぶ定期水上船がある。
 プラカノン運河を今なお走る水上船だ。
 パラカノン運河は、雨期の訪れとともに水嵩も増し、
 多少水の流れの速くなっているようだ。

 昔ながらの木製の船乗り場は、相変わらずの姿でのんびりした風情のままである。
 昼間の午後は、客足も少なく、水上船の船主たちもゆっくりと昼飯を食べている。
 この辺は、まだ空き地も多いから、早晩、開発の嵐に巻き込まれるだろう。
 嵐の前の静けさといったこのあたり一帯である。

 船着場を下流に少し下ったあたりに 小さな昔からの集落がある。
 チャオプラヤ川からこのプラカノン運河に運ばれてきた荷をこの集落で荷揚げして
 いたのだろうが、今は、陸上交通は主役となり、昔の賑やかな姿は残っていない。
 ラーマ6世の時代は、このプラカノン一帯をものの流通センターにするつもりだった
 ようだが、どうも途中で頓挫してしまったようだ。
 衰退する一方の集落の姿が、なにやら物悲しい。

 スクムビット道路の果てになるこのプラカノンから、少し戻ったあたりに、
 屋台の道具類を扱う店が2軒ある。
 昔、パタヤに行った帰りにもよく目にしていたし、プラカノンにはネパール大使館も
 あり、ネパール・ヴィザ取得のために、このプラカノンにはよく足を運んでいた。
 もう20年近く前のことであるが、その頃から、この屋台の道具を売る店を、
 目にしていたのである。

 このところ、屋台について書いているから、この店を覘いてみたくなったのである。
 麺類の屋台なら、これ1台ですべての調理できるもの、屋台の上において使うガラス
 造りの棚、切り売りの果物の屋台、そんなものが 所狭しと 並んでいる。
 この店の女主人にいつ頃から、この店を始めたのか訊いてみたら、
 もうかれこれ30年になると言う。

 屋台用の道具の発達と、バンコク市内の道路網の発達は、大いに関係がありそうだ。
 この店が30年の歴史を持つとするなら、屋台の道具類が 商売として成り立って
 きたのは、ここ4,50年のことだろう。
 それは、バンコクの交通が 運河による水上交通から、道路による陸上交通に変わっていく
 時期と平行しているようだ。

 私が タイに訪れ始めた1980年代は、屋台文化の隆盛期だったのだろう。
 今は、都市の整備とともにどうも衰退期にあるようだ。
 規制もだんだん厳しくなってきているようだ。
 月曜日は、一斉に屋台は休みになるし、
 屋台道具も、道端に置きっ放しは許されない。
 その際の置き場所探しも、バンコク都心部ではなかなか難しい。
 屋台商売は、だんだん肩身が狭くなってきているようだ。

 屋台料理を楽しもうと思えば、川向こうのトンブリ地区にでも行くか、
 表通りでなく、路地裏あたりの屋台探して歩くより、仕方ないのかもしれない。
 
 下町庶民の生活には、屋台は必要なものだ。
 麺類一つとっても、屋台は25バーツ、店を構えておりところなら、
 30バーツ以上の値段である。
 この前、プラトゥナムの路地にある店で、麺類を食べたら、40バーツも
 取られてしまった。
 大して美味しいものでもなく、特別なものではなかったのに…。

 タイ政府が近代化近代化と唱えれば唱えるほど、
 庶民の暮らしは苦しくなってくる。
 安い屋台の料理は その日暮の庶民にとっては、救いの一つなのだ。


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バンコク 食べ物 | 12:48:56 | Trackback(0) | Comments(0)
ラオスの布 パー・ビアン(07)
パー・ビアン(07) 1
   幅 41cm x 長さ 180cm

パー・ビアン(07) 2

 ラオス サム・ヌア地方のシルクの肩掛け
 タイ・デーン族の織物だ。
 使っている糸は、シルクの草木染である。

 ラオスのラーオ族によるラーンサーン王国が、
 建国されたのは1353年のことだ。
 ラーオ族は もともと 中国南西部にあった南詔王国から
 やってきた人々で、タイに住むタイ族(小タイ族)と同じ民族だ。
 勢力を広げた時期は、チェンマイ・チェンライそして今のラオス、
 タイ等東北部、そしてカンボジア北部まで支配し、
 タイ国をしのぐほどだった。

 タイは、スコタイ、アユタヤと勢力を伸ばしていったが、
 ラオスは、後には三国に分裂し、タイ、フランスに支配され、
 今までの領土を失っていった。
 
 19世紀後半のトンブリ王朝、バンコク王朝の際には、ビエンチャンまで
 支配され、その時には、ビエンチャンの町は徹底的に破壊され、
 その当時のラオス人は、今の東北タイに強制移住された。
 ルアンパラバーンはフランスの統治下に入り、
 その後、ラオス全土はフランスの植民地にされてしまう。


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ラオスの布 パー・ビアン | 11:17:43 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐3 屋台の変遷
屋台文化考‐3 屋台の変遷 1

屋台文化考‐3 屋台の変遷 2

屋台文化考‐3 屋台の変遷 3

屋台文化考‐3 屋台の変遷 4

屋台文化考‐3 屋台の変遷 5

屋台文化考‐3 屋台の変遷 6

屋台文化考‐3 屋台の変遷 7

屋台文化考‐3 屋台の変遷 8

上3枚の写真は カトマンズ   下5枚の写真は バンコク


 カトマンズに初めて訪れたのは、25年前のことだ。
 その頃は、路上の物売りといえば、数知れていたものだ。
 よく見かけたものをいえば、道端で売られているチアーと呼ばれるミルクティーの露店、
 バソンタプールの旧王宮広場でバウン族のおばあさんが売っていた揚げドーナツ、
 揚げたては 美味しいが時間がたつと、硬くなり丈夫な歯が必要だった。
 夕方近くなると広場の隅っこで 商いを始めるモモ屋さん、そんなもので、
 あとはアッサン広場の果物や野菜売り、香辛料売りぐらいのものだった。
 大半の食べ物は、店を構えているところで売られていた。

 ところが、バンコクはといえば、20年前には、すでに屋台天国で、どこに行っても
 屋台は隆盛を極めていた。
 今よりもその頃の方が、路上の屋台は多かった気すらする。
 しかし、バンコクの屋台文化は、いつ頃から始まったのだろうか。

 20世紀初頭まで、バンコクの交通はといえば、水運、運河を中心としたものだった。
 ラーマ5世の時代までは、まだ運河拡張工事が盛んだったのである。
 次の国王ラーマ6世の時代から陸の交通に 眼が向けられ始めるようになるが、
 本格的に陸上交通の整備が行われるようになったのは、第2次世界大戦以降のこと
 だろう。
 それまでは、運河の水路を利用した船でも物売りの方が盛んだったのだろう。
 生活用品、食料の流通は船で行われていたし、道も発達していなかったから、
 運河の水路を使う方がよほど便利だったはずだ。
 そうとなれば、路上の屋台はまだ発達しておらず、今 屋台で売られているもの食べ物は、
 船を利用して売られていたことになる。

 中華街やその近くのラーマ5世によって開通した鉄道の起点となるフアランポン駅周辺には、
 中国人による屋台の原点はあったのかもしれない。
 タイ人であれば、棹の両端に籠をぶら下げ、食べ物を売り歩いていたのだろう。

 古き情趣あふれる世界が、そこにはあったのだろうし、運河の水路を利用して、
 船を漕いで 食べ物、麺類、商品を売るのんびりした時代、
 古きよき時代があったはずである。
 バンコクの川向こうのトンブリ地区にあるまだ生き続けている運河に行けば、
 船を使って、ものを売る人の姿がある。
 果物、惣菜、生菓子、生活用品と売るものは様々である。

 バンコク側の運河といえば、すっかり水は 汚れ果て、水上バスは今なお走っているが、
 舟を漕いで、物売りなどは出来なくなっている。
 道路が整備され、陸上での屋台での物売りが盛んで、船を使っての物売りなど
 無縁の世界になっている。

 戦後、経済発展にあわせ、運河をつぶし、道路に変えていったことが、
 路上での屋台を発達を促すようになったのである。
 これは、タイ人式やりかたではなく、中国人式やりかただろう。
 昔ながらの運河を利用した商いの姿は、観光目的のバンコク郊外の水上マーケットに
 その姿を残している。

 東洋のヴェニスと言われた古いバンコクの姿を見つけることは難しくなった。
 便利さを求めれば、大切な別のものを失うことは避けられないことなのだ。
 便利さだけを追及すれば、都市はどういう姿になっていくのか、
 東京はそれの手本である。
 バンコクの街もそれを追従している。
 そのうち、バンコクから屋台そのものもなくなってしまうかもしれない。
 日本がそうであったように。


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バンコク 食べ物 | 11:12:55 | Trackback(0) | Comments(2)
ラオスの布 パー・ビアン (06)
ラオスの布 パー・ビアン(06) 1

ラオスの布 パー・ビアン(06) 2

 ラオス サム・ヌア地方のシルクの肩掛け
 タイ・デーン族の織物だ。
 使っている糸は、シルクの草木染である。
 織り込まれている紫色は、化学染料だろうか。
 複雑な紋織りの文様の中で、
 紫色の糸が、ポイントになっている。

 この肩掛けは、日常使うものではなく、
 特別の行事の際、正式の民族衣装とともに
 用いられるようだ。
 自分のためや家族のために織り上げるものであって
 売り物ではない。
 ひたすら、織物の中に、祈りを織り込む作業だ。

 今のラオスの織物を見ても、
 この布の中にある緊張感を感じることは出来ない。


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ラオスの布 パー・ビアン | 01:35:22 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータンの布 男性民族衣装 ゴ (02)
男性民族衣装 ゴ (02) 1

男性民族衣装 ゴ (02) 2

 ブータンの男性用民族衣装 ゴ 
 生糸で織られたメンセ・マタから 縫われたゴ、
 生糸のゴは、身分の高いものだけが、着ることを許される。

 ブータンでは、ゴを着ることは、国民の義務である。
 子供から老人まで、すべての国民が ゴを身に着けている。
 王室、高級官吏、庶民と布の材質に合わせて、ゴを縫う。
 生糸で織られた布のゴ、
 ブレと呼ばれる天然シルクの手紡ぎ糸で織られたゴ
 木綿で織られたゴ、インドから輸入された布も使われる。

 現国王が王子のときに ゴを身につけて 王国のタイを 訪問した際には
 タイの若い女性から、熱烈な歓迎を受けたという。
 タイでも、なかなかの人気者の元国王である。


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ブータン 男性民族衣装 ゴ  | 20:35:30 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐2 タブー
屋台文化考‐2 タブー 1

屋台文化考‐2 タブー 2

屋台文化考‐2 タブー 3

屋台文化考‐2 タブー 4

屋台文化考‐2 タブー 5

屋台文化考‐2 タブー 6

 カトマンズとバンコクの屋台文化を考えるとき、宗教の違いが、屋台文化の発展に
 影響を与えていることが良くわかる。

 バンコクの場合、90%近い人が 仏教徒であり、食べ物に対しては、あまり制限の
 ない国である。
 肉食も、豚肉、牛肉、鶏肉と大半の肉は、食べても差し支えない。
 ただ、タイにはイスラム教徒もいるので、彼らの居住地区であれば、豚肉はご法度だ。

 カトマンズの場合は、ヒンズー教徒と仏教徒が共存している街である。
 本来であれば、ヒンズー教徒は、豚肉、牛肉、水牛肉は食べない。
 豚は穢れたもの、水牛は悪魔の乗り物、牛は神様であり、神様の乗り物ということで
 食べない。
 インドのヒンズー教では、ブラーマンは 菜食主義者で肉を食べないが、
 ネパールのブラーマン、バウン族は、ヤギ肉、魚肉は食べるようである。
 しかし ウッパディアと呼ばれるヒンズー教の祭儀を行うバウン族は、菜食主義者の
 ようだ。

 ネワール族の場合は、ヒンズー教徒であっても、水牛肉は食べる。
 食べ物について言えば、肉食、菜食とは別に、カーストの穢れの問題がある。
 低いカーストの人間が調理したものは、高いカーストのものは食べない。
 この辺のことは、高カーストのバウン族、チェットリ族では、食に関しては、厳しい
 制限がある。
 家族内においても、台所でご飯を炊く、ダールという豆汁を作るのは母親の仕事で、
 結婚前の娘は調理することは許されない。
 おかずを調理することは許される。
 カトマンズに住んでいるネワール族においてもそれに近い制限がある。
 低いカーストの人間は、台所に入ることは許されないし、低いカーストの調理した
 ダール(豆汁)、ご飯は食べないというのが一般的である。
 ただ、チューラ(乾し飯、炊いたご飯を平たくつぶし、乾燥させたもの)とタルカリ
 (野菜カレー)などであれば近いカースト同士であれば、問題はなかったようだ。

 もし外で食べるということなら、それなりの料理する調理人のカーストのはっきりした店
 ということになる。
 屋台などという得体の知れない場所での飲食などとんでもないことになる。
 カーストの低いものとともに食事を取るということもありえない世界である。
 それが、20年以上前のカトマンズの世界であり、60歳を過ぎた年寄りたちの姿で
 ある。
 カトマンズから離れた村々では、仏教徒の住む村を除けば、今でも頑なに昔ながらの
 穢れの習慣は守られている。

 それがここ10年ですっかり様変わりをしたカトマンズである。
 バソンタプールの旧王宮広場あたりには、夕方になると、多くの屋台が並び始める。
 モモ(蒸し餃子)、ハンバーガー、各種ソーセージ(鶏、豚、水牛肉)のフライが売られ、
 若者たちは、当たり前のことのように、屋台の食べ物をぱくついている。
 バウン、チェットリ、ネワール、タマン、グルン、マガールと抵抗なく、すべての民族、
 カーストの若者たちが、群がっている。
 この屋台の商いの形は、どうも、バンコクあたりの屋台をまねているようだ。
 ヒンズー教のタブーには こだわりを持たなくなった若者たちの姿だ。
 新しいネパールの姿を予測させるものであるが、中年以降のネパール人の姿はない。
 こうした若者たちの姿を見ていれば、王制廃止、連邦共和制採択も、時代の流れの
 ように思われる。
 こうした若者たちが、今後 どういう信仰を持つのかは わからない。
 しかし、宗教に左右されることなく、自由に好きなものと食べるというのは、
 インドよりもよほど、先を進んでいる。

 こうした自由な若者の姿を見るにつけ、どう ネパールは変わっていくのか、
 まだ方向性は見えては来ないが、変わっていくことは変わっていくだろう。
 少なくとも、国王を、ビシュヌ神の化身である神王と見なさないことは 確かなことである。


 ** 写真 上の3枚がカトマンズ 下の3枚がバンコク


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バンコク 食べ物 | 12:16:47 | Trackback(0) | Comments(2)
ラオスの布 パー・ビアン(05)
パー・ビアン(05) 1
   幅 48cm x 長さ 64cm

パー・ビアン(05) 2

 ラオス サム・ヌア地方のシルクの肩掛け
 タイ・デーン族の織物だ。
 使っている糸は、シルクの草木染である。
 複雑な紋織りの文様が 素晴らしい。

 優れた織物には、織り手の内面世界が織り込まれている。
 それは 自然に対する愛や恐れ、
 あるいは、彼女の宗教的なシンボルも織り込まれる。
 そのことによって、布が魔よけの役割をする。


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ラオスの布 パー・ビアン | 01:34:58 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感
カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 1

カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 2

カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 3

カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 4

カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 5

カトマンズからバンコクへ 屋台文化考‐1 清潔感 6

 カトマンズからバンコクへと生活の場所が移ると はっきりと変わってしまうものは
 食生活である。
 カトマンズでの食生活といえば、大抵が 自炊の毎日だった。
 野菜が安く、自炊する方が安上がりだったせいもある。
 バンコクではというと、ご飯は自分で炊くが、惣菜は路上の屋台から買ってくることが多くなる。
 バンコクは、このところ物価の値上がりが激しい。野菜なども値上がりし、ひとりで
 生活していると、高い野菜を買ってきても、使い切れず 無駄にすることになる。
 そのくらいなら、路上の屋台で惣菜を買ってくるほうが、安上がりなのである。
 ご飯の炊きおきがなければ、麺類を食べればよい。
 それよりも大きいことは、屋台の食べ物の種類の豊富さである。
 これは、ネパール・インド辺りと比べても大きな違いである。
 
 最近では カトマンズでも路上に多くの屋台が出るようになったが、埃舞うカトマンズ 
 の街中では、どうも食べる気になれなかった。屋台の回りもゴミだらけ、これでは、
 雑菌も一緒に食べるようで、利用する気にはなれなかった。
 路上の物売りから買って食べたものといえば、切ったばかりの切り売りの
 スイカぐらいのものである。切ったばかりのものであって、時間を置いたものではない。

 どうもカトマンズとバンコクの屋台の清潔感の違いは、水の豊富さの違いによるようだ。
 又、清潔を保とうとする国民性の違いもあるだろう。
 バンコクでは、屋台の持ち主が、責任を持って、屋台の周りの清潔さを保つ義務がある。
 ゴミの始末、道の清掃、屋台の商い終了後の清掃と 責任を持って行っている。
 これを怠れば、屋台の商いは、禁止されてしまう。

 カトマンズでは、道の清掃、散らかったゴミの処理は、清掃を生業とするカーストの
 人たちの仕事である。
 だから、このカーストに属さない人は、野外での清掃には手を出そうとしない。
 街の清掃を行う人も、大抵は、朝と夕方の2回だけであるから、その間の時間帯は、
 街はゴミだらけになる。
 又、彼らは、ゴミを集めるだけで、汚れた箇所を 水を使ってきれいにすることはない。

 とにかく、水不足のカトマンズである。
 水を手に入れることも簡単ではない。
 水を使って清掃しないから、カトマンズの街は、薄汚れた感じになってしまうのだ。
 通りの建物も同じである。古い建物に埃が 降り積もっている。
 ひとたび風が吹けば、これが舞い上がるのである。そして、それらの埃が、屋台の
 食べ物にふりかかる。
 こんなことは当たり前のことと思っているのか、今時の若者たちは、平気で屋台の
 食べ物をぱくついている。
 こうなると、習慣以外のなにものでもない。

 これは水の豊富なバンコクと 水の不足がちな山の街カトマンズということもあるが、
 もう一つには、清潔、不潔の感度の国民性の違いにもよるだろう。
 それは、長い歴史の中で 水の豊富な国、水の乏しい国という違いから生まれてきた
 生活習慣の違いなのかもしれない。
 ただ バンコクは古くからの屋台文化の国、ネパールの屋台文化は、ここ10年くらいで、
 盛んになってきたものだ。
 人口増加の著しいカトマンズ、街の不潔さは増すばかりだが、屋台文化の発展が、
 病気を蔓延させる原因にならないかと心配になる。
 雑菌に対するネパール人の抵抗力は、他の先進諸国の人たちに比べれば、はるかに
 優れているとは思うが。


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バンコク 食べ物 | 10:57:31 | Trackback(0) | Comments(2)
エピソード インド 思い出のコバラムビーチ
 コバラムビーチは ケララ州の州都 トリブヴァンドラムから
 バスで30分のところにあるこじんまりしたビーチだ。
 そこに1986年1月に訪れた。
 砂浜の後ろに、茅葺きのレストランが、並び、ビーチでは土地の子供たちが、
 果物を売り歩いていた。
 アラビア海の水は、冬でも暖かく、水に漬かっても、暖かく感じられるほどだった。
 旅行者は、少し大きな波を利用して、ボディサーフィンを楽しんでいた。

 当時は、旅行者の数も少なく、全部あわせても2,30人ぐらいだった。
 昼になると、思い思いに、ビーチのすぐ後ろにあるレスランで、昼食を取る。
 伊勢えびのサラダなど、値の張るものも遭ったが、貧乏旅行者、食べるのは、
 せいぜい、ムール貝のピラフが精一杯だった。
 隣では、ボンベイから遊びに来ていたインド人親子が、伊勢えびのサラダを
 食べていたのが癪だった。
 インド人でありながら、親子の会話は、英語だった。

 もともと、リゾート好みでない私は、もっぱら、周辺のビーチを歩き回ったものである。
 そこは、土地のインド人たちの生活場所であった。
 と同時に、砂浜は、彼らの朝のお勤めの場所、トイレでもあったのだ。
 砂に隠れた汚物は、気をつけようもなく、たびたび、踏みつけてしまったものだ。

 ビーチのすぐ上の丘に、白い灯台があり、そこから、水平線を眺めると、
 水平線が湾曲して見え、地球は丸いということ、実感させてくれた。
 すぐ隣のビーチに行くにしても、必ず、丘を登らなくてはならない。
 隣のビーチは、不思議なビーチであった。ビーチの片半分にイスラム教徒が住み、
 もう片半分にはキリスト教徒、後ろの丘にはヒンズー教徒が住むという奇妙な地域
 だった。

 そのビーチには、値段も安いということで、よく食事に行った。
 イドリー(米で作ったロティ)、魚のフライ、酸っぱいスープ、そんなものをよく食べた。
 さらにそのビーチを過ぎて、ビーチ沿いに歩いていると、伊勢えびを採っている漁師に出くわし、
 捕まえたばかりの伊勢えびを見せ、25ルピーで買わないかと
 持ちかけられたこともあったし、いきなり、中年の女性が 私に声をかけ、
 蒸したばかりのムール貝をご馳走してくれたこともあった。
 まだ、素朴なインドが、残っていたのである。

 浜ではよく地引網が引かれおり、旅行者にも参加させてくれたものだ。
 醤油と味噌でも持っていけば、豪華な魚介料理も満喫できるはずだ。

 あれから、20年以上経ってしまったのであるが、再び、行ってみたい気もするが、
 あの当時と同じ、想いをさせてくれるだろうかと心配のもなる。
 ケララ州の船旅も懐かしいな。

 インド旅行は、いつも新鮮な驚きを与えてくれる。
 ここしばらく インドには行っていないが、やはり 行きたくなる。


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エピソード | 01:38:26 | Trackback(0) | Comments(0)
ラオスの布 パー・ビアン(04)
ラオスの布 1

   幅 39cm x 長さ 188cm

パー・ビアン(04) 3


 ラオス サム・ヌア地方のシルクの肩掛け
 タイ・デーン族によって織られている。
 使っている糸は、シルクの草木染である。


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ラオスの布 パー・ビアン | 15:19:14 | Trackback(0) | Comments(0)
インドサリー(25) 刺繍シルクサリー
インドサリー(25) 刺繍シルクサリー 1

インドサリー(25) 刺繍シルクサリー 2

インドサリー(25) 刺繍シルクサリー 3

 クレープシルク布の上に刺繍を施したシルクサリー
 一針一針、丁寧に刺繍、マスタークラスの仕事だ。
 貧しいイスラム教徒の手仕事である。
 自分が身に着けるためではなく、生活のために請け負う仕事だ。

 インドで刺繍の仕事のほとんどは、イスラム教徒の仕事である。
 刺繍で有名なカシミール、ラジャスタンでも、
 イスラム教徒が力を発揮している。

 http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/19587444.html

 ブログのこの記事で サリーに刺繍をする様子を取材しました。


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インド サリー | 13:59:56 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 今日の昼ごはんは!
バンコク 今日の昼ごはんは 1

バンコク 今日の昼ごはんは 2

バンコク 今日の昼ごはんは 3

バンコク 今日の昼ごはんは 4

バンコク 今日の昼ごはんは 

 2008年 6月 12日のこと

 すっかり 雨期に突入してしまったバンコクだ。
 日本も九州地方は、梅雨入りに入ったと聞く。
 今日も重苦しい雲が、バンコクの空を覆っている。
 気温は上がらないが、湿気で蒸すような天気だ。
 こんな天気の中では、外に出かけるのも二の足を踏んでしまう。

 まあ、とにかく近くの屋台に 昼ごはんの調達に出かけることにした。
 最近は、ご飯を炊いていれば、近くの屋台から、惣菜を買うことにしているし、
 ご飯がなければ、これも又、近くの屋台で麺類を食べることにしている。
 今日は、豚足の煮込み(カー・ムー)を買ってきて、豆腐と青梗菜を加え、
 再び、煮込み、ご飯のおかずにしようと思ったが、いつもの店が、昨日も今日も
 休みである。
 仕方がないので、今日はいつもの東北タイ料理の店で、
 東北タイ料理を買ってくることにする。
 もう10年来の行きつけの店である。
 東北タイのロイエットからやってきている家族だ。
 
 朝の8時前から用意を始め、仕事が終わるのは8時過ぎという重労働である。
 夫婦と、奥さんの弟で切り盛りをしている。
 子供は息子、娘が一人ずつ、私は知り合ったときには幼かった子供たちも、中学生と
 小学生である。
 あまり愛想のない夫婦であるが、安い値段で、良質のものを売っている良心的な店だ。
 物価高にあえぐバンコクだが、この店だけは値上げをした気配はない。

 今日この店で買ったおかずは、カイ・ヤーン(鶏の足をハーブ入りの醤油に漬け込み、
 炭火で焼いたもの)、ケーン・カイ(タマリンドの酸っぱい実とハーブで味をつけた鶏肉スープ)、
 ミャム(豚肉のひき肉と炊いたご飯を混ぜ合わせ、発酵させたものを炭火で焼いたもの)、
 カイ・ヤーンは25バーツ、ケーン・カイは20バーツ、ミャムは10バーツ、
 しめて55バーツ(約180円)だ。
 東北タイの人はこれに蒸したもち米ということになるが、
 私の場合は、家で炊いた白米ということになる。
 ただ困ることは、東北タイ料理の唐辛子の辛さに慣れるまでは、お腹が緩みがちに
 なってしまうことである。
 胃や腸が辛さを受け付けてくれるようになるまでには、少し時間がかかる。

 もう一つの屋台は、小さな店で、やはり東北タイからやって来たおばさんが商いを
 しているが、焼き物とソムタム(パパイヤサラダ)ぐらいで、品数も少なく、時々
 利用するだけだ。ソムタムの味付けが、甘くて、私の好みではない。

 通りでは、1キロ15バーツで ランブータン(ゴ)も売っていたので、デザートに
 買う。
 売っていた女の子は、やはり東北タイのウボンからやってきている女の子だった。

 路上での商いの大半は東北タイからの出稼ぎの人々の仕事である。
 大きな商いは中国人、その日暮らしの稼ぎしか得ることの出来ない小さな商いは、
 タイ人、それも東北タイの人々の領分だ。
 皆、中学を出たか、出ないかの学歴しかない人々が 手にする仕事である。
 タイ バンコクでも生活の格差は、確実に拡がっている。
 これが、発展という幻想の真の姿なのである。


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バンコク 食べ物 | 10:49:46 | Trackback(0) | Comments(0)
エピソード インド 3等列車の中で
 無事にカルカッタに到着したが、翌日は、マドラス(チェンナイ)へ行くのだ。
 インド・ケララの友人が、コマンダーリ ・エクスプレスの急行列車のセカンダリー
 ・スリータイヤーベットの予約をしていてくれたのである。格好いい名前であるが、
 カルカッタ・マドラス間は。28時間もかかるのだ。
 それが、22年前のインド・マドラス間を走る最速列車だったのである。
 (事実、帰りのマドラス・カルカッタ間は、45時間かかった。列車の中で2昼夜を
 過ごしたのである。)
 昼の12時に出発した列車は、翌日の夕方の6時に着いた。
 寝ていけたので、大して疲れもしなかったが。
 
 次は、マドラスから、彼の故郷のパイヤヌールへと向かう。
 彼は そこまでのチケットの予約はしていなかった。
 やって来た列車は満員、乗り込むのも大変な3等列車だ。

 乗客のインド人をかき分け、かき分け、やっとの思いで、
 乗り込んでも、全く席はないのである。夜の8時である。
 通路にも人があふれ、座ることも出来ない。
 そんな状態の中で、3時間、如何に私でも、疲れる。

 ふと、上を見上げると、網棚が空いている。
 前に読んだ誰かの旅行記に 込んでいる時は、網棚の上で寝るに限ると
 書かれてあった。
 これはチャンスとばかり、網棚の上によじ登り、寝転がろうとするが、
 うまく安定が取れず、心地よいものではない、
 座ると、頭が、天井にあたり、これもうまくない。
 あれは、嘘である。
 網棚で寝るなど出来るはずはないのである。

 あのインド人が、そんなことはしないのである。
 インド人は、賢明である。
 馬鹿なことはしないのである。
 可能であれば、網棚が空いているはずはないのである。
 インド人が、まずは、その場所を占めるのが、当然のことである。
 あんな旅行記を書いた奴は、ろくでもない奴だと、内心怒りながら、すごすごと
 元居た場所に戻る。

 立ったままの状態が、明け方まで続き、朝になって、やっと、席が空き始めたのである。
 もうこれ以上はないというぐらいに、疲れ果てた夜だった。
 恨みがましい眼をインド人の彼に向けたが、こんなことは、当たり前だという顔を
 しているのである。

 乗客も少なくなり、目的地も近づく頃になって、初めて横になることが出来た。
 後1時間で 彼の故郷 パイヤヌールに到着する。

 彼にとっては、3年ぶりの帰郷だ。
 家では、65過ぎの母親と妹が、待っている。
 パイヤヌールには嫁いだ二人の姉も居る。
 彼にとっては、感無量の帰郷だろう。


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エピソード | 02:52:48 | Trackback(0) | Comments(0)
ラオスの布 パー・ビアン(03)
パー・ビアン(3) 1
 幅45cm x 長さ192cm

パー・ビアン(3) 2

パー・ビアン(3) 3

ラオス シェンクアン地方のシルクの肩掛け
タイ・デーン族によって織られている。

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ラオスの布 パー・ビアン | 01:42:07 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 中華街の東北タイ料理の屋台
バンコク 中華街の東北タイ料理の屋台 1

バンコク 中華街の東北タイ料理の屋台 2

 昼飯時に バンコクの街の中を歩いていれば、どこでも眼にするようになった
 東北タイ料理の屋台だ。
 バンコクの出稼ぎに出てきている人間の多くが、東北タイの人々だからだ。
 バンコクの中華街ヤワラートでも例外ではない。
 というのも、中華街で身体を使って仕事をしているのは、東北タイからの若者が多いからだ。
 昔は 中華街の肉体労働といえば、中国からの出稼ぎの人々であったが、
 1932年の立憲革命によって、農民を土地に縛り付けていたサクディ・ナー制が
 廃止されると、農民のタイ国内の移動が自由になり、タイ各地からの農民たちのバンコクへの
 移動が始まってくる。

 東北タイの農民たちの本格的な出稼ぎは、1980年以降のことである。
 苦しい農作業に耐えてきた東北タイ農民は、肉体労働で 音をあげることはない。
 バンコクでの建設現場、荷担ぎなどの重労働は、東北タイ農民の出稼ぎの人々が
 担っているのである。
 中華街での身体を使う仕事は東北タイの若者たちであることから、中華街のどこかには
 東北タイ料理を売る屋台があるのだ。
 私が通りかかったこの屋台でも、屋台の前に並べられたテーブルの前に 
 何人かの若者たちが座り、東北タイ料理を蒸かしたもち米と一緒に食べていた。

 東北タイのコンケンに7年ばかり住んだことのある私にとっては、いつも懐かしさを
 感じさせる光景だ。
 ソムタム、カオニャオ、スーブノーマイ、カイヤーン、トム・クンナイ、ケン・カイ
 ラープ、ナムトック、プラー・ソムと いくらでも料理名が 浮かんでくる。

 バンコクに出てきても、豊かな生活が出来るわけでもない。
 月6千バーツ以下の給料では、刺激的なバンコクライフを楽しむことも出来ないだろう。
 こんな若者の姿が、ネパールのカトマンズで働いている村からの若者の姿と重なる。

 ラーメン一杯が 路上の屋台では25バーツ、店なら30バーツ、米の値上がり、
 路上で売られている惣菜も値上がり、給料は上がらないときたら、
 次には何が待っているのかと、心配にもなる。
 タイでも日増しに凶悪犯罪が増えている。人々の暮らしなど、そっちのけで、政治家たちは、
 二つに分かれ、権力争いをしている。
 憲法改正の是非より、国民、貧しいものの暮らしを考えてくれと、声を上げても、
 彼らには届かない。
 これもネパールと同じである。日本も同じだろう。

 声を上げる場所がなくなれば、どういう行動が 生まれてくるのか、考えるだけの知恵を
 持たなくなった政治家たち、全く困ったものだ。

 財布の中身にあっただけの東北タイ料理を腹八分目に食べ、東北タイの若者は、
 希望の見えない仕事に向かって帰っていった。


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バンコク ある風景 | 09:44:08 | Trackback(0) | Comments(0)
インド エピソード 名も知らぬインド国境越え
 もうかれこれ、24年前の12月のことである。
 カトマンズで知り合ったケララ州のインド人と親しくなり、彼と一緒に、
 彼の故郷に行くことになった。
 チケットの手配は、すべて彼に任せ、まずは、バスで ネパール・インド国境 
 カーカルビッタへ行く。
 カルカッタへ行くのだから、ビルガンジの国境を利用して、ムザッファルプルから
 鉄道で、カルカッタに行くのが普通であるが、彼は、シルグリからツーリストバスを
 利用してカルカッタへ行く方法を取ったのである。

 別段、それはそれでいいのだったが、二人して、ネパール側のイミグレーションを
 無事に超え、次は、インド側のイミグレーションに向かい、手続きを始めた途端に、
 イミグレーションのオフィサーから、クレームがかかった。

 ― 君、君のパスポートには、ダージリン・パーミッションがないではないか。
  インド国境を越えることは許可できない。

 私は、ダージリンにいく場合のみ、ダージリン・パーミッションが必要だと
 思い込んでいたのだ。 これは困った。
 仕方がないので、同行の彼には、カルカッタのサダル・ストリートのパラゴンホテルで会おうと
 約束して、私のほうは、とぼとぼと、もと来たネパール側イミグレーションへと
 引き返したのだった。

 ネパール側のイミグレーションのオフィサーに事情を話すと、カーカルビッタから
 1時間ぐらい行った所に、別のイミグレーションがあると言う。
 行き方を詳しく聞いて、乗り合いバスを乗り換え、乗り換え、やっとの思いで
 そのイミグレーションへと辿りつく。

 イミグレーションとは、名ばかり、小さな掘っ立て小屋のような建物の中に
 のんきそうな警察官が、一人いるのみである。
 ネパールとインドの境には、細い小川が流れているばかり、パスポートを見せ、
 事情を話すと、OK、行きなさいという。
 行きなさいと言われても、インド側のイミグレーションが見当たらない。
 インド側のイミグレーションはどこかと聞くと、遠くを指差して、あの白い建物だと
 答える。
 小さな橋を渡って、インド側へと足を進めていく。
 インド側のイミグレーションものんびりしてもので すんなり入国スタンプを
 押してくれる。

 しかし、しかしである。
 私が今、自分がどこにいるのか、皆目、検討はつかないのである。
 地図もなければ、案内書もない。
 わかっていることはと言えば、カルカッタに行くことだけだ。

 オフィサーに訊くと、外にいたリキシャに バス停まで私を運ぶように
 言ってくれている。
 インド人もなかなか親切なのである。
 そして、そこから、バスで、カルカッタ行きの列車が到着する駅に行くことになる。
 駅の名前を教えてもらったが、今は、もう、覚えていない。

 すし詰めのローカルバスに乗って、駅へと出発だ。
 ここまでたどり着くのにもう、夕方近くになっている。
 バスは、大きな夕陽を追いかけて ひたすら、インド平原を走っていく。
 あたりは、どんどん暗くなり、村々の夕食の用意の火が、ちらちらと燃えているのが
 見える。
 このあたり、まだ、電気は来ていなかった。
 このあたりといっても、このあたりが、どのあたりかは全く知らない。
 真っ暗だった周辺が、段々明るくなり、街に入り、駅に到着。

 駅でカルカッタまでのチケットを買う。
 時間は、午後8時過ぎ、列車到着は、午後11時、この夜は、インドといっても
 やたらに寒い夜だったのだ。着るものがない。

 というのは、あの同行のインドの友人、故郷のお土産に、
 やたら中国製のビーチサンダル、万年質を買い込み、国境での関税を嫌がり、
 私の衣類は、彼のかばんの中へ、私のザックの中はといえば、彼の買い込んだ
 中国製のビーチサンダルと万年筆ばかり、私の着るものは彼のかばんの中だ。

 周りのインド人たちは、皆、ウールのショールをはおり、寒さから身を
 まもっているのに、がたがた震えているのは、私ばかりだ。
 列車到着までまだ3時間もある。
 やっと来た列車に乗り込んでも、寒さは変わりなく、眠れたものではなかった。

 夕方、やっとハウラー駅に到着、17時間の長旅だった。
 タクシーに乗り込み、大急ぎでサダル・ストリートのパラゴンホテルへたどり着くと、
 パラゴンホテルの前で、彼は待っていた。こっちの苦労は何も知らないで。


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エピソード | 09:08:32 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータン キラ ジャンシェン (22) 
ブータン キラ ジャンシェン (22) 1

ブータン キラ ジャンシェン (22) 2

ブータン キラ ジャンシェン (22) 3

 ブータン 女性用民族衣装 キラ ジャンシェン
 1970年ごろに織られたもので、緑の地の上に文様を
 織り込んだものをジャンシェンという。

 クシュタラやノシェムに比べると 織られることは少ないようだ。
 ブータンで織られる片面縫い取り織りで織られるキラの地の色は、
 白、青、黒、緑と大体4種類あるようだ。
 色によって、身分なり、年齢の違いを表しているのだろうか。
 この辺のことはどうか、知りたいものだ。
 王室、上層階級、庶民で着る衣装の違いはあるのだろうか。
 あっても不思議ではない。


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ブータンの布 キラ ノシェム | 01:44:58 | Trackback(0) | Comments(2)
ブータン布 キラ ノシェム(20)
キラ ノシェム(20) 1

キラ ノシェム(20) 2

キラ ノシェム(20) 3

 ブータン 女性用民族衣装 キラ ノシェム
 1970年ごろに織られたもの
 
 1970年以降、ブータン女性の間で流行り始めたノシェム、
 どんな国でも女性は、流行には敏感なものだ。
 1年もの時間をかけて キラを織り上げる忍耐力は女性のものだ。
 男では到底出来るものではない。
 家にいることが多い女性という利点はあっても、
 織物という行為は、太古の昔から、女性が育んできた力なのだろう。
 飽きっぽい男には、やはり出来ないだろう。

 このノシェムも、細かい文様がびっしりと織り込まれている。
 様々の色の糸を使い、糸がこんがらがったり、混乱することはないかと
 心配になる。
 熟練の力は大したものだ。


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ブータンの布 キラ ノシェム | 00:50:42 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 中華街ヤワラートで スコールに
中華街ヤワラートで スコールに 1

中華街ヤワラートで スコールに 2

中華街ヤワラートで スコールに 3

中華街ヤワラートで スコールに 4

中華街ヤワラートで スコールに 5

中華街ヤワラートで スコールに 6

中華街ヤワラートで スコールに 7

中華街ヤワラートで スコールに 8

中華街ヤワラートで スコールに 9

中華街ヤワラートで スコールに 10


 前回の2007年12月から2008年3月初めのバンコク滞在の折に、バンコクに
 ついては、かなり集中的に見てきたせいか、新しい興味がなかなか湧いてこない。
 これは、バンコクの200年という歴史の短さによるものなのだろうか。

 部屋の中で、暑さを避けていても、新しい好奇心は生まれてきそうもないので、
 今日は、午後から中華街に行ってみることにした。
 午後2時近くのバンコクの陽射しは熱い。何かと求めて動くには、よほどの動機が
 必要だ。

 MBKセンターの横の国立競技場の前のバス停に立ち、中華街方面に向かうバスを待つ。
 バスを待つ人々も、今日のうだるような暑さにげんなりしている様子がうかがわれる。
 73番の冷房バスに乗れば、直接ヤワラートの通りへ向かうし、47番のバスに乗れば、
 中華街のはずれを通る。

 47番のバスが 先にやってくる。このバスであれば7バーツ、73番の冷房バスで
 あれば14バーツの運賃である。

 バスを、中華街のはずれで下りると、この辺一帯は、工具・機械製品の店や露店が
 並ぶ場所だ。この暑い陽射しを耐えているのは、売り子ばかりで、客の姿は少ない。
 この真昼の午後にうろうろと歩き回っているのは、私ぐらいのものだろう。

 人混みを避けて、ひたすらチャオプラヤ川の岸辺を目指す。
 途中、百年近く前に 時の国王ラーマ5世が 王室の経済安定のために建てた長屋風の
 店舗にぶつかる。王室財産だけあって手入れは 行き届いている。
 中華街一帯には、こうした王室財産である長屋風の店舗が多い。
 近頃は、家賃も値上げしたというが、それでも民間に比べれば はるかに安い。
 店舗と2階部分の住居を合わせて、5,6千バーツだろう。
 中国人は恵まれているのだ。

 その一帯を通り抜けると、チャオプラヤ川沿いに走る通りに出る。
 チャオプラヤ川の水運を利用していた商いの中心的な場所だったところだが、
 今はその勢いはない。商品の倉庫が建ち並ぶ一帯になっている。
 その通りの小さな路地の向こうに茶色に濁ったチャオプラヤ川の流れが見える。
 川辺は駐車場になっているようだ。
 路地を抜け、岸辺に立つと、茶色に濁った水をたたえたチャオプリヤ川が、
 悠々と流れている。今日の散歩の目玉だ。しばらくこの眺めに見入る。

 ここから少し歩くと、道の反対側に中国廟、中華街ならではの建物だ。
 その庭は駐車場になってしまっている。お寺も多角経営の時代なのである。
 その近くの路地には、昔風の趣のある建物がある。
 ここだけ見ていれば、何十年か前の中華街である。
 心がほっとする風景である。
 年とともに刺激的な光景は避けるようになってきているようだ。

 再び ヤワラートの賑やかな通りへと向かう。
 目当ては、中国人の年寄りたちの集まる茶店のチャー・ダム・イェーン(甘い中国茶)である。
 以前の素敵な雰囲気の店から、引越し、雰囲気が失われ、ちょっとがっかりさせられているが、
 それでも中国人の老人たちの溜り場としては、盛況だ。
 近くの中国饅頭の店で、いくつかの中国饅頭を買い、店に入ると、激しい雨が降り始めた。
 まさしく、熱帯特有のスコールである。
 もうバンコクは、雨季の装いである。
 雨が止むまでの30分間、老人たちの様子を眺めていた。


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バンコクを歩く | 12:49:12 | Trackback(0) | Comments(0)
インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー
インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー 1

インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー 2

インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー 3


インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー 4

インドサリー(23) インド 刺繍シルクサリー 5

クレープシルク布の上に刺繍を施したシルクサリー
針を使った刺繍とアリ刺繍と呼ばれる器具を使った刺繍の両方が
使われている。
この頃では、コンピューターを組み込んだ刺繍機械を使っての刺繍が増え、
手刺繍が少なくなってきているし、洗いが簡単だということで、化学繊維に
刺繍されることが多くなってきている。
シルクの上の刺繍、そしてシルク布の肌触りは、化学繊維では味わえない。
こんな刺繍シルクサリーから、ドレスを作る人もいる。
このサリーに使われているクレープシルクなら、充分な強度もある。

http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/19587444.html

ブログのこの記事で サリーに刺繍をする様子を取材しました。


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インド サリー | 11:51:27 | Trackback(0) | Comments(2)
エピソード インド‐1 インドの歯医者

 ネパールの歯の治療体験に続いて、インドでのこともついでに書いてみよう。
 これは、10年前のこと、奥歯のセメントが取れ、カトマンズで、治療してもらった
 けれど、翌日には、すぐに取れてしまった。
 再び、セメントを詰めてもらい、もう大丈夫と言われ、2,3日後には 
 安心してインド・デリーへ向かった。

 インドに着くや、否や、又、詰めていたセメントが取れてしまう。
 セメントが取れてしまうと、冷たいものが滲みて、食べるにも困る有様だった。
 1週間のデリー滞在中、これでは大いに困る。

 ニューデリー、パハールガンジの安宿街に 宿を決めると、早速、歯医者を探し始める。
 バザールでインド人に訊き訊き、やっと、歯医者らしきものを見つける。
 中に入ってみると、そこに置かれている機械は、大英帝国植民地時代から
 使われているような代物で、おどろおどろしい姿で置かれている。
 歯医者も同じように、大英帝国植民地時代から、歯医者の仕事を続けているような
 老人なのである。
 一瞬、逃げ出そうと思ったが、いや、インド人は、ネパール人と違って手先が器用だ。
 もしかしたら、もの凄い名医かもしれない。
 一度、試してみるのもいいかもしれない。

 そこで、その古色然たる治療椅子に座り込むも、やはり怖いのである。
 無愛想な老医者は、笑顔一つ見せることもなく、口をあけるようにと言う。
 痛かったら、手を上げて、など一言もないのである。

 治療が始まる。歯を削る、あの機械の音が聞こえてくる。
 それが、口の中に入ってくる。歯を削り始める。
 私の痛みなどお構いナシに、歯を削るのである。声を上げようにも上げようがない。
 黙々と、仕事を進めていく老歯医者、まるで悪魔のようだ。
 治療が終わる。ああ、怖かった。

 この恐怖の治療で、デリー滞在中、歯はどうにかもったが、
 バンコクに向かうエアロフロート機の中では、うずくのである。
 あの悪魔のような老医者の不気味な笑い声のように。
 バンコク到着後、恐怖の治療の甲斐もなく、セメントは、又、取れてしまった。
 やはり、インドは、インドである。


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エピソード | 01:48:39 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコクとカトマンズ 路上の果物の切り売り
路上の果物の切り売り 1

路上の果物の切り売り 2

路上の果物の切り売り 3

路上の果物の切り売り 4

路上の果物の切り売り 5

路上の果物の切り売り 6

路上の果物の切り売り 7

 タイもネパールも、今は真夏の果物の最盛期だ。
 マンゴ、ライチー、パパイヤ、スイカ、パイナップルと共通するものは多いが、
 ネパールの場合は、インドからの輸入に頼るものが多い。
 タイの場合は、果物の王国の名の通り、自国の生産物が大半を占める。
 中華街などに行けば、中国産の輸入ものの果物も多いが、値段も高く庶民の手の届く
 ものではない。

 そんな果物を切り売りして、庶民に安く路上で売りさばく人々がいるのは、
 タイもネパールも同じである。
 しかし、その売り方には、それぞれのお国柄がある。
 見た目の清潔度という点では、タイあたりのほうが ちょっと上である。
 インド人的発想と中国人的発想の違いによるものだろうか。
 ネパールなどでは、売り手も買い手も ハエがたかる、埃が振り掛かることなど
 気にもしないようだ。この辺は、清潔、不潔に対する感度の違いによるものだろう。

 ネパールの果物の切り売りなどは、インドからやってくる出稼ぎのインド人の仕事で、
 売り方もインド風、ネパール人もそのやり方をまねていることが多い。
 タイはといえば、果物の切り売りは、どうも昔タイにやって来た出稼ぎの中国人たちの
 仕事だったような気がするが、どうだろう。
 ほこりが入らないように、切り売りの果物の屋台用の容器などは、中国人の店で造られ、
 売られている。
 麺類の屋台の道具など、工夫に工夫を重ねて、作られており、その完成度はなかなかのものだ。
 路上を売り歩く屋台という発想そのものが、タイ人のものではなく、中国人のものだろう。
 タイの田舎などでは、物売りは、屋台というより、さおの両端に籠をぶら下げて売り
 歩くというのが、昔からのやり方だ。これはこれで、情趣のある風景だ。

 タイなどは昔から、果物の豊富な国で、庶民たちも当たり前に果物を食べていたのだろうが、
 ネパールなどは、庶民たちが、果物を食べるようになったのは、ここ14,5年のことだろう。
 果物などは贅沢品、25年ほど前にカトマンズ郊外に住んでいたことがあるが、
 果物売りを見かけることもなかったし、果物を食べている人も見かけることもなかった。
 果物を手に入れようとすれば、やはりカトマンズの中心部に行くよりなかった。
 それでも、今のように、果物屋は多くなく、路上で自転車を引いて売り歩くインド人の
 姿を見かけることもなかった。

 最近は、ネパールでも路上の屋台を見かけることが多くなったが、屋台道具の工夫と
 いう点では、タイには敵わない。清潔度においてでもある。
 タイの屋台道具をネパールに輸入し、自国生産でもするようになれば、超大国インドへの輸出も
 出来るし、ちょっとしたビジネスになると思うが、どうだろう。


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バンコク 食べ物 | 13:14:30 | Trackback(0) | Comments(0)
インドサリー(22) カシミール刺繍シルクサリー
インドサリー(22) カシミール刺繍サリー 1

インドサリー(22) カシミール刺繍サリー 2

インドサリー(22) カシミール刺繍サリー 3


 インドのジョーゼット・シルクの上に 刺繍されたカシミール刺繍、
 こうした仕事は、インドでも少なくなってきている。
 インドの経済発展の中で 人件費が高騰し、手仕事も高価なものになってきている。
 刺繍もコンピューターを利用した機械で行われるようになってきた。
 まだまだサリーを着るというのは、インドでは一般的だが、
 若い女の子は、ジーンズをはき、ヨーロッパモードの洋服も着こなすように
 なってきている。
 テレビ、映画の影響は大きい。


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インド サリー | 09:13:51 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール チェットリ族とバウン族‐3 悲劇の中の先住民族‐5

 2001年6月1日、ナラヤンティ王宮の王室の集まりの中で、ビレンドラ国王を
 筆頭に10人の王族が殺害されるという事件が起こる。
 殺された王室のメンバーは、ビレンドラ国王の直接の血筋に当たる人々ばかりだった。

 この事件を境に王室への国民の信頼は、急激に失われてゆく。
 家族制度を重んじるネパール人にとっては、許しがたい衝撃的な事件だったのである。

 この事件を契機に、人々の関心は毛沢東主義共産党へと向いていく。
 それまでネパールの地方で反政府運動を展開していたマオイストが、
 国民の王室離れを利用して、党員を増やしていくことになる。

 カトマンズでは 王室殺害事件以前は、マオイストのことは話題にはなっても、
 何か絵空事のように思えて、ぴんと来なかった。
 そんな反政府組織もあるのかと思う程度で、カトマンズ市民も大して関心を
 払っていなかったし、政府との抗争もまだ表立ってはいなかった。

 それが、ビレンドラ国王死後、ギャレンドラ国王の代になると、政府とマオイストの
 戦闘は激しさを増し、地方ではマオイストによる襲撃事件が勃発するようになってくる。
 
 2004年以降になると、マオイストの数は増え続け、テレビのニュースでは、
 毎日のようにマオイストとの戦闘が報道されるようになってくる。
 2005年には 解決しないマオイストとの戦闘に業を煮やしたギャレンドラ国王が 
 内閣を罷免し、独裁政治に向かうと、マオイストたちは、道路封鎖、ストライキで対抗し、
 そのときになって初めて、カトマンズ市民は、マオイストの力を認識するようになるのである。

 そのマオイストを下から支え続けてきたのが、マガール、グルン、ライ・リンブー、
 タルーなどの先住民族であり、低カーストの苦しみを味わってきたダリットの人々だ。
 政府・王軍との戦いの中で、命を落とした人々もこれらの人々が多い。
 240年間支配され、低い地位に置かれていた人々が、反逆と始めたのである。

 政府・王軍にとっては、チェットリ、バウン族による支配体制を護り、その財産を護る
 戦いであったが、マオイストの下部組織で戦い続ける先住民族、ダリットの人々にとっては、
 人間性の回復、平等な社会の実現を目指した戦いだったのだ。

 2006年 政府との停戦合意を果たし、制憲議会選挙で第1党の座に躍り出た
 マオイストではあるが、マオイストの上層部は、バウン、チェットリ族である。
 プラチャンダも №.2のバブライ・バッタライもバウン族である。
 彼らが、どこまで先住民族、ダリットの人々の240年に渡る苦しみを理解しているのか、
 インドの安全な場所に居て命令だけを下していた彼らが、戦闘の悲惨さを 
 どこまで理解しているのか、わからない。
 その理解が足りなければ、先住民族、ダリットの人々もマオイストに見切りをつけるだろう。
 そうした芽は、主要3大政党の話し合いの中でのマオイスト上層部の姿勢に対する反発と
 いう形で出てきている。
 命を懸けて戦ってきたものたちと、その周辺にいて、理論武装をし、命令だけを
 下してきたものとのずれがそこには感じられる。
 下部組織の要求にどこまで、上部層が応えていけるのか、試金石になりつつある。


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ネパールの事情 | 02:18:10 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータン布 キラ クシュタラ (27)
ブータン キラ クシュタラ (27) 1

ブータン布 キラ クシュタラ (27) 2

ブータン布 キラ クシュタラ (27) 3

 ブータン 女性用民族衣装 キラ クシュタラ
 19世紀後期に織られたキラ クシュタラ、
 百年以上の年月の流れを感じさせてくれるものだ。
 文様の織りこみは、多くはないが、地の縞柄が美しい。
 白地の部分には、天然シルクの紡ぎ糸が使われている。
 青地は、インディゴ、ターメリックの黄色、赤い茜、
 縦縞の模様が 心をひきつける。
 布もすっかり、柔らかくなっていて、触っていても気持ちがいい。

 クシュタラの中では、シンプルなものであるが、
 伝わってくるものが多いクシュタラだ。
 古い時代に織られたものほど、心のひだに触れるものが多い。
 まるで織った人の心が、未だに布の中に宿っているようだ。


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ブータンの布 キラ クシュタラ | 02:04:21 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータン布 キラ ルンセルマ (02)
ルンセルマ (02) 1

ルンセルマ (02) 2

ルンセルマ (02) 3

 ブータン 女性用衣装 キラ ルンセルマ
 ブータンのブレと呼ばれる天然シルクを紡ぎ、その紡ぎ糸で織られる。
 染めも天然染色を用い、茜、ラック、インディゴ、ターメリックなどが
 使われている。

 天然シルクで織られた布は、使い込めば使い込むほど、身体に馴染み、
 着心地のいいものだ。
 色も時代とともに 風合いが出て、味わいが出てくる。
 ルンセルマは、大抵のものは、土着な雰囲気の強いものだが、
 このルンセルマは 可憐な感じもする。
 20世紀初期から、中期ごろまでに織られた布のようで、
 ところどころに穴が開いているのが残念だ。


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ブータンの布 キラ ルンセルマ | 23:28:50 | Trackback(0) | Comments(2)
ブータンの布 ケラ(帯)(07)
ブータンの布 ケラ(帯)(07)

ブータンの布 ケラ(帯)(07) 2

ブータンの布 ケラ(帯)(07) 3

 ブータンの女性が、キラを着たときに締める帯 ケラ
 手紡ぎの木綿糸で織られ、文様部分には天然染色の天然シルク糸が
 使われている。
 大きさは 幅 38cm x 190cm
 19世紀後半に織られたもののようだ。

 これを三つ折にして、腰に巻く。
 このケラが 織られた時代は、白地のクシュタラを着るというのが
 普通であったから このケラは、クシュタラには、似合っただろう。
 文様も中国や日本の図柄を思い起こさせる。


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ブータンの布 ケラ(帯) | 22:07:33 | Trackback(0) | Comments(0)
ブータンの布 ブンディ(ブータン式風呂敷)(05)
ブンディ(ブータン式風呂敷)(05) 1

ブンディ(ブータン式風呂敷)(05) 2

ブンディ(ブータン式風呂敷)(05) 3

ブータンの風呂敷 ブンディを作る織物。
 幅49cm 長さ4m20cm、これを図柄に合わせて、
三つに切り分け、そのあと、合わせて縫い合わせ、
風呂敷状のブンディをつくる。
 地は、オエーと呼ばれる麻を紡いだ糸を使い、
文様部分は羊毛を織り込んでいく。

麻で紡いだ糸は、丈夫で、何年でも、使うことの出来るブンディだ。
自然に囲まれて生活するブータンらしい織物である。


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ブータンの布 ブンディ(ブータン式風呂敷) | 19:46:25 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 久し振りにプラトゥーナムへ
久し振りにプラトゥーナムへ 1

久し振りにプラトゥーナムへ 2

久し振りにプラトゥーナムへ 3

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久し振りにプラトゥーナムへ 9

久し振りにプラトゥーナムへ 10

久し振りにプラトゥーナムへ 11

 バンコクで一番高い建物、84階建てのバイヨクタワーⅡのあるプラトゥーナムへ
 行ってみたくなった。
 別にこの建物を見たいというわけではない。
 
 このプラトゥーナムという場所、私にとっては、ちょっとした思い出の場所なのだ。
 このバンコク一高いバイヨクタワーⅡのまだ建ってなかった頃、このあたりを宿泊場所 
 にしていた時期があった。
 もう17、8年も前の話だ。
 それまでは、中華街あたりで泊まることも多かったのだが、
 その頃は、ジュライホテル近辺には日本人旅行者があふれ、鬱陶しく感じるようになり、
 人づてにプラトゥーナムあたりにも安いホテルがあると聞き、
 いつも使う宿泊場所を変えてみたのである。

 当時は バイヨクⅠタワーがバンコクで一番高い建物で、この建物の周りは今と同じ
 衣料品市場だった。
 迷路のような市場の中は、インドのデリーにあるサッダルバザールを思い起こさせてくれた。
 サンセーブ運河沿いにあるボーベーに 衣料市場の地位を奪われたのかと思ったが、
 今でもその賑わいは、ボーベー市場には負けてはいないようだ。
 
 近くには、当時まだ珍しかった東北タイ料理の大きな店があり、辛い東北タイ料理を
 汗をかきかき、食べたものだった。
 その店の前は、インドラ・リージェントホテルに併設されたパタと呼ばれている雑居ビルもあり、
 その中にお好み食堂があり、焼そば、えびの天ぷら、カキ氷などがメニューにのっており、
 値段も高くはなかった。

 その通りの奥に安ホテルはあった。
 今のバイヨクタワーⅡの裏あたりである。
 今日 そのあたりを歩き回ってみたが、建物の1階部分がすっかり変わっていて、
 どの建物だったか、見分けがつかなかった。
 ただホテルの近くにあった神様の祠は、昔ながらの姿を保っていた。

 当時、冷蔵庫、冷房、テレビ、ホットシャワーがついて、300バーツでバンコク市内の
 中心部にあるホテルとしては格安だった。
 経営者は、インドから移住してきたシーク教徒で、従業員は、ビルマからの出稼ぎの
 ネパール人だった。
 ビルマからの出稼ぎのネパール人はネパール語を話していた。
 第2次世界大戦のグルカ兵の生き残りを祖父に持つ世代のようだった。
 60年ぐらいの月日の流れでは、ネパール語は失われないようだ。

 ただ このあたり、アフリカからやって来た人たちの溜り場にもなっており、
 違法ビジネスも盛んに行われており、時々タイ警察の手入れもあり、不法滞在、
 違法ビジネスのアフリカ人たちが逮捕されるということもあった。

 思い出の場所を探してバイヨクタワー近辺を歩き回ったが、すっかり様変わりを
 していて、寂しくなってしまった。
 えびの天ぷら、カキ氷を食べたお好み食堂もなくなっていたし、2階にあった映画館も
 衣料品市場になっていた。
 よく両替をした両替屋は今での健在だが、名前はティミーからティップーへと変わっていた。

 朝飯代わりに食べた麺類の店は2軒ばかり、昔ながらの姿で残っていたが、
 そのうちの一軒に入って、ラーメンを食べると、40バーツと凄い値上がりで、
 味もひどいものだった。
 ぼられたという気さえするくらい納得のいかない味だった。
 変貌するのは、街ばかりでなく、人も同じである。
 昔は場末のごみごみした街だったが、もう少し人情味はあったような気がする。
 もう私の思い出を残している場所は、このプラトゥーナムにはなくなってしまった。


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バンコクを歩く | 12:30:43 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール チェットリ族とバウン族‐3 悲劇の中の先住民族‐4
 各民族を反目させることで、王制の支配を維持し続けてきた
 サハ家、ラナ家による支配体制は、民族融和を困難にしてきた。
 宗教、カースト、民族によって隔てられた人々は、容易にはその垣根を
 取り払うことは出来ない。
 王制を支えた支配階級は血統主義を取り、多民族との違いを際立たせただけで、
 融和への道を探ることがなかった240年間だったのである。
 
 ゴルカ王朝以前に カトマンズを支配していたマッラ王朝は、
 先住民族との通婚の過程で、生まれた王朝である。
 支配階級であったシュレスタ階級は、インドからの移住者とカトマンズ盆地に
 住みついていた先住民族との通婚の中で生まれたものだ。
 ネワール族の顔つきを見れば、多様性にあふれ、
 様々な民族との混血の名残を見出すことは難しいことではない。
 そういった歴史を持つネワール族であるが、今、他民族との結婚、
 ネワール族内の異なったカースト間の結婚に関しては 
 ネワール族が一番排他的なのである。
 ネパールの中で長い歴史を持つネワール族であるが、
 この排他性のためにネパールという国の中で、その能力に見合ったリーダーシップを
 発揮できないでいる。

 チェットリ、バウンの支配階級の血統主義は、
 多民族に対する格付けにも影響を与えたようだ。
 ネワール族については、カトマンズの先住民族ということで別格名存在とみなしていたようだ。
 グルカ兵としてイギリス軍に送られた民族においても、ライ・リンブー族を上に置き、
 グルン、マガールと上下関係を作ったようだ。
 西ネパールのグルン族とマガール族の通婚はあるが、ライ・リンブー族と
 グルン・マガール族との通婚はない。
 タマン族などは、ライ・リンブー、グルン、マガールの下に見られていたようだ。
 それとは別に、王制の持つヒンズー教カーストの下層階級に属するダリットと呼ばれる
 カーストの人々もいる。
 これらの人々は、王制のカーストの中で、低く見られただけでなく、
 王制の中のヒンズーカースト外に属するネワール、ライ・リンブー、グルン、
 マガール、シェルパ、タカリなどからも低く見られたようである。

 それとは別に、南ネパールのタライ地方には、タルー族、インド系住民と様々の民族がいる。
 農奴制に近い形で、働かされてきた人々もいる。
 ラナ家独裁政治の時代に、農奴制廃止が決定したが、それは形だけのことで、
 今なお、それに近い形は残っている。
 インド国境に近い地域に住む人々などは、住民票もなく、選挙権すらなく、
 今回の制憲議会選挙の際に、やっと手に入れたという人々も多かった。

 こういった形で、ばらばらにされて240年間、生活してきたネパール国民である。
 これらの多民族をどう融和させていくのか、これは簡単なことではない。
 王制が廃止され、連邦共和制が採択されたが、民族融和が達成されるまでは、
 ネパールの安定への道は程遠い。
 マオイストも コングレス、統一共産党の上層部の大半は、バウン、チェットリ族である。
 具体的な民族融和の手立てを知りたいものである。


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ネパールの事情 | 10:35:42 | Trackback(0) | Comments(0)
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