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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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ネパール キルティプールへのいざない‐1 夢の王国
夢の王国 3

夢の王国 2

夢の王国 1


 この石造りの階段は、夢の王国 キルティプールへと続いていく道である。
 何段にも重なって続くこの石段、息を切らしながら、何度も、立ち止まり、
 息を整え、登っていかねばならない。そうすると、 
 中世の街、キルティプールの入り口にたどりつく。
 この入り口を越えてしまうと、あなたが失ったもの、求めていたものが蘇ってくる
 かもしれない。

 入り口を越えたとたん、時の流れは、緩やかになり、こわばっていたあなたの顔に
 優しい笑みが浮かんでくるであろう。
 あなたが、失ってしまったやさしさ、生き生きとした人との共生を思い出すだろう。
 迷路のように路、こんな路なら、迷ってしまったほうが良い。
 迷った果てにあなたの探していたものが、見つかるかもしれないだろう。

 出来るだけ、この時の流れに逆らわず、この時の流れに身を任せてしまうことが肝心だ。
 朝から夕刻までこの街をさまようのもよい。
 何百年も昔に建てられたレンガ造りの家々が、朽ちかけながらも寄り添って建ち並び、
 あなたに囁きかけてくる声を聞くがよい。
 急がず、あわてず。
 ひっそりと、静まり返った街、聞こえてくるのは、機を織る音、絨毯を織る音ばかり。
 
 ここにあるのは、夢、幻の世界だ。
 到る所にある神々の場所、ここで人々は朝夕に祈りを繰り返す。
 キルティプールは、そんな場所なのだ。
 あなたが、神々の気配、神々への祈りを求めるなら、今すぐ、ここに来なくては
 ならない。
 もう明日にも、夢の王国 キルティプールは、夢、幻のように消え去ってしまうかも
 しれないからだ。


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ネパール キルティプール | 22:36:24 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール パタン‐16 バハール(バハイ)とは何だろう
バハールとは 何だろう 1

バハールとは 何だろう 2

バハールとは 何だろう 3

バハールとは 何だろう 4

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バハールとは 何だろう 8

バハールとは 何だろう 9

バハールとは 何だろう 10


 今日は朝からよく雨が降った。外に出かけるにしても、泥濘は厄介だ。
 昼過ぎてから、雨も小降りになり、晴れ間ものぞいてきたので、パタン方面に
 出かけることにした。
 いくつか、パタンの仏教徒のサッキャ・カーストの人か、バジャチャーレ・カーストの人に
 尋ねたいことがあったのだ。

 パタンには、ビハールとバハールと呼ばれる二つの仏教施設がある。
 ビハールと呼ばれる仏陀の像を収めた寺院はバジャチャーレの管理のもとにあり、
 仏教徒の住んでいる広場の中にある。様々のサッキャ、バジャチャーレの人たちの
 仏教行事は、このビハールを中心にして行われる。

 一方、バハールは、通りに面したところにあり、仏陀を納めているが、
 建物はビハールと違って、三方に小部屋がたくさん並んでいて、昔は僧侶、僧侶見習いが 
 そこで仏教修行でもしていたような造りなのである。
 これらの建物は、サッキャの人たちによって建てられ、ビハールよりも歴史は古い
 らしい。
 たくさんのサッキャ、バジャチャーレの人たちに、このバハールと呼ばれる建物は 
 何に 使われていたのか尋ねても、要領を得なかった。

 そこでバジャチャーレ、サッキャの多く住むバースカール・マハビハールのある広場に
 行って、詳しい話を聞いてみることにした。
 年寄りたちに聞けば、何かわかると思って、60歳過ぎの人間に話を聞いてみたが、
 よく知らないらしい。
 一人のサッキャの中年の男性が、パタンの仏教に詳しいバジャチャーレの人がいると
 言うので、案内してもらい、その家に出かけていった。
 そのバジャチャーレの人といろいろ話すうちに、少し パタンのバハールの姿が見えてきた。


 最近、サッキャ族の人から、ラナ家独裁政治の時代に、カトマンズに住んで、
 仏陀の教えを説いていた多くの僧侶が、ネパールの外へ追放になったという話を聞いた。
 以前から、仏教徒の町、パタンにどうして僧侶の姿が少ないのかと気になっていたのだ。
 パタンの街の中には20近くのバハールがあり、あるものは手入れもされず、朽ちるままに
 任されているらしいし、あるものは、政府の学校として利用されている。
 外国の援助によって、復元されたバハールもある。
 その場所には訪れる人も少なく、信仰の体裁を成していないところが多い。

 しかし、ラナ家独裁政治の時代の前には、この場所が、仏教伝道の場所だったのである。
 サッキャ、バジャチャーレの人たちの住む広場にあるビハールはサッキャ、バジャチャーレの
 人たちのための寺院であるが、このバハールという宗教施設は、カーストには
 こだわらず、誰でもこの場所で僧侶から仏陀の教えを聞くことが出来のだ。
 その生き生きした伝道の場が、失われて百年以上になるが、未だに仏教伝道の場として
 回復もしていないし、復活の兆しすらないのが現状だ。
 ビハールと違って、バハールには サンガ(檀家のようなもの)の組織もなく、
 建物の維持すら難しくなっている。

 古い昔は、すべての仏教徒に開かれていた伝道の場、バハール、この場所が
 復活していかなければ、ネワール族の仏教も衰退していくだろう。
 仏教の教えの場も、学びの場もないというのが、現状だからである。
 人々は 形だけの祭儀、祭事は行うが、仏陀の説いた教えを深く知ろうという姿はない。
 サッキャ、バジャチャーレの人たち、農民カースト マハルザンの人たち、マナンダール、
 タンドゥカール、ウダースの人たちと数多くの仏教徒はいるけれど、
 皆 てんでばらばらで つながりはない。
 今一度、このバハールが、仏教徒たちの寄り合い所としての働きを成してほしいと思う。
 日本では、生きた仏教は失われ、死に掛けているが、このネパールなら、まだ再生の
 機会あると思う。


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ネパール パタン | 12:52:31 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 1

カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 2

カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 3

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カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 6

カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 7

カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 8


 ラナ家独裁政治の中で ネワール族の生活はどう変化していったのだろうか。

 ネパールはラナ家のみにあるという独裁政治は、首相職を世襲制にし、カトマンズの
 至るところに ラナ家の息子たちのための豪奢な宮殿を建て、ラナ家の家系に
 つながる者たちで 官僚、軍隊の中での上級将校は占められ、イギリスへの留学の
 機会も A級ラナと呼ばれるシェムシェル・ラナ家直系のみに与えられ、
 民衆には教育の機会は与えられなかった。
 学校づくりが行われるようになったのも、ラナ家末期のことである。
 それまでは、他民族に対する徹底的な愚民政策を続けていたのだ。

 逆らうものには徹底した重罰を与え、気に入らないものは 意のままに排除していった時代
 だったのである。
 ラナ家の言うことが 法だったのだ。
 そして、ラナ家の地位を確実にするために、サハ王家が 妃を迎えるときには 
 必ず 妃は ラナ家からというルールも確立していったのである。

 イギリスへは イギリス軍傭兵グルカ兵として グルン、マガール、ライ、リンブー族を送り出し、
 イギリスから 莫大な見返りを得ていたのだ。
 一体何人のグルカ兵が イギリス軍の戦いの最前線に立ち、命を落としていったのだろう。
 命を落としても、得るお金は、イギリス兵の何十分の一にも満たなかったのである。

 ヒンズー教至上主義を掲げたラナ独裁政治は ネワール族の仏教徒たちへの圧迫へと
 つながっていった。
 仏教徒の多かったパタンでは、サッキャ・カーストの仏教僧侶たちは、カトマンズ追放、
 ネパール追放の憂き目に合い、あるものはチベットへ、あるものはインドへと
 逃れていったのだ。
 サッキャ・カーストの宗教施設バハールと呼ばれる建物から 僧侶の姿が消えたのは
 このラナ独裁政治の折のことだった。
 毎年、パタンで行われる仏陀生誕節のお祭りの時には、その時代の悲しみを歌に託して、
 行列は、その悲しい歌を歌いながら、街の中を練り歩く。

 仏教徒たちは ラナ家の恐怖政治から逃れるために、ヒンズー教の儀式も取り入れるように
 なっていく。
 殺傷を禁じる仏教の教えとは裏腹に、ヒンズー教徒のダサインの祭りには、山羊、アヒルを
 生贄に捧げるようになっていく。
 ラナ家への従順を示すためである。
 ラナ家に逆らうことは、死を伴うくらい危険なことだったのだ。
 気に入らない相手を抹殺するには、ラナ政権に密告するだけで充分だったはずだ。

 イギリス様式の建造物に憧れるラナ家のものたちは、イギリス様式の宮殿、豪邸を建て、
 寺院といえば、インド様式の寺院が建てられ、ネワール族の仏教徒の工芸職人の仕事は
 先細り、ネワールの工芸文化は停滞していくのだ。
 インドのマルワリ商人に ネパールの商業活動に利権を与えることで ここでも莫大な財を
 得ていたのである。
 インド、チベット貿易の覇者だったネワール族は、ここでも力を失っていくのである。
 チベット貿易では、西のタカリ族が 台頭してくるのである。

 ネワールの農民カーストにおいても同じことである。
 ラナ家が ここに家を建てると決めれば、容赦なく農地は、何の保障もなく取り上げられて
 しまったのだ。
 土地は個人のものではなく、国王のものだったのである。
 国王を幽閉し、実権を奪い取ったラナ家にとっては、何事も意のままであり、
 反逆すれば、死が待っているだけだったのだ。

 こうした当時の残虐性は、今でも警察、軍の中には残っているのである。
 つい最近まで続いた毛沢東主義共産党と政府の戦いの中で、毛沢東主義者の疑いを
 かけられ、軍や警察に拉致されたものの多くが、軍、警察による拷問、強殺によって、
 命を失っていったというのは周知の事実である。
 チェットリ族の下位カーストに対する残虐性は、
 今でも軍や警察内部に脈々と息づいているのである。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 01:43:23 | Trackback(0) | Comments(0)