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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

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カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐2
ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 1

ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 2

ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 3

ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 4

ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 5

ネワール族 仏教徒の悲哀‐2 6


 マッラ王国のジャスティス王による64の職業カースト、そしてヒンズー教の4つのカーストの
 区分けによって、ネパールの仏教徒たちの社会はどのように変貌していったのだろうか。

 この時代にもインド、カトマンズ周辺から、やって来たインドの高カーストの人々との通婚を
 通して、支配階級である王族マッラを中心とした支配階級のシュレスタ・カーストの中も、
 細分化されていく。
 このシュレスタという支配階級に属するもの同士の結婚は許されたのである。

 マッラを頂点に、プラダン、ジョイシ、ラーズバンラーリ、アマチョ、マスケ、
 バディア、カルマチャーレ等のカーストが生まれ、彼らはヒンズー教徒であり、
 彼らの祭儀は インド系のヒンズー・カーストのブラーマンが行う。
 そのために、ヒンズー教のブラーマンのカースト、ラーズパディアというカーストも
 生まれた。
 支配階級の安定を図るために、インドの高カーストの人々を受け入れ、通婚を通して
 シュレスタ・カーストの人口増加も図っていったのである。

 一方、カトマンズに住んでいた多くの仏教徒たちは、四つのカーストに振り分けられていった。
 本来、平等であった社会にカースト制という固定的な身分制度が入り込んできたために
 仏教徒社会は仏陀の説いた教えとは、異なった社会へと変貌していくのである。

 仏教徒の高カーストとして、サッキャ、バジャチャーレ、その下にはサッキャから
 派生したトゥラダー、タムラカール、シルッパカール、スタビ、ラーズカルニカール、
 シッラカールなどの職業カーストの人々の集団、ウダースと呼ばれるカースト集団が
 形成されていった。
 経済的には優位に立っていたサッキャ・カーストに血のつながりを持つウダースという
 職業集団は、他の職業集団より、上に位置づけられたのだ。

 そして、その下には 人口の大半を占めるジャプーと呼ばれる農民カーストが
 形成されたが、マッラ王朝時代には 自作農というより、上位カーストの持つ農地の
 小作農という地位に甘んじていたのではと思える。

 さらに 又その下に、サッキャとは血のつながりを持たない職業集団が形成されていったので
 ある。
 その集団には ランジットカール(染め、ブロックプリントを行う)
 チットラカール(タンカ、看板などの絵を描く)、マナンダール(食用油の製造)、
 タンドゥカール(米の生産)、ナッカルミ(鉄製品の製造)などのカーストの人々が
 属した。

 更に最も低カーストの集団ダリットに サヒ(食肉を扱う)、ポーレ(魚を取る)、
 チャミ(掃除人)などが属した。

 こうした身分制度を作り、固定していけば、国の統治は容易になるのである。
 職業集団を固定し、各集団同士の交流を禁止することで、民衆を分断していくには
 効果的な方法だ。
 封建的な国家では、こうした方法、社会システムが どこでも取られてきたのである。
 インド、江戸時代の日本でも同様のシステムがとられてきたが、日本においては
 かなり流動的であったが、インド、ネパールでは このカースト制度は絶対的なもの
 であった。

 このマッラ王朝時代に作られたカースト制度が、今なおネワール族の社会の中で、
 途絶えることなく、生き続けていることを考えると、まことに怖いことである。
 それを強化し、支えるシステムも細部にわたり、作られていったのだ。
 その制度をグッティという。
 このグッティという制度、全く複雑怪奇なシステムで、外国人である私にとっては、
 理解するのに苦労を要するものだった。。
 そのことは次回に説明しようと思う。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 21:48:17 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐1
ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 1

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 2

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 3

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 4

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 5


 カトマンズに住むネワール族には昔からの多くの仏教徒がいる。
 カトマンズ盆地の仏教徒の歴史は、紀元前に成立したキラティ王国から
 紀元5,6世紀に起こったリッチャビ王国にまで溯ることができるようである。
 その頃のインドは、アショカ王が、インド全土を統一し、仏教を広めていた時代でもある。
 紀元前3世紀には、アショカ王は仏陀生誕の地、ルンビニを訪れ、カトマンズ盆地にも
 その娘が訪れ、パタンに四つの仏塔を建てたといわれているが、それには確証はない。
 その仏塔は今でも残っていることは残っているが。
 その影響を受け、多くのカトマンズ住民の間にも仏教が広まっていったようである。
 ヒンズー教を信仰していたリッチャビの時代も 仏教には寛容で、カトマンズの最も
 幸せな時代であったと、今日の人々の間でも話題に上る時代である。
 カースト制もなく、人々が平等に暮らしていた時代だ。
 ネパール周辺の国々から多くの人間が移り住み、通婚を繰り返し、ネワール族という
 民族の基礎が出来上がったのもこの頃のことだろう。
 今のネワール族の人々の顔を見ても、その多様性には驚くものがある。

 そんな幸福な時代も アショカ王の時代とともに終わり、インドのグプタ朝に入ると、
 再び、ヒンズー教が力を得て、ヒンズー教の教えのもとに カースト制を取り入れ、
 王をヒンズー教の神、ビシュヌの化身とする専制政治が始まっていくのである。

 こうした影響は東南アジアにも広がり、カンボジアのアンコールワットの時代の国王政治、
 タイのアユタヤ王朝にも大きな影響を与えている。
 国王をビシュヌの化身とする神王思想は、国の統治を容易にしたのである。

 豊かな土地と穏やかの気候の中で 平和に暮らしていた人々の桃源郷のカトマンズも
 段々と変わって、インドの変化の影響を受け始めるのである。
 今のインド・ネパール国境付近で勢力を持っていた仏教徒であったサッキャ族も
 グプタ王朝の迫害を逃れて、カトマンズ盆地に逃れ、仏教徒としての地位を築き始める。
 仏教徒が大半であったカトマンズ盆地の中では大きな勢力になっていったはずである。
 カトマンズの中でスワヤンブナートを総本山にする仏教徒、
 パシュパティナートを方本山とする支配層と国を二分していたはずである。

 リッチャビ王国も後期にはヒンズー教重視の政策に変わり、
 仏教徒も次第に圧迫されていくようになる。
 そんな時代に すでにネパールの各地で勢力を広げていたインドのクシャトリア・カーストの
 マッラ族がカトマンズに入り込み、力をつけ、リッチャビ王朝を倒し、
 マッラ王国を打ち立てることになるのである。

 ヒンズー教を国策とするマッラ王朝も サッキャ族を中心とする仏教徒の力を削ぐことに
 専念するが、チベット貿易で巨大な富を得ていたサッキャ族の力を削ぐことは、
 簡単なことではなかったようだ。

 13世紀中期に成立したマッラ王国も14世紀中期のジャヤスティス王の時代になると、
 王国も安定し、ヒンズー教のカーストシステムを取り入れ、
 人々を職業によって64のカーストに分け、
 それをヒンズー教に従って、四つの階層に区別していったのである。
 カーストと職業によって、着る服装にも決まりを設け、制限を加えていき、
 身分制度による統治を確実なものにしていったのである。
 王国の大半を占める仏教徒を分断していくには効果的な方法だったし、
 力をつけていたサッキャ族の力を削ぐにも大いに効果を発揮したのである。

 このジャヤティス・マッラの時代に、マッラを中心とするヒンズー教徒 シュレスタの
 支配階級と仏教徒である被支配階級に分かれていくのである。
 又、仏教徒の間にもカースト制を導入し、固定した身分制度によって 仏教徒同士の
 つながりを分断していき、仏教徒の力も削いでいったのである。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 12:35:51 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 再び バグマティ橋のそばのスラムへ
再び バグマティ橋のそばのスラムへ 1

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再び バグマティ橋のそばのスラムへ 4

再び バグマティ橋のそばのスラムへ 5

再び バグマティ橋のそばのスラムへ 6

再び バグマティ橋のそばのスラムへ 7


 2ヶ月ぶりにバグマティ橋のそばにあるバグマティ川沿いのスラムの中を歩いてみた。
 季節はすっかり夏へと変わり、陽射しは 焼けつくように肌を突き刺してくる。
 2ヶ月前には空き地も多かったこのスラムの中もビニール張りのバラックが増え、
 密集の度を増してきた。2ヶ月前に比べると3倍近くに増えているだろう。
 人々が多く住み着いてくることで、人々の表情もゆとりを失い、以前ののんびりした
 雰囲気はなくなっている。早い者勝ちという土地の奪い合い、権利の主張のし合いも
 あるのだろう。
 今日は、国の休日で学校は休みのはずなのに、子供たちの姿もまばらである。
 前回 見かけた子供たちの姿もない。どうしたのだろう。
 早くこの場所に来たものは、多くの土地を得、バラックのそばに畑を耕し始めている。
 その畑の中では トウモロコシが育ち始めていた。

 いつもなら、子供たちと知り合い、周りの大人とも話しを進めていくのだが、子供たち  
 の姿は少ないので、きっかけがつかめない。

 スラムの中も、生活に必要なものが揃い始め、小さな商いも見られるし、机と椅子を
 並べた食堂のような店、簡単な洋服直しの店もあった。
 生きていくためには 知恵を働かせる必要がある。
 
 まだ、造りかけの小屋の前では、2,3人のマガール族の若者が、小石と泥を集め、
 床部分を1段高くするための整地に余念がない。20歳を過ぎたばかりの若者たちだ。
 そうしないと、雨季に入れば、水が家の中にはいりこんでくるからだ。
 学業のためにカトマンズにやってきたといっているが、どうもそれらしくは見えない。

 バグマティ川の水の中では、この前と同じようにたくましい女性たちが、建築資材用の
 川砂を掘っている。生きていくためには男も女もない。
 生きていく糧を得るためには、出来ることは何でもするしかないのだ。

 あと何ヶ月かすれば、この場所もすっかり密集した集落になるだろう。
 これから、どう変わっていくのだろう。
 こうした場所に来ると、語るべき言葉を失ってしまう。
 何を語ればいいのだろう。そんなことを感じながら、スラムの外に出ると、
 そのスラムの入り口付近に U.N PARKと書かれた看板があった。
 どういう意味なのだろう。U.N PARKの中にあるスラム、何とも皮肉なことだ。

 新しい政府に向けて、相変わらず非難合戦の政党、デマ合戦の様相も帯びてきた。
 本当に庶民の生活を真剣に考えている政党はあるのかと、疑いの念すら浮かんでくる。

 バグマティ川にかかる橋げたを潜ると、その向こうにラナ家創始者の建てたラーム寺院がある。
 聖と俗の世界が、橋を境にはっきりと分かれている。
 これも皮肉なことである。
 そんなこととはお構いなしに、ジャカランタの紫色の花は 満開だった。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 00:49:14 | Trackback(0) | Comments(0)