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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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カトマンズ 生き抜く人々‐09 グルン族のおじさん
グルン族のおじさん


 パタンに行くつもりで、バグマティ橋の近くにある乗り合いテンプー乗り場に行く
 途中の道で、民族風な衣装で身を固めた人を見かけた。
 辺りの風景からあまりに際立っているし、又、それが様になっている。
 私の悪い癖で、こうした人物を見かけるとついつい声をかけてしまう。
 都合の良いことに 彼も乗り合いテンプーに乗るつもりだったらしく、行く方向は
 同じだった。

 ― 叔父さんは何族なの 村はどこなの。

 ― わしは ポカラのグルン族じゃよ。

 ― へえ! 叔父さんが今着ているのは、グルン族の正式の衣装なの。

 ― そうじゃよ。大事な行事があるときは、この格好じゃよ。
   今日は 選挙のことで、マオイストの事務所に用があったから、この格好で来た。

 ― ポカラのグルン族は、ヒンズー教徒だけど、叔父さんもそうかい。

 ― いや、ポカラのグルン族は、本当は仏教徒じゃよ。
   今の王制がヒンズー教を押し付けたから、ヒンズー教も信仰するけど、
   もともとは、仏教徒じゃ。
   今の政府も、その前の政府もわしらに苦しみばかりを与えよった。
   マオイストに協力すれば、わしらの生活も少しは良くなるかと思って、
   今、マオイストの事務所で話をしてきたばかりじゃ。

 こんな会話を彼と交わした。素朴で正直そうな人物だった。
 マオイストの上層部は、バウン族、チェットリー族で占められているが、
 このような素朴な村の人々の願いを真に受け止めてほしいと思う。
 政権を取った途端に、贅沢三昧に走るこれまでの政党と同じでは困る。
 マオイストの実戦部隊はこの人物のような底辺部で苦しんでいる人たちである。
 苦しい生活を強いられて、機会均等の保障されない少数民族、低カーストの人たちが
 マオイストに期待しているのである。

 上層部のバウン族、チェットリー族が どこまで彼らの苦しみを理解しているのか、
 口先だけの甘い言葉なのか、それがこれから証明されていくだろう。
 私など、バウン族、チェットリー族に対しては、ちょっと信用を置きがたくなって
 しまっている。
 今までの王制、政党制で甘い汁を吸ってきたのは彼ら、チェットリー、バウンだからだ。
 グルン、マガール、ライ、リンブー、タマンたちの土地を奪ってきた人間たちは
 バウン、チェットリーだったという歴史上の事実もある。

 王制、政党制、今回の選挙と 2度あることは3度あるか、それとも3度目の正直に
 なるかは、神様だけが知っている。

 ネパールの制憲議会が終わって、2ヶ月以上の月日が流れた。
 未だに新しい政府は出来上がっていない。
 このグルン族のおじさんの期待する方向へと政治の形は 整っていないことは確かだ。
 マオイストと国軍の確執、今まで支配層、中産階級を支えてきたコングレスと共産主義政党との
 争い、その隙間を縫っての新しいタライ地方の政党の駆け引きと、新しい政府が出来そうで
 出来ない状況が続いている。

 国民そっち抜けの政治家たちの権力争い、石油高騰による公共運賃値上げの要求に伴う
 ゼネスト、物価高と問題は山積しているのに、責任を持って政策に当たる政府がないというのは 
 異常な事態だ。

 先進諸国では、大変なことになるが、このネパールも大変は大変だが、どうにかなっていると
 いうのが不思議なことだ。
 それだけ、一般国民は政治に期待していないことになるし、自衛の道を持っていると
 いうことだろう。政治がどうであれ、生きていかなくてはならないのである。


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カトマンズ 生き抜く人々 | 13:41:03 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 久しぶりにキルティプールへ‐3 あるプロジェクト
あるプロジェクト 1

あるプロジェクト 2

あるプロジェクト 3

あるプロジェクト 4

あるプロジェクト 5

あるプロジェクト 6

あるプロジェクト 7

あるプロジェクト 8

あるプロジェクト 9


 キルティプールの坂道を登りつめていくと、レンガ造りのしゃれた門に出会う。
 この門はタンマール・トールの入り口である。
 今回のキルティプール訪問の主な目的は、ここを訪れることだった。
 7ヶ月前 この場所にやってきたとき、このタンマール・トールと呼ばれる地区の
 住民が、一団になって 村興しを始めていた。
 この地区の至る所に飾られている民具もその一環である。
 地区全体をネワール族の農民カースト マハルザンの民具を並べ、民芸博物館のように
 仕立て上げている。
 この地区の隅々まで掃除が行き届き、客を迎える準備も出来ている。
 地区の中心に至る途中の道筋には、伝統的なマハルザンの黒い衣装を身につけた女たちが 
 昔ながらの仕事を昔ながらのやり方で実演している。
 足踏み式の杵をついて、もみから米を搗き出したり、手つきのうすと杵を使って、
 チューラと呼ばれる乾し飯を搗き出している。
 所謂 エクジビッションである。
 しかし、それを眺める外国人の姿はない。

 そこを抜けると、広場に出る。
 広場の横には、古い民家を改造したレストランがある。
 そこからの展望は、なかなか素晴らしい。
 採り入れ時前の黄金色の麦畑を期待していたのだが、まだ緑のままだ。
 昔は一面の農地だったが、今は、たくさんの建物が建ち並んでいる。
 それでも吹き渡る風は、カトマンズ市内のものと違って、心地よく爽やかだ。

 ネワールの昼間に食べる簡単な食事 カザのセットを注文する。
 バーラ(大豆を磨り潰して、焼いたもの)、チューラ(乾し飯)、ツェラ(水牛肉の和え物)、
 大豆の煮たもの、菜種の芽の油いためなどが、木の葉で作った皿に盛られてくる。
 それに米のロキシがついて、百ルピー(170円)である。
 街のネワール族の軽食屋に比べると高めではある。
 メニューを見たが、大体2倍近くしているようだ。

 少し、気になったのでアドバイスをすることにした。
 なんとなくやっていれば、お金が儲かるだろうという安易な姿が見えたからだ。

 1、セットメニューは、おかずの種類は少なくして、値段を抑える。
   お酒つきの値段にせず、酒は別料金にする。人それぞれによって個人差がある。

 2、ゲストハウスも備えているのだから、1泊2日程度のツアーを組んで、
   夕食、朝食付き、宿泊付のキルティプール体験コースを作り上げ、カトマンズの
   旅行会社に売り込む。

 3、籾から白米を搗きだす、チューラ作り、バーラ作り、ネワール料理、
   ロキシの造り方などの体験コース、機織体験コースなどのツアーメニューも
   加える。

 ネワールの昔ながらの生活様式を経験することは、先進諸国の旅行者には興味深いこと  
 のように思われるが、どうだろう。
 そんなことをアドバイスしたが、どう受け止めたのだろうか。
 ネワール文化を体験することは、本当の意味での文化交流になる。
 外国人旅行者の反応を眺めることで、もう一度、彼ら自身、自分たちの文化を見直す
 ことにもなるだろう。

 そんなことも含めて タンマール・トールのプロジェクトを成功させてもらいたいものだ。


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ネパール キルティプール | 01:02:57 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 久しぶりにキルティプールへ‐2 休日のひと時
休日のひと時

休日のひと時 2

休日のひと時 3

休日のひと時 4

休日のひと時 5

休日のひと時 6

休日のひと時 7

休日のひと時 8


 キルティプール旧市街に入る門を潜ると、ネワール族の一時代前の日常が始まる。
 喧騒のカトマンズからやって来ると、心休まる瞬間だ。
 迷路のように入組んだ路地に入り込んでみると、至る所に古い宗教的遺産が静かに
 佇んでいる。
 こうした遺跡の周りはきれいに清掃され、人々の心の中で宗教が 
 まだ生き生きと生き続けていることがわかる。

 今日は土曜日の休日、キルティプールの人々は それぞれに自らの時間を過ごしている。
 女たちは休日にもかかわらず、こまごまとした仕事に明け暮れている。
 男たちはといえば、パッティと呼ばれる寄合い所で、賭け事にふけっているのは 
 いつものことである。
 ネワール社会は男にとっては天国のようなところである。
 昔ながらのカトマンズの生活が、化石のように存在し、
 時の流れは、この町の中ではゆったりと流れていく。
 25年前と同じ時間の流れを 今なお留めている不思議な場所だ。
 丘の上に建つ町という特殊な条件は、大して人口増加をもたらすこともなく、
 現在に至っている。

 しかし、この町の周辺は、時代の流れの真只中にあり、急激な建築ラッシュである。
 旧市街とその外の対比がはなはだしければ、はなはだしいほど、キルティプールの
 良さは際立ってくる。

 まだ充分に観光化されていないこの町には カトマンズ、パタン、バクタプールと違って 
 ぎすぎすしたところもなく、無理に自分たちの町を自慢する態度もなく、
 自然に自分たちの住むところを受け入れている穏やかさもある。
 とりたてて、外国人に自慢するような豪華な王宮があるわけでもなく、
 自慢できるものといえば 当たり前の静かな日常だけである。
 ネワール族の昔ながらの平和な日常、あわただしい先進諸国からやって来た旅行者に
 とっては、これほどの贈り物はない。

 我々日本人が失ってしまった大切なものが ここには凝縮されている。
 濃厚な人間関係を持った共同体、敬虔な信仰への姿勢、貧しいながらも日々の糧に
 喜びを感じる心、当たり前に生活することがどんなに価値あることであるかが
 無意識に実践され手いる社会、それが、キルティプールにはまだ残っている。

 発展、所得倍増、モダンライフと謳い続けてきた日本は、人々の生活に何を もたらした
 のだろう。
 つつましく美しい日本人の生活はどこに行ったのだろう。
 今の日本に自慢すべきものが経済発展だけであるとすれば、こんな悲しいことはない。
 おかしいことに気がつかないままに、どうして味気ない日本になってしまったのか 
 わからないままに突き進んでいく日本、無感動、無批判、諦め、とんでもない罠に
 嵌っているような気がしてならない。
 あと2,30年もすれば、その悲惨な結果がはっきりしてくるだろう。
 今だって、凶悪な犯罪という形で、その姿を現し始めている。


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ネパール キルティプール | 13:51:54 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 久しぶりにキルティプールへ‐1 辛い石段
辛い石段 1

辛い石段 2

辛い石段 3

辛い石段 4

辛い石段 5

辛い石段 6

辛い石段 7

辛い石段 8


 日中、外に出ると、真夏の暑さだ。カトマンズもすっかり本格的な夏を迎え、
 照りつける陽射しの強さには負けてしまいそうだ。
 毎日変ることなく計画停電が続き、今日は午前10時から午後2時までと
 午後8時から12時までの2回である。
 体調は先日からよくないが、電気のない家の中ではすることも限られ、電気を待つ
 気持ちも鬱陶しいので、カトマンズの郊外に出かけてみることにした。

 カトマンズのほうには向かわず、カトマンズのカリマティに近いバス停を目指して
 歩き始める。
 もう歩きまわるには 快適な気候とは言えなくなってしまった。
 真っ黒に汚れたバグマティ川にかかる橋を渡り、テクにある停留所に到着する。
 目的地をキルティプールかダッチンカリのどちらかに決め、マイクロバスかミニバスで
 早く来た方に目的地を決めることにする。
 やはり、本数の多いキルティプール行きが先にやって来た。
 運賃はテクからキルティプールまで9ルピー、20分近くで到着する。

 キルティプールは丘の上に造られたネワール族の古い町である。
 その歴史はカトマンズ盆地に住みついたネワール族の歴史でもある。
 待ちを覆うように多くのレンガ造りの建物が建ち並んでいる。この町並みを見ると
 キルティプールにやってきたという実感が湧いてくる。

 キルティプールの旧市街へ行くには、石造りの階段を登りつめていかなくてはならない。
 その石段の横を走っている通りが、ナヤ・バザールと呼ばれている通りで、
 旧市街の外にあたる。
 キルティプールのメインバザールだ。

 キルティプールに向かう石段の前に立ち、ため息をつく。この階段を一挙に登りつめるだけの
 体力は、今の私にはもうない。
 一段一段、石段を踏みしめ登っていくと、目の前に幼い子が立っている。
 彼らにとっては、石段を登るのは日常のこと、いとも簡単に行き来しているのだろう。
 ハアハアと息を吐きながら、登っていくと、70歳近い老人が私と同じように辛そうに
 登っている。
 それでも私のように休憩はせず、ゆっくりゆっくりと登っていく。

 後ろを振り向くと、ネパールの国立大学 トリブバン大学の敷地が見える。
 25年前は、キルティプールの子供たちと一緒にこの敷地内で夕方になると、
 サッカーをしたものだ。
 まるで昨日のことのように子供たちの顔が目に浮かぶ。
 彼らももう30過ぎの大人になっているはずだ。
 その向こうには、スワヤンブナートが霞んで見える。
 25年の空気の汚染は、山も遠景も霞んだものにしてしまった。

 この石段の途中にダマイカースト(縫製職人)のプルナの家があったはずなのに、
 なくなってしまっている。
 ダマイというとネパールの低カーストに属することから、ときどきそのことでからかわれていたが、
 素直ないい子だった。
 マハルザンのラムやラッチマンと一緒に毎日のようにいえに遊びに来ていたものだ。
 その近くの畑地では老婆が、猫の額のような畑で作業している。
 その様子を見ながら、やっとのことでキルティプールの旧市街の門にたどり着いた。
 25年の歳月の経過は、確実に私の体力の衰えを証拠だてている。


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ネパール キルティプール | 00:49:17 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐10 不思議な神々
不思議な神々 1

不思議な神々 2

不思議な神々 3

不思議な神々 4

不思議な神々 5

不思議な神々 6

不思議な神々 7

不思議な神々 8

不思議な神々 9

不思議な神々 10

不思議な神々 11


 バグマティ川の辺にある古いシバ寺院の周辺には、様々の寺院が散在している。
 川の辺に建てられているものは ゴルカ王朝のサハ家、ラナ家の建てた寺院で
 占められている。
 川辺から少し離れたあたりを歩いてみると、そこにもいくつかの寺院がある。
 あたりをうろうろと歩き回っているうちに、六角堂のような寺院にめぐり合った。
 建物の様子を眺めてみるが、それほど痛んだ様子もない。
 出窓のようにとび出した木彫りの窓も、ネワール族のシルッパカール(木彫り職人)の
 仕事だ。
 寺院は、きちんと整備され、維持管理されているようだが、周りの住居は、今にも
 壊れそうだ。

 境内の中を歩き回っていると、不思議な乗り物がある。古ぼけた木製の乗り物ではあるが、
 大人一人が乗るには小さいようだ。
 子供を乗せ、担いでいくのだろうか、それとも、ジャンクーと呼ばれる長寿のお祝いに年寄りを
 乗せていくのだろうかと見つめていると、古い家の二階から、一人の女性が顔を出した。
 彼女に聞けばわかるかもしれないと思い、尋ねてみると、この乗り物は寺院の中に祭ってある
 神様 クリシュナを乗せ、お祭りの際に街中を練り歩くためのものだと言う。
 ただ、今は担ぎ手もおらず、そのままにしている。

 この寺の名前はジャガナートと呼ばれ、今から74年前のネパールの大地震の時に 
 崩壊してしまった。
 元々は、ネワール族はマッラ王朝時代に建てたものであるが、
 ネワール族のプラダン・カースト(高カースト)が管理していた。
 そのプラダン・カーストの人には 寺院を再建する財力もなく、困っていた時に、
 彼女の祖父が、お金を出し、再建したものだ。
 彼女はカトマンズ郊外で小学校の先生をしている。
 ネパールの教育制度などの話をしていると、彼女の父親が帰ってくる。
 是非、お茶を飲んでいけと言うので、ご馳走になることにした。
 この家族、カットリ・チェットリである。バウン族とチェットリ族が通婚した時に
 生まれるチェットリ・カーストである。バウン・チェットリとも呼ばれている。

 なかなか友好的な家族で、話しているうちにすっかり打ち解けてしまった。
 日本の家族制度、ネパールの家族制度などについても話を交わした。
 そのうちにこの女性の父親が、面白いことを話し始めた。
 この寺院に祭っている神様のジャガナートは、インド・オリッサ州の神様で、
 ネパール人をオリッサ州に派遣し、その神様の形を真似て、彫った物だと言う。

 そんなこともあるものだと、帰りがけに寺院の神様の居場所を覗いてみると、
 三人の宇宙人のような神様が、私のほうを睨んでいた。
 いくら、睨まれても怖くはありませんよと言いたくなる様な神様だ。

 随分変わったおじいさんだったのだろう。わざわざ、あの神様を祭るとは。
 寺院を建てた費用も少なからずのものであっただろうし、このときのお金があれば、
 彼の子孫たちも、寺の境内の中の古い家に住むこともなかっただろうと思うが、
 その子孫たちも、この寺院と神様は自慢らしく、さすが、おじいさんの子供、孫たち
 古い朽ちかけた家のことなど 気にしている様子もない。

 かといって、家の中は整理整頓されており、その外にも季節の草花を植え、
 悠々自適の生活をしているようだった。
 夕闇も迫ってきて、境内に出てみると、この境内に間借りをしている親子が、
 静かに座り込んでいるのは、印象的な光景だった。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 12:35:26 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐9 忘れられた場所
忘れられた場所 1

忘れられた場所 2

忘れられた場所 3

忘れられた場所 4

忘れられた場所 5

忘れられた場所 6

忘れられた場所 7

忘れられた場所 8

忘れられた場所 9


 もう1つのシバ寺院の周りを、ゆっくりと歩き回るのが 私は好きだ。
 打ち捨てられた場所、忘れられた場所、この場所には、静寂しかない。
 それが 心落ち着く不思議な空間を作り出している。
 ラナ家のマハラジャが建立したシバ寺院、寺院の周りに建てた住居、祠は、誰からの
 援助も受けることが出来ず、時代の流れに任せて、朽ちていくだけの姿になっている。

 寺院そのものは、政府の援助で維持されているようだが、寺院の中庭にある建物、
 寺院の敷地の一部である寺院の外の建物には援助の手は 伸びてこないようだ。
 1951年のラナ家の独裁政治崩壊以後は、誰一人、心を向けるものはいないのだろう。

 朽ち、崩れ行くものを見るのも 1つの贅沢ともいえる。
 ネパール人には、こんな崩れ行くもの美に眼を向けるものはいない。
 私一人のために残されていた美の世界のような気もしてくる。

 屋根はすっかり崩れ落ち、木彫りの美しい窓が、やっとの思いで壁に取り付いている姿、
 壊れた祠の扉、漆喰の剥げかかっている塔、時の流れの中で、色を変えてしまったレンガ、
 どれもこれも、心を打つものだ。
 まさに 『夏草や 兵どもの夢のあと』という芭蕉の句の世界と同じものだ。

 このバグマティ川の辺には、ゴルカ王朝初期のサハ家、ラナ家の寺院が建ち並ぶ。
 彼らが建てた寺なら、菩提寺といってもよいものだが、血で塗りこめられた歴史を
 持つ彼らのあくなき権力への争いは、信仰を彼らの生活から遠ざけてしまったようだ。

 そのゴルカ王朝も今、滅びていこうとしている。
 血を流しながらの権力を求めての争いは、民衆の好むものではない。
 兄弟が殺しあう、そんな王室の姿に、民衆の心は遠ざかっていった。
 王自身が そういう民衆の心に気がつかないくらいに 民衆と王との距離は拡がって
 しまっている。
 そこには王の慈悲の心もなければ、民衆への愛もない。

 このネパールでは、ゴルカ王朝の王、マハラジャは 民衆とともに在ったことは、
 ほとんどないといってよい。
 だから、王の信仰する神が、民衆のものにはなりえないのである。
 王が死んでしまえば、その信仰も力を失い、信仰の場である、寺院も朽ち、滅びていくのだ。

 時代が移す鏡は、真実を映している。
 参拝者のない寺院、信仰の失われた寺院に 民衆は見向きもしなくなるのだ。
 心の奥に深く根を下ろさない信仰は、権力に強要された偽りの信仰である。
 そして、時代はそれを証明していく。

 ネワール族の建てた寺院とその神々への信仰は、ネワール族の信仰の中で
 今なお死に絶えてはいない。
 不思議なものである。
 ここに 王と民衆の姿を象徴する時代の証明がある。

 ゴルカ王朝廃止の結果、この国はどう変化、変貌していくのか、まだ誰も知らない。
 この国の行く末など、誰も予測することなど出来はしない。
 この国に住む50以上の種族・民族、そして複雑なカースト制度、これらを融和し、
 解決していかなければ、この忘れられた場所のように、カトマンズに廃墟に
 生まれるだけだ。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 12:14:10 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐8 もう1つのシバ寺院
もう1つのシバ寺院 1

もう1つのシバ寺院 2

もう1つのシバ寺院 3

もう1つのシバ寺院 4

もう1つのシバ寺院 5

もう1つのシバ寺院 6

もう1つのシバ寺院 7

もう1つのシバ寺院 8

もう1つのシバ寺院 9

もう1つのシバ寺院 10



 バグマティ川の辺に建つシバ寺院から少し奥まったところにもう1つのシバ寺院がある。
 旅行者などは、ここにヒンズー教の寺院があるなどとは気づかずに通り過ぎてしまうだろう。
 地元の人間だって知らない者は多いかもしれない。
 だから、いつ行っても参拝者に出会うことはない。
 この寺の中に住んでいる人だけが、いぶかしげにこっそりと私のほうを見ているだけだ。

 このシバ寺院は、サハ家の国王を幽閉し、マハラジャとしてのラナ家を創始し、
 ネパールの首相として独裁政治の道を拓いたジャング・バハドール・ラナの死後、
 そのあとを継いだ兄弟のラナ・ウディップが建てたものだ。

 マッラ王朝以後のゴルカ王朝の信仰するヒンズーの神は、シバ、マハデヴィへと移っていく。
 シバ神といえば、獰猛な戦いの神でもある。
 ネパール統一の戦いに明け暮れたゴルカ王朝、その後もイギリスとの戦いに明け暮れていた
 時代には、ヒンズー教のシバ神信仰が 理にかなっている。

 力の強いものが権力を手にすることが出来るという信仰は、ラナ家の中で肉親同士の
 血みどろの争いを引き起こしていく。
 ジャング・バハドール・ラナの息子たちは、叔父から権力を取り返そうとする。
 又、権力の座から引き摺り下ろされ、幽閉の憂き目にあったサハ家の王子たちは、
 権力奪還の道を探り始める。
 それはシバ神がのり移ったとしかいえない血で血を洗うおぞましい時代に入っていくのだ。
 負けてしまえば、処刑への運命が待っているだけだし、暗殺は日常茶飯事、
 戦いに負けたジャング・バハードールの息子、孫、甥たちを待ち受けていたものは、
 ジャング・バハドール・ラナの血筋を抹殺するという悲劇だけだった。
 それを指揮したのは、ジャング・バハドール・ラナの兄弟、ビル・シュム・シェルだった。
 ジャング・バハドール・ラナの直系たちは、カトマンズの中を逃げ惑い、あるものは、インドへ、
 あるものはイギリス大使館へ逃げ込む、ビル・シュム・シェルの執拗な暗殺者の手は
 止まるところはなかった血の時代だったのである。
 そして、それはシュム・シェル・ラナ家の独裁政治の時代への幕開けだったのだ。
 カトマンズの民衆にとっては、鬼神とも思えたシュム・シェル・ラナ家の恐怖政治の
 始まりでもあった。

 その幕開け前に建てられた寺院がこのシバ寺院である。
 バグマティ川の辺に佇むサハ家によって建てられたシバ寺院、そしてこのラナ家によって
 建てられたシバ寺院といい、血みどろの争いを予兆するようなシバ寺院の建立だ。
 寺院を形作っている3つの塔は、いかにも威圧的である。
 威圧的であるというのがラナ家の象徴なのだ。ここには融和という柔軟さは感じられない。
 寺院の中心では、シバ心の象徴であるリンガが薄暗い部屋の中で、僅かの光を浴びて
 浮き上がっていた。

 そんなことがあったのかとそ知らぬ顔をして、今、このシバ寺院は静けさの中で参拝者もなく
 佇んでいる。
 静寂だけが、寺院の敷地の中を覆っているだけだ。
 境内で眠り込んでいる一匹の犬も、ひたすら平和な午後の時をむさぼっている。
 警戒は怠らず 時より、私のほうに眼を向けていた。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 10:13:08 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐7 寺院の近く住む人々
寺院の近く住む人々 1

寺院の近く住む人々 2

寺院の近く住む人々 3

寺院の近く住む人々 4

寺院の近く住む人々 5

寺院の近く住む人々 6

寺院の近く住む人々 7

寺院の近く住む人々 8

寺院の近く住む人々 9

寺院の近く住む人々 10


 ネパールの大半の寺院は、その周辺に土地を持っている。
 その土地に建物を建て、寺院に関わりのある人々に住処を与えるためのものだ。
 ヒンズー教寺院、仏教寺院においても同じである。
 カトマンズ盆地の中の仏教寺院の大半は、ネワール族が管理しており、いくつかの寺院は 
 多くの土地を持っていて、その土地を有効に利用して、寺院の管理・維持のための
 費用を算出している場合もある。
 ネパールの仏教寺院の維持・管理の費用のための国からの援助はない。

 一方、ヒンズー教寺院などの場合は、国からの援助はあるが、寺を支えていくための
 ヒンズー教信者の組織などなく、喜捨も期待できない場合が多い。

 このバグマティ川の岸辺の寺院なども、寺院そのものはある程度、修復されたりして
 維持できているようだが、寺院の周りは荒れ放題だ。
 寺院を囲む寺の建物、昔は寺院の祭事を司るヒンズー教のプザーリ(僧侶)、寺の管理、
 清掃に従事するものも住んでいたようだが、その建物がすっかり荒れ果てている。

 バグマティ川の岸辺の寺院の多くは、ゴルカ王朝の初期そして、その後のラナ家独裁制の
 初期の王族によって建てられたものだが、それらの王族・マハラジャの権力が、
 政権争いの中で衰退すれば、どこからも喜捨は得られず、荒れ果てていくことになる。
 240年のゴルカ王朝の歴史の流れが、寺の繁栄にも現れているといえる。
 民衆によって建てられた寺院であれば、存続も出来るだろうが、王族・マハラジャに
 よって建てられた寺は、その王族が繁栄している時代には、民衆たちもこぞって、
 参拝もするだろうが、その王族が落ちぶれてしまえば、見向きもしなくなることも
 あるのだ。
 そこに本物の信仰か、あてがいぶちの信仰かの違いがある。

 今、その荒れ果てた寺院の周りの建物には、カトマンズの外からやって来た
 貧しい人たちが住んでいる。
 別にヒンズー教徒である必要はないようだ。寺の内外の清掃さえしてくれれば、
 別に家賃は必要ないようだ。
 すっかり荒れ果てているから、ただ住める、雨露がしのげる程度の建物である。
 住んでいる人たちは、その日の糧を得るのが精一杯だから、建物の修理など
 出来るはずもない。

 火葬場の近くにある寺院の建物であれば、そこに住み、火葬用の薪を用意したり、
 火葬のためにやってくる人たちに飲み物やお菓子を売る商いも出来るようだ。
 そこに住みついている人たちの多くは、仏教徒のタマン族の人たちだ。
 カトマンズ周辺に住みながら、仏教徒ということで教育の機会も与えられず、
 肉体労働 でしか収入を得られなかった民族だ。
 もう寺の建物に20年以上も住んでいるというのに、
 彼らの生活は豊かになっていかないのも そのためだ。

 彼らの子供たちのほとんどは、費用がかからないという理由で 政府の学校にしか行けない。
 収入の額によって、教育を受ける機会も違ってくる。
 収入が充分にあれば、その程度に合わせて、私立学校を選ぶことが出来る。
 私立学校もピンからキリまである。
 月謝が月7百ルピーのところもあれば、2,3万ルピーというところもある。
 もっとお金があれば、小学生の頃からインドの寄宿舎制の学校に送り出す。
 政府にお金がないのではなく、政府に国民の教育を充実させる意欲が足りないのだ。
 貧しいというのは理由にならない、貧しいということ言い訳にして、貧しさに負けて
 しまう人間がいるだけだ。そして、心まで貧しくなる。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 16:35:46 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐6 ヒンズー教寺院と仏塔
ヒンズー教寺院と仏塔 1

ヒンズー教寺院と仏塔 2

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ヒンズー教寺院と仏塔 8

ヒンズー教寺院と仏塔 9

ヒンズー教寺院と仏塔 10


 バグマティ川の川沿いにあるシバ寺院とクリシュナ寺院のすぐそばの小さな広場には
 どういうわけが、仏塔(チャッティア)が数多く置かれている。
 日本なら、神社の中に仏陀が、寺の中に鳥居があるようなものであるが、ネパール人は
 そんなことなど、気にはしないようだ。
 まあ日本でも 仏壇の仏陀と神道の神様が一緒の部屋にいることもあるから、
 同じことかもしれない。
 人々の心の中はそうでも、公の場で、同じ場所に両者が一緒にあると言うことはないだろう。
 インドだって、仏陀は9番目に現れたヒンズーの偉大な神の一人だと言うことで、
 その像が並べられることがあるが、ラーマ、ビシュヌ、シバ、クリシュナ以上の存在では
 ないだろう。

 このチャッティアと呼ばれている仏塔はネワール族の仏教徒が建てたものである。
 仏陀に対する尊敬、畏敬の念をこめて造られたものであるが、徳を積むことでより良き
 来世を願う仏教徒の気持ちの表れでもある。
 家族の重要な人物が亡くなったときに、死者を偲んで建てられることもあるし、
 一族の大きな祭事を行ったあとに記念に作ることもある。
 あるいは、ジャンクーと呼ばれる長寿の儀式のあとに 仏陀への感謝の気持ちをこめて、
 造られることもある。
 
 どうして、ヒンズー教寺院のすぐ近くにというと、ちょっと理解に苦しむところもある。
 ネワール族にとっては どうも仏教とヒンズー教の境はないようだ。
 どんな神々も祈りを捧げ、参拝すれば、何かいいことがあると思っている。
 日本人も同じようなところがある。
 
 この前も、ヒンズー教の寺院に参拝しているネパール人に、
 「ここに祭られている神様は、どんな神様なの」と尋ねたが、
 「知らない」という答えが返ってきただけだった。

 この二つの寺院に建てられた仏塔はいつの時代のものだろう。
 カトマンズの仏教徒の歴史の中では、ラナ家独裁制の中では、
 仏教僧侶たちは国外追放の憂き目にあっている。
 仏塔が 再び建てられるようになったのは ラナ家による独裁政治後の1951年の
 王政復古後のことである。

 ネパールではこうした仏塔のことをチャイティアと呼んでいる。
 タイやラオスではチャディと呼ばれている。
 タイやラオスでは、金持ちや身分の高い人が亡くなったときに建てられることが多い。
 ネワール族の仏教もテラワーダ仏教、タイやラオスと同じ宗派である。
 タイやラオスは 仏教が広がり、多くの寺を持ち、仏教国になったが、
 仏陀の生まれたネパールでは、ヒンズー教に押されてなかなか主流にはなっていかない。
 仏教徒の中に カースト制と取り入れたためである。
 そのためにカーストの違う仏教徒同士のつながりもない。
 仏陀の教えを伝える僧侶の数も、タイやラオスに比べると極めて少ない。
 仏教が広まっていくための基礎がまだ出来ていない。
 僧侶が住み、修行する寺もない。
 タマン族、シェルパ族の信仰するチベット仏教のほうが、仏教伝道の基礎が 
 余程しっかりしている。
 カーストにがんじがらめに縛られたネワール族の仏教徒では、仏陀の平等の教えも、
 慈悲の心も広がっていかないのは当然のことだ。
 ネワール族の仏教はどう再生していくのだろう。
 この地に並ぶ仏陀の像は、ネワール族にそれを問いかけている。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 23:14:41 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐5 シバ寺院からクリシュナ寺院へ
シバ寺院からクリシュナ寺院へ 1

シバ寺院からクリシュナ寺院へ 2

シバ寺院からクリシュナ寺院へ 3

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シバ寺院からクリシュナ寺院へ 5

シバ寺院からクリシュナ寺院へ 6

シバ寺院からクリシュナ寺院へ 7

シバ寺院からクリシュナ寺院へ 8


 バグマティ川の川沿いにシバ寺院からクリシュナ寺院に向かって歩き始める。
 子供たちがいつも遊んでいる広い河川敷までやってくるが、今日はどういうわけか
 子供たちの姿は少ない。

 そこを通りぬけると、火葬場テク・ガートがある。
 この場所では火葬など一度も見たことがなかったのに 今日は火葬が行われている。
 45歳のバウン族の女性だという。家族たちも集まっているが、その中には女性たちの姿はない。
 個人的には火葬などは見たくはない。決して気持ちの良い光景ではない。
 以前ネパール人の中のネワール族の人に聞いた話が 頭の中をよぎる。
 火葬場には様々の霊がいる。
 その中の悪霊が 死者を火葬場に運び、死者を見送った人々にとりつくこともあるから、
 家の中に入るときには、その霊を祓うための祭儀を行う必要があり、そのお祓いのあとに
 家に入る。
 日本の塩を使ってのお祓いに似たものだ。
 そんなこともあって、ネワール族の人の言葉が 気にかかる。

 この火葬場の先に ラナ家によって建てられたというクリシュナ寺院がある。
 木工の様式などを見ると、シバ寺院と同じ様式の時代のものと思われる。
 もしかしたら、初期サハ家によって建てられたような気もする。
 レンガを使って建てられている塔の形は、ラナ家が建てた寺院の建築様式にも似ている。
 ネワール建築との融合と見られるから、ラナ家の創始者、ジャン・バハドール・ラナの
 時代に建てられたものかもしれない。

 このクリシュナ寺院をじっくりと見るが、近くで行われている火葬が気にかかる。
 人の死の姿、死の形というものは、心の中に重くのしかかってくるものだ。
 死者が火葬される姿を親族が眺めるというのは、どういう意味があるのかと考えて
 しまう。
 生から死への変転の中で、人は単なる物体に変わり、燃やされ、灰になっていくことで、
 地へ大気へと広がり、再び、それは集まり、生へと変転していくというのだろうか。
 それを見つめることが、残されたものの勤めなのだろう。

 この火葬場には三つの火葬の場所がある。一つはバウン・チェットリ族専用のもの、
 一つは ネワール族のランジットカールという染物を職とするカーストの人専用、
 もう一つは、タマン族、シェルパ族など仏教徒専用のものだ。
 ネワール族の場合は、この近くにカーストに従って、専用の火葬場があるようだ。
 死に至っても、カーストの掟から開放されることはないのだ。

 時の支配者にとって、人々を統治し易いように考え出されたカースト制、時代の流れを
 止め、社会の動きを止めるには有効であったかもしれないが、今のように近代化を
 推し進める発達途上国にとっては、足かせになっている。
 時代が変われば、社会システムも変える必要があるが、何千年もその掟の中で生きて
 きた人々の心は 簡単には変わっていかない。
 争いばかりが生まれるばかりである。

 そんな人間の愚かさなどお構いなしに、明日は食肉になってしまう去勢山羊たちが、
 寺院に撒かれた穀物をおいしそうに漁っている。まことに平和な光景だ。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 07:40:04 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ タンドゥカールの葬儀
タンドゥカールの葬儀 1

タンドゥカールの葬儀 2

タンドゥカールの葬儀 3

タンドゥカールの葬儀 4


 ドーナツでも買おうと 家から通りに出て、いつも行くパン屋に行くと、シャッターが
 下りていて、店を開けていない。
 いつもなら、近くの短大の学生たちが店の軒先に置かれている椅子に座り込んでいる。
 近くの道の中央には、何やら衣服らしいものが、かごの中に入れて、置かれている。
 近くにいた人に訊くと、いつも行くパン屋の家族、84歳の祖母が昨夜、亡くなった
 ためだという。

 ネワール族では 昔から 死人が出ると、その衣服を道端に置き、低い掃除人カーストのものに
 与え、死の穢れを持ち去ってもらうようだが、この頃では、それを持ち去るカーストの人たちも、
 昔より豊かになり、もって行くことはなくなった。

 死者は、家族や親戚の男たちによって、彼ら専用の火葬場へと運ばれていったと言う。
 ネパールでは、カーストによって火葬の場所か異なっている。カーストごとに専用の
 火葬場があり、他のカーストの人間は、その火葬場を使用することが出来ない。
 なかなか面倒なことである。

 死者の出た家の入り口には レンガが置かれ、死者を送っていった人たちを迎える
 準備が整っている。
 ここで死者に取り付いていた死の霊が 使者を送りに行ったものに取り付いて 再び
 家の中に入ってくることを防ぐためだ。
 使者を送りに行ったものたちは、このレンガの外で、家の内側に居る親戚の女たちに
 よって お払いを受け、家の中に入っていく。
 お払いをする女たちは、死者の直接の家族であってはならない。
 家族には死の穢れが取り付いているからだ。
 家族・親戚が集まると、食事が始まるが、家の外からやってきたものは、
 その家族とは一緒に食事はしない。
 死者の出た家族にはズットと呼ばれる死の穢れが取り付いているから、
 彼らの作ったものは 他のもの(外からきたもの)は食べてはならない。
 食べ物は自分たちで持ってくる。

 タンドゥカールの場合は 死者の出た家族には13日間 視の穢れが取り付いている
 ということから、13日間、彼らは他のものとは食事をともにしない。
 その間、鏡を見ること、テレビを見ること、髪を洗うことなど、様々のタブーがある。
 残った家族が楽しんでいる姿を見て、死者が蘇り、家に帰って来、怒りに任せて、
 他のものを再び死の世界へと誘うことを恐れるためだ。

 13日目にバジャチャーレといわれる仏教徒の祭事を行う人を呼んで祭儀を執り行ったあと、
 平常の生活に戻り、死の穢れから開放されることになる。

 この13日間には、家族の中では様々の祭事が行われるようだ。
 どれもこれも 死者が心置きなく、冥土の世界へと旅立ってもらうためだ。
 死者が 向こうの世界で困らぬように、ひとかけらの金、日常品を持たせるのも
 そのためだ。

 そこには死者に対する、あるいは死後の世界に対する彼らの深い精神世界がある。
 それは、今では日本では失われた世界だ。
 それらの様々の宗教的な装置は、生きていることを問うことでもある。
 死に対する怖れは、生にたいして大きな影響力を持っているはずだ。
 ネワール族の農民の世界にはまだこうした世界が残っている。
 死者をゴミ置き場に捨てるような日本とは違う。
 死者に対する恐れを失った日本では、凶悪犯罪はいくらでも生まれてくる。
 死に対する想像力を失った社会では、人間は単なるものに過ぎなくなっていく。
 人間を抑制する精神的な装置、知恵が科学万能のもとに、ある異が経済重視の社会の中で
 失われてしまったのである。
 文部省の推奨する道徳教育でどうにかなるような世界ではないのだ。
 犯罪とは 社会を映す鏡であるし、人間の置かれている精神世界の象徴でもある。
 豊かな精神世界を失っていけば、世の中どんなことでも起こりうる。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 11:34:49 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐4 神々と老婆
川辺のシバ寺院‐4 神々と老婆 1

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 シバ寺院の横の小さな広場には、ヒンズー教の神々が石に姿を変えて、
 人々の来るのを待ちわびている。
 その神々がどういう名の神様なのか、どうもはっきりしない。
 ガネーシュ、サラサティ、ラーマとシタ、ハヌマンなどはよく眼にするから、
 どうにかわかるが、シバ、ビシュヌ、クリシュナなど同じようで区別がつかない。
 川辺にいたネパール人の叔父さんに訊いてみたが、彼もよくわからないようだ。
 何族かと訊いてみると、チェットリ族だと言う。
 チェットリ族といえば、はっきりとしたヒンズー教徒である。
 それも50歳を過ぎたチェットリ族のおじさんだ。
 おじさんも 私の質問には困ったようで、近くにいたバウン族の青年に助けを求める。
 その青年は、ウッパデャ・バウンと呼ばれるヒンズー教の祭儀を司るカーストに属している。
 これはガネーシュ、サラサティ、ラーマとシタまではわかるが、あとは曖昧になってくる。
 そのあとに又、同じカーストの16,7歳の若者がやってくるが、これも 神々の名がわからない。
 どうも近頃のウッパディア・バウンの息子たちは、この程度である。

 そうすると、すぐ横の崩れかけた家の中から、白髪の老婆が出てきた。
 いつも私がこのシバ寺院にやってくると、お茶を飲むお金がないから、お金をくれと
 せがむ老女である。
 これは又、お茶代をせがんでくると思って構えていると、なんと、この広場の中にいる
 数々の神々の名を 当然のことのように挙げ始める。
 このくらいのことがわからずにどうするんだという按配だ。
 前に訊いたチェットリもウッパディ・バウンの息子たちもあまりに情けない有様だったから、
 すっかり感心してしまった。

 話を聞いてみると、この老婆は、この寺院の横に建つ今は朽ちかけているような家で
 生まれたと言う。神々とともに齢を重ねてきたなら、神々は 家族同然だ。
 20年前に彼女の夫は亡くなり、一人息子もインドに行ったきり、帰って来ないと言う。
 いつもは、うるさいと感じていた老婆も、じっくり 話をすると 違った存在に見えてくる。
 彼女の人生の有り様、ここに生まれ、少女時代、娘時代、中年、老年と姿を変えてきた
 彼女の人生の流れを感じてしまう。
 幸せな時代もあったことだろう。今、一人で孤独に耐えながら、生き抜いているのだろう。
 死ぬまでは、生き抜くより仕方がないという強さもあるようだ。
 ひたすら息子の帰りを待ちわびているのかもしれない。

 私が帰りかけるといつものように、お茶代をくれとせがんできた。
 このとき、神々の名前を教えてくれたお礼にお茶代を上げてもいいと思ったのだが、
 この日は、部屋にお金を忘れてきてしまっていた。
 今日はお金を忘れてしまった。今度来たときに渡すからと言うと、あっさり諦めて、
 家の中に入って行った。

 口に出したことは必ず守るというのが、私の流儀である。
 翌日、再び、このシバ寺院を訪れ、老婆を探した。
 老婆は、人の気配を感じたらしく 家の中から出てきた。
 この日は、元気がなさそうだった。熱があって、体調がよくないと言う。
 約束のお茶代を渡して、すぐに帰ってきた。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 14:19:41 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々
川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 2

川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 2

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川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 4

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川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 6

川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 7

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川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 9

川辺のシバ寺院‐3 川辺の神々 10


 川辺の寺院 このシバ寺院を出ると、そのすぐ横の庭には 多くの神々が鎮座している。
 この寺院を訪れた人たちが、神々への畏敬の念、願いをこめて 喜捨したものだろう。
 二百年の月日の流れの中でどれだけの人が この地を訪れたのだろうか。
 神々と人々がともに生活していた時代のことだ。

 いつ訪れても、人気のないこの場所、石に姿を変えた神々は 訪れる人のないこの地で
 ひたすら、人々のやって来るのを待ちわびている。
 神々は呼びかける。
 悩めるものは 私のもとにやってくるがよい。私にその悩みを打ち明けるがよい。

 神々への信仰が薄れていくカトマンズでは、神々も待ちくたびれてしまったようだ。
 石に刻まれた神々は 昔ながらの姿をそのまま保っているが、
 神々の世話をしてきた人々の住む館がすっかり、くたびれ、崩壊寸前だ。
 石の神々は残り、神々の世話をする人々は 消えていく。

 神々を失った人間の未来には 何が待ち受けているのだろう。
 いつまで経っても争いの絶えない世界、飢餓に苦しむ人たちのことなど 気にもしない
 飽食に明け暮れる先進諸国の人々、今日、飢餓に苦しむ人たちのための行進が 日本で
 あったようだが、その中でインタビューを受けていた人はといえば、
 ぶくぶくと太っていた親子だった。
 「餓えるアフリカの人たちのことを思い、この行進に参加しました」
 この皮肉には、苦笑いが出てきてしまった。
 自らの過食、飽食すら疑うことも出来なくなっている。

 すっかり、節度を失ってしまった社会、何かが間違ってしまっている。
 飽食に明け暮れている人間と 飢餓に苦しんでいる人間は どこで理解しあえるというのだろう。
 餓えを知らない国民が、餓えている人たちを理解するためには 
 行進をするより断食をするほうが余程効果的だ。
 これが相手の立場に立つ唯一の方法だ。

 頭だけの中身のない想像力、軽薄で軽率で物事を深く考えない風潮は、神々を生活の
 中から追い出してしまった。

 神々の言葉に代わって、テレビが、インターネットがその座を占めてしまった。
 おめでたいことである。

 真実の言葉は失われ、仮想の世界の言葉が、世界を駆け回る。
 五感を介して、物事、世界を認識する力はどんどん失われている。
 そして、神々の声を傾けることの出来る五感の上に立つ第六感の力など皆無に等しい。

 今 日本人の心の支えになっているものは何だろうと考えてしまう。
 宗教でもなく、共同体でもなく、家族愛でもない。
 物を追いかけ、お金を追いかけ、情報を追いかけ、心の休まる暇などないではないか。
 これが、高度経済成長の残したものなら、これほど、寒々とした風景はない。
 ひたすら追いかけ、追いかければ追いかけるほど、心の方は貧しくなっていく。
 自分の心に問いかけることすら、忘れてしまうゆとりのなさ、それにすら気づくことが
 出来なくなっている社会、怖いと思う。

 そういう社会でいじめられたものは何をしでかすかわからない。
 その予兆は、様々の犯罪の中で明らかになっている。
 浅知恵では、もう解決できないところまで来ているのである。
 どんなに貧しい国でも、まだネパールのほうが 我慢できる。
 人々の心は、まだ死に至ってはいない。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 21:41:21 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸
川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 1

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 2

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 3

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 4

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 5

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 6

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 7

川辺のシバ寺院‐2 寺院を飾る木工芸 8


 このシバ寺院には 寺院を飾る神々の姿をかたどった木彫りの像が彫りこまれている。
 この木工芸は、マッラ王朝時代に建てられた寺院に数々の優れた木彫りの彫刻を施した
 ネワール族の仏教徒の職能集団 ウダースの中のシルッパカールたちの仕事である。

 時代は マッラ王朝からゴルカ王朝に変わっても、その優れた技能は、新しい王朝の
 中でも愛され、重宝されたに違いない。
 ゴルカ王朝初期においては、ネワール族の仏教徒の職能集団 ウダースには活躍の場が
 充分に残っていたようだ。
 国王を幽閉し、首相として、マハラジャとして 権力を手にしたラナ家独裁政治の時代に移ると、
 イギリスから建築家、建築技術者を招聘し、ヨーロッパ様式の建造物を建てることが多くなる。
 それにしたがって、職能集団 ウダースたちの活躍場所は失われ、
 マッラ時代には その豪華さを誇った工芸文化も衰退していったのだ。

 その最後の輝きが この寺院の木工芸には残っている。
 寺院の柱に彫りこまれた精緻な模様、神々や魔物たちの顔、あるいは壁や扉に惜しげもなく、
 シルッパカールの心をこめた仕事が見られる。
 あるものは時代の推移とともに、朽ち果てていきつつある。
 その風情が深い味わいをかもし出し、心に働きかけてくる。

 ゴルカ王朝時代にネワール様式で建てられた建造物といえば、その数は少ない。
 大半はゴルカ王朝初期の王や后によって建てられたものだ。
 その当時の主だったものといえば、カトマンズの旧王宮広場にあるゴルカ王朝創始者の
 プリティビ・ナラヤン王の建てた宮殿、ツリプレソールにあるラナバハードール王の后が
 建てたツリプレソール・マハデヴィ寺院、そして、やはり、后の建てたこのシバ寺院などである。

 マッラ王朝時代の競うようにして建てた寺院の数に比べれば、この240年の歴史を
 持つゴルカ王朝の建てた寺院の数は微々たる物だ。
 サハ家からラナ家へ、そして王政復古を経て再びサハ家へと権力は移ってきたが、
 その流れの中で起きた血生臭い争いは、人々から神々への信仰を奪い取ってきたのかも
 しれない。

 王は国民の手本でなくてはならない。
 国王は 国民に慈悲を与え、国の繁栄をもたらす威力を持ち、国を擁護する存在であると 
 ヒンズー教の聖典には書かれている。
 それを実践した王は、この240年のゴルカ王朝の歴史の中で、何人いるだろう。

 そのことは これから、民衆の歴史を探る中で 実証されていかなければならないことだ。
 民衆の歴史を語る歴史家が、このネパールに生まれてくることを切に願う。
 民衆の歴史が、自由に語れる時代、民衆の歴史を語ることが価値を持つ時代になった
 時に初めて、ネパールの民主化は始まったといえるだろう。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 09:45:05 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 川辺のシバ寺院‐1 静寂の中で
川辺のシバ寺院‐1 1

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 雨期がやってきたのかと思われるぐらいに、午前中は曇り空の毎日だ。
 午後になると晴れてくる。そんな時には近所を散歩することにしている。
 今日は 久しぶりに歩いて10分位のところにあるバグマティ川の岸辺にある
 シバ寺院へと足を運んだ。
 このヒンズー教の寺院は、私のフェーバリット・テンプルの1つである。
 いつもこの寺院には訪れる人の人影もなく、のんびりとしている。
 時間の流れが穏やかで、心の落ち着く場所でもある。
 このあたりにいる人といえば、この寺院に住んでいる家族ぐらいのものだ。

 前を流れるバグマティ川の流れは、すっかり汚染されてしまっているが、
 昔は 多くの人々がやってきて、寺院の前に沐浴していたに違いない。

 この寺が建てられたのは かれこれ二百年前のことである。
 マッラ王朝時代に建てられたシバ寺院かと思っていたら、ゴルカ王朝時代のラナ家
 独裁制前のサハ家の亡き王を偲んで その后が建てたものらしい。
 すっかり荒れ果てているから、てっきりネワール族のマッラ時代のものかと思ってしまった。

 数少ないサハ家の建てた寺なら、もっと大切にすればと思うが、先祖の建てた寺には 
 関心がないようだ。
 王制を永久に存続させる気持ちがあるなら、寺の維持に気を使うのが当然だと思うが、
 そんなことには気も金も使う心はどこにもないようだ。
 これでは、民衆からの支持を得ることは難しい。
 タイでは 国王は宗教の擁護者であることから、仏教の寺のみならず、キリスト教会、
 イスラム寺院にも多額の援助を与えてきた。
 懐の深さが どうも違うようである。
 あるネパール人が言っていたが、国王はけちでは駄目だ、まさにその通りだ。
 ヒンズー教の教えの中では、国王はビシュヌ神の化身であるといわれている。
 その国王が、寺をないがしろにして、自らの蓄財に耽っているようでは 
 国民の信頼など どこからもやって来はしまい。

 そんな扱いを受けている寺だから、信仰のために訪れる人も少ないのだろう。
 一体チェットリ族は、どこの寺へ参拝しているのだろう。
 私は、ラナ・チェットリ族の家に住んでいるが、この家の人たちは 家に祭っている
 神には毎日礼拝しているようだが、どこかの寺院に出かけたという様子は見かけたことはない。
 寺のための寄進の話など聞いたこともない。
 家での祭儀だけに 興味を示す不思議な人たちだ。

 何度も何度もこの寺を訪れているうちに親しみも湧いてくる。
 何の制限もないから、じっくり自由に見て回れる。誰一人、寺の中にいる私に関心を
 示すものもいないのは 嬉しいことだ。
 寺の中にいる犬すら私に興味を示さない。
 今のカトマンズでは 味わうことの難しい贅沢な静寂を ここでは 充分堪能できる。
 それだけでも、この場所に来るだけの価値はある。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 19:37:11 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ タンドゥカールと老人
タンドゥカールと老人 1

タンドゥカールと老人 2

タンドゥカールと老人 3

タンドゥカールと老人 4

タンドゥカールと老人 5

タンドゥカールと老人 6

タンドゥカールと老人 7


 私の住んでいる地域には ネワール族のタンドゥカールというカーストの人々が
 たくさん住んでいる。
 農業に従事するカーストのようであるが、かといって ネワールのジャプーと呼ばれている
 農民カースト マハルザンとも違うカーストの人たちである。
 カーストとしては、マハルザンの下に位置づけられている。
 彼らの主な仕事は 農業と米の商いだというが、それだけでもないようだ。
 いろいろな人に聞いているのだが、納得のいくはっきりしたカースト上の職種はわからない。

 つい先日、このタンドゥカール・カーストの84歳の高齢の葬儀を見かける機会が
 あったことから、タンドゥカールの人たちの宗教、生活習慣についていろいろ尋ねてみた。
 彼らの生活の中での年寄りたちの生活を中心に尋ねてみた。
 農業に従事するネワール族のタンドゥカールやマハルザンの人たちには、年間を通して
 多くの宗教行事がある。
 他のネワール族の人たち、上位カーストのシュレスタ、サッキャ、バジャチャーレと比べても
 はるかに多い。

 カトマンズの祭りなども中心的な役割を果たしているのは、農民カーストの人たちである。
 祭りや宗教的な行事があるたびに一族一党が集まり、そのつながりを深めている。
 大きな行事であれば、集落全体がまとまりを見せる。
 家族・親戚、地域の同じカースト同士が協力しあうことで、その絆の深さを確かめ、
 同時に 神々とのつながりを深めていく。

 そんな農民カーストの世界には、年寄りたちにとって重要な行事がある。
 ジャンクーと呼ばれている行事だ。
 家に居る年寄りが 77歳7ヶ月7日を迎えると、その年寄りのための大きな祭事が
 ある。
 年寄りのために山車を造り、77歳になったことを祝い、神に感謝し、その山車に
 当の年寄りを乗せ、その孫たちが綱を引き、町中を練り歩く。
 年を取ることで、神々に近づいたことを喜ぶのである。
 もし、その年寄りに妻がいれば、妻がその年齢に達していなくても、一緒に山車に乗って 
 街の中を練り歩く恩恵に預かることができる。
 そして、その日から4,5日間は 神に感謝する祭儀、お祝いの会食を
 多くの家族・親戚とともに祝うことになる。

 その次は81歳になった時だ。今度は山車ではなく、81歳になった年寄りを乗せる
 神輿のようなものを造る。
 前と同じように孫たちが年寄りを乗せた神輿を担いで、街中を練り歩く。
 ネワール族のお祭りの際には、神々の像を担いだり、引いたりしながら、街中を練り歩く。
 それと同じ扱いだ。

 84歳になれば、今度は、年寄りを通常の入り口から運び出してはいけない。
 窓から、外へ運び出し、終われば、又、窓から運び入れなくてはならない。
 そして、一回目のジャンクーと同じように山車に年寄りを乗せて、街中を練り歩く。
 3回のジャンクーを経験した年寄りは神様と同じ存在に近づいたということで、
 家族・親戚は大喜びである。一族・一党に神々が繁栄をもたらすと信じているからだ。
 4回目は 95歳のときに行うらしいが、誰もが、このジャンクーは見たことがない
 と言う

 ネワールの農民カーストの社会では、年寄りは大切にされる。
 宗教行事などの手順は年寄りの支持が必要だ。様々の知恵、宗教的な教えは、
 年寄りから孫たちへと伝わっていく。
 カトマンズ盆地の中の人口は今や250万人を越えようとしているが、
 カトマンズの中心部でもまだまだ村的な要素の強い家族制度、共同体は 
 農民カーストの中では 生き生きと生き続けている。ここには老人問題はない。
 老人を粗末にすれば、神々から見放されてしまうのだ。老人は神々に近い存在だ。
 宗教と家族制度が美しく機能している世界、家族同士のつながりの深い濃厚な世界だ。
 これは ネワール族が誇れる素晴らしい文化である。
 彼らは決して日本のように豊かな人たちではない。しかし、やるべきことは惜しまずに
 やる民族だ。
 
 こういうネワール族社会に生きている老人は決して孤独ではない。
 家族とともに生活し、家族のそばで当たり前のことのように穏やかな死を迎える。
 日本のように老人医療の恩恵を受けることなくても、死を自然に受け入れ、与えられた
 寿命を全うするだろう。家族に囲まれながら。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 01:26:14 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐6 再会
再会 1

再会 2

再会 3

再会 4

再会 5


 このキルティプールで 3年近く、私の住んでいた家を探す。
 3ヶ月ほど住んだことのあるドルバドール・ビスタ氏の別宅であった家は、すぐに
 見つかったが、私の住んでいた平屋の小さな家は見つからない。

 ビスタ氏はネワール族ではない。チェットリー族である。
 キルティプールの丘のすぐ下にある当時ネパールで唯一の大学、トリブバン大学の
 人類学教授であり、キルティプールの各家庭にトイレを作るプロジェクト、
 キルティプールの低カースト、ポーレ(掃除人カースト)、サイ(屠殺カースト)などの
 子供のために基金を集めて、小学校を造り、その子供たちに教育の機会を与える
 プロジェクトに参加もしていた。
 その小学校を手伝うことを条件に、ビスタ氏の別宅を3ヶ月ほど 借りたのである。
 石造りのなかなかしゃれた家で、1階が台所と居間、2階が寝室とバスルームをいう
 間取りであった。
 電気は来ていたが、水道は来ていなかった。
 当時のキルティプールの丘の上にある家は、すべて同じ事情であった。
 
 ビスタ氏が、家にトイレを設置すれば、必要な資材は与えるというプロジェクトを
 勧めていたにもかかわらず、彼の家の周りの野原は、相変わらず、
 近くに住むキルティプールの住民のダーティプレイス、トイレの場所だったのだ。
 ビスタ氏が いくら説得しても、彼らは昔ながらの習慣を変えようとはせず、
 雨が降れば、降ったで 傘をさし、カトマンズを眺めながら、毎日のお勤めを
 果たすのだった。
 その怒りと汚さから、どうもそこに住む気はなくなったようだ。

 このビスタ氏も 今は行方不明である。
 行方不明になって、もう10年以上になるようだ。
 彼の息子が、彼を見つければ 10万ルピーの報奨金を与えると 新聞広告に掲載したが、
 見つからないままである。
 政治的な理由から抹殺されたか、放浪の旅に出たのか 誰も知らない。
 生きていれば、もう70歳近いはずだ。
 
 その家を管理している一人の青年がいた。
 名前は、サンカール・マハルザン、ネワール族の青年である。
 当時、サンカールは 高校を卒業し、高校卒業資格試験の結果待ちの状況にあった。
 彼が、キルティプール社会の橋渡しをしてくれたのであった。

 そうこうする内に3ヶ月が経ち、ビスタ氏の家を出なくてはならなくなった。
 そこで浮上してきたのが、小さな家を建てるという話である。
 私のほうで3年分の家賃として10万円を前金で払うという約束で、
 サンカールの母親は、必要な残りのお金をかき集め、家を建てることになった。
 出来上がった家は、台所と居間兼寝室、そして家の外にトイレを作った。
 小さな一軒家であったが眺めは素晴しかった。
 カトマンズの街が、見渡せ、その向こうにヒマラヤの山々が、見えていた。
 
 その家を探すが、見つからないのである。
 ビスタ氏の家はまだ残っていたから、その位置から推測してもそれらしい建物はなく、
 4,5階建ての家が建ち並ぶばかりである。

 サンカールの母親がその家にまだ住んでいるという話を聞いていたので、
 場所に見当をつけ、その場所あたりの小さな雑貨屋で店番をしている女性に 
  「息子が、ドイツにいて、娘がアメリカにいる母親の家はどこか」
 と聞いてみると、
  「ここだ」と答える。
 私の住んでいた場所は、雑貨屋兼住居に変わり、その上に4階分を建て増し、
 大きな建物になっていた。
  「サンカールの母親はいるか」と尋ねると、
  「いる」と言う。
  「元気でいるか」と尋ねると「元気だ」と答える。
 それがわかればいいと思い、その場を立ち去ろうとすると、
  「すぐ 案内するから」と言う。
 まあ、会ってみるのもいいかと思い直し、上階に上がっていく。
  「犬がいるかもしれないから、待つように」
 と言い残し、サンカールの母親を呼んでいる。
  「何の用だ」と言いながら、サンカールの母親が出てくる。
 20年ぶりの再会である。
 彼女は少し太ったぐらいで そんなには 姿は変わっていない。
 私を見ても、「こんな人、しらないよ。」「思い出せないよ」と言っている。
 どうも私のことをネパール人だと思っているらしい。
  「前に、ビスタ氏のうちに住み、その後、あなたが、家を建ててくれたではないか。
  その家に住んでいた日本人の私を忘れたのか。」
 と言うと、目が輝き、「入って!入って!」と部屋の中に案内してくれる。
  「太ってしまったから、わからなかった。」という。
  「冷たい飲み物は、いらないか。タルカリとチューラがあるから食べないか」
 と歓待してくれる。
 
 早くに夫を亡くし、幼いサンカールとサンギットを抱えて、苦労してきた彼女は
 初めて出会った25年前は 42歳という歳以上に老けていた。
 それが今、65歳に近づいている彼女だが、当時と同じ面影を残している。
 とにかくよく働く人だった。
 それが 今は5階建ての建物の大家である。
 多くの部屋を賃貸し、ある程度収入もあるようだし、他にも土地を買ったと言っている。
 息子のサンカールは、ドイツに出稼ぎ行き、14,5年になるだろう。
  「母さんが、動けなくなったら、帰ってくるよ」と言っているらしい。
 娘は娘でアメリカ在住のネパール人と結婚し、両方にはもう何人かの孫もいるだ。
 何度か、アメリカにもドイツにも息子、娘に呼ばれて行って来たこともあるようだ。
 家の建て増し、増築で毎日忙しそうで、元気いっぱいの様子だ。
  「今まで、大きな病気もしたこともなく、当分は大丈夫だ」
 と言っているが、内心はさびしいのだろう。

 
 5階建ての建物の屋上に案内してくれる。
 周りには 建物は、やたら増えたが、それでもその向こうの風景は昔ながらの姿を
 残している。
 私が住んでいた小さな一軒家は、なくなったけれど 目を閉じれば、大きな荷を背負って、
 坂道を登ってくる子供たちの姿がここから見えるのだ。
  「又、来てね。」
 と言う彼女の声を後ろにキルティプールの坂道を下っていく。

 25年の月日は瞬く間に過ぎてしまった。
 しかし、それは昨日のことのようでもある。
 それほど、鮮やかな印象を刻み付けてくれたキルティプールだった。
 子供たちとのぞいた水の出ない井戸、
 毎日のように機織の音が響いていたレンガ造りの民家、
 住む人は変わってしまい、知る人も少なくなったが、
 それでも、私の記憶の中では、キルティプールは生き生きの生き続けているのだ。


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ネパール キルティプール | 21:49:49 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐5 街の中心
キルティプールへのいざない‐5 1

キルティプールへのいざない‐5 2

キルティプールへのいざない‐5 3

キルティプールへのいざない‐5 4

キルティプールへのいざない‐5 5

キルティプールへのいざない‐5 6


 この街の中心には、ため池がある。乾期の水不足に備えて、造られたものだ。
 雨期も終わりに近づいているこの池には、緑色の水が、満々と湛えられている。
 20年の昔には、この池の周りで、女たちが、おしゃべりに花を咲かせながら、洗濯を
 していたものだが、街に大きな貯水タンクが備えられてからは、各家庭に水道が引かれ、
 緑色に濁った水で、洗濯をすることもなくなった。

 貯水タンクが出来るまでは、本当に大変だったのだ。
 毎回の食事に使う水を手に入れることで精一杯だった。
 冬場の乾期になると、水も簡単に手に入らなくなり、子供たちの水浴びも間々ならず、
 1週間も10日も水浴びをしていない子供たちの姿は、当たり前のことだった。
 それに比べると、最近のキルティプールの子供たちも小奇麗になったものだ。
 高い丘の上にあるキルティプールでは、井戸を掘っても、水は出ない。
 朝と夕に政府から、供給される丘の下の水場まで、女たちは、何度も水の入った20キロ近い
 真鋳の甕を腰に抱えて、長い階段を上り下りしなければならなかったのだ。
 皆、列を成して自分の番を待っていたものだ。 
 これがなくなっただけで、女たちの重労働は軽減された。

 ため池のあるこの場所は、街の人たちの重要な決定の話し合いの際には 街の人たちで
 埋め尽くされる。
 何かあれば、この場所が使われるのである。
 この池は、ネワールの重要なお祭りであるインドラ・ザットラの時には、楽しみの場所にも変わる。
 各トール(地区)から選ばれた若者たちが、この池に投げ入れられた水牛の足を、
 池の中に飛び込んで奪い合うのだ。
 ネワール族の人々にとっては、水牛は重要な蛋白源である。
 どんな祭事にも水牛料理は欠かせない。
 その水牛の足を奪い合う若者たちをキルティプールの町の人たちは、池を囲んで声援する。
 人々は、自分の地区から出た若者を応援することに熱中する。
 そんな興奮の中で、インドラ・ザットラのお祭りは、終焉していくのである。

 この池を眺めていると、そんな20年以上も前の光景が思い出されてくる。
 カーストという違いはあっても、町の人が一体となって、祭りを楽しんでいた。
 キルティプールのネワール族も本当に祭り好きなのだ。
 カトマンズよりは、素朴に祭りを楽しむ習慣は キルティプールのほうが色濃く残って
 いる。見るための祭りではなく、参加するための祭りだ。
 キルティプールに住む者同士が つながりを深め、非日常的な空間を楽しむ場でもある。
 何百年にも渡って続いてきたキルティプールの民たちの祭りなのだ。
 王朝が ネワールのマッラ王朝空チェットリ族のゴルカ王朝に変わっても、途切れることなく
 続くネワール族の祭りの数々、これこそ彼らの文化遺産なのだ。


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ネパール キルティプール | 01:37:05 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐4 あるプロジェクト
あるプロジェクト 1

あるプロジェクト 2

あるプロジェクト 3

あるプロジェクト 4

あるプロジェクト 5


 何でこんなところに門を造っているのだろう。
 門の屋根部分にオレンジ色の瓦を貼っている。
 不思議に思って、その仕事を監督している中年の男に聞いてみる。
  「この下にレストランとミュウジアムがある。一度来て見てくれ。」と言う。
 のども渇き、それなら、何か冷たいのもでも飲もうと思って、案内の男の後についていく。
 門をくぐり、坂を下っていくと、その道々の建物の壁に、様々の古いネワールの民具が所狭しと 
 飾られている。
 これは、農作業に使う道具、これはロキシを作る壺、これはチャンを作るときの壺と、
 説明してくれる。20メートルほど下ると、少し広いところに出る。
 そこは見晴らしの良い場所で、古い農家のわきに 一段高くしたレストランを造っている。
 ネワール方式で 床に座って食事を摂るようになっていると言う。まだ完成していないのだ。
 話を聞いていると、このレストランは、この近辺のタンマール・トール(地区)に
 住むマハルザン(農民カースト)の70近い世帯が、協力し合って、作っているとのこと。 
 
 このキルティプールでは、9割がたが 農民カーストであるマハルザンだといわれて
 いる。
 彼らより上位のカーストには、シュレスタ(商業に従事)、バッジャチャーレ(祭祀を司る)、
 サッキャ(仏教徒、金、銀の細工をする)、プラダン(王の相談役)、ジョイシ(占い師)などがあり、
 それぞれが、かたまって住んでいる。
 そのそれぞれのかたまって住んでいる地域をトールと言う。
 マハルザンは、人口が多いから、いくつかのトールがあるのであろう。
 その中の一つが、タンマール・トールである。

 まだ、造っている最中、このトールの、男も女も、期待に胸を弾ませている。
 9月8日が開店の日に当たるようだ。
 その日の開店日の食事券を100ルピーで売っている。
 ゲストハウスも付随しているようだ。
 ビジネスには、あまり長けないマハルザン、上位カーストの連中から、
 「全く ジャプー(上位カーストの人が、使う蔑称)のやることは。」
 と 馬鹿にされないよう、成功してもらいたいものである。
 
 ネワール族の文化が花開いたのは、13世紀から18世紀中期までのマッラ王朝時代だ。
 今あるカトマンズの重要な遺跡は、その当時に造られたものである。
 時の王は、仏教を崇め、街の整備に努め、もうこの時代から、ヒティと呼ばれる共同水場、
 下水道も完備され、街の所々には、乾期の水不足に備えてため池も多く造られたようだ。
 インド・チベット貿易で財を成した商人たちは、こぞって喜捨し、多くの仏教寺院、
 ヒンズー教の寺院が建てられたのもこの時期だ。

 その繁栄豊かなネワールの里、カトマンズが ゴルカの豪族 プリティビ・ナラヤン・サハに 
 突然の侵略を受け、支配を譲り渡すことになってしまうのである。
 それ以来、ネワール族の苦難の道は続く。
 このゴルカからの侵略者との戦いで、一番苦しみを味わったのは、キルティプールの
 住民である。
 1,2度目は追い返し、3度目には打ち負かされ、その抵抗に対する報復のために、
 鼻、耳をそぎ落とされたという話を キルティプールの住民は今でも忘れてはいない。
 
 ネワール族の賢い支配階級は、新しい権力に取り入るため、下級官吏の職を得ていく。
 土地とともに生きてきたマハルザンは、容易に生活を変えようとはしない。
 変える必要もないのだ。彼らには、耕す土地があり、たくましい体力があり、
 生活を支えていく職能がある。
 彼らは不器用に頑固に マッラ王朝時代からの営みを 当たり前のように続けていく。
 彼らの信仰は、マッラ王朝時代から、そのまま受け継がれてきているのだ。


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ネパール キルティプール | 13:01:35 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐3 女たち
キルティプールへのいざない‐3 女たち 1

キルティプールへのいざない‐3 女たち 2

キルティプールへのいざない‐3 女たち 3

キルティプールへのいざない‐3 女たち 4
キルティプールへのいざない‐3 女たち 5

キルティプールへのいざない‐3 女たち 6


 街の中心に向かって、再び歩みを進めると、かったんかったんと、リズミカルな音が
 聞こえてくる。
 機織の音だ。そうだった。この街は機織の街でもあったのだ。
 建物の陽の射す明るい一角で 女が 布を織っている。
 昔は、この街では至るところで機織の音が聞こえたものだ。
 今はその音も少なくなったようだ。そのすぐ近くに絨毯工房がある。
 そこでも女たちは、働いている。昔は、街の中にはこんなものはなかった。
 布を織るより、絨毯を紡ぐほうが、実入りがいいのであろうか。
 織られているのは、チベッタン絨毯であるが、模様は伝統的なチベット模様でなく、
 モダンなもので、外国からの注文のようだ。

 キルティプールのネワールの女たちはよく働く。
 特にマハルザン(ネワールの農民カースト)の女はたくましくそして明るい。
 農作業をし、家の中の仕事をし、ロキシーという酒を造り、布を織り、絨毯をつむぐ。
 何かにつけて行事の多いネワールの社会、怠け者の男を尻目に、料理を作り、家を整え、
 客を迎える。
 男たちは、ただただ、飲んで歌って騒ぐだけである。
 
 女たちが、家の前の軒下に座り込んで、おしゃべりをしている。
 朝の農作業を終えて、体を休めている女たちだ、彼らは、物怖じしない。
 底抜けに明るく、たくましいマハルザンの女たちだ。
  「今は、田んぼの雑草取りで 大変だろう」と尋ねると
  「そうだ」と答える。
 皆、堂々としている。かといって威圧的ではない。
 これが、ネワールのマハルザンのよさだ。
 男とも対等に冗談を言い合えるほど、開放的なところもある。
 年老いた一人の女が
  「少しぐらいだったら、英語を話せるぞ。孫が学校で習ってくるからさ。
   日本語は駄目だけどさ。」
 と言って、大笑いをしている。
 
 話が酒の話に移る。
 私が、
 「ネワールのチャン(どぶろく)に黒い米で造るチャンがあるだろう。あれは本当に美味しいな。」
 と言うと、年老いた女は答える。
 「あれは、造るのになかなか手間がかかる。黒い米も少ししか取れないしな。
  おらは、自分で造れるぞ。この頃の若い連中は、駄目だけどな。」
 近くにいた若い女たち、「おらたちは、造り方は、しんねえ。」と笑っている。
 親しくなると、そんな話をすると、その幻のチャンを運んでくるのだが、
 そこまで親しくないので、期待できない。

 13世紀から18世紀までカトマンズ盆地で 豊穣なマッラ王朝を栄えさせた末裔で
 ある彼ら、性格の一端にその時代のおおらかさを感じさせる。
 そんなことを感じさせてくれるのは、今はキルティプールだけかもしれない。

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ネパール キルティプール | 20:25:01 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐2 街の中へ
街の中へ 1

街の中へ 2

街の中へ 3

街の中へ 4


 キルティプールに街へと続く石段の前に立つと、20年前の記憶が、まるで昨日のことのように
 蘇ってくる。
 20年前のキルティプールの女たちは,黄銅で造られた甕を腰の脇にかかえて、
 朝夕と、石段脇にある共同水場で水を汲んでは、この階段を行き来したものだ。
 丘の上にあるキルティプールの街は、いつも水に苦しんできた。苦しみも日々の営みとなれば、
 和らぐ。
 その石段を私も 20年振りに登り始める。20年前には、息を切らすこともなく、
 上り下りしていたこの石段も、今の私には、何度も足を止めて、息を整えずには、
 足を進めることは出来ない。
 後ろを振り向くと、カトマンズの町並みが広がる。
 家、家、家、余すところなく家に埋まってしまったカトマンズ、昔の面影はない。
 車の排気ガス、交通渋滞、見る影も無い。
 もうカトマンズは、もう人々に安らぎを与える場所ではないのだ。
 人々は、生活に追われ、ある者は富を追いかけ、人のことなど省みず、土地を買いあさり、
 投資に精を出す。
 ある者は、貧しさゆえに、恥を感じ、自らを失ってしまう。
 そんなことを思いながら、ゆっくりと、歩を進めていくと、
 やっとキルティプールの街の入り口である門に辿り着く。
 
 この門を超えてしまうと、一瞬のうちに 時の流れは緩やかになる。
 2,3歳の女の子の手首に白い紐を結び、そこから1メートルばかり延びた紐の先を掴んだ
 父親らしき男が、女の子を連れて門を超えて、下の街に下っていく。
 祖母らしい女が、門の内側から、
  「この子は、いつもどこかへ行ってしまうのだから、しっかり紐を握っていなさいよ。」
 と男に声をかける。
 神々に護られているこの街の外に出ると、まるで、悪運が女の子に忍び寄ってくるのを
 心配するように。

 いよいよ、街中に入っていくと、街の憩いの場所である広場に出る。
 そこの片隅に男たちが、かたまっている。トランプ賭博に興じているのである。
 朝の仕事を終えた農民たち、今日は 仕事のない大工、左官、
 彼らは、20年前と少しも変わらない姿で、けだるい午後を過ごしているのである。
 キルティプールは、職人と農民の町なのである。
 酒好きで賭博好きのキルティプールのネワールの男たち、少しずるく、
 すぐにもわかる嘘をつく男たち、それでも愛すべき者達なのである。

 狐の嫁入りのような天気雨をやり過ごすために 広場のなかにある小さな集会場の片隅に
 座り込んでいると、私の顔を、確かめるように通り過ぎていく男がいる。
 まるで自分の記憶を確かめるように、何度も振り返っては、私の顔を確かめている。
 あの男は、私の住んでいたキルティプールの家に毎日のように遊びにやって来ていた
 ラムの父親だったのだろうか。
 20年の歳月が過ぎ去ってしまうと、人の顔も変わり、ぼんやりとした靄の中に
 かすんでしまう。


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ネパール キルティプール | 07:51:32 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール キルティプールへのいざない‐1 夢の王国
夢の王国 3

夢の王国 2

夢の王国 1


 この石造りの階段は、夢の王国 キルティプールへと続いていく道である。
 何段にも重なって続くこの石段、息を切らしながら、何度も、立ち止まり、
 息を整え、登っていかねばならない。そうすると、 
 中世の街、キルティプールの入り口にたどりつく。
 この入り口を越えてしまうと、あなたが失ったもの、求めていたものが蘇ってくる
 かもしれない。

 入り口を越えたとたん、時の流れは、緩やかになり、こわばっていたあなたの顔に
 優しい笑みが浮かんでくるであろう。
 あなたが、失ってしまったやさしさ、生き生きとした人との共生を思い出すだろう。
 迷路のように路、こんな路なら、迷ってしまったほうが良い。
 迷った果てにあなたの探していたものが、見つかるかもしれないだろう。

 出来るだけ、この時の流れに逆らわず、この時の流れに身を任せてしまうことが肝心だ。
 朝から夕刻までこの街をさまようのもよい。
 何百年も昔に建てられたレンガ造りの家々が、朽ちかけながらも寄り添って建ち並び、
 あなたに囁きかけてくる声を聞くがよい。
 急がず、あわてず。
 ひっそりと、静まり返った街、聞こえてくるのは、機を織る音、絨毯を織る音ばかり。
 
 ここにあるのは、夢、幻の世界だ。
 到る所にある神々の場所、ここで人々は朝夕に祈りを繰り返す。
 キルティプールは、そんな場所なのだ。
 あなたが、神々の気配、神々への祈りを求めるなら、今すぐ、ここに来なくては
 ならない。
 もう明日にも、夢の王国 キルティプールは、夢、幻のように消え去ってしまうかも
 しれないからだ。


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ネパール キルティプール | 22:36:24 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール パタン‐16 バハール(バハイ)とは何だろう
バハールとは 何だろう 1

バハールとは 何だろう 2

バハールとは 何だろう 3

バハールとは 何だろう 4

バハールとは 何だろう 5

バハールとは 何だろう 6

バハールとは 何だろう 7

バハールとは 何だろう 8

バハールとは 何だろう 9

バハールとは 何だろう 10


 今日は朝からよく雨が降った。外に出かけるにしても、泥濘は厄介だ。
 昼過ぎてから、雨も小降りになり、晴れ間ものぞいてきたので、パタン方面に
 出かけることにした。
 いくつか、パタンの仏教徒のサッキャ・カーストの人か、バジャチャーレ・カーストの人に
 尋ねたいことがあったのだ。

 パタンには、ビハールとバハールと呼ばれる二つの仏教施設がある。
 ビハールと呼ばれる仏陀の像を収めた寺院はバジャチャーレの管理のもとにあり、
 仏教徒の住んでいる広場の中にある。様々のサッキャ、バジャチャーレの人たちの
 仏教行事は、このビハールを中心にして行われる。

 一方、バハールは、通りに面したところにあり、仏陀を納めているが、
 建物はビハールと違って、三方に小部屋がたくさん並んでいて、昔は僧侶、僧侶見習いが 
 そこで仏教修行でもしていたような造りなのである。
 これらの建物は、サッキャの人たちによって建てられ、ビハールよりも歴史は古い
 らしい。
 たくさんのサッキャ、バジャチャーレの人たちに、このバハールと呼ばれる建物は 
 何に 使われていたのか尋ねても、要領を得なかった。

 そこでバジャチャーレ、サッキャの多く住むバースカール・マハビハールのある広場に
 行って、詳しい話を聞いてみることにした。
 年寄りたちに聞けば、何かわかると思って、60歳過ぎの人間に話を聞いてみたが、
 よく知らないらしい。
 一人のサッキャの中年の男性が、パタンの仏教に詳しいバジャチャーレの人がいると
 言うので、案内してもらい、その家に出かけていった。
 そのバジャチャーレの人といろいろ話すうちに、少し パタンのバハールの姿が見えてきた。


 最近、サッキャ族の人から、ラナ家独裁政治の時代に、カトマンズに住んで、
 仏陀の教えを説いていた多くの僧侶が、ネパールの外へ追放になったという話を聞いた。
 以前から、仏教徒の町、パタンにどうして僧侶の姿が少ないのかと気になっていたのだ。
 パタンの街の中には20近くのバハールがあり、あるものは手入れもされず、朽ちるままに
 任されているらしいし、あるものは、政府の学校として利用されている。
 外国の援助によって、復元されたバハールもある。
 その場所には訪れる人も少なく、信仰の体裁を成していないところが多い。

 しかし、ラナ家独裁政治の時代の前には、この場所が、仏教伝道の場所だったのである。
 サッキャ、バジャチャーレの人たちの住む広場にあるビハールはサッキャ、バジャチャーレの
 人たちのための寺院であるが、このバハールという宗教施設は、カーストには
 こだわらず、誰でもこの場所で僧侶から仏陀の教えを聞くことが出来のだ。
 その生き生きした伝道の場が、失われて百年以上になるが、未だに仏教伝道の場として
 回復もしていないし、復活の兆しすらないのが現状だ。
 ビハールと違って、バハールには サンガ(檀家のようなもの)の組織もなく、
 建物の維持すら難しくなっている。

 古い昔は、すべての仏教徒に開かれていた伝道の場、バハール、この場所が
 復活していかなければ、ネワール族の仏教も衰退していくだろう。
 仏教の教えの場も、学びの場もないというのが、現状だからである。
 人々は 形だけの祭儀、祭事は行うが、仏陀の説いた教えを深く知ろうという姿はない。
 サッキャ、バジャチャーレの人たち、農民カースト マハルザンの人たち、マナンダール、
 タンドゥカール、ウダースの人たちと数多くの仏教徒はいるけれど、
 皆 てんでばらばらで つながりはない。
 今一度、このバハールが、仏教徒たちの寄り合い所としての働きを成してほしいと思う。
 日本では、生きた仏教は失われ、死に掛けているが、このネパールなら、まだ再生の
 機会あると思う。


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ネパール パタン | 12:52:31 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 1

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カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 7

カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐6 8


 ラナ家独裁政治の中で ネワール族の生活はどう変化していったのだろうか。

 ネパールはラナ家のみにあるという独裁政治は、首相職を世襲制にし、カトマンズの
 至るところに ラナ家の息子たちのための豪奢な宮殿を建て、ラナ家の家系に
 つながる者たちで 官僚、軍隊の中での上級将校は占められ、イギリスへの留学の
 機会も A級ラナと呼ばれるシェムシェル・ラナ家直系のみに与えられ、
 民衆には教育の機会は与えられなかった。
 学校づくりが行われるようになったのも、ラナ家末期のことである。
 それまでは、他民族に対する徹底的な愚民政策を続けていたのだ。

 逆らうものには徹底した重罰を与え、気に入らないものは 意のままに排除していった時代
 だったのである。
 ラナ家の言うことが 法だったのだ。
 そして、ラナ家の地位を確実にするために、サハ王家が 妃を迎えるときには 
 必ず 妃は ラナ家からというルールも確立していったのである。

 イギリスへは イギリス軍傭兵グルカ兵として グルン、マガール、ライ、リンブー族を送り出し、
 イギリスから 莫大な見返りを得ていたのだ。
 一体何人のグルカ兵が イギリス軍の戦いの最前線に立ち、命を落としていったのだろう。
 命を落としても、得るお金は、イギリス兵の何十分の一にも満たなかったのである。

 ヒンズー教至上主義を掲げたラナ独裁政治は ネワール族の仏教徒たちへの圧迫へと
 つながっていった。
 仏教徒の多かったパタンでは、サッキャ・カーストの仏教僧侶たちは、カトマンズ追放、
 ネパール追放の憂き目に合い、あるものはチベットへ、あるものはインドへと
 逃れていったのだ。
 サッキャ・カーストの宗教施設バハールと呼ばれる建物から 僧侶の姿が消えたのは
 このラナ独裁政治の折のことだった。
 毎年、パタンで行われる仏陀生誕節のお祭りの時には、その時代の悲しみを歌に託して、
 行列は、その悲しい歌を歌いながら、街の中を練り歩く。

 仏教徒たちは ラナ家の恐怖政治から逃れるために、ヒンズー教の儀式も取り入れるように
 なっていく。
 殺傷を禁じる仏教の教えとは裏腹に、ヒンズー教徒のダサインの祭りには、山羊、アヒルを
 生贄に捧げるようになっていく。
 ラナ家への従順を示すためである。
 ラナ家に逆らうことは、死を伴うくらい危険なことだったのだ。
 気に入らない相手を抹殺するには、ラナ政権に密告するだけで充分だったはずだ。

 イギリス様式の建造物に憧れるラナ家のものたちは、イギリス様式の宮殿、豪邸を建て、
 寺院といえば、インド様式の寺院が建てられ、ネワール族の仏教徒の工芸職人の仕事は
 先細り、ネワールの工芸文化は停滞していくのだ。
 インドのマルワリ商人に ネパールの商業活動に利権を与えることで ここでも莫大な財を
 得ていたのである。
 インド、チベット貿易の覇者だったネワール族は、ここでも力を失っていくのである。
 チベット貿易では、西のタカリ族が 台頭してくるのである。

 ネワールの農民カーストにおいても同じことである。
 ラナ家が ここに家を建てると決めれば、容赦なく農地は、何の保障もなく取り上げられて
 しまったのだ。
 土地は個人のものではなく、国王のものだったのである。
 国王を幽閉し、実権を奪い取ったラナ家にとっては、何事も意のままであり、
 反逆すれば、死が待っているだけだったのだ。

 こうした当時の残虐性は、今でも警察、軍の中には残っているのである。
 つい最近まで続いた毛沢東主義共産党と政府の戦いの中で、毛沢東主義者の疑いを
 かけられ、軍や警察に拉致されたものの多くが、軍、警察による拷問、強殺によって、
 命を失っていったというのは周知の事実である。
 チェットリ族の下位カーストに対する残虐性は、
 今でも軍や警察内部に脈々と息づいているのである。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 01:43:23 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐5
ネワール族 仏教徒の悲哀‐5 1

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 1768年にゴルカからの豪族 プリティビ・ナラヤン・サハの侵略を受け、
 征服されたカトマンズの民 ネワール族の新たな悲哀の歴史は続いていくのである。
 カトマンズ盆地の中で大半の人口を占めていたネワール族 まとまって反乱を起こせば、
 再び、国を取り戻す機会もあったように思われるが、カースト制にこだわり、
 まとまりを欠くネワール族は、ゴルカ王朝に逆らう勢力を形成することは出来なかった。

 憧れの桃源郷 カトマンズ ネパールで唯一の文明社会を手にした、
 プリティビ・ナラヤン・サハの喜びの程は、如何程のものであっただろうか。
 ゴルカ王朝では、上級警察官、上級将校にはチェットリ族を配し、下級兵士、下級警察官には
 マガール、グルン、ライ・リンブー族を用い、ネワール族の監視を強めていったのだ。
 当然のことであるが、ネワール族の兵士、警察官などはいなかった。
 反乱の原因になる職業にネワール族を抱えるはずもない。
 ネワール族とすれば、新しい支配体制の手足となり、ネワール族を監視する仕事に就くことは
 嫌っただろう。
 下級兵士として支配体制を支えたグルン、マガール、ライ・リンブー族の人たちは
 後のラナ家専制(ラナ家による摂政制)の時代には イギリス軍の傭兵 ゴルカ兵として、
 名を馳せるようになっていく。その命を引き換えに。

 サハ家、ラナ家の支配体制は、ネワール族の力を削ぐことに専念したことだろう。
 チベット・インドとの貿易も支配体制に協力的なタカリ族を優遇し、ラナ家の時代には
 インドのマルワリ商人を優遇することで、ネワール族の経済力も削いでいったのだ。

 世界に名を広めたネワール族の建築様式も、ラナ家の時代には、
 イギリスの建築様式のものに変わっていく。
 イギリス人の建築技師をネパールに招聘し、ラナ家の宮殿、シンハ・ダルバールを初めとして
 一族のために数多くの宮殿などを完成させていった。
 寺院などもインド様式のものを建て、ネワール様式のものは、新たに建てられることはなかった。
 国教もヒンズー教に定め、ヒンズー教徒優遇の体勢になっていく。

 貿易、商業に従事していたサッキャ、トゥラダの経済力にも陰りが見え始めただろうし、
 寺院も工芸を支えていたウダース(タムラカール、スタビ、シルッパカール、シラッカールなど
 工芸に従事するカーストのグループ)たちの仕事も目減りをしていっただろう。
 マッラ王朝時代の支配カースト シュレスタ・カーストの人々も、新たな生活の道を
 探す必要に迫られただろう。
 あるものは商業への道へ、あるものは新しい支配体制に従順を誓うことで、
 下級官吏の職を得ただろう。

 新しい支配体制の中での生き残りをかけて、すべてのネワール族は新しい生活の形を
 模索し始めたのである。それを支えたのが、各カーストの中にあったつながりであり、
 一族の強固なまとまりだ。
 それが クル・デェオタを守り神とする一族集団で構成するグッティであり、
 各地域ごとのグッティであり、同一カーストをまとめた組織だった。

 プリティビ・ナラヤン・サハによって カトマンズに成立したゴルカ王朝も 
 有能な摂政であったビムセン・タパ(1839年没)までは安定していたが、
 その後は王位継承争うに絡んだ側近たちのパンディ・チェットリとタパ・チェットリたちの内紛に
 明け暮れ、ラナ家の創始者、ジャン・バハドール・ラナの台頭を許すことになる。
 ジャンバハドールは 国王を幽閉し、権力を争う中で、残虐性を発揮し、
 ラナ家の専制制の基礎を作ったが、そのジャン・バハドール・ラナもジャングルでの狩の際に、
 1877年に なぞの死を遂げる。どうも暗殺だったようだ。
 7年前に起こった王宮殺害事件のような血生臭い事件が ラナ家の中にも起こり、
 ジャン・バハドール・ラナの直系である息子・甥たちのすべてが、ジャンバハドールの兄弟たちに
 よって殺害され、シェムシェル・ラナ家に権力は移っていく。
 それは ラナ家の殺戮の血の歴史でもある。
 首相であり、マハラジャであり、軍の指揮権を手にしたシェムシェル・ラナ家は、
 強権・恐怖政治の中で力を発揮していくことになる。
 こうしたラナ家の血で血を洗う姿を眼にしていたネワール族にとっては、
 ラナ家は恐怖の対象でしかなかったはずだ。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 17:02:45 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐4
ネワール族 仏教徒の悲哀‐4 1

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 ネワール社会にカースト制を導入したジャスティス・マッラ王の時代から、ヤクシャ・
 マッラ王の時代までの百年、栄華を極めたマッラ王国だったが、ヤクシャ王の6人の息子による
 後継者争いから王国は バクタプール、パタン、カトマンズと三つの王国に分かれてしまう。
 ヒンズー教色の強いバクタプール、仏教色の強いパタン、ヒンズー教と仏教が混然としていた
 カトマンズ、それは サッキャ、バジャチャーレ、ウダースを中心とした仏教徒の人口比の多少に
 よるものだろう。

 一人の国王を中心に 国を支配していくという体勢が崩れ、マッラ王国の国力は分散していく。
 バクタプール、パタン、カトマンズの三つの王国同士の争い、あるいは王国内での後継者争い、
 それに群がる王国を支えていたシュレスタ・カーストの争いも頻発しただろう。
 そうした不安定な時代が 三百年にわたって続いていくのである。
 その間、カトマンズを取り巻く状況は急激に変化しているにもかかわらず、
 三つの王国同士の争い、後継者を巡る支配階級内の争いに明け暮れ、
 カトマンズの外の大きな変化には対応できなくなっているのだ。

 インドではイスラムのムガール王国の成立、イスラム勢力との争いに敗れた多くのインドからの
 クシャトリア(チェットリ族)の移住、そして 彼らのネパールでの各地での支配体制の確立にも
 目を向けないまま 三百年の時が過ぎていくのである。

 ゴルカを本拠地にすえたチェットリ族の豪族 トックリ・サハチェットリは 耽々と
 カトマンズ進出を狙っている。
 ゴルカ王朝の始祖、プリティビ・ナラヤン・サハは行儀見習いと称して、バクタプールに入り込み、
 カトマンズ盆地の状況を探り、カトマンズ侵略の手立てを練るのである。

 三百年、カトマンズの外の世界に眼を向けることのなかった三つの王国には訓練された
 軍隊すらなかったのだ。
 絶えず内紛に明け暮れていたカトマンズ盆地の中では、ネワール族のまとまりも
 失われていたのだ。
 強固なカースト制を作り上げた支配下級のシュレスタ・カーストと被支配階級の溝は、
 広がっている。

 そんな状況を見て取ったプリティビ・ナラヤン・サハは兵を起こし、兵士として
 訓練したグルン、マガール族を先頭に立て、1768年に兵力に欠けるカトマンズを
 いとも簡単に征服してしまうのである。

 チベット、インド貿易に従事していた仏教徒のサッキャやトゥラダ・カーストの人たちは
 カトマンズの外で起こっている変化には充分に気がついていたはずである。
 外国貿易に従事していたものが、カトマンズの外の状況の変化に無関心なはずはないのだ。
 被支配階級にいた仏教徒たちは 権力の中枢にはおらず、ただひたすら貿易・商業、
 そして生産に従事していただけだ。
 ヒンズー教を信仰する支配階級 シュレスタ・カーストの人間たちは 被支配階級で
 あった仏教徒 サッキャ、トゥラダ・カーストの声などには耳も傾けなかっただろう。
 皆、それぞれカーストの内側に閉じこもり、視野をどんどん狭くしていく。
 カースト間の交流はなく、正確な情報を得ることも出来なくなっていた。
 こんな状況では国家を苦難から救うことは出来ない。
 今のネパールも 別の形で同じ状況にある。
 カースト間の交流の無さが、民族間の交流の無さに変わっているだけだ。
 それが互いに理解しあうことを阻害し、国の発展を妨げ、混乱を生み出しているのである。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 00:39:19 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐3
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 カトマンズのネワール族のすべての職業カーストにはグッティと呼ばれる組織がある。
 このグッティは一族の団結を図るものであったり、カーストの中の人々のつながりを
 深めるものであったりする。
 そのグッティという制度が異なったカーストとの交流を阻害し、職業カーストを固定したものにし、
 身分制度を作り上げる基礎となったようだ。

 農民カースト マハルザンのグッティについていえば、まず 一族の護り神 クル・デョオタと
 崇めるグッティ集団がある。この護り神は 各家々で異なる。
 それはヒンズー教の神でもなければ、仏陀でもない。民間・土着信仰の神々のようだ。
 タイの土着信仰のピー 精霊信仰にも似ているようだ。
 この家族の護り神は、一族以外のものに見せることは許されない。
 例えば、家族の中で、娘が結婚すると その娘は結婚しても実家の一族の護り神 
 クル・デョオタの祭儀には参加できるが、彼女の夫は参加できない。
 この一族の護り神 クル・デョオタを崇める血のつながりを持つグッティは、
 ネワール族のすべての職業カーストの家族が持っている。
 もし、家族の誰かが、下位に属するカーストか、他の民族と結婚することになれば、
 そのグッティから追い出されることになる。
 一族の護り神 クル・デョオタを穢すことになるからだ。

 下位に属するカーストの人間、あるいは異なった民族が、家の中で生活できたとしても
 一族の護り神 クル・デョオタの祭事には参加できないし、その家の台所にも入ることは 
 許されない。上位カーストになればなるほど、その傾向が強いようだ。
 下位カースト、異なった民族のものは、一族の護り神 クル・デョオタを崇める家族に
 穢れを持ち込むということからだ。

 そのグッティとは 別のグッティもある。
 カトマンズのマハルザンについていえば、カトマンズの農民カースト マハルザンの
 住む地域を35に分けている。
 その地域の一つ一つをトールと呼び、このトールを一つグループとしたグッティがある。
 これは祭りなどの運営、トールの中の諸問題の解決を図るグッティであり、
 タカリと呼ばれる5人の長老と中心として運営されている。
 その中にサナ・グッティと呼ばれるいくつかのグッティがあり、それは葬儀の際の
 助け合いのグッティであり、同じトールに住み、同じカーストの人間であればよく、
 血縁関係は問わない。
 下位カーストのものや他の民族と結婚すれば、このトールのグッティからも排除され、
 葬儀の際の援助、トールの様々の行事にも参加できないことになる。

 こうしたグッティの形は、すべてのカーストに共通しており、シュレスタ・カースト、
 サッキャ、バジャチャーレ・カーストにおいても同じシステムで成り立っている。

 こうしたグッティ制度は 各カーストの中で重要な役割を果たし、異なったカースト間の交流に
 大きな制限を与え、排他的な集団、組織を創り上げている。
 これがネワール族同士のまとまりを阻害し、ばらばらにしている原因にもなっている。
 本来仏教徒の指導的役割を果たすはずのサッキャ、バジャチャーレもこのカースト制度を
 支えるグッティ制度の中に閉じこもり、自らの優位を護ることだけに専念にし、他のカースト、
 他の民族に仏教を広める努力をしてこなかったようだ。

 こうしたネワール族のカーストの中にあるグッティ制度は、一族内、家族内、同一カースト内の
 総合扶助のシステムを作っていったが、それが強固になればなるほど、他のカースト、
 他の民族に対して 排他的になっていったのである。
 それがネワール族の悲劇を生む原因にもなっていったのだ。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 13:36:01 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐2
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 マッラ王国のジャスティス王による64の職業カースト、そしてヒンズー教の4つのカーストの
 区分けによって、ネパールの仏教徒たちの社会はどのように変貌していったのだろうか。

 この時代にもインド、カトマンズ周辺から、やって来たインドの高カーストの人々との通婚を
 通して、支配階級である王族マッラを中心とした支配階級のシュレスタ・カーストの中も、
 細分化されていく。
 このシュレスタという支配階級に属するもの同士の結婚は許されたのである。

 マッラを頂点に、プラダン、ジョイシ、ラーズバンラーリ、アマチョ、マスケ、
 バディア、カルマチャーレ等のカーストが生まれ、彼らはヒンズー教徒であり、
 彼らの祭儀は インド系のヒンズー・カーストのブラーマンが行う。
 そのために、ヒンズー教のブラーマンのカースト、ラーズパディアというカーストも
 生まれた。
 支配階級の安定を図るために、インドの高カーストの人々を受け入れ、通婚を通して
 シュレスタ・カーストの人口増加も図っていったのである。

 一方、カトマンズに住んでいた多くの仏教徒たちは、四つのカーストに振り分けられていった。
 本来、平等であった社会にカースト制という固定的な身分制度が入り込んできたために
 仏教徒社会は仏陀の説いた教えとは、異なった社会へと変貌していくのである。

 仏教徒の高カーストとして、サッキャ、バジャチャーレ、その下にはサッキャから
 派生したトゥラダー、タムラカール、シルッパカール、スタビ、ラーズカルニカール、
 シッラカールなどの職業カーストの人々の集団、ウダースと呼ばれるカースト集団が
 形成されていった。
 経済的には優位に立っていたサッキャ・カーストに血のつながりを持つウダースという
 職業集団は、他の職業集団より、上に位置づけられたのだ。

 そして、その下には 人口の大半を占めるジャプーと呼ばれる農民カーストが
 形成されたが、マッラ王朝時代には 自作農というより、上位カーストの持つ農地の
 小作農という地位に甘んじていたのではと思える。

 さらに 又その下に、サッキャとは血のつながりを持たない職業集団が形成されていったので
 ある。
 その集団には ランジットカール(染め、ブロックプリントを行う)
 チットラカール(タンカ、看板などの絵を描く)、マナンダール(食用油の製造)、
 タンドゥカール(米の生産)、ナッカルミ(鉄製品の製造)などのカーストの人々が
 属した。

 更に最も低カーストの集団ダリットに サヒ(食肉を扱う)、ポーレ(魚を取る)、
 チャミ(掃除人)などが属した。

 こうした身分制度を作り、固定していけば、国の統治は容易になるのである。
 職業集団を固定し、各集団同士の交流を禁止することで、民衆を分断していくには
 効果的な方法だ。
 封建的な国家では、こうした方法、社会システムが どこでも取られてきたのである。
 インド、江戸時代の日本でも同様のシステムがとられてきたが、日本においては
 かなり流動的であったが、インド、ネパールでは このカースト制度は絶対的なもの
 であった。

 このマッラ王朝時代に作られたカースト制度が、今なおネワール族の社会の中で、
 途絶えることなく、生き続けていることを考えると、まことに怖いことである。
 それを強化し、支えるシステムも細部にわたり、作られていったのだ。
 その制度をグッティという。
 このグッティという制度、全く複雑怪奇なシステムで、外国人である私にとっては、
 理解するのに苦労を要するものだった。。
 そのことは次回に説明しようと思う。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 21:48:17 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族 仏教徒の悲哀‐1
ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 1

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 2

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 3

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 4

ネワール族 仏教徒の悲哀‐1 5


 カトマンズに住むネワール族には昔からの多くの仏教徒がいる。
 カトマンズ盆地の仏教徒の歴史は、紀元前に成立したキラティ王国から
 紀元5,6世紀に起こったリッチャビ王国にまで溯ることができるようである。
 その頃のインドは、アショカ王が、インド全土を統一し、仏教を広めていた時代でもある。
 紀元前3世紀には、アショカ王は仏陀生誕の地、ルンビニを訪れ、カトマンズ盆地にも
 その娘が訪れ、パタンに四つの仏塔を建てたといわれているが、それには確証はない。
 その仏塔は今でも残っていることは残っているが。
 その影響を受け、多くのカトマンズ住民の間にも仏教が広まっていったようである。
 ヒンズー教を信仰していたリッチャビの時代も 仏教には寛容で、カトマンズの最も
 幸せな時代であったと、今日の人々の間でも話題に上る時代である。
 カースト制もなく、人々が平等に暮らしていた時代だ。
 ネパール周辺の国々から多くの人間が移り住み、通婚を繰り返し、ネワール族という
 民族の基礎が出来上がったのもこの頃のことだろう。
 今のネワール族の人々の顔を見ても、その多様性には驚くものがある。

 そんな幸福な時代も アショカ王の時代とともに終わり、インドのグプタ朝に入ると、
 再び、ヒンズー教が力を得て、ヒンズー教の教えのもとに カースト制を取り入れ、
 王をヒンズー教の神、ビシュヌの化身とする専制政治が始まっていくのである。

 こうした影響は東南アジアにも広がり、カンボジアのアンコールワットの時代の国王政治、
 タイのアユタヤ王朝にも大きな影響を与えている。
 国王をビシュヌの化身とする神王思想は、国の統治を容易にしたのである。

 豊かな土地と穏やかの気候の中で 平和に暮らしていた人々の桃源郷のカトマンズも
 段々と変わって、インドの変化の影響を受け始めるのである。
 今のインド・ネパール国境付近で勢力を持っていた仏教徒であったサッキャ族も
 グプタ王朝の迫害を逃れて、カトマンズ盆地に逃れ、仏教徒としての地位を築き始める。
 仏教徒が大半であったカトマンズ盆地の中では大きな勢力になっていったはずである。
 カトマンズの中でスワヤンブナートを総本山にする仏教徒、
 パシュパティナートを方本山とする支配層と国を二分していたはずである。

 リッチャビ王国も後期にはヒンズー教重視の政策に変わり、
 仏教徒も次第に圧迫されていくようになる。
 そんな時代に すでにネパールの各地で勢力を広げていたインドのクシャトリア・カーストの
 マッラ族がカトマンズに入り込み、力をつけ、リッチャビ王朝を倒し、
 マッラ王国を打ち立てることになるのである。

 ヒンズー教を国策とするマッラ王朝も サッキャ族を中心とする仏教徒の力を削ぐことに
 専念するが、チベット貿易で巨大な富を得ていたサッキャ族の力を削ぐことは、
 簡単なことではなかったようだ。

 13世紀中期に成立したマッラ王国も14世紀中期のジャヤスティス王の時代になると、
 王国も安定し、ヒンズー教のカーストシステムを取り入れ、
 人々を職業によって64のカーストに分け、
 それをヒンズー教に従って、四つの階層に区別していったのである。
 カーストと職業によって、着る服装にも決まりを設け、制限を加えていき、
 身分制度による統治を確実なものにしていったのである。
 王国の大半を占める仏教徒を分断していくには効果的な方法だったし、
 力をつけていたサッキャ族の力を削ぐにも大いに効果を発揮したのである。

 このジャヤティス・マッラの時代に、マッラを中心とするヒンズー教徒 シュレスタの
 支配階級と仏教徒である被支配階級に分かれていくのである。
 又、仏教徒の間にもカースト制を導入し、固定した身分制度によって 仏教徒同士の
 つながりを分断していき、仏教徒の力も削いでいったのである。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 12:35:51 | Trackback(0) | Comments(2)
カトマンズ 再び バグマティ橋のそばのスラムへ
再び バグマティ橋のそばのスラムへ 1

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再び バグマティ橋のそばのスラムへ 7


 2ヶ月ぶりにバグマティ橋のそばにあるバグマティ川沿いのスラムの中を歩いてみた。
 季節はすっかり夏へと変わり、陽射しは 焼けつくように肌を突き刺してくる。
 2ヶ月前には空き地も多かったこのスラムの中もビニール張りのバラックが増え、
 密集の度を増してきた。2ヶ月前に比べると3倍近くに増えているだろう。
 人々が多く住み着いてくることで、人々の表情もゆとりを失い、以前ののんびりした
 雰囲気はなくなっている。早い者勝ちという土地の奪い合い、権利の主張のし合いも
 あるのだろう。
 今日は、国の休日で学校は休みのはずなのに、子供たちの姿もまばらである。
 前回 見かけた子供たちの姿もない。どうしたのだろう。
 早くこの場所に来たものは、多くの土地を得、バラックのそばに畑を耕し始めている。
 その畑の中では トウモロコシが育ち始めていた。

 いつもなら、子供たちと知り合い、周りの大人とも話しを進めていくのだが、子供たち  
 の姿は少ないので、きっかけがつかめない。

 スラムの中も、生活に必要なものが揃い始め、小さな商いも見られるし、机と椅子を
 並べた食堂のような店、簡単な洋服直しの店もあった。
 生きていくためには 知恵を働かせる必要がある。
 
 まだ、造りかけの小屋の前では、2,3人のマガール族の若者が、小石と泥を集め、
 床部分を1段高くするための整地に余念がない。20歳を過ぎたばかりの若者たちだ。
 そうしないと、雨季に入れば、水が家の中にはいりこんでくるからだ。
 学業のためにカトマンズにやってきたといっているが、どうもそれらしくは見えない。

 バグマティ川の水の中では、この前と同じようにたくましい女性たちが、建築資材用の
 川砂を掘っている。生きていくためには男も女もない。
 生きていく糧を得るためには、出来ることは何でもするしかないのだ。

 あと何ヶ月かすれば、この場所もすっかり密集した集落になるだろう。
 これから、どう変わっていくのだろう。
 こうした場所に来ると、語るべき言葉を失ってしまう。
 何を語ればいいのだろう。そんなことを感じながら、スラムの外に出ると、
 そのスラムの入り口付近に U.N PARKと書かれた看板があった。
 どういう意味なのだろう。U.N PARKの中にあるスラム、何とも皮肉なことだ。

 新しい政府に向けて、相変わらず非難合戦の政党、デマ合戦の様相も帯びてきた。
 本当に庶民の生活を真剣に考えている政党はあるのかと、疑いの念すら浮かんでくる。

 バグマティ川にかかる橋げたを潜ると、その向こうにラナ家創始者の建てたラーム寺院がある。
 聖と俗の世界が、橋を境にはっきりと分かれている。
 これも皮肉なことである。
 そんなこととはお構いなしに、ジャカランタの紫色の花は 満開だった。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 00:49:14 | Trackback(0) | Comments(0)
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