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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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ネワールの街と文化 カトマンズの街の形 
カトマンズの街の形 1

カトマンズの街の形 2

カトマンズの街の形 3

カトマンズの街の形 4

カトマンズの街の形 5

カトマンズの街の形 6


 カトマンズの街は マッラ王朝時代に造られた街並みと、ゴルカ王朝時代に造られた
 建物が並存している。ゴルカ王朝といっても 大半の建物は、ラナ家専制時代に
 建てられたイギリス様式を真似たもので、ネパール建築とは程遠いものだ。
 街はマッラ王朝時代に建てられた建物が大半で、ゴルカ王朝時代に建てられた宮殿群は
 ネワール族の造り上げた街の周辺地域に散在しているだけである。

 日本の江戸時代のことを考えてみれば、江戸の中心に江戸城があり、
 その周辺に直参旗本の屋敷、大名屋敷、その外に商人たちの居住地と職人たちの居住区、
 さらにその外の川向こうには悪場所、歓楽街が広がり、その向こうといえば、村になってしまう。
 昼間の日常的な世界と夜の享楽的な世界が 街の中に共存することで、
 街にすむ人たちの心に善と悪のバランスを与えていた。
 欲望の捌け口の場を用意していたのである。

 カトマンズの街を読み取るには、マッラ王朝時代の街づくりに眼を向ける必要がある。
 ゴルカ王朝時代の建物を見ても、ただ権力を誇示するための建物ばかりで、生活する人々の
 心の有様を知る手がかりにはならない。

 ネワール族の街づくり、それは、カトマンズでもパタンでもバクタプール、キルティプールでも
 同じ構造になっているものだが、まず、街の中心部に王宮を作り、王宮の周りに寺を建造し、
 その周辺にカーストの高い人たちが住み、周辺に行くにしたがって、
 カーストの低い人たちが住むという構造になっている。
 基本的にはこの構造は250年のゴルカ王朝の支配の中でも変化はしていないようだが、
 上級カーストの生活場所については、ゴルカ王朝に協力的であったものとそうでないものとの
 違いによって、居住区の入れ替えはあったように思われる。
 ネワール族の中のヒンズー教徒、仏教徒によって、ゴルカ王朝への協力度は違っていただろう。
 しかし、大半のネワール族は、マッラ王朝時代からの居住地域に住んでいるようだ。

 ただ不思議なのは カトマンズの街には、悪場所である歓楽地域がないことだ。
 ヒンズー教の影響なのだろうか。
 江戸であれば、隅田川の川向こうは、江戸庶民の歓楽街であったし、バンコクであれば、
 中華街が歓楽街だったはずだ。
 ネワール族の60歳を過ぎた人たちに聞いても、カトマンズにはそんな場所はなかったという
 答えが返ってくるばかりである。
 性に興味を持ち始めた若い頃はどうしていたのだと尋ねると、結婚まで我慢していたと言う。
 酒好きのネワール族、遊び好きのネワール族がである。

 ラナ家専制時代は、ラナ家の御曹司は、かなり性の面でも野放図であったというが、
 それは支配階層のことだけで、カトマンズの大半を占めていたネワール庶民とは
 無縁のことだったようだ。

 ネパールでもカトマンズ以外の街道筋には、男の欲望を満たす場所がたくさんあったという話を
 聞いている。
 街道の食堂や宿屋で働く女たちは、男たちの欲望に応えていたことが多かったと言う。
 昔、東ネパールのダランという町のホテルに泊まったことがあるが、そこにもホテル
 お抱えの娼婦たちがいた。
 カトマンズから離れれば離れるほど、性に対して緩やかであったようだ。
 ここ240年のチェットリ族、バウン族の支配は、カトマンズの享楽への欲望を
 抑圧していた社会だったようだ。
 人間の心の光と闇の世界をバランスよく街の中に取り入れなかったここ240年の
 カトマンズの街は やはり、どこか、贋物めいた気がするのである。
 そうは言っても、賢いネワール族のこと、地域社会の中でうまくやっていたとは思うが。
 おおっぴらにされていなかっただけのことだろう。

 今はどうかと言えば、タメル地区あたりのダンス・バー、あるいは、カトマンズ周辺の
 地元の人間相手のバーなどは、男たちの欲望を満たす場所になっていることは周知のことだ。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 12:26:44 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ ネワール族の知恵
カトマンズ ネワール族の知恵 1

カトマンズ ネワール族の知恵 2

カトマンズ ネワール族の知恵 3

カトマンズ ネワール族の知恵 4

カトマンズ ネワール族の知恵 5

カトマンズ ネワール族の知恵 6


 今日は天気もよいので、カトマンズに行ってきた。デジタル腕時計の電池が切れかけてきて、
 電池の交換をする用事もあった。
 いつも利用している時計の修理屋であるが、2年に一度、3年に1度では顔見知りには
 ならない。電池交換175ルピー、随分値上がりしている。
 電池そのものはさほどの値上がりであるとは思わないが、人件費が値上がりしているのだろう。

 そのついでに旧王宮近くの路地を散策してみることにした。
 このあたり路地が入組んでいて、うろうろと歩き回っていると、いつのまにかどこを
 歩いているのか わからなくなる場所である。

 うろつきまわっているうちに 中庭を見つけ、そこに入り込んでみた。
 そこには 仏陀の像が彫りこまれたチャディと呼ばれる仏塔があり、その正面にはビハールと
 呼ばれる仏陀の像を収めた建物がある。
 その中庭の周りには4階、5階建ての建物が建ち並んでいる。
 ここに住んでいる人たちは、ネワール族の仏教徒カースト サッキャと呼ばれるカーストの
 人たちが住んでいる。
 中庭は3箇所あり、ビハールやチャイティアが備え付けられている。
 そんなあたりの様子を眺めていると、一人の青年が、家の中から出てきて、ここに住んでいる
 人々のこと、二つのビハールのことなどを説明してくれた。

 ここに住んでいる人たちは 皆 親戚筋に当たる人たちで1つの家族から分かれていった
 人たちで、 家族が増え、手狭になると、家を建て増し、いつの間にかこんな集落に
 なってしまった。
 それでも足りず、多くの人たちはこの集落を出て、別の場所で生活を始めた。
 何百年にわたる彼らの歴史は 多くの枝分かれを作り出していったが、皆、サンガと
 呼ばれる組織で繋がっていると言う。その家族数は400近いという。
 この集落の中は濃厚な人間関係で結ばれている。
 何か困ったことがあれば、すぐに助け合う態勢が整っている。
 サンガの組織の中には委員会のようなものもあり、集落とその外に生活する人々との
 連絡を密にしている。
 1年に1度はサンガのメンバーがこの集落に集まって、つながりを確かめ合う。

 ネパールでは、バルタマンという重要な儀式があり、その儀式を済ませると、彼らの
 宗教に受け入れられたことになり、宗教な意味で一人前の存在として認められる。
 その儀式を得ていなければ、死んでも火葬されず、土葬されることになる。
 そういう重要な儀式においては、必ず、この集落にあるビハールが使われ、その中庭が
 祝いの席になる。
 このサンガでは 5年に一度まとめてバルタマンの儀式を行うと言う。
 サンガのメンバーは 必ず この場所でバルタマンの儀式を行わなくてはならない。

 カトマンズのネワール族は 千五百年にもわたってこのカトマンズ盆地に住み続けている民族で
 ある。
 リッチャビ王国、マッラ王国の中で、華やかな文明を開花させ、
 後にゴルカ王朝によって征服され、被征服民族になってしまった民族だ。
 それでも知恵を働かせ、たくましく生き抜いてきた民族だ。
 被征服民族として自らを護り、生き抜いていくために考え出したシステムが、
 サンガ、グッティと呼ばれる共同体である。
 このグッティと呼ばれる共同体は、すべてのネワール族のカーストの中にあり、
 濃厚な深いつながりを持つ共同体組織である。
 強固な血族集団を作ることで、新しい支配者からの圧力に耐えてきたのだろう。

 こうした強固な血族集団を持つネワール族の造り上げた住宅構造、都市構造も独特の
 ものがある。
 異なった集団は入り込めば、すぐさまわかる形にもなっている。

 250万人近いカトマンズ盆地の中で、比較的凶悪犯罪が少ないのは、
 ネワール族の造り上げた都市構造、グッティと呼ばれる共同体の力のお陰ではと思っている。
 そのネワール社会も人口増加の中で崩れつつある。
 ネワール族の造り上げた都市構造、共同体が崩れていったときには、
 カトマンズは犯罪都市に変貌していくだろう。
 まだ、カトマンズは、彼らが都市の核のような役割を担っている。
 性格的にはなかなか難しい民族ではあるが、長い歴史の中で、都市生活のための
 知恵を考え出してきた民族と言えば、ネワール族だけなのだ。


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カトマンズ ネワールの街と文化 | 01:31:58 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐9 チベッタン・カーペット
チベッタン・カーペット 1

チベッタン・カーペット 2

チベッタン・カーペット 3

チベッタン・カーペット 4

チベッタン・カーペット 5

チベッタン・カーペット 6

チベッタン・カーペット 7

チベッタン・カーペット 8

チベッタン・カーペット 9


ネパールでチベッタン・カーペットが織られるようになったのは、中国によるチベット
侵略によって、難民となったチベット人がネパールにやってきてからのように思われる。
25年前に私がカトマンズにやって来た頃には、チベッタン・カーペットはネパールの
重要な産業のひとつになっており、パタンのザウラケルあたりの作業場でも、チベッタン・カーペットを織っている人たちの姿をよく見かけたものである。

このカーペットビジネスで大金持ちになったチベット難民も多い。
手に確かな職を持っていれば、どこでも生きていけるという証明だ。

その頃は、まだ決まったパタンのものしか織られていなかったが、この頃では
ヨーロッパ人業者がデザインを持ってきて、モダンな図柄のものを織らせることが
多くなったようだ。
畳3畳大くらいの大きさだ。値段も結構張る。

湿気の多い畳のある日本の住居には、ダニなどもわき易く、合わないようだ。
寒い田舎の冬場には 畳1畳大のチベッタン・カーペットは重宝するかもしれない。
最近のマンションの板敷きのモダンライフには、ネパールのモダンな図柄も合うかもしれないが、すぐに飽きが来るような気がする。
伝統の図柄には 適わないだろう。

高価なものを好む日本の金持ちの眼は ペルシャ・カーペットの方に向いてしまうようだ。
織りの細かさ、カーペットの耐久性では、どうしてもペルシャ・カーペットには敵わないようだ。

私のカトマンズの部屋にもチベッタン・カーペットを敷いているが、カトマンズの
住居の床は、大半コンクリートだから、絨毯なしでは、冬場はしんしんと冷え渡り、
とても生活できたものではない。

街中では、チベッタン・カーペットを肩に担いで売り歩く村の人たちの姿も よく
眼にする。
寒さ避けに使用するには、タメルあたりのカーペット屋で売られているものより安いし、
充分である。

近頃では、カトマンズ郊外の村に行くと、カーペット用の毛糸を紡いだり、
カーペットを織っている農民たちも多い。ほとんど女たちの仕事だ。
生活するためには、現金の必要になってきた村の生活では、貴重な現金収入になって
いる。
昔から機織の盛んだったネワール族の里では、カーペットを織る音がよく聞こえてくる。
布を織ることから、カーペット織りへの転換はスムーズに行われたようだ。

25年前のキルティプールの街の中は、機織の音がいたるところで聞かれたが、今では
それがカーペット織りに変わってしまった。
寂しい気もする。
それでなくても乏しい布文化のネパールである。


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ネパールにあるハンディクラフト | 23:06:07 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐8 アンティーク・インド刺繍布
アンティーク・インド刺繍布 1

アンティーク・インド刺繍布 2

アンティーク・インド刺繍布 3

アンティーク・インド刺繍布 4

アンティーク・インド刺繍布 5

アンティーク・インド刺繍布 6

 20年以上前、インドの砂漠地方のラジャスタンによく行った。
 バールメール、ジャイサルメールには良く通ったものだ。
 砂漠地帯の風景、民族衣装を当たり前のことのように身につけた砂漠の男や女たち、
 ラクダ、砂漠の中の宮殿、今でも眼に浮かぶ。
 楽な旅ではなかったが、貴重な想い出だ。

 カトマンズのジョッチェン、フリーク・ストリートの入り口に グジャラートから
 やって来たインド人の商うインド、パキスタンのアンティーク刺繍布の店があった。
 これも20年以上前のことだ。
 もともと彼らは、デリーの路上に露天を開き、商いをしていた人たちだ。
 今でも、コンノートプレスあたりの路上では、刺繍布、ペインティングなど品物を
 拡げ、商いをしている女たちを見かけることも出来るはずだ。

 一家の主は、パキスタン国境のラジャスタンまで出かけ、布を仕入れていたようだ。
 片足の少し不自由な男だった。売る仕事は娘たちの仕事だった。
 私はよくラジャスタンに行き、彼らの売っている品物を安く買うことが出来たので、
 この店で布を買うことはなかったが、からかい半分に良く立ち寄ったものだ。

 そんな時代から20年の歳月が流れた。
 フリーク・ストリートは、旅行者の溜まり場所をタメル地区に奪われ、刺繍布を売る
 彼らの店もタメルへと移っていった。
 1軒だった店も 孫、甥が商いに加わり、いつのまにか4,5軒へと増えていった。
 そんな彼らの店の何軒かを訪問してみた。
 1軒は甥の店、1軒は娘の店、昔に比べると随分こぎれいになっている。
 もう1軒の店には、あの足の不自由な一家の主が店の前に座り込んでいた。
 もう84歳になるという。少し痩せたようだが、同時の面影はそのまま残している。
 中には1番下の娘がいた。
 彼は私のことを忘れているらしいが、私は覚えている。
 彼はいつも仕入れにインドに出かけ、カトマンズにいることが少なく、出会う機会が
 なかったせいもある。
 彼の長女とは出会えば、声を掛け合う。

 カトマンズにもインド、パキスタン刺繍の店は増えてきた。ネパール人もこの商いに
 手を出すようになったからだ。
 しかし、30年近い彼らのキャリアの持つ力には適わない。
 布の値段は昔に比べると何倍にもなっているが、置いてあるアンティーク・刺繍布は
 かなり質の高いものだ。

 久しぶりにインド、パキスタンの刺繍布を見るにつけ、あの熱いラジャスタンの砂漠の
 大地が懐かしくなった。
 一緒に刺繍の仕事をしたマルワリ商人の若者ラビ・シャンカールはどうなっただろう。
 もう50近くなっているはずだ。
 親に頼らず、自分の力で自分の商いを開発すると頑張っていたが。
 もう1度、バールメールの街を訪れてみたくなった。


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ネパールにあるハンディクラフト | 13:28:39 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐7 ネパール和紙細工
ネパール和紙細工 1

ネパール和紙細工 2

ネパール和紙細工 3

ネパール和紙細工 4

ネパール和紙細工 5

ネパール和紙細工 6


 ネパールにはネパール・ライスペーパーと呼ばれるネパール紙(ネパーリー・カーガット)
 と呼ばれる日本の所謂 和紙のようなものだ。
 何でライス・ペーパーと呼ばれているのか、ネパール人に訊いても知らないと言う。
 木の皮を煮出し、繊維を取り出し、細かい網上の木枠を使って、紙を作り出す製法は
 日本の和紙作りと同じようだ。

 25年前に初めてネパールにやってきた頃、旅行者のお土産として売られていたものは
 このネパール紙を使って、印刷されたカレンダー、シルクスクリーンで刷られた仏像の 
 絵、ネパールの山の人々の生活を描いたものなどが中心だった。

 それがいつの間にか、手帳、葉書・ビンセンセット、写真のアルバムなどと商品の種類も
 増えてきているし、紙のそのものにも趣向が凝らされるようになり、木の葉などを
 紙の内側に入れた洒落たものも出回るようになっている。

 このネパール紙、本来は公文書として用いられていたものだ。
 25年前キルティプールに住み始めた頃、親しくしていたネワール族の農民カースト
 マハルザンの人に 建築代を援助するということで、3年分の家賃分として10万円を支払い、
 小さな家を造ってもらったことがある。
 途中で追い出されることがカトマンズではよくある話だと耳にしていたので、
 正式に契約を交わすことにしたのである。
 そのときに契約書としてネパール紙を使わなくてはならないことを初めて知ったのである。
 土地売買契約書、登記所など、正式の書類といえば、すべてこのネパール紙の使用が
 義務付けられていた。
 そのネパール紙を扱う店は土産物屋でなく、ローカルなバザールで10枚いくらという形で
 売られていた。
 その紙にタイプをして公文書を作るのである。
 ネパールでの紙の製造がいつ始まったのか知らないが、古い商人の商いの書付などにも
 使用されていたというから、マッラ王朝時代から使われていたらしい。

 近頃は、ランプシェードが流行らしい、昔は四面の中国風のランプシェードが
 よく売られていたが、この頃が凝ったデザインのものが増え、提灯のような形の洒落たものも
 多くなってきている。
 竹と紙の組み合わせという日本的なものである。

 ネパールでは、渋柿もあるから、柿渋を作り、柿渋を塗り、紙を補強したり、色合いに
 変化をつければ、面白い商品が生まれると思う。
 和紙を使った調度品、雑貨などにも利用できるはずである。

 私が育った田舎の家の近所で、渋柿を使って柿渋を作り、生活の足しにしている農家があった。
 その柿渋の臭い匂いの幼い頃の記憶が今でも残っている。

 ネパール紙を使った商品を扱う店には、70歳を越えた老人が座り込んでいた。
 この商いを続けて19年になるという。
 一時代、ネパールを支配したラナ家の末裔である。
 タメル地区は 昔は畑ばかりの土地で、その土地にラナ家は豪邸を建てていった。
 今でもその豪邸のいくつかは 残っているはずである。
 そのラナ家の末裔もネパール紙の土産物屋の店主におさまっている。
 時代は変わる、人の生活も変わる。


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ネパールにあるハンディクラフト | 22:09:03 | Trackback(0) | Comments(2)
ネパールにあるハンディクラフト‐6 ウールセーター
ウールセーター 1

ウールセーター 2

ウールセーター 3

ウールセーター 4

ウールセーター 5

ウールセーター 6

ウールセーター 7

ウールセーター 8

ウールセーター 9

ウールセーター 10


 ネパールのウールの手編みの歴史はそれほど古いものではない。せいぜい30年ぐらい 
 の歴史だろう。
 チベットのウールをインドに運んで商売をしたという歴史は、千年以上の暦嬰を持つだろう。
 チベッタン・カーペットも 中国によるチベット侵入・征服により、難民として
 カトマンズにやってきたチベット人たちが始めたものだ。

 今から20年以上も前には、毛糸の質も悪く、カーペットには適していても、セーターには
 向いていないチベット毛は、弾力性もなく、毛足も短いことから、2本の毛糸でセーターを
 編んでいた。
 又、出来るだけ早く編み上げるために、太い編み棒を使っていた。
 そのために編みあがったセーターは1kg以上の重さがあり、着ているうちに 
 どんどん伸びていくという代物だった。
 デュクティという店では、ニュージ―ランド毛を使って、セーター、カーディガンを編んでいたが、
 毛の紬糸が太く、編み上げると、1,5kgというものもあり、重いということで、
 日本人の好みではなかった。

 今では、ニュージーランド毛とチベット毛を混ぜ合わせ、弾力性のある強い毛糸も
 作られるようになったが、薄手なセーター類を好む日本人には受けない。
 スキーなどのアフター・ウェアーとしては重宝しているようだが。
 チベット毛のごわごわした肌触りは、人によっては、肌に馴染まず、嫌がられることもある。

 タメルに1軒セーター専門の凝った編みのセーターを置いてある店があるが、
 店の経営者家族は、自分たちの売っているセーターなど着ようともしない。
 注文があれば、そのデザインに合わせてセーターを工場の従業員に編ませるが、
 自分たちで日常身につけ、着心地を確かめるというような決めの細かさはない。
 ただ売れればいいという安易さなのである。
 在庫も山ほどあり、店の奥には何年前に編まれたのかわからないようなセーター類が
 山積みにされている。
 セーターを編む人、売る人とはっきり分かれており、売る人の発想の中に新しい商品
 開発という姿勢は感じられない。

 そんな中で、この頃注目を浴びてきているのが、中国からのパシュミナ毛を使って
 編み上げた薄手の肌触りの良いセーターだ。ただこれは機械編みで手編みではない。
 デザインもヨーロピアン・スタイルで ヨーロッパのファッション雑誌からそのまま
 持ってきたような感じだ。
 デザインさえ良ければ、一般的な市場を得ることも出来るだろう。
 手編みのための毛糸をパシュミナ毛から紡ぎだし、手編みのセーターのための毛糸を
 染め、手編みでセーター類を編み上げることも面白い試みだと思うが、かなりのコスト 
 を覚悟しなくてはならないだろう。

 ネパールのセーターの特徴は、カラフルで凝った編み模様が人の心を奪うものである
 から、パシュミナ毛の羊毛製品の中でも、生かしてほしいと思う。


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ネパールにあるハンディクラフト | 11:12:19 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐5 タンカ
タンカ 1

タンカ 2

タンカ 3

タンカ 4

タンカ 5


 ネパールの名高い工芸には タンカがある。
 チベット密教を信仰する仏教徒 タマン族の描くチベット・タンカとネワール族の
 チットラカール・カーストの描くネワール・タンカと2種類ある。

 この二つ どう違うかとは はっきりしたことは言えないが、タマン族の描くチベット・
 タンカは 徒弟制の下に描かれる。弟子を取り、タンカを描くのに必要な描画技法を
 身につけさせると、その技術の習得度に合わせて、タンカの各細部を描く仕事を与え、
 師匠が最後に顔を書き入れるという分業で成り立っている。
 だから、芸術というより工芸といった方が良いだろう。
 使う色彩、色合いの変化はあっても、基本的な図柄は伝統的なものに頼っている。

 ネワール・タンカの場合は、一人の人間が一枚のタンカを 最後まで描き上げる場合が
 多く、タンカの図柄も個人の創意工夫が生かされる要素が多い。
 チベット・タンカに比べると リアリズムが入り込むことも多く、描かれている顔の
 表情などを見ると、イラストのような感じを受けることもある。
 ネワール族の人の話によれば、タンカはもともとネワール族が始め、それがチベットに
 伝わり、チベット密教を信仰するタマン族が チベットから伝わってきたチベット・
 タンカを描くようになったと言うが、定かではない。

 チベット、ネパールの山岳地方のチベット密教の修行寺では、チベット密教の僧侶が
 チベット・タンカを描くこともあるようだ。
 タンカといっても曼荼羅を描くことが多いようだ。

 旅行者の集まるタメル地区に行くといたるところにタンカの店がある。
 こんなにたくさんの店があって大丈夫なのか、高い店賃を払って、やっていけるのだろうかと
 心配になる。
 もう限界点に達しているのではないかとも思えてくる。
 土産物としては案外高価だし、買って帰っても どこにでもおけるという代物ではない。
 宗教的な意味合いを持つものは、扱いがなかなか難しいのである。

 そこで私が提案したいのは、タマン族のチベット・タンカ絵師の熟練した描画技法を
 他の工芸に生かせないかということである。

 日本には昔から、漆塗りの優れた工芸がある。ネパールには木工の技術もある。
 日本の漆を禿山になったカトマンズ周辺の山々に植樹し、漆を取り出し、木工製品に
 漆塗りを施す。
 絵師は あぶれたチベット・タンカの絵師を使う。
 何か面白い工芸が生まれると思うが、どうだろう。
 ネパール人の持っている伝統的な技術をうまく組み合わせる。
 それに日本の伝統的な工芸の技法と組み合わせる、そういった援助の方法もあるのではと思う。
 ネパールの工芸の伝統と日本の工芸の伝統がうまく融合すれば、魅力的なものが
 生まれてくると思う。
 村起こしにも繋がるし、ネパールの工芸の発展につながり、新たな雇用の機会にも
 繋がっていくだろう。
 
 タンカの描画技法は 繊細で熟練を必要とするものだ。タマン族の人たちはその手を持っている。
 安っぽいいい加減な土産物品ばかりのカトマンズ、質の高い工芸品が新たに出来上がることを
 期待している。
 日本の海外援助ももう少し、きめ細かくあってほしいものだ。


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ネパールにあるハンディクラフト | 22:56:50 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐4 ヘンプ、イラクサの布
ヘンプ、イラクサ 1

ヘンプ、イラクサ 2

ヘンプ、イラクサ 3

ヘンプ、イラクサ 4

ヘンプ、イラクサ 5

ヘンプ、イラクサ 6


 ネパールのイラクサ(アロ)に出会ってから、20年近くなる。
 パタンのクポンドールにある小さな店においてあった。
 若い女の子たちの店で、東ネパールの山奥が郷里の女の子たちだった。
 イラクサの繊維は 東ネパールのコシヒルと呼ばれる場所で作られているようだった。
 当時は、素材そのものの持つ自然の色を使わず、糸を漂白して その糸でストールや
 ショールを編み上げていたが、糸そのものの紡ぎは荒いものだった。

 近頃はエコーブームの影響か、イラクサの繊維の自然の色を生かすようになり、
 紡がれた糸も細い繊細なものに変ってきた。
 それと同時にイラクサの細く紡がれた糸を使ってのショールなども凝った素敵なものに
 変ってきている。
 この編みの技術を使って、夏用のざっくりしたカーディガン、Tシャツの上に重ね着
 する半袖のゆったりしたサマーセーターを作れば、洒落たものになると思う。
 是非このレベルまで行ってほしいと思う。
 デザインさえ良ければ、アンデルセン童話の中の「白鳥の王子」の中のイラクサ同様
 夢のある目玉商品になるだろう。

 ネパールのヘンプ(麻)の加工はまだ荒っぽい。中国やタイの麻の加工品に比べると
 質、技術の点で劣る。
 日本の若者たちの間では流行っているようだが、どう見ても頭陀袋をかぶっているよう 
 でいただけない。糸の紡ぎの精度をもっと工夫する必要があるだろう。

 昔、タメルで知り合ったバウン族の若者がいる。他の人の店で店員として働いていた。
 煙草も吸わず、酒も飲まず、煙草と吸うくらいなら、少しでも食べ物にお金を掛けると
 いった賢い若者だった。
 その店で見かけなくなり、心配していたら、店と店の狭い隙間に露店に近い店を出し、
 自転車でそのそばを通りかかると、声をかけられてびっくりしたことがある。
 それから、何年かすると、タメルの入り口に古い建物だったが、店を借り、店の主に
 なっていた。
 ヘンプやイラクサなどの専門的な店である。
 ネパールでは主人になると太るものらしく、10年前はがりがりだった細い体も 恰幅が
 良くなり、店の主人らしくなっていた。
 頑張っているようである。

 こういう頑張りが出来る賢さが バウン族(ヒンズー教の高カースト 僧侶階級)には
 ある。見通しが利くから、商売にも向いている。
 政治の世界では 悪徳の限りを尽くしているが、商売の世界では地道に頑張っている
 ようだ。
 カトマンズでは 主だったバザールの商人はネワール族で占められていたが、
 この頃はバウン族が多く進出してきている。

 ヘンプ、イラクサ製品の店を出している昔からの知り合いのバウン族の主、
 これからも 上を目指して頑張ってももらいたいと思うが、センスがもう一歩である。
 店の中にコンピューターも置き、商売の形は本格的になってきているが。


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ネパールにあるハンディクラフト | 14:55:39 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐3 カシミール刺繍
カシミール刺繍 1

カシミール刺繍 2

カシミール刺繍 3

カシミール刺繍 4


 カトマンズの街に インド カシミールの刺繍のショール、ジャケットなどの店が
 増え始めてから もう 何年になるのだろう。
 かれこれ、20年近くにはなるだろう。
 カシミールの店の増加は インド カシミール紛争の激化に平行している。
 インドの有名な観光地 カシミール地方が分離独立のために紛争を勃発し、観光客が
 激減し、カシミール刺繍の工芸品が売れなくなり、その商人たちが、カトマンズに
 移ってきた。

 かなりの数のカシミール刺繍製品の店が増えたために、カトマンズのタメル地区の
 ネパール人たちが借りていた店の店賃は、どんどん値上がりしていったのも本当だ。
 カシミール商人が 店の持ち主のいいなりに店賃を払ったからだ。
 インドと違って、ネパールでは 店を借りているものに対する法的な保護はない。
 店賃の値上げは、建物の持ち主のいいなりである。
 文句を言えば、他にも借り手がいるから出て行けということになる。

 インドのニューデリーのババカラシン・マルグ辺りにも 冬場になると、カシミール製品の
 仮設バザールが開かれていた。
 紛争に明け暮れるカシミールでの売り場を失った商人たちが、売り場所を求めて開いた
 バザールだ。

 この頃では、本場インドに行くより、ネパールのカトマンズのほうが、カシミールの刺繍製品は
 多いくらいだ。
 デリー、カルカッタへ行ってもこれだけのカシミール商品の店が集まっている場所はない。
 カシミールと呼ばれるぐらいだから、カシミール地方は上質のウールの生産地でもある。
 上質のウールに刺繍されたショールの肌触りと軽さは 素敵である。
 ただそれを見分けるには ウールに対する鋭い目が必要だ。
 ついつい刺繍に目を奪われ、ウールの質を見分けることを忘れてしまう。
 
 近頃では、春・秋物を狙って、シルク布に刺繍したジャケット類も増えてきた。
 ただ、ジャケットのデザインが昔から変っておらず、袖が細くて着にくいものもある。
 ジャケットに刺繍するのではなく、洋服の型紙に合わせて書き込まれたウールの上に
 刺繍をしていき、刺繍が仕上がると、切り取り、縫製していくために ジャケットの
 デザインの豊富さは望めない。

 カシミールには二つのタイプの刺繍がある。
 1つはアリ刺繍と呼ばれ、細い10センチくらいの棒のような器具を使って刺繍して
 いくもので、インド・ラジャスタン、パキスタンでは、皮の民族靴の刺繍にも利用されている。
 もう1つは、シヨ刺繍と呼ばれ、針を使って施す刺繍である。
 どちらにしても、気の遠くなるような手間を要するものだ。
 カトマンズのタメル地区の土産物屋の通りでは 一際、色彩の鮮やかさと工芸の質の
 高さが目立つ。
 
 カシミール商人は昔から、ぼるので有名だから、すぐに買ってはならない。
 何軒も店を回って値段を確かめる必要がある。値段交渉はそのあとだ。
 インドやネパールでは こうした土産物を買うのも一苦労である。
 買ったものが他の店では 半分の値段で売られていたということもよくある話だ。
 値段交渉を楽しむぐらいの気持ちでいないと、安く土産物を買うことは出来ない。
 カシミール商人の店では 特に要注意である。
 くわばら、くわばら!


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ネパールにあるハンディクラフト | 12:18:41 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ バソンタプール 旧王宮広場にて
バソンタプール 旧王宮広場にて 1

バソンタプール 旧王宮広場にて 2

バソンタプール 旧王宮広場にて 3

バソンタプール 旧王宮広場にて 4

バソンタプール 旧王宮広場にて 5

バソンタプール 旧王宮広場にて 7


 ついこの前のことだが、マオイストに殺害されたというシュレスタ氏の真相解明を
 求めてのバンダ(ゼネスト)の日だったので、カトマンズへ行くことは中止していたが、
 この日は、日本円の交換レートも良さそうなので、少しばかり両替をしておこうと思い、
 ニューロードのビシャル・バザールの建物に隣接したヒマラヤン・バンクへ出かける
 ことにした。

 雲行きは 少し怪しかったけれど、まあ大丈夫だろうと思い、乗り合いミニバスに乗り、
 ネパール航空本社まで乗っていった。
 この航空会社、国際便に使用できる飛行機1機とは、あまりに情けない国立の航空会社である。
 24,5年前には 4,5機は所有していたはずである。
 その頃に比べると、外国人ツーリストも何倍にも増えているはずだし、出稼ぎのネパール人も
 多くなっているにもかかわらず、この有様だ。
 そんなネパール航空の本社ビルを眺めながら、ニュウーロード・ゲートを潜り、ニューロードへと
 向かった。

 ヒマラヤン・バンクで日本円の現金を両替すると、1万円で6610ルピーの交換レートだった。
 3日前が6500ルピーだったから、交換レートはよくなっている。
 少し、気分もいい。

 その足で旧王宮広場へと向かった。広場へと歩いていると、昔からの顔見知りの笛を
 売り歩くインド人が 声をかけてきた。
 インドのビハール州からの出稼ぎである。もう知り合ってから、何年になるだろう。
 15年以上にはなるだろう。4,5日前にカトマンズにやってきたと言う。
 私のほうは随分老けてしまったのに、彼のほうは 結構若々しいままだ。
 こんな昔からの知り合いが、この広場には結構いる。

 バソンタプールの広場の一角に昔からの知り合いがいたので、当時 旅行会社を
 経営していた彼の小さな旅行会社で、暇つぶしをしたものだが、その彼も 別の場所に
 引越ししてしまった。王家のサハ家につながる人物だった。
 そのことから、この近辺では みんなから、ラザ(王)と呼ばれていた。
 もう彼も65歳を越えているはずである。彼の住んでいた家は、貸家になっている。

 そんな懐かしい思いに浸りながら、広場全体を見渡してみる。
 広場の入り口付近には、240年前、ゴルカからカトマンズに兵を引き連れ、
 カトマンズのマッラ王国を征服したプリティビ・ナラヤン・サハ王の建てた
 ネワール族の建築様式の王宮が聳えている。
 この王宮には、ネワール文化に憧れたゴルカの地方豪族であったプリティビ・ナラヤン・サハの
 気持ちがよく現れている。
 ゴルカの片田舎に住んでいたプリティビ・ナラヤンからすれば、カトマンズは
 大都会のように映っただろう。
 ゴルカ王朝創設からラナ家の独裁政治に至るまでの建物は ネワール建築様式で建てられて
 いるものが多い。
 ツリプレソールにあるサハ家の三代目国王 ラナバハドール・サハ王を偲んで、
 その后によって建てられたツリプレソール・マハデヴィ寺院もネワール族の建築様式である。

 その横に建つ白亜のヨーロッパ様式の建物は、ラナ家独裁の時代に、シェムシェル・
 ラナによって、イギリス人建築家と技師を呼んで建てられたものだ。
 給料は、金を秤にかけて支払われたという。
 この時代から、ネワール族の建築、工芸文化は衰退していくのである。
 ここを初めとして、ラナ家のマハラジャ宮殿 シンハ・ダルバール、サンカール宮殿、
 現王宮のナラヤンティが矢継ぎ早に、ヨーロッパ建築様式で建てられていくことになる。

 近代ヨーロッパに憧れ、伝統文化を蔑ろにする風潮は、この時期から始まったのだ。
 マッラ王朝時代に建てられた寺院、遺跡は、傷むままに放置されてきたのである。
 全くの成金主義の塊のような時代だったのである。
 インドからやって来た田舎者のラナ家が出来ることといえば、圧政と成金趣味だけの
 建造物だったのである。
 なんとつまらない味わいのない白亜の建造物だろう。
 やたら権力を振りかざしたラナ家の象徴的な建物である。
 周りとの調和などどこにも感じられない悪趣味以外の何ものでもない。


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カトマンズ 街の風景 | 19:07:55 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐2 フェルト細工
フェルト細工 1

フェルト細工 2

フェルト細工 3

フェルト細工 4

フェルト細工 5

フェルト細工 6


 カトマンズでバッグ、アクセサリー、スリッパなどのフェルト細工が見られるように
 なってから 4,5年になるような気がする。
 昔からネパールの山岳地方では、敷物か毛布として、織られた布をフェルトかする技術  
 があった。
 私も20年近く前に買い、敷物として利用したことがあるが、山の中で織られているもの、
 虫除けの処理がされておらず、何年か使っているうちに虫にやられて駄目に
 なってしまった。
 ネパール毛をつかっていたせいか、かなりごわごわした肌触りであった。

 フェルトには興味を持っていたが、カトマンズで見かけるフェルト製品の色合いが
 あまりに派手な色彩のもので、道化師の持ち物のようで私の好みではなかった。
 若者向けには楽しくてよいのだろうが、もう少し渋い色合いのものがあっても良いように思えた。
 カトマンズのいつものパターンであるが、フェルト製品が売れるとなると、猫も杓子も
 店を構え、売り始める。
 どこかの店のコピーであるだけで、品質の向上、染めの技術の向上へとは向かっていかない。
 値段合戦になるから、逆に品質さえ悪くなってくるという現象も起きてくる。
 品質の向上、あるいは天然染織、製品のデザインなど目を向けていかなければ、
 いつかは 飽きられてしまうだろう。
 日常的にネパール人が使っていないものを、ヨーロッパ人の注文で作る、
 こうした新しい製品作りには 製品開発のための努力が必要であるし、
 世界のフェルトの歴史的な流れについても知ることも大事だ。
 インドのカシミールにもフェルトの上に カシミール刺繍を施したものがある。

 若者に受ける程度のフェルト製品も結構だが、
 せっかくフェルト作りの技術を習得したのであるから、
 世界に通用する工芸品としてフェルト技術を発展させてもらいたいものだ。
 日本でもフェルト細工は いろいろな教室で催されているようだ。
 素人であっても フェルトに対する目は肥えている。

 私がよく訪問する染織家のブログでも 正倉院所蔵の毛氈、1500年近く前に日本に
 シルクロードやってきたフェルトの毛氈の復元についても紹介されていた。
 工場生産的に多量にフェルト製品を作るだけでは、
 ネパールでも単なる流行で終わってしまうだろう。
 伝統に支えられている技術ではないから、底が浅いのである。
 今後 ネパールで どういった形でフェルト細工が変っていくのか見ていきたいという興味は
 あるが、染め、デザインなどの専門的な技術援助は必要だ。
 造る人と売る人が別々の社会ネパールでは、専門的な染織家が育ちにくい状況にある。
 そうした状況の中では なかなか質を求める染織世界は生まれにくい。
 ブータンやインドでは伝統に支えられた染織文化があるが、
 ネパールの染織文化にはダッカ布を除いては、高度な染織文化は見当たらない。
 そのために流行だけに走る傾向がある。それが残念である。


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ネパールにあるハンディクラフト | 13:07:54 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店
ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 1

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 2

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 3

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 4

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 5

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 6

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 7

ネパール・ダッカ布とイラクサショールの店 8

 パタンのクッポンドールに 東ネパールのダッカ布とイラクサのショールの小さな店が
 ある。
 私がこの店と出会ったのは、20年近く前のことだ。
 当時 ネパールのダッカ布に興味を持っていたことから、東ネパールのダラン、ダンクッタ、
 ヒレ、バソンタプールまで行き、ダッカ布の生産地 テーラツムまで行くつもりであったが、
 自動車の行く道がバソンタプールまでで、それから2,3日歩いていかなくてはならないと
 聞き、諦めてしまったことがある。

 そんなことから、クッポンドールの通りを歩いていて、ダンクッタ・シスターという名が
 目に留まり、この店に入った。
 20年近く前のこと、ダッカ布、イラクサ製品もまだまだ、洗練されておらず、
 イラクサ製品などは、繊維を柔らかくするために漂白した白い糸で編んだストールや
 ショールが置いてあった。

 今回、懐かしくもあり、ダッカ布やイラクサの商品がどんな風に変わっているのかを、
 確かめてみるために店の中に入ってみた。
 20年の月日の経過はたいしたものである。
 随分 洒落たものが多くなっている。
 イラクサで編んだショールやカーディガンも見栄えがよくなっている。
 ダッカ布のスカーフやショールも木綿でなく、シルクで織られるようになっている。
 細いシルク糸を使うと、時間がかかるせいか、ダッカ布の複雑な文様のものはない。
 どこからの援助もなく、店の経営を考えると、インドからシルク糸を大量に買い入れる必要が
 あり、多様なシルク糸の買い付けは難しいという。
 
 タイあたりであれば、質の高いシルクの布など、王族や金持ちがこぞって買うだろう。
 ネパールではあまりそうした形はないから、ダッカ布の更なる発展も難しい。
 シルク糸を使っての素晴らしいショールなど作る技術があっても、外国からの注文がないと
 積極的に織ることが出来ないと言う。

 こつこつと絶え間なく努力している店ではあるが、村の人たちが中心になって運営しており、
 資金力がなく、大きなプロジェクトは組めないようである。
 ここで頑張っている女性たちは、ダンクッタの出身者や、その周辺の村の出身者のようだ。
 応対してくれた女性も、ダンクッタ出身者で、先住民族とチェットリ族との混血であると言う。
 キラティ(ライ、リンブー族)の流れを汲む先住民族らしく、本来はキラティと同じ宗教だったと
 いう話だ。

 ライ、リンブー族では死者が出ると、イラクサで織られた布で死者をくるみ、土葬にする。
 シェルパ族などは火葬にする。
 イラクサ、ダッカ布などは もともとは らい、リンブー族の仕事である。
 カトマンズのリチャビ王国の前には、ライ・リンブー族の祖先が キラティ王国を築き、
 カトマンズ盆地を支配していたと言われている。紀元前のことだ。
 彼らが東ネパールに辺境の地に住みながらも、高度な布文化を持っているというのも 
 そうした歴史を持つ民族であったからなのかもしれない。

 今から20年も昔にどうして、キラティ王国の子孫 ライ、リンブー族の布文化に惹かれたのか、
 不思議でならない。
 ネパールにきたら、是非 この店に立ち寄ってください。
 山から来た誠実な人たちが、誠実で良心的な織物を見せてくれるはずですから。


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ネパールにあるハンディクラフト | 21:00:52 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 石の彫刻 ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々
ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 1

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 2

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 3

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 4

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 5

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 6

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 8

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 7

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 9

ドゥンゲ・ダーラ(共同水場)の神々 10


 パタンの表通りに 水不足のパタンの庶民に 水をもたらしてくれるドゥンゲ・
 ダーラ(共同水場)がある。
 3,4百年前のマッラ王朝時代に造られた水道遺跡だが、今なお水不足に苦しむ人々に
 水の恵みをもたらしている。
 3,4百年前のネワール族の祖先たちは、3,4百年後の今の役立つとは、
 考えてもいなかっただろう。
 ネワール族にとっては、水は 神々のシンボルだ。このドゥンゲ・ダーラも、井戸も
 神々の棲家なのである。
 おろそかには出来ないのだ。
 水をもたらしてくれる神々への感謝の気持ちを忘れてはならない。
 ネワール族の信仰する神、インドラもマチェンドラナートも皆、水にかかわりのある神々だ。
 水の周りを清潔に保つことで、神々への畏敬の念を表していることが感じられる。

 パタンの表通りにあるこのドゥンゲ・ダーラには、石に彫られた多くの神々が鎮座している。
 このドゥンゲ・ダーラにやってくれば、人々は様々の神々と出会うことが出来る。
 人々の行いが悪ければ、神々は水の量を減らすだろうし、行いがよければ、豊かな水を
 与えてくれるだろう。

 今日は、仏陀生誕日、ネワールの仏教徒たちは、仏陀の生誕の日を祝って、
 通りを練り歩いている。
 そのせいか、今日はいつもより、ドゥンゲ・ダーラの水の出もよいようだ。

 ここに鎮座している神々はヒンズー教の神々であるが、ヒンズー教から見れば、
 仏陀は 9番目に姿を現した神ということになっている。

 このドゥンゲ・ダーラの神々が どうもヒンズー教の叙事詩 『ラーマーヤナ』に
 登場する神々のようだ。
 ラーマとシーター、ハヌマン、シバ、クリシュナなどが 石に姿を変えて鎮座している。
 愛らしい素敵な石造りの神々たちである。
 ネワールの職人カースト シラッカールたちの心のこもった仕事だ。
 こんな素晴らしい石の彫刻が、道端のドゥンゲ・ダーラの中に、何気なく存在しているというのが、
 ネワール文化の凄いところだ。

 大半の旅行者たちは、ネワール文化、ネワール族については、知ることもなく、
 カトマンズのネワール族の世界遺産を眺め、通り過ぎていく。
 ネワール族が、カトマンズの先住民族であり、ゴルカ王朝によって征服されたネワール族の
 悲劇を知らないまま、カトマンズを去っていく。
 歴史に眼を向けなければ、眼も前にある素晴らしい遺跡を眼にしても、
 豊かなイメージの世界は広がっていかない。風景として過ぎ去ってしまうだけだ。
 征服されつつも、カトマンズ盆地に住み続けてきたネワール族の心の姿は見えてこない。
 
 ネワール族というのは、確かにわかりにくい民族である。
 彼らの本音を知ることは難しい。
 この240年の被支配民族としての歴史は、彼らに本音で生活することを阻害してきたのである。
 顔で笑って、心で泣く。本音は他民族、他のカーストには見せない。
 壁に耳あり、障子に目あり 本音で語れば、身の危険すらあった時代を生きてきた民族なのだ。
 したたかに生きるより他に道はなかったことを忘れてはならない。
 ネワール族への理解はそこから始まるのである。


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カトマンズ 街の風景 | 12:32:43 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 石の彫刻 仏塔‐2 マティア家の仏像
石の彫刻 仏塔‐2

石の彫刻 仏塔‐2 2

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 迷路のようなカトマンズの路地を歩き回っていると、ネワール族の様々なカーストの
 人たちの居住区に入り込んでしまう。
 今日もそんな場所に入り込んでしまった。

 石畳の日の当たらない路地裏を歩いていると、広場のような場所に出てしまい、
 所謂 ネワール建築とは趣と異にする建物に出会った。
 ラナ家専制時代に建てられたような建築様式だ。
 一帯どういうカーストの人々が住んでいるのかと、辺りにいる人たちに尋ねてみると、
 この辺りには、マティアと呼ばれるカーストの人たちが多く住んでいるとのことだった。
 初めて耳にするネワール族のカースト名である。
 どんな仕事に携わっている人たちなのか、尋ねてみると、主にインドとの貿易に係わっている
 人たちだと言う。

 広場の一角にパティと呼ばれるこの地域の人たちが集まる寄合い所がある。
 その中で何人かの人たちが集まって、のんびり座り込んでいる。
 その中にマティア・カーストの人も混じっている。
 この人物にマティア・カーストについて尋ねてみると、自分たちはネワールのシュレスタ
 ・カーストに属する、そして、そのパティの中に飾られている写真を指し示し、
 この写真の人物が、何代か前の祖先だと言っている。
 どうもこの一族、ラナ家専制時代にかなり高い地位についていたらしい。
 写真を見ても、いかにもそれらしい服装をしている。
 もともとはインドからやって来た人たちのようで、もしかしたら、この時代にシュレスタ・カーストの
 地位を得たのかもしれない。

 シュレスタ・カーストというのは、マッラ王朝時代の支配階級である。
 マッラ(王族)、ジョイシー、ラーズバンダーリ、マスケ、アマチョ、カルマチャーレ等が 
 シュレスタ・カーストに属し、マッラ王国を支配したのである。
 彼らは、仏教徒であるサッキャ、バジャチャーレとは違って、ヒンズー教を主に信仰する人たちで
 ある。

 パティの中にいたマティア・カーストのその人物が、自分の家に仏陀の像があるから、
 見せてくれると言う。
 ヒンズー教を信仰するマティア・カーストの家にどうして仏陀の像があるのか、
 不思議に思いながら彼の後をついていくと、入り口を入った中庭には、
 ヒンズー教のシバを祭っている祠がある。
 そこを通り越して奥に入っていくと、又広場があり、広場には仏塔が並び、
 その正面には やはり、祠のようなものがある。
 中を覗きこんでみると、そこには石造りの立派な仏陀の像がある。

 どうしてこんなところに仏陀の像があるのかと尋ねると、この場所は遠い昔には、
 マナンダール(食用油を作る職人カースト)という仏教徒カーストが住んでいた、
 そのあとに自分たちのカーストの人間が住みついたと言う。

 一体何が起こったのだろうかと好奇心も湧いてくる。この時代、ラナ家が 
 自ら マハラジャと名乗り、国王を幽閉し、好き勝手なことをしていた時代である。
 ラナ家に逆らえば、たちまち首をはねられる時代だ。
 この場所から消えたマナンダールの人々に何が起こったのだろうか。
 ラナ家の王宮の中で力をつけたマティアの人々が、そのあとに住み始める。
 何かおどろおどろしいことを 想像してしまう。
 ラナ家の人間は、絶えず血で血を洗うような争いをしてきた人たちだ。
 カトマンズ市民にとっては、ラナ専制時代は恐怖政治の時代でもあったのだ。
 今でもその時代の怖さは、カトマンズのネワール族の間では語られ継がれているので
 ある。

 真実は闇から闇へと葬られ、真実を知っているのは、あの祠の中の石造りの仏陀の
 像だけである。
 様々の歴史を持つカトマンズ、その歴史を探る興味、好奇心は尽きない。
 敗者、被支配者の歴史は、記録には綴られない。伝承を通じてだけ、伝わっていくのである。


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カトマンズ 街の風景 | 22:27:17 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 石の彫刻 仏塔‐1
石の彫刻 仏塔‐1 1

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 パタンの旧市街を歩いていると、石を刻んだ彫刻の店に出会った。
 中を覗きこんでみると、一人の男が、石に彫刻を施している。その脇には彼の妻らしい
 女がいて、彼の仕事を手伝っている。
 彼は、ネワール族の職人カースト シラッカールに属する人である。
 
 ネワール族のカーストには、ネワール語でウリャ、ネパール語でウダースと呼ばれる
 仏教徒のカーストがある。彼らは、同じ仏教徒のバジャチャーレ、サッキャの下に
 位置するカーストだ。
 このグループの中には、トゥラダー(チベット・ネパール貿易に従事した人々で、
 サッキャとチベット人との通婚によって出来たカーストであると言われている)、
 タムラカール(銅、真鋳の器と作る)、シルッパカール(木彫り職人)スタビー(宮大工)、
 ダーズカニカール(お菓子、ロティと作る)等がいる。
 
 ネパールにヒンズー教が広まるに従って、仏教徒の中にもカーストが生まれていったのである。
 ヒンズー教を信仰するときの支配者に従順の姿勢を見せる方策であったのかもしれない。
 それはカーストを否定し、人間の平等を説いた仏陀の教えとは矛盾するものであったが。

 カトマンズ、パタン、バクタプールの街には、仏教を信仰する人々の住む地域には
 仏陀の像を刻んだ仏塔がたくさんある。
 シラッカールと呼ばれる職人たちの彫った彫刻である。
 中には千年を越えた仏塔もあるはずだ。シラッカールという職人たちの歴史が仏塔には
 刻まれているはずだ。

 そんな仏塔を探して、街の中を歩き回ることは、楽しく興味深いものである。
 しかしこうした仏塔のほとんどは、トンネルのような門を潜った広場に置かれていて、
 観光客の目に留まらないことが多い。
 その広場も1つの家系の一族の住んでいる場所で、その広場の周りに住居が建てられている。
 その広場の中に置かれている仏塔は一族集団の個人的な所有物である。
 その一族集団のことをグッティと呼んでいる。
 バジャチャーレやサキャの人たちは、そのグティの広場にビハールと呼ばれる仏教の
 礼拝所を作り、その周りに石造りの仏塔を置いている。
 その場所はグッティのメンバーの仏教信仰の中心的な役割を果たしている。
 バルタマンと呼ばれる少年たちの通過儀礼もこの広場で行われ、少年たちもその儀礼を通して、
 宗教組織の1員になる。

 そんな場所の広場に長年にわたって住み続けてきた人々の歴史を優しく見つめてきたのが 
 仏塔たちである。

 長い年月を経た石造りの仏塔は、時間と風雨にさらされながらも、遠い昔にこれを
 刻んだシラッカールたちの信仰心が、今なお生き生きと息づいているが感じられる。
 その石の彫刻の技量も素晴らしいのである。
 ついつい その石の彫刻を 撫でたくなってしまういとおしさが感じられる。

 木の彫刻、石の彫刻を抜きにしては、ネワール族の宗教文化を語ることが出来ない
 くらいに、これらの彫刻は、ネワール族の信仰生活の中に根付いてきたものだ。
 それは、セレモニー仏教に成り下がってしまった日本の仏教とは 明らかに異なる
 信仰の姿である。
 ここにもネワール族の豊かな精神生活が伺われるのである。

 カトマンズでもお金、物に心を奪われるような時勢になってきたが、何かそれに歯止めを
 かける精神文化もあるように思う。
 
 日本の文化もなんと薄っぺらな軽薄文化になってしまったのだろう。
 あまりの軽佻浮薄さには あきれて物が言えないくらいだ。
 精神的なバランスを失った日本では、凶悪な犯罪、悪質な詐欺が日常茶飯事になっている。
 身体のことばかりにかまけているうちに 心の在処をすっかり失ってしまった日本、
 日本人の心は 死にかけていることにも気づいていない。
 なんと寒々しい心の風景を持つ日本の社会なのだろう。
 
 広場に置かれている仏塔を眺めるゆとりのある生活があれば、
 少しは変わっていたかもしれない。


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カトマンズ 街の風景 | 15:51:13 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパールにあるハンディクラフト‐1 洋服
ネパールにあるハンディクラフト‐01 1

ネパールにあるハンディクラフト‐01 2

ネパールにあるハンディクラフト‐01 3

ネパールにあるハンディクラフト‐01 4

ネパールにあるハンディクラフト‐01 5

ネパールにあるハンディクラフト‐01 6

ネパールにあるハンディクラフト‐01 7


 カトマンズの街の中を歩いていると、至るところに外国人旅行者のための洋服屋がある。
 ネパールでは、タイなどとは違って、取り立てて目を惹くような民族服はない。
 多くの民族が混在しているネパールであるが、手の込んだ刺繍、織物を見つけることは
 難しい。
 洋服のための布素材の大半は、インドからの輸入品だし、あとは 中国からのものである。
 ネパールでの手織り布はあるが、縞模様のもの、縦糸に工業糸、横糸に太目の紬糸を
 使ったヘビーコットンと呼ばれる布が 洋服作りに使われる程度だ。

 洋服のデザインといえば、日本の業者が持ち込んだものやヨーロッパの業者が
 持ち込んだものが多い。
 オーダーされたものをこなすと、店頭に並ぶ。
 そうすると、それを真似た商品が各店に並ぶ。
 だから、どの店も同じようなものが並ぶことになる。
 布素材もデザインもほとんど同じものだ。

 今 流行っているのは、ピエロルックのもので、継ぎはぎタイプのものが、
 どこでも並んでいる。
 どう見ても若者向けで、年配の人など着れたものではない。
 地元に住むネパール人など見向きもせず、彼らはバンコク製、中国製の当たり前の洋服を好む。
 だから、タメルあたりの土産物屋の洋服を着ているのは旅行者ぐらいのもので、異様に
 目立つ結果になる。

 私も一時 洋服作りに手を出したことがある。
 ネパールの布素材にはあまり惹かれなかったので、インド、それもインドのアッサム地方で
 織られている手紬の天然シルク、インド ビハール州とベンガル州との境の村で織られている
 天然シルク、ブータンの天然シルク布を使って、少し高級感のある洋服作りを目指したが、
 日本人の求める縫製技術をネパール人に要求するのは至難の技だった。
 10年ぐらいは頑張ったが、良い縫い子を見つけることが出来ず、挫折してしまった。
 私がネパールにいる間は、それなりにチェックできるが、いない間はいい加減なものを
 つくる。
 こちら側のフラストレーションが どんどんハイになっていくのである。

 ネパールにやってきた若者たちが楽しむ洋服は、変っていればそれでいいのかもしれない。
 奇抜なデザインが可愛く映るらしい。
 それを着て、カトマンズを歩いている日本の若者の姿を見ても、浮き足立っているようで、
 どうも頂けない。
 下手をすると、軽薄にすら見えて、ネパールの旅行者相手の不良どもの餌食にも
 なりかねない。

 ネパールにやってきてもある程度節度ある服装も必要だし、その程度によって、
 出会う人間も違ってくるというのが、東南アジア、インド、ネパールの一般的な姿である。

 しかし、この頃は、あえて、ネパールの若者を求めてやってきている日本の若者も
 いるようだから、何ともいえないが、不幸な結果にならないことを望むだけである。

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ネパールにあるハンディクラフト | 23:15:11 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール パタン‐15 ラトー・マチェンドラナートの祭り‐2
ラトー・マチェンドラナートの祭り‐2 1

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ラトー・マチェンドラナートの祭り‐2 12


 ラトー・マチェンドラナートを乗せた山車が動き出すまで、あたりを散策することにした。
 山車が止まっているあたりは、銅・真鍮の器を作るカースト タムラカールの人たちの
 居住区である。
 そこを過ぎると、今度は、仏教徒の高カースト サッキャの人たちが住む。
 時間つぶしにサッキャの人たちに話し相手になってもらう。
 この祭りの主役といえば、仏教徒のサッキャと農民カーストのマハルザンだ。
 サッキャの人たちは祭儀をする人という役割で参加しているだけで、祭りの担い手は
 マハルザンの人たちだ。
 山車を引いたりする人や、太鼓やシンバルを使った音楽隊はすべてマハルザンの人たちの
 役目である。
 マチェンドラナートは ヒンズー教の神様であるが、
 大々的に信仰するのはネワール族だけである。
 私の勝手な思い込みであるが、昔からのマハルザンの人たちの土着の神様に、
 ヒンズーの神様の一人、マチェンドラナートを重ねたのではと思っている。

 そんなことを思いながら、散策を続けていると、小さな1軒のネワール料理の店が
 眼に入ってきた。
 祭りの前の腹ごしらえに 卵入りバーラと水牛肉のカレー煮込みを食べた。
 美味である。

 再び山車の置いてある場所に戻ってみると、どんどん人々が集まり始めている。
 神様を乗せた山車が動き出す準備を始めている。
 近くの家々の窓に集まった人たちが、動き出すのを今か今かと待ちわびている。
 近くの寺院の境内も人だかりである。
 黒い制服を着た王宮からの兵隊が、笛を吹きながらやってくる。
 今度は、太鼓とシンバルを打ち鳴らしながら農民カースト マハルザンたちの集団が
 やってくる。
 晴れ舞台の時である。
 その周りではマハルザンの男たちが踊りだす。
 太鼓をシンバルの激しいリズムの中で人々の心も高揚していくのがわかる。
 どんどん人は増え続け、山車の周り一帯はびっしりと人で埋まっている。

 山車を引く人たちは太い綱を握り、山車を引く準備が整う。
 そばにいた王宮からの兵隊が 旧式の銃で空砲を撃つ。
 1発目が、小さな音だったので、そんなものかと思っていると、今度は耳がじーんと
 なるような大きな音、その音を合図に山車は動き始めた。
 少し傾いたラトー・マチェンドラナートを乗せた山車、倒れやしないかと心配になったが、
 大丈夫なようである。
 それでも頭の中では、倒れたときの逃げ場所を確かめている。
 これだけ人が集まると逃げようもない。

 ラトー・マチェンドラナートの山車の後を ミムナートの山車が、ゆっくりと追いかけてゆく。
 カトマンズの華やかな祭りはたくさんあるけれど、路上で人々を楽しませる祭りは、
 ネワール族の祭りだけである。その中心は農民カースト マハルザンである。
 カトマンズ盆地に古くから住み着き、ネワール族の様々の文化を創り出してきた人たちだ。
 支配者になることなく、ひたすら大地とともに歩んできた人たちである。
 山車を引き、太鼓とシンバルを叩きながら、ラトー・マチェンドラナートを載せた山車、
 ミムナートを載せた山車とともに遠ざかっていった。


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ネパール パタン | 12:22:42 | Trackback(0) | Comments(0)
ネパール パタン‐15 ラトー・マチェンドラナートの祭り‐1
ラトー・マチェンドラナートの祭り‐1 1

ラトー・マチェンドラナートの祭り‐1 2

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ラトー・マチェンドラナートの祭り‐1 10


 先日 パタン最大の祭り ラトー(赤い)・マチェドラナートの祭りを見てきた。
 祭りの始まりの日、その前の日もパタンにはいたのだが、見逃してしまった。

 カトマンズ盆地の中では、水・天候の神様 マチェンドラナートの祭りは二つある。
 1つは セト・マチェンドラナートのお祭りで、カトマンズで行われるもの、これは、
 1ヶ月前に終わった。今年は山車が、近くのマイクロバスに倒れ掛かり、何人かの
 負傷者を出した。
 山車が倒れると、その年は縁起のよくないことが起こると言われているが、
 このセト・マチェンドラナートの山車は倒れることが多いようだ。

 ラトー・マチェンドラナートの祭りを見に行くということで、近所の人間に 
 「今 山車はどこにある?」と尋ねると、
 「パタンのスンダーラにある」と教えてくれる。
 「そこに行くには、どうすればいいのか」と再び、尋ねると、
 ラガニケルからが近い、モンゴルバザールから近いと、はっきりしない。
 どっちでもいいやと思い、早く来た乗り合いテンプーに乗ればよいと決めて、
 通りに出ると、ラガニケル行きの乗り合いテンプーがやって来た。
 乗っている乗客に 
 「マチェンドラナートの山車を見るには、どこで降りればいいか」と尋ねると
 ネワール族の中年の女性が、自分も近くまで行くから、教えると言う。

 テンプーを降り、二人で一緒に歩き始めると、5分もしないうちに山車が見えてきた。
 山車が置かれていたのは、いつも歩いているタムラカールの居住区で、銅製品が数多く
 売られている場所で、モンゴルバザールのすぐ近くだった。
 正解は モンゴルバザールだった。

 パタンのザウラケルから運んできた山車が 再び動き始めるのは、夕方の4時過ぎから
 ということだ。2時間の待ち時間がある。

 人々は山車に鎮座している赤いマチェンドラナートの功徳を得ようと、賽銭・米を
 投げ入れ、そのお返しに、マチェンドラナートの神様を飾っている花々の一片を貰い受け、
 頭に飾っている。

 山車の上にいる人たちは、パタンの仏教徒の高カーストのサッキャやバジャチャーレである。
 お参りに来る人たちのためにプザ(祭儀)を執り行っている。
 山車が動き出すまでののんびりした光景である。

 この祭りにはラトー・マチェンドラナートの神様に寄り添うようにして、
 一緒に練り歩くミムナートと呼ばれている神様の小ぶりの山車もある。
 マチェンドラナートの神様が、田畑に雨を降らせ、安定した天候を与え、農民の作物に
 恵みを与える神様であれば、ミムナートの神様は、命を与える神様である。
 これらの神様はネワール族の神様で、バウン族、チェットリ族からすれば、
 重要な神様ではないと言う。
 農耕民族であるネワール族にとっては、大地に命をもたらし、そして、雨と安定した天候を
 もたらす二つの神様は、彼らの信仰の理にかなっている。

 バウン族、チェットリ族のインドからのヒンズー教の焼き直しで形式的な儀礼のみの
 信仰に比べれば、余程生き生きとした信仰の有様である。
 千年以上にもわたるネワール族の歴史が 祭りには凝縮されているのだ。
 自らの王国をゴルカ王朝に奪われてから、240年、途切れることなく祭りを続けて
 きたネワール文化の底力が感じられるのである。

 まだ2時間 山車は動き出さないので、それまであたりを散歩することにした。


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ネパール パタン | 02:27:26 | Trackback(0) | Comments(0)
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