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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

** 格安にて カトマンズ案内致します **

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カトマンズ バグマティ川の辺にて‐4 川辺の子供たち‐1
河辺で暮らす子供たち 1 1

河辺で暮らす子供たち 1 2

河辺で暮らす子供たち 1 3

河辺で暮らす子供たち 1 4

河辺で暮らす子供たち 1 5

河辺で暮らす子供たち 1 6


 今、バグマティ川の岸辺は、ゴミの集積場だ。
 そのゴミを集めて生活する家族がいる。
 彼らは、ゴミの山とともに生活する。
 子供たちは、大きなズタ袋を下げ、街に出かけては、金になる廃品を集めてくる。
 そして、廃品業者に廃品を売り、幾ばくかのお金を手にする。
 汚れきったバグマティ川であるが、子供たちにとっては、遊びの場所であり、水浴場だ。
 この薄汚れ、ゴミの流れるバグマティ川が、彼らのふるさとを流れる偉大なガンガー
 (ガンジス川)につながっているとは夢にも考えないだろう。
 インドのビハールから逃げるようにカトマンズにやって来たインド人、
 ゴミ集めは 教育も金もない子供たちの親が、手にすることの出来る唯一の職業だ。
 どんな形であっても、生き続けなくてはならない。
 彼らにとって、運命は過酷だ。
 バグマティ川の辺の寺院の神々も、彼らに祝福を与えてはくれない。
 
 今日は、ドルガ・プザの日、同じビハールからやって来たインド人の団体旅行者は、
 派手派手しく、ドルガ・プザを行っていた。
 神には祈りを捧げ、喜捨をしても、貧しいものには目を向けないのが、
 インドのヒンズー教だ。
 今、現世で苦しむのは、前世の行いが悪かったためだ。
 カースト制を持つインドでは 彼らはそんな風に考えている。
 
 その脇で、インド人の幼いスマンは、水浴を楽しみながらも、川上から流れてくる空缶や
 シャンプーの容器を集めていた。
 歳を訊くと、お母さんに訊かないとわからないと言う。
 そして、家に向かって帰って行った。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 14:44:46 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ バグマティ川の辺にて‐3 火葬場 テク・ガートを眺めて
バグマティ川の辺にて‐3 火葬場 テク・ガートを眺めて 1

バグマティ川の辺にて‐3 火葬場 テク・ガートを眺めて 2


 今日は、パタンとカリマティ方面を結ぶ橋の近くあたりまで散歩した。
 夏の名残を感じさせる暑い陽射しの中をテクテクと歩いていく。
 橋の上からバグマティ川の下流の方に眼を向けると、
 赤いレンガ造りの古い建物が目に入る。確かあの辺あたりには、
 死者を火葬するガートがあると耳にしていた。
 橋のたもとに居るネパール人に聞いてみると、
 「そうだ。あそこがテク・ガートだ。」と答えてくれる。
 バグマティ川の対岸に見えるテク・ガートの正面近くまで川に沿って、歩いていく。
 あたりは、ゴミの山、よく臭う。
 対岸のテク・ガートを正面から眺めると、
 岸辺で、牛たちが のんびりと草を食べているのが見える。
 パシュパティナート寺院の壮麗さに比べると、なんとひっそりした建物であることか。
 この建物のすぐ横で、カトマンズの二つの川、ビシュヌマティとバグマティが、交わる。

 時は25年前に溯る。私がキルティプールに住んでいた頃のことだ。
 私の住んでいた家の近所で、夜中、火事があり、
 寝ていた子供二人が、大やけどを負ってしまった。
 蚊帳の中で火遊びでもしていたらしく、火は化学繊維で出来た蚊帳を燃え尽くし、
 手がつけられなかったと言うことだ。
 二人のうち 長男は生き残り、次男は、死んでしまった。
 7歳ぐらいの子供で、私も顔見知りであった。
 長男は10歳くらい、ビル・ホスピタルで治療を受けていたが、
 日本人が見舞いに行けば、待遇が良くなるといわれ、見舞いに行った。
 
 その児の火葬の折に、家に居たサンカールが、カリマティのテク・ガートあたりを
 指し示し、あの煙は、あの児の火葬の煙だといっていたことが、
 昨日のことのように思い出されてきた。
 25年にいう月日が、瞬く間に過ぎ去ってしまったことには、感慨を覚える。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 01:35:58 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ バグマティ川の辺にて‐2 川辺の寺院‐2
川辺の寺院‐2 1

川辺の寺院‐2 2

川辺の寺院‐2 3

川辺の寺院‐2 4

川辺の寺院‐2 5


 バグマティの河辺にひっそりと佇む古い寺院、その周りには、
 様々な神々が、石に姿を変えて、川面を見つめている。
 私は、決して、宗教的な人間ではないが、
 それでも、この場所に立つと、何か心のひだに触れるものがある。
 遠い昔のカトマンズには、人の数と同じくらいの神々の棲家があったのではと
 思えてくる。
 なんと豊かな時代だったのだろう。
 神々と人々がともにあった時代、何の疑いもなく、
 信仰を支えにして生きていた時代、もうそんな時代はやってこないだろう。
 今は、子供たちが、その石に姿を変えた神々に守られて、遊んでいるだけだ。

 河辺に沿って歩いていくと、死者を送り出すテクガート、
 その先に夕陽に照らされたクリシュナ寺院が、真赤に燃え上がっていた。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 22:36:10 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ バグマティ川の辺にて‐1 川辺の寺院
河辺の寺院 1

河辺の寺院 2

河辺の寺院 3


 家からカリマティのほうに向かって歩きはじめる。
 いつもとは、反対方向に向かう道筋だ。いつもは自転車での移動であるが、
 今日は のんびりと、徒歩で足を進めることにする。
 物を眺めるには、歩く速さでというのが基本だと思うが、
 ついつい自転車に頼ってしまう。
 今にも雨が降り出しそうな天気である。道々の小さな店をながめながら、
 歩を進めていくと、道は、バグマティ川に架かるつり橋にぶつかる。
 その橋の向こう岸に見えたのが、この寺である。
 この寺のあることは、以前から、知っていたが、いつも横目に眺め、
 通り過ぎるだけであった。
 それは、自転車で移動していたせいかもしれない。
 対岸から、眺めると、まるでタイムスリップをしたようで、なかなかいいのである。
 つり橋を渡って、向こう岸に着いて、寺への入り口を探すけれども、見つからない。
 地元のネパール人に聞くと、橋のすぐ脇に下りる階段があるというので そこまで
 行くと、すぐ近くに雨避けのビニールをかぶって、微動だもせず、寝ている人間がいる。
 ビニールから、出ている手には、ハエがたかっている。
 一瞬死んでいるのかとぎょっとするが、地元の人たちは、気にもせず通り過ぎていく。
 死人ではないのだろう。
 しかし、今でも、あれは死んでいたのではという疑いが、頭をよぎる。
 橋の横の階段を下っていくと、寺の入り口が見える。

 入り口近くにいたバウン族(ブラーマン)のおばあさんに聞くと、
 ヒンズー教のシバ神を祭っているという。
 いつものバウン族のパターンで、お茶1杯の金を恵んでくれと言う。無視して、
 入り口に向かう。
 中に入ってみると、三重塔の古い寺がある。
 この寺は、13世紀から18世紀に このカトマンズで王国を築いていたネワール族の
 マッラ王朝時代のもののようだ。
 味わいのある立派な建造物であるが、あまり旅行者の目にも留まらないこの場所、
 寺もだんだんと、痛み始めているようだ。
 人々の信仰への熱意が薄らいでいけば、滅びていくのも、それも運命かもしれない。
 信仰、祈りは 私も含めて、現代人から、失われつつあるものだから。
 それでも、この人っ子一人いない寺の中に立つと、敬虔な気持ちが、
 なにやら、湧いてくるのも事実だ。
 
 今のカトマンズでは、本当にこのような場所が少なくなった。
 どこへ行っても、人、人、人である。
 観光場所でないこのような場所に、昔ながらのカトマンズが残っている。
 雨が降り始めてきたようだ。急いでもと来た道をひきかえそう。


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カトマンズ バグマティ川の辺にて | 04:39:01 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐11 テツゥの村の不思議な寺‐2
街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐2 1

街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐2 2

街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐2 4

カトマンズ 街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐2 4


再び、テツォの村を再訪してみた。もう少し詳しく寺のことが、知りたかったからだ。
この村には、村人の主要な信仰の寺が二つある。
 ひとつは、バールクマリの祭る寺、もうひとつは、ブラーマイニの祭る寺だ。
これらの寺が、5百メートルの距離を隔てて 村の上方と下方に建てられている。
バールクマリとブラーマイニは姉妹であるという。
姉が、ブラーマイニ 妹が、バールクマリ、二人とも女神マハデビの娘である。
 大地の女神、豊饒の女神であることから、農民カーストの信仰の中心になったので
あろう。
上方にある妹のバールクマリの祭っている寺の前には、人の姿はなく、ひっそりして
おり、信仰の中心はこの寺のようであり、寺に飾ってある器も多い。
一方、姉のブラーマイニの祭っている寺の方はといえば、寺の前で、村人たちが、
採り入れたばかりのもみを干していたり、子供たちが遊びに熱中していたりで、
村人の憩いの場所でもある。
この寺のすぐ近くには、仏陀を祭った仏塔もある。
土曜日が休日であるネパールでは、土曜日の今日は、のんびりと過ごす憩いの日だ。

ヒンズー教の神々の詳しいことはわからないけれど、二人の神々、性格の異なる神々
かもしれない。
バールクマリは、自然の脅威を司る女神、ブラーマイニは、自然の恵みを与える女神、そんなことを想像しても楽しい。
バールクマリの寺の前の彫像は、如何にも彼女を象徴しているようにも見えるのである。彼女の怒りを買わないように 慎重に注意深くかかわりを持っているのかもしれない。

2千年の歴史を持つネワールの農民カースト マハルザンの文化・生活習慣は 
伸び伸びとしていて、おおらかで興味深いものだ。
一人一人の顔つきを見ながら、彼らはどこから、やって来た人たちなのか、
探ろうとするが、色の白いものあり、黒いものありで、簡単にはわからない。
言葉は、チベット・ビルマ系語族だという。
東南アジアから、ビルマ、そしてインド・アッサムを抜け、ダージリンを抜け、
カトマンズ盆地を永久の地を定めたのであろうか。
タイ、ラオス辺りのラーオ族にも似たところがある。

支配階級であったシュレスタ・カーストは、インドとの混血が見られ、
宗教もヒンズー教中心、ウダースと呼ばれるサッキャ、バジャチャーレ、タムラカールなどの仏教とは、チベット人との混血が見られるが、このマハルザンという農民カーストは 純粋なネワールのようだ。
独特の土着文化を持つネワール族の農民カーストのマハルザンである。
とにかく興味深いカーストの人々だ。

400年前から入り込んできたインドからの侵入者、バウン・チェットリ族に
国を奪われるまでは、カトマンズ盆地の中でマッラ王国を築き上げた歴史ある民だ。
彼らを抜きにしては、ネパールの文化・歴史は語れない。
今のサハ王朝、その前のラナ家による摂政政治も、インド文化の亜流に過ぎない。
戦闘的、侵略的ではなかった仏教的な思想に育まれたマッラ王国が、戦闘的、侵略的な
ヒンズー教のチェットリ、バウン族に国を奪われ、圧政的な政治体制が敷かれ、
その後遺症が、今なおネパールの発展を妨げている。

そうした中でもカトマンズ郊外の村々には、今でも、生き生きとネワール文化が
生き続けている。
そのひとつが、テツォの村にある不思議な寺である。


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カトマンズ 街道を行く | 12:56:49 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐10 テツゥの村の不思議な寺‐1
街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐1 1

街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐1 2

街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐1 3

街道を行く テツゥの村の不思議な寺‐1 4


 ネワール族のデサートの村チャパガウンから 20分ほど街道沿いにラガニケル方面に向かって
 歩いていくと、隣の村テトォに入る。
 ネワールカーストのマハルザンだけの住む村である。
 デサートの村チャパガウン、すぐ隣のマハルザンの村テトォ この二つの村の違いを
 肌で感じてみたいと思った。

 マハルザンの住むこの村の入り口には、池があり、その池の上には、仏陀の仏像が
 置かれている極彩色の寺がある。
 どうも最近建てられもののようだ。
 その近くにあるパティ(寄合い所)には、村の老人たちが集まって、夕刻のひと時を
 のんびり過ごしている。
 この村の古い寺はどこにあるかと尋ねると、村の奥のほうを指差す。
 古い寺院は、村の中心であり、生活の中心である。
 寺院に続く露地を奥に向かって歩いていくと、広場に出た。
 そこには、何とも風変わりなひとつの寺院があったのだ。
 寺の壁一面に 祭儀の際に使われる真鍮製、銅製の器が、所狭しと飾られているので
 ある。
 ちょっと、圧倒されるものがある。

 この寺に祭られている神様は、ヒンズー教の神様バールクマリ 村の守り神で
 あるようだ。
 この村で死者が出ると、必ず、死者の使った銅製や真鍮製の器が、寺の壁に
 取り付けられるという。
 何とも不思議な風習である。死者を忘れないためなのか、神様に天国への導いてもらうためな
 のか、死んでもなおかつ、神様への信仰を忘れぬためなのか、それはわからない。
 ネワール族の農民カーストの村、それぞれに信仰の形が違い、興味深いものがある。
 我々日本人の想像を超えた世界がそこにはある。
 神々と密着した信仰の姿、我々よりももっと原初的な神々との繋がりが、
 そこにはあるのであろう。

 カトマンズ盆地に2千年近くに渡って、住みついているネワール族の中でも、
 一番古い住民は、ネワール族の農民カースト ネワール語でジャプー(体を使って仕事をする人)
 といわれ、現在ではマハルザンと呼ばれている。
 彼らの宗教は、混合の宗教である。
 ヒンズー教も信仰すれば、仏教も信仰する。
 ヒンズー教の神様の名前など我々の知らないものが多い。
 農民であるから、水や大地を司る豊穣の神様を信仰することが多い。
 それらに土着信仰が混じりあっていて、我々からすれば、なにがなんだかわからない。
 このマハルザンの信仰の形を 解明していけば、ネワール族の大半を占める農民の姿も
 もっと深く見えてくるかもしれない。


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カトマンズ 街道を行く | 02:37:46 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐9 アルッシディの幸福な人々
アルッシディの幸福な人々 1

アルッシディの幸福な人々 2

アルッシディの幸福な人々 3

アルッシディの幸福な人々 4

アルッシディの幸福な人々 5

アルッシディの幸福な人々 6

アルッシディの幸福な人々 7


 いつもながらに思うのだが、ネワール族の農民の老人たちは、どうしてあんなにも
 生き生きしているのであろうか。
 アルッシディ、人口3500人の村、1キロ四方の村の中に、ひしめくように建物が
 軒を連ねている。

 人口密度で言えば、大変なものだ。この村の建物の構造は、ネワール族独特のものだ。 
 一戸建ての建物はなく、すべての建物が、くっつきあっているのである。
 その中の広場、路地は、人々の憩いの場所であり、交際の場所であり、仕事の場所でもある。
 そこには、必ずといってよいほど、老人たちの姿がある。
 ある者は、のんびり座り込んでおり、ある者は、仕事をしている。
 自分の分に応じて、そのときどきの時間を楽しく過ごしているのである。
 日本が失ったしまった遠い昔の年寄りたちの姿なのである。
 生き生きとした表情を持つ老人たちを見ると、ほっとするのである。
 社会が、健全に機能していることを感じるのだ。
 働けるうちは、働く。家族のために少しでも役に立ちたい。
 家族制度の崩壊しつつある日本では 見られない老人の姿だ。

 経済発展と云う名の下に 日本は以下に多くのものを失ってしまったのだろう。
 人生の到達地点が、アルッシディの老人たちの姿であれば、どんな進歩も発展も
 いらないはずだ。
 アルッシディ村の老人たちの幸福な姿、これほどの贅沢が、あろうか。
 それは、薄っぺらな福祉で手に入れられるものではない。
 何百年も、同じ生活を、繰り返し繰り返し営んできたアルッシディの村の人々、
 この人々にどんな援助が必要というのだろう。
 学ぶべきは、我々の方なのである。
 幸福とは、何か、満足とは何か。この村の人々は、意識することなく、実践しているのである。
 そういう姿を見ることなく、あなたたちは、貧しい、困っていると、
 自分たちの価値を押し付けている。本当に貧しいのは誰なのだろう。
 日本の豪華な老人施設は、老人たちに充実した幸福を与えているのだろうか。
 物質的な豊かさと幸福が、決して結びつかない日本とは 異質な世界が この村にはある。


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カトマンズ 街道を行く | 15:34:52 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐8 タイバ村 アルシッディ
タイバ村 アルシッディ 1

タイバ村 アルシッディ 2

タイバ村 アルシッディ 3

タイバ村 アルシッディ 4

タイバ村 アルシッディ 5


 パタン郊外、ゴダワリの近くにあるタイバ村のマハルザン(ネワール族の農民カースト)のみが
 生活する地区がある。
 普通、ネワール族の社会では、上位カースト(プラダン、シュレスタ、サキャ、バジャチャーレ等)と
 地区ごとに分かれてはいるが、混在して住んでいるのが普通である。
 しかし、ここはそうではないのである。全くの純粋な農民カーストのみの社会なのである。
 それと、普通、マハルザンと呼ばれるネワール族の農民カーストは、主に仏教を信仰しているの
 であるが、ここは ヒンズー教を信仰している。
 いつも白い服を身につけた祈祷師のような人たちもいる。

 人口にすれば、4,5千人といったところで、ここだけでも、村といってもいいだろう。
 村は、四つの門を持ち、人々は、行く場所に応じて、その四つの出入り口を
 使い分けている。
 この村の2キロばかり上方にあるタイバ地区は、上位カーストのシュレスタが 
 多く住んでいる。
 その村の住民に比べると、気さくで、取っ付き易い人たちだ。
 カメラを向けて写真を撮ると、近くにいる者が、冗談半分に 
 「この人に煙草一本やってよ。」と必ず言う者がいる。
 村のいたるところで、カーペット用の糸が紡がれている。
 
 - おばさんところ、どのくらい田んぼや畑が、あるの。

 - なんぼもありゃせんよ。1ロプニ(2百坪)だけだよ。

 - それじゃ、米も麦も、家族が食べるには足りないじゃないの。

 - そうじゃよ。だから、手間仕事(毛糸の紡ぎ)をしとるんじゃないかね。

 - そりゃそうだ。農民に土地がなかったら、困るね。だんなは、どんな仕事をしとるの。

 - 左官の仕事をしとるよ。

 中には、土地持ちもいるが、大半は、日々の糧である野菜作りで精一杯のようだ。

 この村、村の何箇所かに井戸があり、共同水道も完備されており、雨期明けの今は、
 日に3回、朝昼夕と水は、充分に来るようだ。
 私の住んでいるところなど、二日に2時間だというのに。
 この村の中央には、驚くほど立派な建物があるのだ。
 すべて新しく造ったものであるが、ネワールの工芸の粋を尽くしたものだ。
 聞くと、フランスの援助団体の寄付と村の人たちの募金で造ったそうだ。
 それが、全く活用されていないのである。
 旅行者を当て込んで造ったのであろうが、ほとんど、旅行者など来ていないようなの
 である。
 この辺にマハルザンの商売べたが 感じられるのである。
 トレッキングを別にすれば、旅行者は、のんびりした時間の流れ、気さくな農民との
 交流、そんなものを、ネパールに求めているのではなかろうか。
 上手な宣伝と、快適なゲストハウス、レストランでもあれば、充分に旅行者を
 ひきつけるに違いない。
 一、二泊の滞在でも、充分に楽しめるスロウライフ、カトマンズの喧騒から逃れて、
 ここに来れば 旅行者も安らぎを覚えるだろう。
 村人の日常を眺めるには格好のスポットなのである。
 実に勿体無い立派な建物なのである。
 2階部分は、使われておらず、鍵のかかったままである。
 ゲストハウスにでもすれば、最適である。
 もう一歩踏み出すだけの知恵がないようである。
 そんなことをしなくても、充分に食べていくことも出来るのだろう。
 本当に困るまでは何もしないというのが、ネパール人の一般的な習性である。


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カトマンズ 街道を行く | 02:05:14 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐7 アルッシディ村の女たち
カトマンズ 街道を行く アルッシディ村の女たち 1

街道を行く アルッシディ村の女たち 7

街道を行く アルッシディ村の女たち 6

カトマンズ 街道を行く アルッシディ村の女たち 2

カトマンズ 街道を行く アルッシディ村の女たち 3

カトマンズ 街道を行く アルッシディ村の女たち 4

カトマンズ 街道を行く アルッシディ村の女たち 5


 今日は ミニバスでパタン郊外のラガニケルへ、そこで別のミニバスに乗り替え、
 タイバという村に向かった。
 この村は、ネワール族の住む村で、三つの地区で一つの村を成している。
 上方の地区の名は、バーディガウン、そこには、ネワールの仏教徒の上位カーストで
 あるバジャチャーレ、サキャが主に生活し、中間に位置する地区であるタイバには
 ネワールのヒンズー教徒の上位カーストのシュレスタが多く生活している。
 二つの村は、比較的近くにある。
 その二つの地区から2キロばかり下ったところに、マハルザン(ネワールの農民カースト)だけが
 住むアルシッディという名の地区がある。
 カースト同士が不思議な位置関係にある面白い村である。
 アルシッディはすぐそこだと言われ、タイバからアスファルトの道を歩き始めたが、
 いくら歩いても行き着かない。30分近く歩くことになってしまった。

 どの地区に行っても、働いているのは女ばかりだ。
 男たちは、軒下に座り込んで話し込んでいたり、村の中を所在無げに、
 うろうろしたりしているだけである。
 どうも50を過ぎると、子供も大きくなり、収入の方は、息子に任せているようだ。
 それと反対に、そんな亭主どもをよそに 女たちは 仕事に励んでいる。
 これからの時期は、ジャール(ネワール族のどぶろく)ロキシー(ネワール族の焼酎)を
 作る時期にあたり、麹に漬け込んだ米、麦を日向に乾すことに余念がない。
 そうかといえば、羊毛から糸を紡ぎだしている一団もいる。
 カーペット用の糸で一キロ紡ぐと30ルピー(約50円)になるらしい。
 少し行くと、今度は、今年収穫した米を、風の力を利用して、ゴミを取り除いている女もいる。
 農民の女たちは、一日中、何かしら、仕事をしているのである。
 怠け者の男などには、頼ってはおれないとでもいうように。
 そんな女たち、大地から生まれたように、底抜けに明るいのである。
 年老いても、働けるうちは働くのである。年老いた女たちも、その体力に応じて 
 何かしら、仕事をしている。
 本当にネワール族の農民カースト マハルザンの女は良く働く。
 
 カトマンズの喧騒からすれば、時は、何十年も昔のままのようである。
 カトマンズからたった15キロばかり離れているだけの場所だ。

 カトマンズ市内は、喧騒、公害、貧困と矛盾だらけであるが、カトマンズ郊外の
 ネワール族の農民カースト マハルザンの村にやってくると、安穏さが感じられ、
 人間らしい生き生きとした当たり前の生活を見ることが出来る。
 それは、25年前にもカトマンズ市内でも見られたものである。
 この25年の間にカトマンズ市内の人口は5倍以上になっているだろう。
 これでは、のんびりした風景など望むべくもない。
 人々の顔からも明るい生き生きした表情が 失われていっているのがわかる。
 皆 生活に疲れているのだ。

 そうした人間表情から 解放されるために村に出かけていく。
 心の安定のためだ。


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カトマンズ 街道を行く | 14:53:17 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐6 時の流れない村パンガウン
時の流れない村 パンガウン  1

時の流れない村 パンガウン  2

時の流れない村 パンガウン  3

時の流れない村 パンガウン  4

時の流れない村 パンガウン  5

時の流れない村 パンガウン  6

時の流れない村 パンガウン  7


 カトマンズ盆地の中にいるだけでも、自分は、一体どういう世界にいるのだろうと
 思ってしまうことが多すぎて、自分の感覚を正常に保つことが、難しくなることがある。
 今日も、そんな1日だった。

 午後、チャパガウンへ行き、一人の村の若者に出会い、話をしているうちに、
 すぐこの近くに、パンガウンという面白い村があるという。
 歩いて、15分ぐらいのところにあるという。

 どういう風に面白い村なのか、早速行ってみたのである。
 バスの走る街道を15分ばかり登っていくと、その村の入り口がある。
 その向こうには、とうもろこしを、まるでクリスマスツリーのように重ねて乾かして
 いる光景が目に飛び込んでくる。
 村の中に入っていくと、至るとことにとうもろこしのクリスマスツリーがある。
 それだけではないのだ。
 村の老人たちの服装が、1時代前のネワール族の農民の作業着なのである。
 こんな農民の姿など、カトマンズ盆地のどこ村へ行っても、見ることは出来ない。
 別に旅行者のために、特別にそういう服装に身につけているわけではない。
 こんなところは、旅行者など、訪れるような観光地でもない。
 バスの通る街道から、高々30メートルばかり入っただけの村なのに、昔ながらの生活を
 そのまま維持しているのである。

 カトマンズの中心から、わずか20キロばかり離れているだけである。
 ネワール族の農民カースト マハルザンの住む人口僅か7百人の村である。
 執拗に時代の流れに抗っているとしか考えられない。
 他の村では、今、米の収穫期、村一面にもみを干しているが、この村では、
 その光景は僅かに見られるだけである。
 家の前に干しているものは、コウドウ(ヒコクビエ)である。  
 ヒコクビエといえば、山岳地方の貧しい農地で採れる穀物で、カトマンズ盆地の中では、
 タマン族がこれで、ロキシ(蒸留酒)、ディロ(穀物の粉にお湯を混ぜて作る主食)を作る。
 米を主食とするネワール族が、これほど大量のとうもろこしを育て、ヒコクビエを
 利用しているとは思わなかった。

 よく話を聞いてみると この村のネワール族は 昔 山奥に住んでいて、
 災害で村を失ったかどうかで、この場所に移住してきた人たちである。
 そのため、近くに住む同じネワール族とは、言葉が通じないという。
 平地のネワール族ではなく、山のネワール族であり、そのために昔ながらの習慣を
 護り通しているのかもしれない。
 あまり豊かでないせいか、教育面で遅れているせいか、何かにつけて、お金をくれと
 いう態度には、良い気持ちはしなかった。
 又、言葉が他の村と違うために閉鎖的になってしまったのか、かたくなさも見られ、
 あまり友好的な印象を持つことは出来なかった。
 なかなか本音を見せず、随分猜疑心も強かった。
 後からこの地にやってきて、言葉の違い、生活習慣の違いから近隣のネワールの村の
 ものから、田舎ものと馬鹿にされ続けてきたのかもしれない。
 ネワール族は、村の中での結束が強いだけに、村の外の人間を受け入れないところが
 ある。


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カトマンズ 街道を行く | 01:00:04 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐5 桃源郷レレ
桃源郷 レレ 1

桃源郷 レレ 2

桃源郷 レレ 3

桃源郷 レレ 4

桃源郷 レレ 5


 今日は、パタンのラガニケルからレレの村に行くことに決めた。
 どんな場所かは、全く知らないが、レレがバスの終点である。
 バスの終点は、交通手段が、バスから徒歩に変わる地点でもある。
 カトマンズ盆地はその周囲を山に囲まれている。
 平地の農民は この盆地で270年前までマッラ王国を築き上げていた
 ネワール族の農民カーストである。
 今のチェットリ族、バウン族の王朝に国を奪われてしまった民だ。
 山間部には チェットリ族、バウン族、タマン族が 段々畑を耕している。
 当時まだ人口の少なかったカトマンズ盆地では、カトマンズに充分に食料を
 供給していたのだろう。

 バスは、住居の密集した村々を抜けて、山の中に入っていく。
 舗装もされていないがたがた道をおんぼろバスは、左右上下に揺れながら、
 ゆっくりと走っていく。バスのどこかを掴んでいないと、
 座席から転げ落ちてしまいそうである。
 木立の向こうには、カトマンズ盆地のネワール族の住居とは違ったチェットリ族、
 バウン族、タマン族の家々が、遠くに散在している。
 彼らは、密集しては住まない。
 がたがた道を30分ほど走って、やっとレレに到着した。

 終点のレレは、ネワール族の住む最終地点である。
 そこに住むネワール族は、農民カーストのダンゴールだ。
 バスの終点から先は、チェットリ族、バウン族、タマン族の生活場所へと移っていく。
 行き交う人々も、チェットリ、バウンの人々が目立つ。
 山の上のほうには、チェットリ族、バウン族の赤い家々が見える。
 稲刈りを終えた田んぼ、稲刈りを間近にひかえた田んぼの脇を清らかな川が流れていく。
 稲を刈る人、もみを運ぶ人が田んぼの中で、のんびりと仕事をしている。
 ささやかな日常の営みであるが、豊かの自然の恵みの中で、人々の時は、
 ゆっくりと流れてゆく。
 山側の畑に目を向けると、トウリ(油菜)の花が、畑を黄色く埋め尽くしている。
 失われた日本の美しい風景が、ここにも残っていた。
 流れる小川、田んぼ、畑、ゆったりと時を過ごす人々、便利さはなくとも、
 豊かさはある。

 このカトマンズ盆地は中心から20キロも離れれば、昔ながらのゆったりした人々の
 生活を眺めることが出来る。
 距離の移動が、時間を遡行しているように。


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カトマンズ 街道を行く | 14:24:37 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐4 バスの終点の村 ルビ
バスの終点の村 ルブ  1

バスの終点の村 ルブ  2

バスの終点の村 ルブ  3

バスの終点の村 ルブ  4

バスの終点の村 ルブ  5


 サナガウンを出た時、まだ夕刻までには、充分 間があったので、
 バスの終点の村、ルブまで足を延ばすことにした。
 終点であれば、きっと、もっと昔ながらの村があると思ったからだ。
 バスは、どんどん上り坂を登りつめていく。周辺は、田園地帯、収穫をひかえた
 黄金色の稲穂が、重くその穂をたれている。
 終点に近づくと、村の大きな門とその先に1本の大きな菩提樹が見えてくる。
 バスが 門を超えると、そこは 村というより、街道沿いのバザールの様相を
 示している。
 この村の周辺に住む村人たちが、生活必要品を買い求めに来るバザールなのだ。
 村を二分する道をバスは登りつめると、また、1本の大きな菩提樹があり、
 その向こうに村の門がある。
 期待したような村ではなかったが、この村は、この村で興味深い。

 一体、どういう人々が住んでいるのかと尋ねてみると、
 ネワール族のシュレスタ(上位官吏カースト、現在は主に商業に従事)、
 農民カーストであるマハルザン、屠殺カーストであるサイ、
 そして、初めてお目にかかるネワールのカースト ラーズタラは住んでいるという。
 この村の先からは、バウン族、チェットリ族、タマン族の生活場所になる。
 
 ラーズタラというカーストは、マッラ王朝時代の王族マッラにつながる人々で、
 直系ではないが、親戚筋にあたるカーストであると、このカーストの人から聞いた。
 現在では、ジャール(どぶろく)ロキシ(蒸留酒)を作るときに必要な麹 マルツァを作る仕事に
 従事しているという。
 この人物、なかなか面白い人物で、この村で、親睦会を開き、
 その際、各カーストの代表を呼んで、お茶を一緒に飲むことになったが、
 その親睦会の席に最下位カーストのサイ(屠殺の仕事をするカースト)の人がいたために、
 73人集まった人々の中で、お茶を飲んだのは、13人だけだった。
 昔からのしきたりで、サイカーストの人とは、食、飲み物をともにしない、
 家の中にも入れない。
 そのしきたりにこだわった60人の人たちは、飲んできたばかり、腹の具合がよくない、
 お茶を飲むのを止めていると、様々の理由を述べ、その席ではお茶を一緒に飲まなかったそうだ。
 彼は、怒りをこめて、民主主義だのなんだかんだといっても、
 村人の頭の中は、ちっとも変わっていない。
 自分のカーストのことばかりにこだわって、互いに手を結ぼうとしないと。
 私も彼の意見に同感である。

 街道筋の店で商売をするのはほとんどがシュレスタ、道を挟んで、
 一方に、マハルザンとラーズラタが住み、ラーズラタの居住地域では、直径5センチぐらいの
 白い麹が、軒先に並べられ、乾されている。
 道を挟んで、もう一方にはシュレスタ、マハルザン、そして、サイの人々が住んでいる。
 カトマンズ周辺の村では、手織りから 紡績機を使って織った布に変わりつつある。
 その仕事に主に従事しているのが、シュレスタカーストの人たちだ。
 村の中を歩いていても、紡績機の音が、うるさく響いている。

 バス乗り場のすぐ近くにある大きな菩提樹の下では、この村の周辺から来ている
 農民の女たちが、自分の畑で採れた野菜を売っている。
 カトマンズでは、一束5ルピーする油菜の新芽も2.5ルピーだ。
 安さに惹きつけられ、四束買ってしまう。(四束買ったのはいいが、その根っこを取って、
 きれいにするには、時間がかかりすぎ、二束は大家にあげてしまった。)
 歩き続けたせいか、ラガニケルまでの帰りのバスでは、うとうとと居眠りをしそうだった。


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カトマンズ 街道を行く | 02:13:14 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン
街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 1

街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 2

街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 3

街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 4

街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 5

街道を行く‐3 莚作りの里 サナガウン 6



 今日は、パタン・ラガニケルからサノガウンという莚造りで名の知れている村に
 行ってみた。
 ここも、ネワール族の農民カースト マハルザンの多く住む村だ。
 村の中に入ると、村の女たちが、スクルと呼ばれる莚を編んでいる。
 カトマンズでも有名な莚作りの村である。
 この村の女たちが、家の前で莚を編んでいる。
 マハルザンと呼ばれるネワール族の農民カーストの女たちである。
 手の荒れることなど気にもせず、ひたすら、縄を編み、莚を編んでいる。
 若きも年寄りも同じである。
 少しでも生活を豊かにしようと思ってのことだ。
 男はカトマンズに仕事に出かけ、女は畑仕事、莚作りに勤しむ。
 ふらふらしているのは男の子ばかりだ。

 今日は、学校が休みだったらしく、子供たちが多い。
 カメラを構えると、すぐに子供たちがやってきて、デジタルカメラの映像を見ようと
 する。
 そして、私の後を、ぞろぞろとついてくる。
 村を案内して案内料を稼ごうという魂胆は、見え見えである。
 村には、老人もいれば、子供もいると思って、付き合ってみることにする。
 拙い案内ではあるが、それも面白い。
 子供と一緒にいると、村人も警戒心を溶くので、それはそれでいい。
  一々、「ジ ジャパニーズ カー」(自分は日本人である)と、ネワール語で
 説明しなくても、子供たちが、代わりに説明してくれるので、楽である。
 旅行者であれば、神社仏閣を案内すれば、喜ぶだろうと思って、
 寺に飾られている像の説明をしてくれるが、彼らの知識も曖昧で、
 子供同士で、ああでもこうでもないと、言い合いをしている。
 あそこに猫がいる、生まれたばかりの子犬がいる、触ると、親犬が、
 怒って噛み付くから、触ってはいけないと、至れり尽くせりなのである。
 じっくり、村を見ることなど、出来たものではない。
 
 「ダサインのお祭りまで、凧を揚げてはいけないのに、どうして凧をあげるのだ。
 凧を揚げるのは、ダサインの祭りの時に 空の上にいる神様に、
 もう雨はいらないと知らせるためだろう。
 今から凧を揚げていると、神様が迷ってしまうではないか。」と私が言うと、
 又、子供同士で、喧々諤々である。
 たまには、こうして子供たちと、付き合うのも楽しいものである。
 日本語でこんな言葉をなんというか、日本でも凧を揚げるのか、
 日本にも、犬や猫はいるか、と質問攻めである。
 「日本では、店で、袋に入った犬・猫用のえさを買ってきて与えるから、
 皆よく太っている。」と言うと、眼を丸くしている。
 村では、残飯しか与えないのに なんと勿体無いことをするのだというように。
 今日は、そんな子供たちとの1日だった。


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カトマンズ 街道を行く | 21:55:37 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐2 スナコティ村の井戸
カトマンズ 街道を行く スナコティ村の井戸 5

カトマンズ 街道を行く スナコティ村の井戸 1

カトマンズ 街道を行く スナコティ村の井戸 2

カトマンズ 街道を行く スナコティ村の井戸 3

カトマンズ 街道を行く スナコティ村の井戸 4


 村の憩いの場であり、女たちの仕事の場である井戸は、村の生活の中心である。
 洗濯、食器の洗い、水浴びをしながらの女たちの笑い声が、あふれる世界だ。
 ネワール族の農民は、たくましい。
 中年の女たちは、胸を隠しもせず、平気で水浴びをする。

 一昨日は、凄かった。ダサインのお祭り前の支度のあわただしさの中で、
 井戸のまわりは、洗濯、水汲み、水浴びで女たちの活気にあふれていた。
 堂々と、胸をはだけて水浴びをする女たちに向けて、カメラを向けることは
 出来なかった。
 そんなことをすると、周りの男たちの怒りを買うことを恐れたからだ。

 ダサインを迎えた今日は、井戸の周りは、ひっそりしている。
 女たちは、ダサインの支度をつつがなく終え、のんびりと座り込んでいる。
 井戸の水をまるで競争するように汲み上げていた姿が嘘のようである。

 まだ生活の中で、重要な場所を占めているスナコティ村の井戸、村人の自慢のひとつだ。
 何百年も行き続けてきた井戸、今なお、美味しい水を一年中 村人に与えてくれる。
 カトマンズ盆地で見かけた井戸の中で、明るく、今も村人に生き生きした喜びを
 与えている井戸は、ここだけだった。
 井戸の周りの清潔さも、村人の井戸への愛を物語っている。

 何百年もの歴史を持つこの井戸、彼らの親も、その又親も、この井戸の周りに集い、
 水浴びをし、野菜を洗い、洗濯もしてきただろう。
 この村の歴史を一番良く知っているのがこの井戸である。
 そうした存在感を感じさせる井戸だ。
 水道をひねれば出てくる水よりは、はるかに彼らの心の中で親密な存在として
 水であることがわかる。
 水は彼らをいとおしみ、彼らは水の有難さを心から感謝する。
 水は ナーグ(蛇の神様)の化身なのだ。
 我々が忘れている水への信仰が ここでは、今でも生き続けている。


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カトマンズ 街道を行く | 01:42:16 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上で生きる人々‐5 老人たちの商い
カトマンズ 路上で生きる人々‐5 老人たちの商い 1

カトマンズ 路上で生きる人々‐5 老人たちの商い 2

カトマンズ 路上で生きる人々‐5 老人たちの商い 3

カトマンズ 路上で生きる人々‐5 老人たちの商い 4


 社会保障のないネパールでは、余程余裕のある家に住んでいない限り、
 年老いても働かなくてはならない。
 カトマンズ盆地に古くから住んでいるネワール族は、家族・親戚同士のつながりが
 深いから、歳をとれば のんびりとした生活が出来るようだが、山から 
 あるいはインドからカトマンズにやって来た人たちはそういうわけにはいかない。
 生きていくためには その日の糧を得るために 体を使って働き続けなくてはならない。
 家族がいたとしても、彼らも生きていくために精一杯だ。

 魚を揚げているのはインドからやって来た女性だ。
 20年も前からスンダーラと呼ばれるこの場所で魚を揚げ続けていた。
 5ヶ月前には元気にいつものように魚を揚げていたが、今回 やってくると、
 その姿が見えない。私も何度か彼女から、魚の揚げ物、ゆで卵のフライを買ったことがある。
 年寄りたちはいつの間にか姿を消してしまう。

 庶民相手に、値段の張らない果物を売っているのは、タマン族の女性である。
 亭主は歳を取り、彼女の収入が生活を支えている。子供はいない。
 カトマンズからの帰り道、気に入った果物があれば買うようにしているが、
 彼女の売る果物は、昔からの品種改良されていない果物で、私からすれば、
 美味しいものではない。
 ネパールの昔からのスンタラ(ネパール蜜柑)、日本の昔に会った長十郎梨より
 もっと固いネパールの梨、スモモなどを売っていれば買うようにしている。
 時々彼女の亭主が脇に座っていることもある。

 燻製の川魚を売っているのは、バウン族の男性、写真を撮ったら、何で撮るんだと
 叱られてしまった。話をしていくうちに心をやわらげてくれた。

 働けるうちは働くというのが、カトマンズにやって来て生活するインドや山からやって来た
 老人たちの当たり前の姿である。
 それが彼らのプライドを維持している。
 カトマンズに土地も家も持たない彼らにとって 仕事をしないということは死活問題に
 通じる。
 今のネパール政府には彼らを援助するだけの力はないし、やる気もない。
 負けてしまえば、こじきをするより仕方ない。
 プライドを捨てて生き続けるよりは 毎日休まず、頑張って働いている老人の方が
 生き生きしているのは確かなことだ。
 カトマンズ郊外の村に行っても、何かしら仕事をして生計を助けている老人の姿を
 良く見かける。糸を紡いだり、縄を編んだりして、家族を助けている。

 日本の中高年のように年金を当てにして、海外でロングステイをしようという世界とは、
 異質な世界なのだ。
 そういう日本人には、アジアに生きている別の老人たちの姿は見えてこない。
 死ぬまで行き続ける、働き続ける。それがかつての日本人の姿だった。
 今の日本の老人が果たして幸福なのかどうか、考えてみる機会が、ネパールにも
 インドにも、他のアジアの国々にはある。
 安っぽい海外ロングステイなど アジアの人々のひんしゅくを買い、軽蔑を生み出すだけだ。
 誰も根付かないものに対して親しみは示さない。日本の田舎でも同じことだ。


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カトマンズ 路上で生きる人々 | 14:10:54 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち
カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 3

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 1

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 2

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 4

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 5

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 6

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 7

カトマンズ 街道を行く‐1 チャパガウンの子供たち 8



 地図を見て、その名前に惹かれて、チャパガウンにやって来た。
 パタンのラガニケルから、ディッレ行きのバスに乗り、途中のチャパガウンで降りるのだ。
 チャパガウンの道々には、今 流行りの新興住宅が、どんどん建ち並び始めている。
 カトマンズ近郊は、段々とベッドタウン化している。
 瀟洒な住宅が、建ち並び、一体 ネパールのどこが 貧しいのかと思ってしまう。

 いつものことだが、村に中に入った途端、警戒心の強い村かどうかを、感じてしまう。
 昨日 行ったサトーン・ガールは、取っ付きの悪い村だった。
 日本人が、10年ぐらい住んで、リサーチをしていた村らしいのであるが、
 何を訊いてもつっけんどんで、取り付くしまもない有様だった。
 そんな昨日の今日である、チャパガウンの中に入ると、ナマステと声をかけると、
 向こうからも、愛想のいいナマステが帰って来る。

 今日は、子供たちは、学校が休みで、至る所で、遊びに長じている。
 私が、古い家の写真を撮っていると、自分の家の写真も撮れと言ったかと思うと、
 家の中に入り込み、2階の窓から顔を出して、ここだ、ここだと、合図している。
 村の子供たちは、カトマンズ市内の子供たちと比べて、好奇心旺盛で、エネルギッシュだ。
 昔しながらの遊びを、近所の子供同士で、生き生きと楽しんでいる。
 勉強、勉強で遊ぶ力を失っているカトマンズの子供とは、一味違う。
 23年前のキルティプールの子供たちの姿を思い出してしまった。
 それにしても、村の子供たちの着ているもの、随分とこぎれいになったものである。
 23年前は、子供たちの着ているものといえば、どこかがほつれていたり、
 つぎが当てられていたものである。
 そして、何日も洗われていない衣服を身につけていた子供が多かった。
 それだけ、豊かになったということかもしれない。
 
  この村は、デサールというネワール族のカーストが、住む村で、彼らの言い伝えによれば、
 もともとは、マッラ王朝時代にバクタプールに住んでいた人々で 王族であるマッラにつながる
 血筋であるという。
 その当時、マッラ王に命ぜられて、マッラ王の王子と彼らの祖先が、ヒティ(水浴場)を造ったが、
 水が流れて来ず、それを怒った王が、王子に死を持って、責任を取らせた。
 王子の死後すぐに 水が、流れ来たのであった。
 しかし 時は遅く、一緒に仕事をした彼らに王の怒りは向き、この地に流されたというのだ。

 そのせいかどうかはわからないが、皆 物怖じせず、堂々としているのである。
 カメラを向けても、動じることはない。
 シュレスタ・カーストの人たちも住んでいるが、彼らにも臆することなく、伸び伸びと生活している。
 女たちも、男たちと対等に話をし、話に加わってくるのだ。
 現在でも、バクタプールのマッラカーストの人たちは、ヒンズー教を主に信じる人たちであるが、
 彼らは、仏教徒であると言う。
 どういう変遷の中で仏教徒になったのかは、わからない。
 自分たちが、マッラの末裔であることを信じるほこり高い人たちなのである。


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カトマンズ 街道を行く | 02:17:58 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上で生きる人々‐4 路上の靴直し
カトマンズ 路上で生きる人々‐4 路上の靴直し 2

カトマンズ 路上で生きる人々‐4 路上の靴直し



 昔、ジョッチェン、今はタメルと言われるように、当節、旅行者の大半は、
 タメル地区に滞在するようになってしまった。
 1980年代後半までは、カトマンズにやって来た旅行者は、大半、
 ジョッチェン・フリークストリートに滞在していたものだ。
 私が 初めて、カトマンズを訪れた1984年当時、タメル地区には、カトマンズ・ゲ  
 ストハウス、スターホテル、トクチェ・ピークなどのホテルと、何軒かのレストランが
 散在していただけだった。
 1970年代から、ヨーロッパのヒッピー達は、アフガン、インド、そして、
 カトマンズを目指した。
 そのヒッピーたちが好んで滞在していたのが、ジョッチェン・フリークストリート
 だった。
 
 今は、旅行者の大半をタメル地区に奪われ、見る影もない。
 というのも、タメル地区にはまだ土地と場所が十分残っていたのに対して、
 ジョッチェンは、旧王宮を中心として ネワール族の昔からの移住地域であり、
 開発規制もあり、簡単には発展していけなかったのだ。
 しかし、私は、勧めたい。もしも あなたが、カトマンズの人々の生活を身近に
 感じたいならば、ジョッチェン・フリークストリートを。

 ここに21年間、フリークストリートを見つめ続けてきた一人の男がいる。
 フリークストリートの路上で、靴の修理を続けてきた男だ。
 今、年齢は40、19の時からこの路上で働き続けてきたことになる。
 彼のカーストは、サルキ、ネパールでは、低カーストに属する皮職人カーストだ。
 彼は、路上での靴直しという仕事で、息子を大学4年までやり、娘は、日本流にいえば、
 高校3年生、大学に進学するそうだ。お見事というより他にない。
 寡黙にひたすら、仕事に励む男だ。
 私も何度か、皮のサンダルの修理をしてもらったことがある。
 15年以上前のことだ。
 この20年、私はふらふらしていただけで何も残すことは出来なかったけれど、
 20年以上このジョッチェンの同じ場所に座る続け、靴を修理することだけに専念し、
 最下層カーストにありながら、二人の子供を大学まで通わせたこの男、只者ではない。
 見た目には、寡黙で礼儀正しく、路上の靴直し、あの旅行者の間で話題になった小説
 『CITY JOY』(歓喜の街 カルカッタ)の主人公のネパール版である。

 このジョッチェンから、カトマンズ庶民の市場も近い。
 近辺をさ迷い歩くだけで、昔ながらのカトマンズ庶民の生活、信仰の姿を眼にすることも
 出来るだろう。
 ここは、カトマンズの臍であり、中心なのである。
 あなたが、タメルに滞在するか、ジョッチェンに滞在するかで、
 あなたのこれからの旅の形が変わってくるかもしれないのだ。
 店の構えも、ぶら下がっている服も野暮ったい。
 でもそれでいいのだ。それがジョッチェンであり、ネワールの生活なのだ。
 あなたは、何のためにカトマンズにやって来たのか。
 発見するものの多いジョッチェン・フリークストリートである。


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カトマンズ 路上で生きる人々 | 16:00:43 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上で生きる人々‐3 小さな商い
カトマンズ 路上で生きる人々‐3 小さな商い


 カトマンズでは、人の出入りの激しい場所は、路上の物売りたちの格好の仕事場である。
 ラットナパーク、ビル病院、オールドバスパークなどが 彼らの縄張りである。
 ナングロと呼ばれる竹で編んだ直径60センチ位の丸いお盆のような器に、
 一本売りの煙草、乾燥チーズ、キャラメルのような味のするお菓子、チューインガム、
 飴、ココナツなどをこぎれいに並べて、2ルピー、5ルピー、どんなに高いものでも
 10ルピーを超えるものはあるまい、そんなものを売る人々がいる。
 日長一日、同じ場所に座り込んで、どの程度の商い、儲けがあるというのだろう。
 うまくいっても、儲けは、100ルピーにも満たないだろう。

 皆、カトマンズ周辺の村々から出てきているのだ。
 現金収入がなければ、灯油も、食用油も、砂糖も、薬も、服も手に入れることは、出来ない。
 カトマンズの生活費だけで、儲けは消えていくのではと、心配にもなる。
 彼らも又、農閑期を利用して、村からで来る。
 一年に3,4ヶ月のカトマンズでの生活になると言う。
 5ルピー、10ルピーの買い物をする貧しい人相手の商売である。
 儲かるはずはない。

 ネパール人皆が、貧しかった頃は、我慢も出来たろう。
 車を乗り回し、オートバイを走らせるカトマンズ市民を見ていれば、その生活の差を見れば、
 マオイストの元に走りたくなるのも当然の結果である。
 土地もあり、金も用意出来る者は、アラブへと、マレーシアへと出稼ぎの行くことも出来るだろう。
 生きるにカツカツの土地しか持たないものは どうすればいいのだ。
 そんな諦めにも似た抗議が彼らの中にはある。

 今のネパールは、どこに生まれたか、その運、不運が、一生付きまとう世界である。
 努力という美徳が通用していくことのない世界なのだ。
 金持ちに生まれれば、一生金持ちだし、貧乏人に生まれれば、一生貧乏人のままである。
 ネパールに生まれたことが、ああ、良かったとは、思えない貧しい人たちの世界である。
 私も思ってしまうのだ、インドやネパールに生まれなくて良かったと。


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カトマンズ 路上で生きる人々 | 04:09:19 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上で生きる人々‐2 野菜・果物売り
カトマンズ 路上で生きる人々‐2 野菜・果物売り 1

カトマンズ 路上で生きる人々‐2 野菜・果物売り 2

カトマンズ 路上で生きる人々‐2 野菜・果物売り 3



 カトマンズを歩いていると、自転車に大量の野菜や果物を積んで、売り歩いているインド系の顔を
 した人たちに出会うことが多い。
 旅行者の多いタメル地区では、これらの人たちの売る果物は、概して高めで、余程親しくなるか、
 しつこく交渉しないと安くならない。
 しかし、旅行者の多い繁華街を離れると、これらの人たちの売る野菜や果物は、店を構えている
 八百屋、果物屋に比べて安いのである。
 そのためには、充分に交渉しなければならないが。
 特に野菜は必需品のためか、カトマンズ市民も安く手に入れることに、精出しているようだ。

 このインド系の顔をした野菜売り、果物売りは、インド人なのか、ネパール人なのか、
 彼らに聞いてみると、意外とネパール人が多いのである。
 彼らは、インドと国境と接するネパールのタライ地方の住民であることが多い。
 今日、聞いてみたところ、ジョナクプール、ビルガンジ近くの村から、やって来ているとのことだ。
 国境の向こうは、インド・ビハール州である。インドの保守的な地域で 未だに大地主制度が残り、  小作人との紛争が絶えない。又、インドでも貧困な州の一つでもある。

 このタライ地方は、もともとは、インドの土地で、19世紀初頭のイギリスとネパールの戦争、
 グルカ戦争のとき、ネパールを攻めきれないイギリスが、ネパールと停戦条約を結んだ時に、
 ネパールが占領していたインドのタライ地方などを、ネパール側が放棄する代わりに 
 毎年20万ルピーを支払うと約束をしたが、後に支払いをやめる代わりに、タライ地方を
 ネパールに与えたのである。
 インドを植民地化していたイギリスの勝手な思惑で、インド人として生活していた同じ地域の
 住民が、国境を境にネパール側とインド側に分かれることになったのである。
 そのため、タライ地方に住むインド系住民は、インドの生活習慣を持ち、ビハールの言葉を
 話すため、インド人のように思われてしまう。
 カトマンズ市民は、マディシャンと呼んで、タライ地方の住民、インド・ビハールの人間を
 馬鹿にする傾向にある。
 その為か、このタライ地方では ネパール人としての権利、市民権、選挙権などを
 与えられていない人たちも多いようだ。
 この地方も未だに大地主制度が残っているようだ。
 今、タライ地方は、市民権、選挙権、土地の権利を求めて、大荒れだ。
 何かにつけて、ゼネスト、政治的な殺人が横行している。
 インド・ビハール州のギャングを雇って、混乱を作り出そうとしている人間たちもいるようだ。

 こうしたタライ地方の住民は、小作人、もしくは、わずかの農地を持つ農民であることが多く、
 次男坊、三男坊などは、結婚しても家族を養えないという理由で、カトマンズに出稼ぎに
 来ることになる。
 その一つの仕事が、自転車を使っての、野菜、果物も行商なのである。
 特に野菜の行商は、なかなか大変のな重労働で、朝8時頃に、カリマティにある
 卸売り野菜市場に行って、70キロ近い野菜を仕入れ、野菜を積んだ自転車をひいて、
 住宅地、小さな路地の隅々まで 行商に回るのである。
 行き止まりの路地の片隅でネパール人相手に、ネパール人の値引きにも負けず、 
 たくましく生きている彼らの姿をよく見かける。
 70キロ近い野菜を売り切ると、再び、野菜市場で、野菜を仕入れ、夜8時近くまで行商をしている。
 彼らは、重労働になれた農民だから、この仕事が出来るのである。この仕事で彼らは、
 1日300ルピーから500ルピー近く稼ぐようだ。
 懸命に働いて、田舎にいる家族に仕送りするのである。
 そして、ある程度、生活の見通しがつくと、家族を呼び寄せる人もいるようだ。

 よくカトマンズの人間が、仕事が無い、給料が安いと、泣き言を言うのを聞くが、
 その時に、自転車での野菜の行商の話を持ち出して、1ヶ月に1万ルピー稼げるよと言うと、
 あんなマディシャンのしていることが出来るか、と馬鹿にしている。

 一時期、カトマンズで野菜、果物を売るこの人たちに 嫌がらせをすることがあったが、
 安く果物や野菜を供給してくれる彼らは、庶民にとっては必要不可欠なのである。


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カトマンズ 路上で生きる人々 | 21:52:57 | Trackback(0) | Comments(0)
カトマンズ 路上で生きる人々‐1 荷運び
路上で生きる人々‐1 荷運び  3

路上で生きる人々‐1 荷運び  2

路上で生きる人々‐1 荷運び  1

路上で生きる人々‐1 荷運び  4


 カトマンズの街中を歩いていると、背負い紐を額にかけ、大きな荷物を背負って、
 黙々と歩を進めていく人たちに出会うことが多い。
 荷運びを仕事とする人たちだ。彼らの本業は、農民である。
 カトマンズの周辺の村から、現金収入を求めてカトマンズにやって来た人々だ。
 耕地も少なく、自給自足もままならず、村にいる家族のために、お金を稼ぎ、
 生活に必要な植物油,衣料品、砂糖、塩、灯油そして現金を携えて、2,3ヶ月ごとに帰郷する。
 農繁期には本業の野良仕事も待っている。
 最初は次男、三男が多いのかと思っていたら、長男の方がはるかに多かった。
 家を支えるのが彼らの役目なのだ。家族を養い、食べさせるために嫌がおうにも、
 カトマンズにやって来ざるを得ないのだ。
 次男、三男であれば、自分の食いっぷちのことだけを考えて居ればいいのだろう。
 高い教育を受けていない彼らが、手っ取り早く現金を稼ぐ方法は、肉体労働しかない。
 その一つの仕事が、荷運びなのである。

 商店主に頼まれ、倉庫から店へ商品を運ぶ、露天で商売をする露天商の商品を
 路上に運ぶのも彼らの仕事である。だから一番忙しいのは、
 露天商が商売を始める午後3時過ぎ、 そして終わる7時過ぎだ。

 私の昔、カトマンズで買った冷蔵庫、ベッドなどをパタンまで運んでもらったことがある。
 当時は、店には運送用の自動車はなく、すべて彼らの仕事だった。
 短い距離であれば、100キロぐらいの重さのものは大丈夫だそうである。

 今の贅沢と飽食に慣れたカトマンズの人々の生活は、彼らの眼にはどう映るのだろうか。
 着飾った女たち、ファーストフード店で、おしゃべりに時間を費やしている若者たち、
 生活があまりに違いすぎるのだ。
 俺たちの息子、娘たちに将来はあるのだろうか。そんな思いもよぎることだろう。
 生まれた場所が違ったという運命のいたずら、このいたずらを乗り越えていくために肉体を
 酷使して、生き続けていかなくはならない。

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カトマンズ 路上で生きる人々 | 02:02:22 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐9 信仰の行方‐1
バンコク ある風景‐9 信仰の行方‐1  1

バンコク ある風景‐9 信仰の行方‐1  2

バンコク ある風景‐9 信仰の行方‐1  3

バンコク ある風景‐9 信仰の行方‐1  4


 
 昔から、行為を伴わない信仰を受け容れることは出来なかった。
 日本には 行為を伴わない似非信仰が多かったように思えていた。
 今日本の仏教は、葬式仏教に成り果ててしまっている。
 信仰とは何かということが問われることなく、長い年月が経ってしまっている。

 タイにはタイ全国で3万近い仏教寺院があり、30万人の僧侶がいると言われている。
 タイ人の中の2百人に1人は僧侶ということになる。
 これだけ見ると、なんと信心深い国民性、仏教の持つ平等性の思想が行き渡っている
 ようにも思える。
 ところがタイの歴史、人々の生活を見ているとそうではないのではと
 疑いを抱くようになってきた。

 上座部仏教とは一体どのようなものであろうか。日本に伝わった大乗仏教とどのような違いが
 あるのだろう。
 仏陀入滅百年後、戒律と修行では人々は救えないと考えた仏教大衆派の運動が起こり、
 仏教団は保守正統派と改革進歩派に分裂してしまう。

 大衆の救済という大きな理想を抱えた改革進歩派がチベットから中国を経て 日本に
 伝来した大乗仏教である。
 一方 保守正統派は、あくまでも仏陀本来の教えにこだわり、厳しい修行と禁欲に
 よって選りすぐられた者だけに救済の道が開かれることから『上座部仏教』と
 呼ばれるようになったようだ。
 インドのアショカ王の時代にインド全土に普及し、スリランカ、ミャンマーを経て、
 タイに伝わったものだ。
 タイの仏教には227条の戒律があり、僧侶は それに従う義務があり、
 厳格な戒律を守り通し、厳しい修行を経たものだけに救いがある。
 僧侶のみ涅槃に至ることができる。

 それでは一般の人々はどうすればよいのであろうか。
 救いを求めるためには 『タンブン(徳を積む)』をすることだ。
 寺院や僧侶に喜捨寄進して善行を積むことである。
 現世で高い身分についているのは前世において多く徳を積んだお陰だし、
 苦しい生活を強いられるのは徳を積むのが足りなかったせいだ。
 だから、来世のために 出来るだけ徳を積みなさいということになる。
 裕福な階級の人々は財力を生かして どんどん質、量、回数ともに 多く徳を積むことが
 出来るが、貧しい人は僅かの徳しか積めないから、来世は少ししか期待できないことになる。
 一番大きなタンブンは、寺院と建てることである。
 親にとってのタンブンは、子供が出家し、僧侶になることである。
 これも多大なお金がかかる時勢だ。
 昔から王が王位を継いだときには寺院を建てる。自らのタンブンを積み、
 仏教の擁護者であることを顕示するためのものだ。
 金持ちにおいてもそうである。

 仏陀が考えていた教えとは、こんなものだったのかと疑問を感じ、
 壮麗な寺院であればあるほど足が遠のいていく。
 僧侶を見ても有難みを感じなくなる。
 さしずめ、私などは、地獄に落ちるか、来世は下等動物にでも生まれ変わるのだろう。


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バンコク ある風景 | 15:31:47 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家
バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  1

バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  2

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バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  4

バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  5

バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  6

バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  7

バンコク ある風景‐8 精霊たちの棲家  8


 バンコクの街を歩いていると、仏教寺院とは別に、サン・プラプームと呼ばれる廟や
 サン・チャオと呼ばれる祠をよく見かける。
 サン・プラプームは、神(特にヒンズー教の神)を祭るもので、商売繁盛や地震、
 交通安全、金運などの祈願のためのものだ。
 一方、サン・チャオ(バーン・ピー)に祭られているものは、タイ人やラオス人の
 土着信仰の精霊ピーである。
 日本で言えば八百万の神ということになるが、もっと凶暴な力を持っており、タイ人や
 ラオス人にとっては、ピーは 大きな脅威になっている。
 人間のおくにある深層心理から根ざしているピーという存在は、論理では解決の
 出来ない恐怖の対象にもなりうるのだ。
 ピーはどこでもいる。草花や木々、山や森の中、家の中にも人間の中にもいる。
 説明のつかない現象、病気、自然現象すべてピーのなせる業である。
 人々に 悪運、不運をもたらすピーもいれば、幸福をもたらすピーもいる。
 幸福をもたらすピーだって、ないがしろにすれば 悪いピーになって、猛威を振るう
 ことにもなるのだ。

 都市から離れ、田舎に行けば行くほど、人々は ピーの存在を強く信じている。
 バンコクを歩く人々も、廟や祠を見れば、ワイをする。
 心のどこかにピーの存在を感じているからだ。
 ないがしろにしないように気をつけている。いつ何時、ピーを怒らせるかはわからない。
 葬儀などの儀式においても、ピーを怒らせないように、死者が 悪いピーになって
 戻ってこないように 細心の配慮が施されている。

 タイのテレビや映画を見ていると、ピーが主人公になったものが 結構ある。
 怖いもの見たさではないが、タイ人はこんなテレビ、映画を好む。
 ピーの怖さを再確認しているようなところもある。

 日本で夕方遅くまで遊んでいると、人買いにさらわれるなどと親は言ったものだが、
 タイの田舎では ピー チャ マー(ピーが来るぞ)と言って、子供たちを脅かす。
 科学万能の時代より、ピーの存在を信じている世界の方が、精神世界は、豊かなのかもしれない。
 精神的にも悪と善のバランスが取れているのかもしれない。

 怖いもののなくなった近代社会では、何でもまかり通ってしまう。
 それこそ大きな悪が 堂々と臆面もなくのし歩いている。
 こんなことをすれば、ピーが来る、罰が当たるという想像力は働かないのである。
 親殺し、子殺し、動機のない殺人など、後をたたない日本だ。
 これもピーの仕業なのだろうか。
 悪いピーが日本中を飛び回っているのだろう。
 なんとも理解できない世の中に世界中がなって行きつつある。


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バンコク ある風景 | 01:48:15 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐7 タイ人たちの墓標
バンコク ある風景‐7 タイ人たちの墓標  1

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バンコク ある風景‐7 タイ人たちの墓標  4

バンコク ある風景‐7 タイ人たちの墓標  5

バンコク ある風景‐7 タイ人たちの墓標  6



 バンラムプーのワット・サケットの中に プーカオ・トーン(Golden Mountain)という
 観光名所がある。周囲5百メートル、高さ77メートルの金色の仏塔だ。
 ラーマ3世の時代から造られ始め、ラーマ5世の時代に完成したと言われている。
 こうした観光名所はどこにでもあるようなものだから、取り立てて言うほどのものでも
 ないが、この仏塔に登れば、見晴らしが良いことは付け加えておこう。

 むしろ私の興味を惹いたのは この仏塔の周りに造られたタイ人たちの墓だった。
 日の当たらない場所に置かれた墓は、あまり気持ちの良いものではなかった。
 後で調べてみると、当時の城壁の外にあったこの寺院に ラーマ1世からの百年間に
 疫病でなくなった6万にも及ぶ人たちを葬ったという。
 ラーマ3世の時代には疫病が流行ったのか3万人の人々が葬られたということだ。
 しかしそれらの人々は墓標を持たない人々だ。
 薄気味悪さのようなものを感じたのは 疫病という不慮の死を迎えた人々の怨念でも
 感じたせいだろうか。
 どんな埋葬のされ方をしたのかと想像すると、少しばかり怖くなる。

 基本的にはタイ人は墓を持たない。火葬の後、1時期骨は保管するが、大きな仏教行事の際、
 川に流すか、山、森林に散骨するのが、中国人を除いて、タイの仏教徒たちの
 埋葬の形であるというが、東北タイや北タイでは、日本の墓と同じではないけれど、
 墓を造るようだ。立派な墓は、貴族や高僧のものだという。
 そうであれば、貧しい農民や庶民だって、本当は墓を持ちたいと願っているのではと
 思う。
 墓と造る必要がないというのではなく、ただ貧しいがゆえに、死者にかける費用に
 事欠き、墓が持てなかったということも考えられる。それが習慣化してしまったのでは、
 ないだろうか。
 身分制度を支えたサクディ・ナー制のアユタヤ時代からのプライ・タートの長い歴史が
 墓を持てない人々を生み出してきたような気もする。
 寺院の中に墓を持とうとすれば、日頃から多額の喜捨も必要だろうし、埋葬のための
 喜捨も並大抵のものではなかったに違いない。今だってそうだろう。

 身分が高く、裕福な人々の墓が、このプーカオ・トーンの周りにあり、その下には
 このプーカオ・トーンを支えるように名もない人々が埋葬されている。
 何か人間の業の深さを見ているようで悲しい気持ちになる。
 忘却は悲しみを和らげる一つの方法かもしれないが、埋葬の形が、身分や地位、
 そして財産の多少で決まるというのも、納得がいかない。

 私のような独り者にとっては、墓など意味のないものであるが、家族があり、
 その気綱を大切にするものにとっては 大きな意味を持つだろう。
 何か死者の墓標が必要になることはないのだろうか。


    ****
 
 非業の死を遂げた人の遺体は、火葬にすることはできない。また形式の如何を問わず、
 葬式それ自体、行うことが許されない。
 またこのほか、死者を火葬にしない事例には、幼児、妊婦などの例があげられる。
 昔は幼い子供の遺体は火葬より埋葬の方が多かった。
 イサーンの慣習では、齢10歳に満たない子供が非業の死を遂げたり、
 またコレラや天然痘などの疫病で一命を落した場合には、遺体の火葬を禁じ、
 即座に埋葬する決まりであった。
 埋葬後、掘り起こし、火葬にすることも禁じられた。もしそんなことをすれば、
 いかなる災厄が身にふりかかるやも知れない。
 曰く「寝ているピィーに余計な手出し」なのである。

 ちょっと外れるが、以前は貧乏人や罪人の遺体は遺棄され、禿鷹のついばむのに任せられた。
 わざわざ遺体を切り刻み、ついばむのを容易にすることもあった。
                                             ****
                             小泉康一 1993「葬儀:3.タイ」より


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バンコク ある風景 | 13:13:45 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐6 パクローン市場の裏側
バンコク ある風景‐6 パクローン市場の裏側 1

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バンコク ある風景‐6 パクローン市場の裏側 5

バンコク ある風景‐6 パクローン市場の裏側 6



 チャオプラヤ川にかかるバンコクとトンブリを結ぶサファン・プット(メモリアル 
 ブリッジ)のすぐ近くに パクローン市場がある。
 その市場の表通りは花市場になっている。
 へそ曲がりな私は、市場の裏通りを歩く。
 そこはバンコクの人々の食卓を潤す野菜市場になっている。
 今のチャックリー王朝が バンコクに王都を定めて以来、バンコクの食を供給していた
 古い市場である。

 うらびれた感じのする市場の裏通りを歩いていると、不思議な思いに駆られる。
 懐かしいという感情が沸き起こってくる。どこかで見た風景だ、そんな気がしてくる。
 滅び行くものには、そんな詩情が漂っている。
 百年前も 同じようにこんな商いをしていたと思われるやりかたで、人々はのんびりと
 商いをしている。
 手押し車を押して、車まで荷を運ぶクーリー、服装は違っていても 仕事のやりかたは
 変わってはいないだろう。
 ただ違うのは 百年前は、クーリーたちは 買い付けに来た商人たちの荷を、
 近くのロッド運河、オン・アン運河で待ち受けている船まで運んだことだろう。

 古ぼけた建物は百年前の世界に紛れ込んだような錯覚を起こさせる。
 バンコクの旧市街や川向こうのトンブリにはこんな世界が混在している。
 古い世界と近代的な世界の狭間の中で人々は生き続けている。
 どちらの世界が 居心地が良いのか、庶民たちは知っている。
 しかし、そんなこととはお構いなしに時代は、世界は動いていく。
 そして、知らぬ間に自分の周りが変わってしまい、居心地が悪くなってしまう。
 
 そうなってしまえば、もう取り返しは出来ないし、時代を戻すことも出来ない。
 自分たちが何を失ってしまったかも、わからない。
 そんなことを思い出すゆとりも失い、
 ひたすら、時代に後れないようについていくだけで精一杯で、
 かつてはあった自分にとっての居心地の良い世界も 忘れられていく。

 バンコクの 忘れられ、そして 滅び行くような場所に身を置いてみると、
 心がうずくのは、遠い昔の記憶や感情が呼び起こされるせいだろう。

 日本ではすっかり失われてしまった世界を、バンコクの古い名残を残す場所で
 再発見してみるのも旅の楽しみかもしれない。
 そんなことを思いながら、バンコクの街を歩いている。


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バンコク ある風景 | 00:40:30 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐5 スリ・クルンホテルと中国茶
バンコク ある風景‐5 スリ・クルンホテルと中国茶  1

バンコク ある風景‐5 スリ・クルンホテルと中国茶  2

バンコク ある風景‐5 スリ・クルンホテルと中国茶  3


 14,5年前、東北タイのコンケンに住んでいた頃、用事でバンコクに出てくると、
 バンコク中央駅(フアランポン駅)のすぐ近くのスリ・クルンホテルに泊まっていた。
 ホテルのすぐ前には 黒い汚水のような水の流れているパドゥン・クルンカセム運河があった。
 夕暮れ時に 橋を渡って フアランポン駅方面の方に向かうと、路上にござを敷いて、
 イサン料理を売っているイサン、東北タイからの女たちがいた。
 やはり、イサンから来た男たちが ござの上に座り込んでメコンウィスキーを傾けながら、
 イサン料理をつまんでいた。
 今のように照明のなかった駅周辺は、いかがわしくも風情はあった。

 当時のスリ・クルンホテルは、1泊550バーツ、タイ人価格は別にあったらしいが、
 外国人には、静かな部屋を優先的にくれていたようだった。
 運河側の部屋に泊まると、トゥクトゥクの音がうるさく、気になって眠れない。
 空いていれば、バスタブ付の部屋にも泊まれた。冷房、テレビ、ホットシャワー、
 冷蔵庫は備え付けていないというのが難点だった。
 中華街のすぐ近くなので夕食は外で食べることが多かったが、1階にあるレストランの
 蟹チャーハンは絶品だったので、ここに泊まると必ず食べた。
 今はどうなっているだろう。

 ホテルのすぐ隣には、マサージパーラーと称する店があり、ガラス越しに 
 番号をつけた女子たちが座り込んでいたのが見えた。いわゆる金魚鉢だ。
 ここは中華街の入り口で、ヤワラート周辺には 冷気茶室と呼ばれる売春宿は隆盛を
 誇っており、ここを目当てにやって来る日本人も多かった。
 中華街の歓楽街が、まだ無法地帯のような姿を残していた時代だ。
 楽宮、ジュライ、台北ホテルもまだ健在で、路上の売春婦を連れ込むホテルも至る所にあり、
 いかがわしい独特の雰囲気を醸していた。

 そんなことを思い出しながら、この辺近辺を歩いてみたら、昔、中国茶を買った店が、
 昔と同じ姿で商いをしていた。お土産に中国茶を買うことはあったが、自分で飲むことは、
 あまりなかった。その頃は、コーヒー党だった。
 年を取ったせいか、今は紅茶党、中国茶は安いのを買って、冷やして水代わりに飲む程度だ。
 20年経っても変わらないものもあるが、中華街もこの頃は、小奇麗になった。
 昔のいかがわしい雰囲気は一層され、外国人旅行者のための観光スポットに成り代わった。
 時代の流れである。
 
 アポリネールの『ミラボー橋』の1節が 頭の中を流れてゆく。

 ― 日が去り、月がゆき
   過ぎたときも 昔の恋も 二度とまた帰ってこない
   ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる
   日も暮れよ 鐘もなれ
   月日は流れ わたしは残る ―

 古きよき時代はいつまでも続かないのだ。


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バンコク ある風景 | 16:14:35 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐4 東北タイからやって来た女の子
バンコク ある風景‐4 東北タイからやって来た女の子  1

バンコク ある風景‐4 東北タイからやって来た女の子  2


 バンラムプー運河沿いには、昔からのタイ人や中国人の住んでいる古い集落がある。
 その集落の中に木造の棟割長屋があり、そこにタイ風の麺の店がある。
 昼飯時が過ぎた店の前に 一人の女の子が所在なさそうに座り込んでいる。
 いかにも東北タイから出稼ぎにやってきたような色が少し黒くて、垢抜けない感じの
 女の子だ。きっとこの店に雇われているのだろう。
 東北タイの田舎からバンコクに出てきて、どんなことを夢見ているのだろう。
 どんな未来を夢見ているのだろう。

 今から20年以上前のことだ。
 スラムのクロント・トイに住んでいる三人の子持ちの50才前の女性と知り合ったことがある。
 近所の家の洗濯とペットボトルを集めることでやっと、生活しているという家庭だった。
 長男は15才、次男は12才、末っ子は9才、一番上の子供は別れた夫の実家に預けていた。
 彼女の田舎は東北タイではなく、バンコクの近くアユタヤ近くの村で、物心ついたときには 
 もう両親はなく、バンコクでお手伝いの仕事をしながら生活していたようだ。
 そんなときに三人の子供の父親に出会うが、十才も年下の男だった。
 彼は三人の子供と彼女を残して、新しい恋人の下に行ってしまった。
 彼女の次男が 中学入学の時期、彼が 中学卒業までの3年間 家族も含めて援助した
 ことがある。
 その彼女がいつも言っていたことだが、「プーイン・スウアイ キン・マイ・ダイ
 (きれいな女は食べていけない)」 それは、容姿が良いことから、化粧ばかりを気に
 して仕事をしない、そんな意味をこめていたのだろう。
 そして、美人でない彼女は そう言って 自分自身を慰めていたところもある。
 どこかに若い女の下に走った夫のことが心の中にあったのかもしれない。
 かなり、気の強い女性だった。
 三年間は約束どおり援助したが、長男のことでいざこざがあって、それ以来会っていない。
 もう70才を超えているはずだ。

 そんな彼女の姿、生き方を、店の前に座り込んでいる女の子を見ながら思い出した。
 タイの田舎では、一番下の女の子が家を継ぎ、両親の面倒を見る。
 男は一人前になると家を出て働きに出る。末っ子でなければ、女の子も同じだ。
 男も女もバンコクでの生活が苦しいから、同棲すれば、部屋代も食費も節約できる、
 そして都会暮らしの寂しさもまぎれる、そんなことから、簡単に同棲を始めてしまう。
 タイの男は、遊び好きだから、長続きしないことも多い。

 幸せな結婚を夢見ていても、現実はなかなか思い通りにいかない。
 ひどい場合は、男と女の諍いから、殺人にまで発展してしまうこともある。
 互いに苦しい生活の中で、欲求不満も溜まっているから、一挙に暴力沙汰になって
 しまうのだ。
 つい先日も嫉妬深い妻に対して、夫が殴る蹴るの暴力を使い、
 妻を殺してしまうという事件があった。

 そんなことを思い浮かべていると、これからのあの女の子の将来が気になってしまう。
 皆 幸福を手に入れたいと思っていても、そうは行かないのが人生だ。
 失敗を繰り返しながら、人間賢くなるかといえば、そうでもなく同じ失敗を
 繰り返しているのも人間だ。
 人間であることは、なんと鬱陶しいことかと思えてしまう。


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バンコク ある風景 | 01:42:42 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐3 自然とともに
バンコク ある風景‐3 自然とともに 1

バンコク ある風景‐3 自然とともに 2

バンコク ある風景‐3 自然とともに 3

バンコク ある風景‐3 自然とともに 4

バンコク ある風景‐3 自然とともに 5

バンコク ある風景‐3 自然とともに 6

バンコク ある風景‐3 自然とともに 7



 ここに3ヶ月、あそこに1ヶ月という生活を25年に渡って生活していると、
 毎日の生活から自然とのかかわりが失われていく。
 自然を求める心は、人間の本性のような気がして、自然とのかかわりが薄れていくと
 心のゆとりも失われているのではと寂しくなることもある。

 バンコクにはチュムチョムと呼ばれる多くの集落がある。集落の中は狭い路地で結ばれ、
 庭を持つ家などほとんどない。
 それでも人々は、緑の樹木、草花を身近に置こうとする。
 狭い路地裏の僅かの隙間に 2階のベランダの上に 鉢植えの草花を並べ、
 心を癒している。

 集落全体に緑の多い集落は、貧しくても人々は心のゆとりを持って
 生活していることがわかるし、集落の中を安心して歩き回ることも出来る。
 長く人々が住みついている古い集落ほどそうした傾向が見られる。

 人々の移動が激しく、借家住まいの人の多い集落になると、緑は少なくなり、
 生活に追われているせいか、人々の表情も険しく、集落全体も雑然としており、
 清掃も充分にされていないことも多い。こういう場所は概して危険地域だ。
 昼間から若い男女が路地に座り込んでいたりして、人々の心も荒れが感じられる。
 人間の心の中の自然は嘘をつかないのである。

 この間、船上生活者の船を見た。船の中が自分の住処であると思えば、やはり草花が
 飾ってある。
 もう荷を運ぶ船としての役目を終え、住むためだけの船である。
 そんな船の甲板の上に鉢植えの草花を飾っているのは、心のゆとりがある証拠だ。
 自分は人間なんだぞと訴えているようで、貧しさに負けていない人の心が見えてくる。

 大邸宅を構え、庭師に庭の手入れをさせている人間より、切実に自然を求めているのは
 こうした庭のない路地裏に住む人たちだろう。
 『ぼろは着てても 心は錦』を地で行く人々だ。
 日本の下町もかつてはこうした人々の生活場所だったのだ。
 王侯・貴族の素晴らしい庭園よりも 狭い路地裏を飾るささやかな鉢植えの庭園に
 私は心を惹かれてしまう。


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バンコク ある風景 | 17:23:55 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐2 林立するマンションの影で
バンコク ある風景‐2 林立するマンションの影で  1

バンコク ある風景‐2 林立するマンションの影で  2

バンコク ある風景‐2 林立するマンションの影で  3

バンコク ある風景‐2 林立するマンションの影で  4


 バンコクのバンラック周辺を歩いていると、完成間近のマンションが打ち捨てられている。
 10年前にこのあたりを歩いていた頃にも見かけた建物だ。
 そのときは、そろそろ完成だなと思いながら、そのマンションを見上げていた。
 そのマンションが、今も完成間近のそのままの姿で、薄汚れている。
 1997年夏に発生したアジアの通貨危機の名残だ。しかし、完成寸前のマンションを
 こんな状態のまま打ち捨てているのも不思議なことである。
 バンラックというチャオプラヤ川の近くの1等地である。

 1997年のタイの通貨危機後、建設途中の建物が建設中止になり、捨て置かれているのを
 よく見かけ たものだ。
 そんな建物も完成した姿を見せている昨今である。
 タイの経済が失速しているといわれながらも、どこでもかしこでも高層マンションの
 建設が見られる。
 10年前には 1平方メートル当たり3万から4万バーツであったマンションが、
 8万バーツから10万バーツで売りに出されている。
 30平方メートルのスタジオタイプのものでも3百万バーツ近く、家族が住むような
 70平方メートル規模のものであれば、7百万バーツ、日本円で2千3百万円近いことになる。
 外国人は別にしても 一体誰が住むのか 気になってしまう。
 どう見ても、投資のためとしか考えられない。
 バーツ高の昨今、外国人の投資は考えられないから、タイ人の投資としてしか考えられない。
 私の住んでいるマンションも半分以上が賃貸しになっており、住んでいるタイ人も、
 セカンドハウスとして利用しており、郊外に家を持っている人たちがほとんどだ。
 チューラロンコン大学が近いことから、息子、娘の教育ために買った、仕事のためにバンコクに
 来ることが多いから買ったというような人が多い。
 いわゆる上層階級の人たちで、チュラーコン大学の教授なども多い。
 今売れば、買った当時の2倍以上の値段になっているから、いい投資だったことになる。
 マンションの下の掲示板を見ると、『マンション売りたし』のチラシが張られている。

 タイでは8割以上の人がマンションを買うことなどできないだろう。
 バンコクを見ても、7,80年も経っている古い家屋に借家住まいしている人も多いし、
 アパートも月2千バーツ程度の家賃の支払いが 精一杯という人たちが大半である。
 それすら出来ない人たちは、より安いスラムへと、それすら出来ない人は、路上生活になる。
 相続税も贈与税のないタイでは、持てる人は永遠に持ち続けていく。
 待たざる人にとっては、相続税も贈与税も無縁の世界だ。

 異常なバーツ高、貧富の差の拡大、原油高による物価の上昇、
 タイのみならずアジアの他の国でも同じ問題を抱えている。
 再び通貨危機のような危機を迎えることに対する不安も増大しているだろう。
 不安定の上に立った安定など崩れるときにはあっという間だ。
 そんなことを感じさせる近頃のアジアの姿である。


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バンコク ある風景 | 22:04:29 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク ある風景‐1 マンションと建設作業員
バンコク ある風景‐1 マンションと建設作業員  1

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バンコク ある風景‐1 マンションと建設作業員  3

バンコク ある風景‐1 マンションと建設作業員  4

バンコク ある風景‐1 マンションと建設作業員  5



 多くの中級アパートが建ち並ぶペチャブリ・ソイ7という名の通りに行ってみた。
 この通りの両側には昔から、イスラム教徒の住む集落がある。
 二百年近く前に当時のパッタニー王国から拉致され、連れてこられたイスラム教徒だ。
 通りの入り口には、モスクがあり、イスラムの街を象徴している。通りには何軒かの
 イスラム料理店もある。
 アパートを探している日本人がいて、以前 案内したことがあり、気になっていた場所だ。
 この通りの終わりは、汽車の線路になっていて、線路沿いにはバラックの家々が
 建ち並んでいる。

 線路の手前の空き地では、アパートの建設が始まっている。この現場の周囲にはすでに
 アパートやマンションが建っている。
 冷房付の1部屋マンションであれば、月六千バーツを超える賃貸し料だ。
 それでもスクンビット当たりに比べれば、安い。

 建設工事現場では、暑い中、建設作業員たちが、仕事に勤しんでいる。
 1日 男が二百バーツ、女はそれ以下だろう。休むことなく働いても一ヶ月 
 六千バーツの収入だ。
 周りのマンションや 今、彼らが建てているマンションの賃貸し料と同じだ。
 建設作業員の大半は東北タイのタイ人やビルマ、カンボジアから違法入国してやって
 きた人たちだ。
 自分たちが汗水たらして働いて、アパートやマンションを建てても、かれらは、
 アパートやマンションの住民には一生なれないだろう。
 バンコクのマンションなどは、バンコクや地方の金持ちのセカンドハウスになっており、
 投資の対象でもある。

 タイの総人口はここ四十年で2倍以上になっている。東北タイはそれ以上だ。
 塩分を含んだやせた土地、旱魃などで、食べることも出来ず、バンコクに出稼ぎに
 来ざるを得ない人たちだ。
 ふるさとに帰っても、彼らを養うだけの土地は残っていない。
 しかし、バンコクにやってきても食べるだけの生活が眼一杯で、それ以上の豊かな
 生活が望めるとは思えない。
 暑いタイの気候の中で こんな肉体労働が出来るのは、東北タイの農民だけだ。
 遠い昔から、天候、やせた土地の中で生き続けてきた彼らの我慢強さだけが、
 こうした仕事に就くことを可能にする。
 豊かな土地に恵まれている中部タイのタイ人には、こうした仕事は出来ない。

 タイの経済を下から支える東北タイ農民、彼らの言葉が、タイ語とは違うイサン語
 (ラオス語)であることから、タイ人であることを認められず、1932年の立憲革命以後、
 タイ・イサンとして、タイ人としての市民権を得るようになるのである。
 バンコクに出稼ぎにやってきても、コン・ラーオ(ラオス人)と言われ、長い間
 蔑視もされてきたのである。
 タイの人口の三分の一が東北タイ イサンの人々だ。
 4,50年前の東北タイの人々の生活を知りたければ、『東北タイの子供』(ルーク・イサン)を
 読めばいい。 
 当時の東北タイ農民の生活が生き生きと綴られている。
 ラーマ5世の時代にも生活の苦しさから反乱を起こしているし、ベトナム戦争前後には
 東北タイの独立を求める反体制運動が盛んになった時期もある。

 しかし、教育水準の低さから、なかなか中央の中枢の中に入っていけず、彼らの声は、
 中央政府には無視されがちだ。
 地方には シャオ・ポーといわれるボス、地方実業家がおり、選挙の票の支配も
 彼らによって握られており、票の売買という悪習がはびこっていて、東北タイ農民の
 本当の要求、声が政治に生かされていかないことにも大きな問題がある。
 自分たちで自分たちの首を絞めているところもある。
 もう少し、頑張ってくれよと言いたい気持ちもある。


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バンコク ある風景 | 21:32:38 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコクを歩く-14 四つの運河に囲まれて住む人々‐5
バンコクを歩く-14 四つの運河に囲まれて住む人々‐5  1

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バンコクを歩く-14 四つの運河に囲まれて住む人々‐5  5

バンコクを歩く-14 四つの運河に囲まれて住む人々‐5  6



 ロッド運河とオン・アン運河をつなぐもう一本の運河、それはタイ人たちの居住区と
 中華街 中国人たちの居住区を分けている。

 その運河のオン・アン運河に近いあたりが、昔の刑務所であった場所だ。
 今はその跡地が公園になり、その公園の前には、CORRECTIONS MUSEUMがある。
 日本語に訳せば、矯正博物館ということになるのだろうか。

 今から、40年近く前に書かれた1通の手紙がある。
 山に逃げ込んだある反政府活動家からタイの新聞社に宛てた手紙である。

 「私が小さな子供であった頃、30年も前のことですが、われわれの世代の人達は、 
 ナーイ・マー(タイで、「ナーイが来る」の意味)と誰かが脅かすと、
 最も安全な場所へ走って逃げ、隠れたものです。
 もし、泣いているような場合には、とたんに泣き止みましたし、幼い子供の場合は
 母親のふところに逃げました。
 ナーイという言葉は、役所の人や警官を含んだ、官服を着た人の総称です。
 なぜ、われわれは、このナーイをこれほどまでに恐れていたのでしょうか。
 それは、たまたま、何かあったからではなく、何世代も以前から、 
 ナーイといわれる人間は、神霊力、法力を身につけているとされていたからです。
 私が青年になり、 ナーイに近づく勇気を持つまでに、 ナーイに馴れた時、
 われわれと違った服装、話し方、態度、生活をしている、
 われわれと違うもう一種類の人間であることを知りました。
 特に重要なことは、あの人達は人を拷問したり、撃ち殺したりするような全てのことができる権力を
 持っているということです。
 あの人達が、何が間違いで、何が正しいかというと、
 われわれはそれに従わなければなりませんでした。
 あの人達が何かを欲しがると、私の兄弟、縁者や村長は、なんでも差し上げねばなりませんでした。
 また、あの人達が何を食べたがっても、それを食べさせなければなりませんでした。
 話すにも、ていねいな言葉で話さなければならず、もし、そうしないと叱られました。
 あの人達は、いつでもわれわれを殺そうと思えば殺せる人達のように見えました。
 私は、子供の時から、 ナーイと呼ばれる人達は、私と同じ人間ではなく、
 象や水牛や獰猛な犬と同じように恐ろしい動物であって、常にわれわれが注意を払い、
 ご機嫌をとらなければならない人達であると見ておりました。」

 この手紙を書いた人の時代と、今の時代はどのくらいの違いがあるのだろうか。
 庶民や農民はどのくらい警察に信頼を置いているのだろうか。
 いざとなれば、助けてくれる組織として警察に期待しているのだろうか。
 出来れば、かかわりを持ちたくないというのが本音だろう。

 タイでは、警察の不祥事のニュースの報道が、毎日のようにある。
 警察内部の中に強盗集団があり、金持ちの家に押し込み、その家の人間を拉致し、
 身代金を要求する、あるいは、ぬれぎぬを押し付け、冤罪にしてしまう。
 この前も、警察の中のあるグループが逮捕され、そのグループによって冤罪を
 押し付けられた人たちのケースが50件以上あった。
 警察官が、ピストルを簡単に発砲するケースも増えている。
 犠牲者の中には外国人もいる。
 お金で片をつけることの出来る支配層、出来ない庶民、
 司法の世界も公正な社会ではない。
 昔は今以上にひどかったと想像できる。

 ベトナム戦争前後には、社会主義、共産主義の脅威にさらされた東南アジアの支配層たち、
 タイも アメリカの援助を受けて、徹底的な反共運動を行った国だ。
 政府に盾つくものは、共産主義者の名の下に、逮捕していた時代だ。

 この刑務者の跡地を見ながら、どれだけの冤罪があったのか、気になってしまう。


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バンコクを歩く | 03:30:03 | Trackback(0) | Comments(0)
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