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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-5
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-5  1

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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-5  7


 インド マドラスからのタミル人の末裔たちの住む集落を抜けて、
 チャオプラヤ川の岸辺に向かうと、消防署があり、
 その横の広場には 朽ちかけた大きな建物があった。
 ラーマ5世の時代の1890年にイタリア人の設計の下に建てられた
 カスタムハウス 税関の建物である。
 1850年頃から、タイはイギリス、フランスなどの列強の脅威にさらされていた。
 ラーマ4世、ラーマ5世の時代である。
 映画『王様とわたし』でも象徴されるように、
 ラーマ4世の時代からタイの西洋化への道が始まるのである。
 ラーマ4世は 王族・貴族を積極的にヨーロッパに留学させ、
 王宮内にもヨーロッパ人の家庭教師を雇い入れ、王子の教育を任せる。
 如何にしてタイをイギリス、フランスの植民地化から護り抜くか、
 緊急の課題に迫られていたのである。
 1855年イギリスとのボーリング条約、1865年フランスとの友好通商条約
 イギリスはマレーシア側から、フランスはラオス、カンボジア側から迫ってきており
 不平等条約にもかかわらず、嫌が応にも条約を結ばざるを得なかった。
 ラーマ5世の時代には、フランスにはラオス、イギリスにはビルマ国境に近い領土、
 南タイの領土の一部を割譲することになる。
 日本もヨーロッパに国々と同様に1896年にタイと友好通商条約を結んでいる。

 タイに列強が怒涛のようにやって来るそんな時代に建てられたカスタムハウスである。
 外国製品の課税を認められない時代に、
 このカスタムハウスはどういう働きをしたのであろうか。
 チャオプラヤ川を 外洋からやって来る大型船、タイからの積荷を運ぶ大型船、
 そしてその隙間を縫うように進む中国人華僑の小型船、そんな光景が眼に浮かぶ。
 イギリス、フランス、ドイツ、アメリカが入り込んで来て、
 タイに無課税で工業製品、繊維製品を売りつけていく。
 タイの側が輸出出来るものはといえば、米だけだった。
 19世紀後半の米の海外需要の拡大から、米は輸出用の換金作物になっていった。

 ここで登場してくるのが、華僑である。
 商売に長けている中国人は、米の流通経路である タイ農民からの籾仲買、籾輸出業、
 精米を独占するようになる。タイ人は米作のみを行ったのである。
 農村の隅々まで入り込み、籾の買い付けのみならず、繊維製品、日用品などの小売などを通じて、
 農村に貨幣経済を持ち込むことになった。
 そして、籾を担保にお金を貸し付けることも始めたのである。
 これを基礎に製材、小売業、海運業、卸売業、貿易商として富を蓄え、
 タイ経済の中枢になっていくのだ。

 ここで悲惨な状況に追い込まれていくのが農民たちである。
 貨幣経済に組み込まれたことで、借金を重ね、奴隷に身を落とすもの、
 借金のかたに子供を奴隷として身売りする農民も出てくるようになる。

 そんなタイのことを知り尽くしているこのカスタムハウスである。
 外国への門戸開放で誰が利を得、誰が苦しみを増加させたかも知っているはずだ。
 今120年を得たこの建物の中には、バンコク市の下級職員が住んでいる。
 上級官吏はこんなところには住まない。
 何の改良もされていない120年前の建物が住みよいはずはない。

 観光名所の看板が出ていてもこれではしょうがない。
 近くにありフランス大使館もカソリック教会も、そのメンテナンスは素晴らしいのに、
 このカスタムハウスのなおざりな扱いには、驚いてしまう。
 19世紀のイギリスやフランスなどとの不平等条約の屈辱が
 このカスタムハウスに悪夢のように象徴されているとでもいうのだろうか。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 17:10:02 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-4
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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-4  6


 リバーシティ、シェラトンホテルの前を歩き始める。
 この辺にたむろしているタクシーは観光客相手で性質が悪い。
 しきりに声を掛けてくるが、知らん顔をして通り過ぎる。
 チャオプラヤ川沿いを歩きたいのだが、ホテルやビルが川沿いに建ち並び、
 歩いていくことは出来ない。一旦チャロンクルン道路に出るより仕方がない。
 この道はバンラック地区の主要道路で中華街へとつながっている。

 中央郵便局の手前の路地には、インド系の人たちが集まるレストランがある。
 そこへ行き、話しかけると、
 インド系のミャンマーからやって来たイスラム教徒だと言う。
 どうも大半は密入国してきたらしく、カメラを向けると嫌がって逃げてしまう。
 その中にネパール人もいた。ネパール語で話しかけると、びっくりしていた。
 彼の父親の代に バンコクにやってきて、彼はバンコクで生まれたと言う。
 ビルマにも多くのネパール人が住んでいる。
 このレストランがインド系ビルマ人たちの情報交換の場所なのだろう。
 中華街のパフラットのインド人街のインド人たちは、
 直接インドからやってきているインド人たちだ。
 それぞれの縄張りがあるのだろう。
 正式なルートでやって来ている人は頼むと写真を撮らせてくれる。
 彼らはビルマ(ミャンマー)がイギリス植民地時代に、インドからビルマに移住した
 イスラム教徒たちである。
 マンダレーあたりにはかなりのイスラム教徒がいるという話だ。
 タイ・ビルマ国境のターク県のメーソードあたりにもかなりのビルマから移民の
 イスラム教徒がいるらしい。
 国籍、無国籍の者を含めると、タイには数十万人のビルマ人がいるとされている。
 インドの出身地を聞くと、グジャラートのスラット、カルカッタ、バングラディッシュの人が多く、
 ほとんどの人が、ウルドゥ語を話すことが出来るようだ。

 ミャンマーのイスラム教徒としばらく話をして、中央郵便局の前を通り過ぎ、
 川沿いを目指して路地に入っていくと、イスラム教徒の居住区に入ってしまった。
 そこにはモスクもあった。そのモスクの名前はハルーン・モスクだった。

 ハルーン・モスクは バンコク(トンブリ地区を除く)では最も古く
 1820年に最初に建てられている。
 このモスク周辺に住んでいるイスラム教徒は、インドのマドラスあたりから
 やって来たタミル人の末裔のようだ。

 1857年にイギリスがタイと結んだボーリング条約(英タイ友好通商条約)は
 イギリス人の治外法権を認めた不平等条約であった。
 イギリス本国及びイギリス領の国の人々は『保護民』をして、自由に商売が出来、
 土地も買うことが出来たのである。
 そのため、イギリス領であったインド、ビルマから多くの移民が『保護民』として
 タイに入り込んできたのである。
 その時代に移民、あるいは商人としてインドのマドラスからも
 多くのタミル人のイスラム教徒が やってきて、宝石の商いを生業とした。
 この近辺には宝石店が多く、タミル人が中心に商いをしており、
 中華街、スクムビットにも進出しているようだ。
 ラオスのビエンチャンでも宝石店を経営しているタミル人のイスラム教徒に会った。

 このハルーン・モスクの前に置かれているベンチに座っていると、
 様々の国のイスラム教徒がやって来る。
 このモスクの周りに住んでいるマドラスのタミル人の子孫たち、
 彼らはタイ人との通婚で、顔つきも柔らかくなっている。
 彼らとはタイ語で話す。
 その向こうに座っているのはスリランカから来ているスリランカのイスラム教徒、
 彼らとは英語で、ビルマからやってきているインドのグジャラートのスラット出身の
 イスラム教徒とはウルドゥ語で話をする。
 出来るだけ彼らの言葉で話せば、警戒心も薄れ、友好的になってくる。
 皆、私がイスラム教徒かと思うらしいが、そうでないというと残念そうな顔をする。
 皆午後4時の礼拝のためにやって来ているのだ。

 今日、このハルーン・モスクで タイで亡くなったナイジェリア人の埋葬があった。
 友を埋葬するために10人以上のナイジェリア人のイスラム教徒がやって来て、
 墓地の中で亡くなった友のために土を盛り上げていた。
 イスラムのモスクでは、同じイスラム教徒であれば、墓地に埋葬することを許している。
 イスラムのモスクは世界の各地からやって来たイスラム教徒たちの情報交換の場所で
 あり、助け合いの場所でもある。祈りの場であり、憩いの場でもある。
 こんなところから、イスラム教徒同士の強いネットワークが生まれてくることもわかる。
 仏教徒同士ならどうだろう。キリスト教徒同士ならどうだろう。
 アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人ということで差別的な対応は
 ないだろうか。
 こんな風に考えてみると、イスラム教徒同士の気綱の強さ、平等性は凄いと思う。
 インターナショナルという意味では、
 イスラム教徒が一番インターナショナルなのかも知れないと思えてくる。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 01:02:49 | Trackback(0) | Comments(0)