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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
身体で確かめ、伝えていきます。

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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-6
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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-6  7


 チャオプラヤ川の下流に向かって足を進めて行くと、
 1880年頃の列強の国々からアジアに夢を求めてやって来た外国人たちの
 宿泊先1876年創業のかの有名なオリエンタルホテルがある。
 その頃は、このあたりを中心に 治外法権を利用し、無法地帯のような外国人租界を
 作り上げていたのだろう。
 オリエンタルホテルの横には、フランス系の宗教関係の建物が建ち並んでいる。
 その中心にはアサムプション・カテドラルがある。
 ラーマ2世の時代 1820年フランスのパスカル神父とフランス人の建築家によって 
 最初の聖堂が建てられたが、1908年に再建されたローマンカトリックの大聖堂である。
 
 フランスが初めてタイに足を踏み入れたのは、1662年のことである。
 外国との貿易を積極的に推進していたアユタヤ王朝のナーラーイ王の時代だ。
 この時代には 古くからのアユタヤとの貿易の中心的な役割を果たしていた
 ポルトガル勢力が没落し、新興勢力のオランダ、イギリス、フランスが
 三つ巴の利権争いを演じている時代でもあった。
 その中で台頭してきたのがフランスである。ナーラーイ王の信頼を得て、
 アユタヤでのフランス人の有力な外交家フォールコンを通じて、
 ナーラーイ王はフランスとの関係を深めていく。
 フランスのルイ14世の目的はナーラーイ王のキリスト教への改宗であったが、
 仏教の擁護者である役割を持つ王には 到底応じられることではなかった。
 しかし、1688年にナーラーイ王が亡くなるまでは、良好な関係は続いたのである。
 ところが、ナーラーイ王がなくなると、王位継承の争いが始まり、
 外国人勢力に反感を持っていた中国人、仏教徒の後ろ盾を得たペートラーチャーは
 ナーラーイ王の息子、フォールコン、宣教師などを殺し、フランス勢力や
 親フランス勢力を一掃してしまったのである。
 王となったペートラーチャーは、アユタヤから白人を追い出し、
 アユタヤを鎖国国家としてしまうのである。

 その仕返しをするように ラーマ4世の時代の1865年にフランスがタイと結んだ
 友好通商条約は、フランス商品の課税禁止、治外法権を許す不平等条約であった。
 これをもって180年近く途絶えていたフランスとの関係が再開されたのである。
 アユタヤでの恨みをバンコクで晴らすように バンコクの地で
 治外法権に護られた『フランス保護民』を 賄賂を使いどんどん増やしていった。
 1907年の外国人と外国領事館の『保護民』は、総計24,665人、
 そのうち欧米人は1,600人で、多くが近隣諸国のアジア系移民であった。
 中でもフランス人と『フランス保護民』は16,455人と突出していた。
 このような方法でタイでの影響力を強め、
 治安面でタイを混乱させようとしていた意図がうかがわれるのである。

 そんなこととはお構いなしに今のアサムプション大聖堂を中心にした界隈は、
 そこだけ見れば、ヨーロッパのどこかの通りのようである。
 その優美さにおいて バンコクとは到底思えないような雰囲気もある。
 ベトナム、カンボジア、ラオスを支配下に治め、
 次にはタイをねらっていたフランス人勢力の傲慢さがこの場所には感じられる。
 20世紀前後のこのバンコクはどういう場所だったのだろう。
 中華街に近いこの地域、中華街の中国移民の不良たちと
 『保護民』の身分を利用した不良たちの壮絶な縄張り争いもあったことだろう。
 腐敗寸前の果実の芳香のような外国人租界 
 一度は 誰でも身をおいてみたいと思う奢りと虚飾に満ちた時代だったのだ。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 21:32:05 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-5
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 インド マドラスからのタミル人の末裔たちの住む集落を抜けて、
 チャオプラヤ川の岸辺に向かうと、消防署があり、
 その横の広場には 朽ちかけた大きな建物があった。
 ラーマ5世の時代の1890年にイタリア人の設計の下に建てられた
 カスタムハウス 税関の建物である。
 1850年頃から、タイはイギリス、フランスなどの列強の脅威にさらされていた。
 ラーマ4世、ラーマ5世の時代である。
 映画『王様とわたし』でも象徴されるように、
 ラーマ4世の時代からタイの西洋化への道が始まるのである。
 ラーマ4世は 王族・貴族を積極的にヨーロッパに留学させ、
 王宮内にもヨーロッパ人の家庭教師を雇い入れ、王子の教育を任せる。
 如何にしてタイをイギリス、フランスの植民地化から護り抜くか、
 緊急の課題に迫られていたのである。
 1855年イギリスとのボーリング条約、1865年フランスとの友好通商条約
 イギリスはマレーシア側から、フランスはラオス、カンボジア側から迫ってきており
 不平等条約にもかかわらず、嫌が応にも条約を結ばざるを得なかった。
 ラーマ5世の時代には、フランスにはラオス、イギリスにはビルマ国境に近い領土、
 南タイの領土の一部を割譲することになる。
 日本もヨーロッパに国々と同様に1896年にタイと友好通商条約を結んでいる。

 タイに列強が怒涛のようにやって来るそんな時代に建てられたカスタムハウスである。
 外国製品の課税を認められない時代に、
 このカスタムハウスはどういう働きをしたのであろうか。
 チャオプラヤ川を 外洋からやって来る大型船、タイからの積荷を運ぶ大型船、
 そしてその隙間を縫うように進む中国人華僑の小型船、そんな光景が眼に浮かぶ。
 イギリス、フランス、ドイツ、アメリカが入り込んで来て、
 タイに無課税で工業製品、繊維製品を売りつけていく。
 タイの側が輸出出来るものはといえば、米だけだった。
 19世紀後半の米の海外需要の拡大から、米は輸出用の換金作物になっていった。

 ここで登場してくるのが、華僑である。
 商売に長けている中国人は、米の流通経路である タイ農民からの籾仲買、籾輸出業、
 精米を独占するようになる。タイ人は米作のみを行ったのである。
 農村の隅々まで入り込み、籾の買い付けのみならず、繊維製品、日用品などの小売などを通じて、
 農村に貨幣経済を持ち込むことになった。
 そして、籾を担保にお金を貸し付けることも始めたのである。
 これを基礎に製材、小売業、海運業、卸売業、貿易商として富を蓄え、
 タイ経済の中枢になっていくのだ。

 ここで悲惨な状況に追い込まれていくのが農民たちである。
 貨幣経済に組み込まれたことで、借金を重ね、奴隷に身を落とすもの、
 借金のかたに子供を奴隷として身売りする農民も出てくるようになる。

 そんなタイのことを知り尽くしているこのカスタムハウスである。
 外国への門戸開放で誰が利を得、誰が苦しみを増加させたかも知っているはずだ。
 今120年を得たこの建物の中には、バンコク市の下級職員が住んでいる。
 上級官吏はこんなところには住まない。
 何の改良もされていない120年前の建物が住みよいはずはない。

 観光名所の看板が出ていてもこれではしょうがない。
 近くにありフランス大使館もカソリック教会も、そのメンテナンスは素晴らしいのに、
 このカスタムハウスのなおざりな扱いには、驚いてしまう。
 19世紀のイギリスやフランスなどとの不平等条約の屈辱が
 このカスタムハウスに悪夢のように象徴されているとでもいうのだろうか。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 17:10:02 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-4
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 リバーシティ、シェラトンホテルの前を歩き始める。
 この辺にたむろしているタクシーは観光客相手で性質が悪い。
 しきりに声を掛けてくるが、知らん顔をして通り過ぎる。
 チャオプラヤ川沿いを歩きたいのだが、ホテルやビルが川沿いに建ち並び、
 歩いていくことは出来ない。一旦チャロンクルン道路に出るより仕方がない。
 この道はバンラック地区の主要道路で中華街へとつながっている。

 中央郵便局の手前の路地には、インド系の人たちが集まるレストランがある。
 そこへ行き、話しかけると、
 インド系のミャンマーからやって来たイスラム教徒だと言う。
 どうも大半は密入国してきたらしく、カメラを向けると嫌がって逃げてしまう。
 その中にネパール人もいた。ネパール語で話しかけると、びっくりしていた。
 彼の父親の代に バンコクにやってきて、彼はバンコクで生まれたと言う。
 ビルマにも多くのネパール人が住んでいる。
 このレストランがインド系ビルマ人たちの情報交換の場所なのだろう。
 中華街のパフラットのインド人街のインド人たちは、
 直接インドからやってきているインド人たちだ。
 それぞれの縄張りがあるのだろう。
 正式なルートでやって来ている人は頼むと写真を撮らせてくれる。
 彼らはビルマ(ミャンマー)がイギリス植民地時代に、インドからビルマに移住した
 イスラム教徒たちである。
 マンダレーあたりにはかなりのイスラム教徒がいるという話だ。
 タイ・ビルマ国境のターク県のメーソードあたりにもかなりのビルマから移民の
 イスラム教徒がいるらしい。
 国籍、無国籍の者を含めると、タイには数十万人のビルマ人がいるとされている。
 インドの出身地を聞くと、グジャラートのスラット、カルカッタ、バングラディッシュの人が多く、
 ほとんどの人が、ウルドゥ語を話すことが出来るようだ。

 ミャンマーのイスラム教徒としばらく話をして、中央郵便局の前を通り過ぎ、
 川沿いを目指して路地に入っていくと、イスラム教徒の居住区に入ってしまった。
 そこにはモスクもあった。そのモスクの名前はハルーン・モスクだった。

 ハルーン・モスクは バンコク(トンブリ地区を除く)では最も古く
 1820年に最初に建てられている。
 このモスク周辺に住んでいるイスラム教徒は、インドのマドラスあたりから
 やって来たタミル人の末裔のようだ。

 1857年にイギリスがタイと結んだボーリング条約(英タイ友好通商条約)は
 イギリス人の治外法権を認めた不平等条約であった。
 イギリス本国及びイギリス領の国の人々は『保護民』をして、自由に商売が出来、
 土地も買うことが出来たのである。
 そのため、イギリス領であったインド、ビルマから多くの移民が『保護民』として
 タイに入り込んできたのである。
 その時代に移民、あるいは商人としてインドのマドラスからも
 多くのタミル人のイスラム教徒が やってきて、宝石の商いを生業とした。
 この近辺には宝石店が多く、タミル人が中心に商いをしており、
 中華街、スクムビットにも進出しているようだ。
 ラオスのビエンチャンでも宝石店を経営しているタミル人のイスラム教徒に会った。

 このハルーン・モスクの前に置かれているベンチに座っていると、
 様々の国のイスラム教徒がやって来る。
 このモスクの周りに住んでいるマドラスのタミル人の子孫たち、
 彼らはタイ人との通婚で、顔つきも柔らかくなっている。
 彼らとはタイ語で話す。
 その向こうに座っているのはスリランカから来ているスリランカのイスラム教徒、
 彼らとは英語で、ビルマからやってきているインドのグジャラートのスラット出身の
 イスラム教徒とはウルドゥ語で話をする。
 出来るだけ彼らの言葉で話せば、警戒心も薄れ、友好的になってくる。
 皆、私がイスラム教徒かと思うらしいが、そうでないというと残念そうな顔をする。
 皆午後4時の礼拝のためにやって来ているのだ。

 今日、このハルーン・モスクで タイで亡くなったナイジェリア人の埋葬があった。
 友を埋葬するために10人以上のナイジェリア人のイスラム教徒がやって来て、
 墓地の中で亡くなった友のために土を盛り上げていた。
 イスラムのモスクでは、同じイスラム教徒であれば、墓地に埋葬することを許している。
 イスラムのモスクは世界の各地からやって来たイスラム教徒たちの情報交換の場所で
 あり、助け合いの場所でもある。祈りの場であり、憩いの場でもある。
 こんなところから、イスラム教徒同士の強いネットワークが生まれてくることもわかる。
 仏教徒同士ならどうだろう。キリスト教徒同士ならどうだろう。
 アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人ということで差別的な対応は
 ないだろうか。
 こんな風に考えてみると、イスラム教徒同士の気綱の強さ、平等性は凄いと思う。
 インターナショナルという意味では、
 イスラム教徒が一番インターナショナルなのかも知れないと思えてくる。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 01:02:49 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街からバンラックへ-3
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 今 私は、チャオプラヤ川岸辺近くのリバーシティというアンティークショッピング・プラザの前に
 立っている。
 運河の河口はここになくてはならないのに、運河の河口は見当たらない。
 河口は埋め立てられ、ここにリバーシティの建物と隣のロイヤル・オチッド・シェラトンホテルが
 建てられてしまったのだ。
 なんということだ。全く残念なことである。しかし、ないものはどうしようもない。

 辺りを見回すと リバーシティのすぐ横に 空を突き刺すように
 一本の尖塔が聳え立っている。
 どうもキリスト教の教会らしい。
 教会の敷地内に入っていくと、子供たちが広場でフットサルの練習をしている。
 広場の正面に教会の聖堂が、堂々とした威厳を持って建っている。
 聖堂の内部には多くの外国人が出入りしている。
 今日は結婚式があるようだ。中にいた外国人に国を聞くと、
 イギリスのカソリック教徒であった。きっとアイルランド系なのだろう。
 聖堂の内部にいると ヨーロッパ人ばかりで、ここがバンコクであることを
 忘れてしまいそうである。

 タイに初めてやってきたヨーロッパ人はポルトガル人だといわれている。
 1511年マラッカを征服し、そして1516年にアユタヤにやって来て、
 銃と軍需品を供給することを条件にアユタヤ王朝と友好条約を結び、
 アユタヤに住むことを許される。
 ビルマとの戦争に明け暮れていたアユタヤ王朝にとっては、好都合だった。
 1567年にはアユタヤの地に初めてカソリック教会を建てた。
 ポルトガル商人とともに、ポルトガル人の傭兵はビルマとの戦いに雇われ、
 アユタヤ崩壊後も、トンブリ王朝においても、タークシン王を助け、
 タークシン王から土地をもらい、1770年トンブリの地に初めて、
 クディ・チンと呼ばれるカソリック教会を建てた。
 それが、今日のサンタクーロズ教会である。
 しかし、ポルトガル人聖職者に代わって、
 サンタクルーズ教会に入ってきたフランス人聖職者との意見の違いから、
 その教会から分かれ、ラーマ1世の時代に バンコクの現在の土地を譲り受け、
 ポルトガル人たちが1786年バンコク側に建てたカソリック教会が、
 このホーリーロザリオ教会である。
 現在の教会の建物は、1891年から1898年にかけて、新しく立て直されたものだ。

 私は取り立てて宗教を信じる人間ではないが、
 内部は美しく品位の感じられるものであり、宗教的な雰囲気にあふれている。
 もし、何か教会音楽がパイプオルガンで演奏でもされていたら感動しただろう。
 バンコクのあのきんきら金の寺に食傷した眼には、
 この教会の内部は 内面的な深い信仰の結晶のようにも思われ、
 心が洗われたようにも感じられた。
 そこには伝統工芸とは 別物のヨーロッパの伝統芸術があるような気がした。
 それにしても、ヘンデル、バッハ、テレマン、クープランの音楽でも
 鳴り響いていれば、この教会の椅子に座り込んで、
 神の声に耳を傾けようとしたかもしれない。
 このバンコクの地では考えられないくらいに美しいカソリック教会だった。
 やはり、カソリックの美意識は素晴らしい。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 00:36:44 | Trackback(0) | Comments(0)
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 ラーマ5世が創設したフアランポン駅の横を通り過ぎて、ラーマ4世道路を渡り、
 バンラック方面と向かっていく。
 このラーマ4世道路を渡ってすぐの運河沿いは、昔は怖い場所だった。
 昼間でも中華街側の運河沿いには、仕事にあぶれた人間や娼婦がたむろしていた。
 その場所もきれいになって、ベンチが置かれていて、
 中華街を走る路面電車を模した小型バスなども駐車している。
 しかし、それでもどこかいかがわしい雰囲気がある。
 ベンチに座り込んでいるのは娼婦らしく、
 男が娼婦に向かってなにやら交渉している姿も見られる。
 夜には今でも旅行者は近寄ってはならない怖い場所だ。
 駅の近くのこんなところは、夜には仕事にあぶれ、お金のない連中がやってくる。

 運河を眼にしながら、運河の河口まで歩きたいと思うと、途中で道が切れていて、
 運河の両側を行ったり来たりでなかなか大変だ。
 運河沿いの道の主要道路の方に移り、運河の向こうに眼を遣ると
 20年以上前にもあった木造の家屋が、
 そのときと同じように朽ちかけた佇まいで 今なお健在だ。
 家というものは、人が住んでいる限り、どうにか維持できることがよくわかる。
 よくもあれから、20年以上も変わらず、
 この場所に存在していることに驚きを 覚えてしまう。
 フアランポン駅から僅か徒歩5分の場所である。

 昔は良くこのあたりの道を歩いた。
 この先に中央郵便局があり、その横には電話局もあった。
 局留めの手紙の受け取りや日本への電話のために足繁くやってきたものだ。
 その頃の自分のこと、自分の気持ちが鮮明に思い出されてきて、
 やりきれない思いになる。
 全くあっという間の20数年だった。
 そんなことを思い起こさせるようなこの辺りの風景だ。
 変わるもの、変わらないもの その分岐点はどこにあるのだろう。
 変えたくても変わらないもの、変えたくなくても変わってしまうもの、
 時代の流れ、時間の流れは不思議なものだ。

 歩き続けていくと、一本の橋までやってきた。
 運河の右にも左のも 運河を見渡すことの出来る道がなくなってしまった。
 運河ぎりぎりまで家が建てられ、運河沿いの道はない。
 運河の家並みの内側の路地を歩いていけば、再び運河にめぐり合い、
 チャオプラヤ川とこの運河が交わる河口に行き着くだろうと思って、
 歩き続けたが、その探していた河口を見つけることが出来ない。
 
 運河の流れはどこに消えてしまったのだ。
 チャオプラヤ川の岸辺にやってきてもパドゥン・クルンカセーム運河の河口は
 見当たらない。
 地図の上には書かれていてもその場所を見ることは出来なかった。
 一体どういうことなのだ。道を間違えてしまったのだろうか。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 12:09:41 | Trackback(0) | Comments(0)
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 フアランポン駅のすぐ横に流れる1本の運河がある。
 旧王宮を中心として半円状に囲む3番目の運河パドゥン・クルンカセーム運河だ。
 この運河はラーマ4世の時代の1851年に造られた。
 この時代までにパッド運河、そしてラーマ1世によって造られたバンラムプー運河、
 そしてこのパドゥン・クルンカセーム運河の三つの運河が王宮を護る外濠となった。
 このパドォン・クルンカセーム運河によって囲まれた地域が現在の中華街の境界線に
 なっている。
 ラーマ4世の時代までにここまで中華街を膨らんできたことを示している。
 それだけでなく、バンコクという都市がここまで拡がってきたと考えてよいかも
 しれない。

 ラーマ4世の時代に入り、列強の国々が入り込み、タイは不平等な友好通商条約 
 ボーリング条約をイギリスと1855年、フランスと1867年に結ぶことになる。
 それによって治外法権を認め、関税自主権を放棄させられて自由貿易を
 認めさせられることになる。
 それら外国との貿易が始まり、その中心的な場所が、
 あの有名なサマーセット・モームの滞在したオリエンタルホテルのある
 バンラックなのだ。

 その名残を確かめてみたくなり、パドゥン・クルンカセーム運河沿いに 
 フアランポン駅近くからバンラックに向けて、歩いてみることにした。

 運河の水を眺めると以前に比べると、きれいになってきているがまだ充分とはいえない。
 しかし、運河沿いは随分整備されてきている。
 20年前には見かけなかった見栄えのよいいくつかの橋が、
 フアランポン駅に向かって架かっている。
 昔から柄のいい通りではなかったが、今でも薄汚れたこじきが路上で寝ていたり、
 柄の悪い人間も何人かふらふらしているのは、昔と同じだ。
 それでも数は減っているようだ。
 そんな連中を横目に見ながら、歩いていると、
 運河に接するように建っている事務所のような建物に出会った。
 なんとなく気になるので、事務所の中を覗いてみると、3人の人影がある。
 一人は、タイの公務員が身につける制服を着ている。
 一体何をする事務所かと訊いてみると、このパドゥン・クルンカセーム運河のゴミを
 取り除く仕事をしている政府の事務所だと云う。
 来年にはこのフアランポン駅から、
 バンラムプー運河方面に定期船が運航される予定だと云っている。
 もし事実であれば、楽しみである。
 運行がされれば、バンコク市民の運河に対する関心も高まり、
 運河の水ももっときれいになるかもしれない。
 そんなことを思いながら、この事務所をあとにすると、
 一艘のゴミ収集船が、エンジンの音を響かせながら、通り過ぎていった。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 21:52:07 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 中華街 Cafe 園楽安(On Lok Yun )
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 中華街の中で旅行者の話題に上るCafe 園楽安に行ってみることにした。
 マーブンコン(MBKセンター)のすぐ近くにある国立競技場前のバス停から
 48番のバスに乗り、中華街を目指した。
 Cafe 園楽安(On Lok Yun)の場所を頭の中に なんとなく入れておいたのだが、
 バスを降りて、探してみるが探し出せない。
 中華街の中国人にも訊いてみるが、どうもよくわからないらしい。
 私の方もすぐに見つけ出せるだろうと、高をくくり、
 店の名前をメモしてこなかったのがよくなかった。
 まるでなぞなぞを言うように
 「中華街の中で1番古いCafeで、サヤーム・オールドの近くにあるCafeはどこ?」
 こんなやり取りの中で、あっちこっちとうろつきながら、やっと見つけた。
 チャルンクルン通りをとにかく果てまで歩き続けることだ。
 そしたら、道の左側にある園楽安を見つけることが出来る。

 着いたのは夕方の4時近く、5時が閉店というから、閉店近くで掃除が始まっている。
 客は1階部分だけで、2階は閉店状態で様子を見るだけでも思い、上がっていくと、
 掃除の真っ最中であった。

 この店を探しているうちに途中でラーメン(バーミー)を食べたり、
 ちょっと名前のわからない食べ物を食べてきたせいで、お腹は膨れ気味、
 それでも来た以上は、目玉焼きセットは食べなくてはと思い、注文する。
 出てきたものは、どこにでもあるような朝食セット、パンもいわゆるタイ風食パンで
 大したことはない。
 それでもアイスコーヒーのセットで78バーツ(250円)、この場所にしては高い。
 創業70年というが、古さが持つ重厚さはない。ちょっと期待はずれだ。

 以前にレポートしたオールドマン カフェの方が、雰囲気もいいし、値段も安い。
 しかし、このオールドマン カフェ すぐ近くに移転してしまい、
 前の雰囲気が失われてしまったのだ。ここも創業60年以上である。
 改修のための一時移転であればいいがと願うばかりだ。

 ちょっと期待はずれの園楽安であったが、
 50年以上この店を切り盛りしている女主人の写真を撮らせてもらう。
 こちらの方は、なかなか威厳があり、重厚である。
 この店以上に歴史を感じさせる人物であった。

 この店の隣には、ヘア・トニックだけを売る 古い店もある。
 1種類のヘア・トニックだけで商いになるのだろうか。
 しかし、店の調度品は、なかなか格調があって、時代を感じさせるものだった。
 このヘア・トニック、ひとつで身代を築きあげたのなら、大したものである。


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バンコク 中華街 | 14:50:57 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-3
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 澱んだ運河の水の中に浸かりこんで、なにやら探し物をしている一人の男がいる。
 ざるのようなもので 水をかき回し、何かを探している。
 半身が水の上に出ているのだから、それほどの深さはないようだ。
 それにしても汚い水である。

 この運河はチャオプラヤ川のサファン・プット(仏陀橋)の横から、中華街を通り、
 カオサンロードの裏のバンラムプー地区、
 ここでマハナーク運河(この運河の延長にセンセーブ運河がある)と交わり、
 バラムプー運河になって、再びチャオプラヤ川につながる。
 旧王宮を中心として、半円状に囲む二つの運河、
 ロッド運河とその外側に造られたバンラムプー運河が、
 王宮と都心部を 外的から侵入を護る強固な外濠となったのである。

 それにしても、汚い運河の中に入ってあの男は何としているのだろう。
 20年も昔、フアランポン駅のすぐそばの真っ黒い運河の水に入って、
 何かを探している男を見たことを思い出した。
 その頃はバンコクの運河の水は、黒く濁り、悪臭を立てていたものである。

 この運河は ラーマ1世の時代に水深2.5mの運河が掘られたとあるが、
 チャオプラヤ川からの二つの河口の水門を閉じているせいで 充分に水が
 流れ込んでこないで半分の深さになっている。
 中華街のこのあたりからサファン・プット(仏陀橋)近くの運河の河口までは
 人口密集地域で、この男のいる場所は運河にかかる橋の袂であり、
 いかがわしい猥雑な運河沿いのマーケットの始まりである。
 この橋の向こうには運河に沿って迷路のように入り組んでいるゲーム・ゲームソフトの
 マーケットが 雑貨市場のサンペンレーン市場まで続き、
 そして、インド人街の食堂街につながる。
 この一帯は光の当たらない運河沿いの地域で 外からは運河を見ることは出来ない。
 全く怪しげな運河沿いなのである。
 昔は泥棒市場のような場所で、訳のわからないものがこのあたりの路上でも
 売られていた。それがマーケットに姿を変えたのである。

 他国からの侵入、侵略の危機のなくなった今のバンコクでは、
 無用の長物と成り果てたバンラムプー運河、何とか生かして使えないものかと思う。
 ラーマ1世の時代には、この運河が、人口40万のバンコクの都心部の境界線に
 なっていた歴史的遺産である。
 第一の外濠ロッド運河、第二の外濠バンラムプー運河 この二つをきちんと整備し、
 定期的な水上バスでも運行させれば、バンコク市民にとっても、観光客にとっても、
 楽しめる場所にもなるし、交通渋滞の緩和にもなる。

 都市交通を陸上交通に頼るのか、今ある運河を再生していくのか、
 発想の転換が必要であるが、いつも利権がからんで事が進んでいくタイの政治では
 再生という発想は生まれてこないようである。
 市民優先より政治家、企業家の利益を優先するのがタイ社会なのだ。
 中産階級以上は、水上バスなど使う必要もない。自家用車を使う。
 交通に関して言えば、昔の方が余程平等だったのだ。



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バンコク 古き時代の名残を求めて | 16:10:31 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-2
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-2  2

バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-2  1

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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-2  4

バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-2  5


 昔は、旧王宮に近いロッド運河沿いの中華街が 
 中華街への入り口であったように思われる。
 チャオプラヤ川と運河に物資の輸送を委ねていた時代であれば、
 物を買い求めてくる人々にとっては、こちら側のほうが、近いし便利である。
 川向こうのトンブリ地区からチャオプラヤ川を渡ってきても、
 容易に中華街へと入っていくことが出来、荷積みも簡単である。

 観光ずれしていない中華街を見てみたいと思われる方は、この入り口から入って、
 フアランポン駅方面に抜けていく方が楽しめるかもしれない。
 中華街の広がっていった様子を眼で確かめることが出来る。
 余計なことであるが、この中華街の裏玄関に行く1番良い方法は、
 東急MBKセンターの横の国立競技場の近くのバス停で47番のバスに乗り、
 終点まで行くとポッド運河のすぐ横にバスは停まる。
 この運河を越えると、中華街の裏玄関だ。
 この47番のバスはよく利用しているのだが、中華街の裏玄関近くが終点であることを
 知ったのはつい最近のことである。

 この中華街の裏玄関のすぐ裏の通りに入っていくと、木造の古風な建物が眼に入った。
 古い昔の中華街の面影を残しているような建物だ。
 古くてもきちんと建物の維持に気を使っているのがわかる。
 そこまでゆっくりと足を進めていくと、そこは中国人の経営する飯屋だった。
 その店の横にある路地にふと目を遣ると、何人かのタイ人がのんびりと座り込んでいる。
 このせわしい商業地域の中で、あたりの情景とはかけ離れた不思議な雰囲気だ。
 一人の老人とその家族たちのように見受けられた。
 その路地に入り、その人たちと話をすると、100%タイ人で中国人ではないと言う。
 表の木造の店は、タイ人と中国人の混血の店で、その裏が彼らの住居になっている。
 家の主人は70歳を超え、退職して仕事はしていない。当然といえば当然だが、
 70歳を超えているようには到底見えない。

 昼間から、ビールを傾けているのはタイ人といえばタイ人らしい。
 娘なのか、奥さんなのか そばにいたタイ人女性も呆れ顔である。
 それでもそれを許容している様子は見られる。
 食べていくことが出来れば、それ以上に努力はしないというタイ庶民の典型だ。
 周りに住む中国人たちは、少しでも上に上がろうとあくせくしているのに、
 全く我関せずである。
 孫、子供に囲まれ、悠々自適の生活、精神的に贅沢な老後の生活だ。
 中華街のこの都心部でこうした生活が出来ることは幸せなことである。
 昼間から家族に囲まれて 文句も言われず、ビールを傾けることが出来れば、
 これ以上楽しいこともない。
 こんな中華街の一角でこんなタイ人の家族に会うとは思っても見なかった。
 人生、いろいろである。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 13:25:41 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-1
バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-1 1

バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-1 2

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バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-1 5

バンコク 古き時代の名残を求めて 中華街-1 6


 チャオプラヤ川から 旧王宮を囲むように造られた1本の運河がある。
 ラッチニー船乗り場の横から始まり、花市場で名高いパック・クローン市場の脇を抜け、
 中華街の西の端に沿って、王宮広場近くまで続くものである。
 本来はそこからピンクラオ橋の下まで続いていたものと思われるが、
 今は埋められてしまったのか、運河の姿はない。
 この運河は、昔は王宮を外敵から護る外濠だったのであろう。

 1782年 トンブリ王朝のタークシン王から王位を奪った
 マハーカサットスック(ラーマ1世)はトンブリからバンコクに王都を遷都し、
 ラッタナーコウシン島にチャックリー王朝を開いた。
 当時、この地域に住んでいたのはチャオプラヤ川の水利を利用して、
 商いを生業とする中国人たちである。
 その中国人たちに土地を与え移住させた場所が今のヤワラート、サンペン地区だった。
 旧王宮地区とヤワラートを隔てる運河が、ロッド運河である。
 王宮のすぐ近くに多くの中国人たちを住まわせたのは
 よほど中国人をよほど信用していた証だろう。

 今の中華街は、フアランポン駅に近いあたりが賑やかであるが、
 昔はむしろ、この運河沿いが中華街の商いの中心だったように思われる。
 1910年にラーマ5世によって、バンコクに鉄道が敷かれ、
 フアランポン駅が出来たことから発展していったのが、今の賑やかな地域だろう。
 この場所も観光客を意識した地域で中国食材、中華料理店が中心で、
 タイ人相手の雑貨、工業製品の卸売市場は、今でも運河に近いほうの地域にある。

 そんな運河に近い中華街を歩き回ってみた。
 運河沿いにはチャオプラヤ川から運河に運び込んできた商品を扱ったと思われる
 長屋風の商店が建ち並んでいる。
 その裏には、音響製品、工具、雑貨を扱う店が、建ち並び、
 仕入れに来たタイ人たちでごった返している。
 迷路のような路地に商店がひしめき合い、入り込んでしまうと出てくるのも大変だ。
 
 そんな場所とは別に昔ながらの商いをしている地域に入ると
 5,60年以上経ているような古い建物が並び、
 商店主たちは昔ながらの のんびりとした商いを細々と行っている。
 このあたりは、熱気、混乱、混雑とは無縁の場所だ。
 古い建物を見ているだけでも飽きない。観光客の姿もない。
 昔ながらの顧客を相手にする商いをする地域である。
 フアランポン駅に近い中華街が表の顔であれば、ここは裏の顔だ。
 中国人の居住地域で、ホテルなどどこにもない。

 時にはこんな場所に紛れ込んでみるのも、中華街の新たな発見があるかもしれない。
 ふらふらとあてどもなく歩き続けることが多くなると、
 地図上の点として理解していたそれぞれの場所が、
 突然 面としてつながりを持ってくる。
 そうすると、王宮を中心として発展してきたバンコクの姿が、
 有機的にはっきりと見えてくる。
 バンコクとチャオプラヤ川、運河、船乗り場の結びつきもわかってくる。
 霧が晴れたように行政・権力の中心であった旧王宮、
 商業の中心であった中華街の地形の意味が、体を通して見えてくる。
 そしてバンコクの庶民たちは、その外側の運河沿いに住むことになるのもわかる。
 そんなことが見えてくると、バンコク歩きも楽しくなる。


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バンコク 古き時代の名残を求めて | 13:05:55 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(11) バンコクに向かって
ビエンチャンへの旅(11) バンコクに向かって 1

ビエンチャンへの旅(11) バンコクに向かって 2


 午後1時ビエンチャンのタイ大使館で2ヶ月のツーリスト・ビザを受け取り、
 2組の日本人・タイ人のカップルと、帰路に向かう。
 67歳の日本人男性のタイ人妻の「自動車がある」という言葉に乗せられ、
 一緒に行動すると、バスターミナルまで行きそこで、乗り合い自動車を探すという
 いい加減な話だった。タイ大使館の前から乗り合いを使えば、安く済んだのに、
 バスターミナルまで行くから、余計にお金がかかるし、時間もかかってしまった。
 バスターミナルから一人60バーツ計算で国境の橋へ、
 入管につくと彼らは挨拶もないまま姿を消してしまった。調子がいいものだ。

 残ったもう一組のカップルとウドンタニまで行くことになった。
 ウドンタニまでの乗り合いのトヨタハイエースが、一人200バーツで
 ウドンタニまで行くと誘ってくる。
 高いと思ったが、早くウドンタニにつけばいいと思い、行くことにしたが、
 これが間違いで、ウドンタニの空港に先に行ったため、バスターミナル到着には
 時間がかかってしまった。
 どうもこの2組のカップルに振り回されてしまった。

 ウドンタニのバスターミナルに着くと午後3時40分、
 3時半にチャン・ツアーのバスは出てしまい、
 5時15分まで快適なバスはない。
 9時間以上のバスの旅、快適に帰りたい。
 5時15分発のチャン・ツアーのバス、バンコクまで429バーツ、
 2階建てのバスである。
 ウドンタニには昔よく布の仕入れに来ていた。藍の絣布のいいものがあった。
 バスターミナルの近くをうろうろしているうちに、なかなか豪華な2階建てバスが
 やって来た。
 中に乗り込んでみると前より座席も広くなり、
 背中に当たるところは、軽いマッサージ機になっている。
 座席も横に3つ並べているだけの広くて楽な形になっている。

 いよいよ出発、お菓子と冷たい水が配られ、設置されているテレビから、
 ヴィデオ映画が映し出される。冷房も良く効いていて快適である。

 バスは2時間ばかり走ると、コンケンの町に着いた。
 7年近く過ごした懐かしい思い出の町である。
 この町には 私のタイの生活の中で1番濃いものがある。
 コンケンの町の一つ一つの光景が、心に突き刺さってくる。

 バスはコンケンの町を出て、次の町コラートへと向かう。
 ここで簡素な弁当と甘い緑茶のボトルが配られる。
 すぐあとには箱に入った菓子類というサービス振りだ。
 コンケンからコラートそしてバンコクへと向かう道筋には
 思い出が一杯詰まっている。この道を何十回となく通ったのだ。

 コラートを出発したのが、午後10時前、バンコクに到着するのは午前2時、
 到着時刻は、バンコクではちょっと緊張する時間である。
 バスはない。あるのはタクシーだけだ。
 新モチット・バスターミナルは、はずれにある。
 そんなことを考えているうちにバスは、新モチット・バスターミナルに着いた。
 広いターミナルの中は、人気も少なく気をつけて行動しなくてはならない。
 タクシー、トゥクトゥクの呼び込みがあるが、
 これに乗ると後で何がおこるかわからない。
 タクシー乗り場に行くと係員がタクシーの整理をしている。
 指差されたタクシーに乗るが、安心は出来ない。
 タクシーの運転手の顔をみる。中年の安心できそうな顔である。
 それでも緊張を緩めることは出来ない。
 暗い夜道をタクシーは走り、アヌサオリ・チャイまでやって来たときに
 ほっとすることが出来た。
 ここから、マンションまでは5分である。
 メーターで71バーツ、距離の割には申し訳ないような料金であった。


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ビエンチャンへの旅 | 14:26:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-2
ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-2 1

ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-2 2


 ビエンチャンのタイ大使館にやってくる日本人たち、どこか崩れた感じもする。
 品位が感じられないのである。日本人とは何かと考えさせられてしまう。
 タイにあるいは物価の安い国にやってきて、使える武器がお金だけというのでは
 あまりに貧弱だ。
 日本人としてどう見られているなどお構いなしの人間が東南アジアで増えていけば、
 どうなっていくのだろう。


  日本人-3

 ビザ取得のためにやってきていた人の中に、67歳の老人がいた。
 彼にも50歳近いラオス人の奥さんがいた。
 生まれはラオスであるが、国籍はタイのようだ。いかにもやり手と言う女性である。
 日本にも15年間不法滞在をしていたと言う。
 タイにやってきてタイ語も理解せず、タイでの旅行も出来ず、すべてこのやり手の
 奥さん任せという様子である。
 両手に障害があるらしく、手首から先にゴム付の包帯を巻いており、手のひら部分が
 以上に曲がっている。年齢も67歳と言うが、70歳をはるかに超えて見える。
 年金で生活しているらしく、彼女と一緒にノンカイで生活しており、タイ・ビザが切れ、
 ビエンチャンにやってきたようだ。
 この彼女は、調子が良く、会社のバスでやってきており、
 一人50バーツで国境の橋までいけるという。
 何のことはない、いい加減なことを言って、
 相乗りで自分たちが安く国境の橋まで行くために日本人を誘っているだけだった。
 タイ大使館からまっすぐ国境へ行けば、安く済んだものを タラード・サオの近くの
 バス乗り場まで行き、そこで、乗り合い自動車を探すという具合だから、
 余計にお金がかかる始末である。
 
 こういう女性と一緒にいるのであるから、
 この障害を持つ67歳の老人も危ないのである。
 ラオスにカラオケ・バーを開くつもりだと言う。
 この老人のお金を当て込んでいることは見え透いている。


  日本人-4

 チェンライからタイ・ビザ取得のためにやってきた2人組みの60歳前後の
 日本人もいた。
 昔からタイに長期滞在しているタイプの日本人である。
 チェンライあたりで女買いを楽しむという日本人たちだ。昔は、ジュライや楽宮に
 よくたむろしていたし、ビルマ国境メーサイ、カンボジアのプノンペンあたりで、
 女遊びをしている日本人である。
 この日本人たちの特徴はと言えば、いかにも日本ではもてないといった感じで
 品位とか教養も感じられず、お金がなければ、女の方が避けていくというタイプだ。
 タイに来ても女以外には興味はない。
 ビエンチャンの大使館で、ビザを渡す時間を待っていても、だらしなく座り込み、
 大声を上げて、しゃべりまくっている。
 同じ日本人としてその行動には恥ずかしくなってしまう。
 近寄りたくは日本人である。いわゆる不良日本人と言われる連中である。


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ビエンチャンへの旅 | 12:44:18 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-1
ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-1 1

ビエンチャンへの旅(10) ビエンチャンで会った日本人たち-1 フ


 ビエンチャンには私のようにタイ・ビザ取得のためにやって来ている日本人が多い。
 タイに長期滞在している日本人たちだ。
 大半はチェンマイ、チェンライからウドンタニまでツーリストバスに乗り、
 ウドンタニからビエンチャン行きの直通バスに乗ってやってくるようである。
 タイのビザルールが変わり、トランジット・ビザの取得がチェンマイ、
 チェンライ周辺では難しくなったためだ。
 チェンマイとウドンタニを結ぶツーリストバスは、
 名ばかりであまり快適なものではない。それに乗って12時間のバスの旅、
 私も昔、コンケン・チェンマイ行きのツーリストバスを何度か利用したが、
 バスも古く 停車するところが多く、時間のかかること、かかること、
 いつもうんざりしたものである。


  日本人-1

 まだ30歳前の日本人、彼もチェンマイからやって来ている。
 チェンマイに住み始めて5年近くなると言う。
 1か月の生活費は15000円、部屋代も含まれているということだ。
 タイの若者ですら、平均月給5000バーツ(17000円)、
 しかし、田舎のタイの若者は親元に住んでいる。
 タイ人以下の生活ということになる。
 いくら、バンコクより物価の安いチェンマイとはいえ、1日150バーツでは、
 食べるだけの生活である。
 日本の本はただで貸してもらえるところがあるし、新聞もただで読める。
 それが楽しみであるという。
 働かないでお金は大丈夫なのと訊くと、今の生活水準であれば、一生大丈夫だと言う。
 チェンマイから来るのにどのくらいお金がかかったか、そればかりを気にし、
 為替レートのことも気になって仕方がないようだ。
 好奇心も覇気も失った若者、ただ生きているというだけの生活だ。
 そんな生活に退屈しないのであろうか。


  日本人-2

 60歳前の日本人とパヤオ在住の25歳前後の若いタイ人の奥さんのカップル、
 奥さんは、美人でいかにも水商売上がりといった感じである。
 奥さん名義で投資のつもりでパヤオに農地を買い、タイ人の奥さんの家族、親戚に
 勧められて、ゴムの木と自動車燃料(パーム油)になる椰子の木の栽培を始めたと言う。
 タイ語は全く話せず、奥さんが、タイ人との通訳になっている。
 パヤオのタイ人の言いなりで、両方とも値上がりが期待されていると言われ、
 投資している。
 娘の歳ぐらいの奥さん、美人、調子が良い、なにやら先が見えているようである。
 どんどんお金を投資し、いつかは放り出される。土地の名義はタイ人の若い奥さん、
 この二人のカップルとは、ウドンタニまで一緒だった。
 トヨタの乗り合いハイエースでは、彼女の隣に南タイからやってきていたタイ人の
 若い色男が座ると、色めき立ち、楽しそうに二人しておしゃべりを始める。
 日本人の夫のことなどお構いなしである。声音が、日本人の夫と話すときとは
 全く違うのである。
 いい男を見つければ、日本人など放り出してしまうのは見えている。
 それがわからぬほど、鈍感な日本人も多く、金の切れ目が縁の切れ目と言うケースが
 チェンマイ、チェンライ、特にパヤオでは多発している。
 この二人の行く末はどうなのだろう。


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ビエンチャンへの旅 | 10:51:33 | Trackback(0) | Comments(2)
ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット
ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット

ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット2

ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット3

ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット4

ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット5

ビエンチャンへの旅(9) 孤高のワット・シーサケット6


 1353年にファー・グムによって建国されたラーンサーン王国も
 18世紀になると、王位継承の混乱から、1706年ルアン・プラバン王国が建国され、
 タイのアユタヤ王国に援軍を求めるが、援軍はやって来ても動こうとはせず、
 ルアン・プラバン王国の独立は既成事実になる。
 逆にアユタヤ王国の策略によって、
 チャンパーサック地域もチャンパーサック王国として分離・独立され、
 ラーンサーン統一王国は終わりを遂げ、3王国時代を迎えることになる。
 ビエンチャン王国、ルアン・プラバン王国、チャンパーサック王国の
 三つの王国に分かれたために 国力を三分してしまうことになる。
 アユタヤ王国の計略にまんまと嵌ってしまったのである。
 その後、力を三分された三王国は18世紀後半にはシャム王国の属領に
 なってしまうのである。

 1807年ビエンチャン王国の王位に就いたチャオ・アヌウォンは、
 その英知からビエンチャン王国を纏め上げ、
 1827年チャオ・アヌウォンは、ビエンチャン王国の独立のために
 シャム王国の王都バンコクへの派兵を進めていたが、
 副王、ルアン・プラバン王国の手によってシャム王国へ密告され、作戦は失敗し、
 シャム軍に捕らえられ、獄中で死亡した。
 1828年シャム王国は、ビエンチャン王国の再攻を懸念し、
 王都ビエンチャンを徹底的に破壊した。
 1828年ビエンチャン王国は滅亡してしまう。
 
 1828年のシャム王国のラーマ1世時代のシャム軍の徹底的なビエンチャン破壊の中で
 唯一残った寺が、ワット・シーサケットなのである。

 ワット・シーサケット 1818年、ビエンチャン最後の王チャオ・アヌウォンによって
 建立される。ビエンチャンに残っている寺の中で1番古いものである。
 チャオ・アヌウォン、シャムからの独立を目指し、志半ばでシャムに捕らえられた
 ビエンチャンの英雄なのであろう。その名は、通りの名にも使われている。

 その因縁のワット・シーサケットへ行ってみる。
 ラオスの大統領官邸のすぐ近くある。
 カラフルなビエンチャンの寺の中では古色然とした趣があり、それが眼を惹く。
 今は博物館にもなっており、入り口で5000キップの入場料を払わなければならない。
 本堂を囲む建物のなかには無数の仏像が並べられている。
 あまりの多さに、有難みも失せてしまう。
 1828年のシャム王国によって破壊された廃墟の街の中から集めてきたのであろうか。
 タイ、ラオス、カンボジア、ビルマと領土拡大のための侵略、破壊の歴史
 街を燃やし、破壊し、街に住む人々を戦争捕虜として連れ去る。
 何ともおぞましい歴史の姿である。

 タイとラオスは、両方とも中国南部に住んでいたタイ族が南下してきて、
 王国を築いてきたのである。タイでは、タイ族、ラオスではラーオ族と
 言葉の違いから区別されてはいるが、ルーツは同じだ。
 どうも両者には近親憎悪的なわだかまりがあるようだ。
 歴史の初期には華々しい活躍を見せたラーンサーン王国も、タイ側がスコタイ、アユタヤ、
 チャックリ王朝へ時が流れていくにしたがって、活躍の舞台を奪われていく。
 歴史とは過酷なものである。


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ビエンチャンへの旅 | 13:01:54 | Trackback(0) | Comments(2)
ビエンチャンへの旅(8) ラオスの牛肉ラーメン カオ・ラーオ
ビエンチャンへの旅(8) ラオスの牛肉ラーメン カオ・ラーオ 1

ビエンチャンへの旅(8) ラオスの牛肉ラーメン カオ・ラーオ 2

ビエンチャンへの旅(8) ラオスの牛肉ラーメン カオ・ラーオ 3

ビエンチャンへの旅(8) ラオスの牛肉ラーメン カオ・ラーオ 4


 タイのビザを取るためのビエンチャン滞在、ビエンチャンの食べ物を食べ歩くには
 時間がなさ過ぎた。
 メコン川周辺の外国人租界を見たとたんに、
 もっと滞在しようという気持ちがうせてしまった。
 洋食は食べる気もしないし、何軒かある日本食レストランに行くのもお断りだ。

 朝ごはんに何を食べようかとあたりをうろうろと、歩き回っているうちに、
 噴水広場まで来てしまった。
 10年前は 全く整備されておらず、隅っこに軽食を食べさせる店があっただけだ。
 噴水などもあったという記憶はない。ただ広場があったと憶えているだけだ。
 その店の前に座ってコーヒーを飲んだ。

 今は丸い広場を囲むように洒落た洋食レストランが建ち並んでいる。
 旅行者相手の商売は、はしっこいベトナム人の仕事で、ヨーロッパ人の喜びそうに
 体裁を整えている。
 彼らにとって母国はベトナムだから、根っからラオスらしくという気持ちはない。

 噴水広場にいたる路地に、ラオス風の食堂が見える。
 粗末なつくりの店で、いかにもラオス人相手の店のようだ。
 近づいていくと、麺を食べさせる店がある。
 丸っこい顔をしたラオス女性が麺を湯がいている。
 東北タイのイサン地方からラオスでよく見かける牛肉麺、
 タイ語でクイティアオ・ラーオ、ラオス語でカオ・ラーオと呼ばれている。
 麺はセンミー(ビーフン)、米の細い麺センレック、バーミー(ラーメン)の中から
 選べばよい。
 ラオスでは、麺はセンレックが好まれるようだ。
 私もセンレックを注文、センレックの牛肉麺だ。
 煮込んだ柔らかい牛肉、牛肉を入れて作った丸い練り物が入って、
 あっさりした味付けのスープで美味しい。

 食べ終わると、カオ・ラーオの店の女主人が、国はどこかと話しかけてきた。
 日本人だと言うと、懐かしそうに
 「若い頃、日本の栃木の足利の工場で5年間働いていた。」と話す。
 彼女の年齢が35歳過ぎのようだから、随分前のことだろう。
 「お金は貯まった」と訊くと、
 「全部使ってしまった」と言う。
 人のよいラオス人、そのお金を元手に新しく商売でも始める気も回らず、
 家族、親戚に頼まれれば、使ってしまう。やはり農民なのだ。
 ラーオ族は基本的には農耕民族なのだ。
 そんな人のよさが、麺の味付けにも現れていた。

 一つだけ気になることは、ビエンチャンでは麺類がやたら高いことだ。
 一杯1万キップ、40バーツ、120円だ。バンコクでも同じものが25バーツである。
 どうもこれだけは、外国人価格があるような気がしてならない。
 タイに比べて、はるかに所得の低いラオスで、一杯40バーツでは、
 ラオス人にとっては気軽に食べられる値段ではない。
 今回は時間がなくて、ラオス人居住地での麺類の値段を確かめることは出来なかった。
 次回の課題にしておこう。


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ビエンチャンへの旅 | 21:47:35 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(7) ラオスのビール ビア・ラーオを飲んで
ビエンチャンへの旅(7) ラオスのビール ビア・ラーオを飲んで 1

ビエンチャンへの旅(7) ラオスのビール ビア・ラーオを飲んで 2

ビエンチャンへの旅(7) ラオスのビール ビア・ラーオを飲んで 3


 夜になると時間を持て余してしまう。
 ちょっとビールでも飲んで、寝入りを良くしよう。

 夜9時過ぎに宿を出て、川沿いを走っているファー・グム道路に出てみる。
 甘いロティのお菓子を路上で焼いて売っているラオス人の若者と話をしている若者が
 日本人のようなので声を掛けてみる。やはり日本人だった。
 ラオス人の若者に片言の日本語を教えているようだった。
 ビエンチャンの大抵の市民はタイ語がわかる。衛星アンテナを利用して
 タイのテレビ番組を見ているからだ。
 路上のささやかな商いはラオス人の仕事だ。
 店は広げているが、お客は少ない。
 ロティ菓子の焼き方は、インド人に教えてもらったと言う。
 バンコクあたりでもよく見かけるロティにコンデンスミルクをかけ、
 それをたたんだ甘いお菓子でバンコクでは5バーツだが、ここでは20バーツだ。
 駄目もと主義なのだろう。
 10バーツぐらいならもっと売れるとは思うが、
 これがラオス人の商売のやり方なのかもしれない。

 日本の若者と立って話し続けるのも疲れてきたので、
 二人ですぐそばのラーメン屋に入り、ビールを飲むことにする。
 飲むのは当然、ラオスのビール ビア・ラーオ、この若者、酒は駄目のようである。
 私はビール、彼はコーラである。
 若者の年齢は28歳、高校を出てからずーと、アルバイトで生活し、お金が貯まると
 旅にでてくるらしい。両親と一緒に暮らし、一人息子である。
 素直で明るい若者であるが、行く末は心配である。
 親元にいるから生活できることに依存し、甘えているのであろう。
 家を出て独り立ちする気はないようだ。
 両親のほうもかわいい子供には旅をさせる気もないようである。
 別の意味で子供は旅をしているが。

 話し込んでいると、店の奥で女主人は、何か美味しそうな物を食べ始めている。
 
 「何を食べているの」と訊くと、

 何か言っているが、よくわからない。
 近くに行ってよく見ると、パパイヤサラダのソムタムである。

 「食べるか」と訊くので、「食べたい」と言うと、

 別の皿に盛り付け、大半を分けてくれる。

 「娘が作った」と嬉しそうに言っている。

 ビア・ラーオの摘みになる。なかなか美味しい。
 中国人の作るソムタムだから、辛くないのがいい。
 ソムタムが手に入ったから、ビールをもう1本、どういう訳か、
 酔いがちっともまわってこない。口当たり、のど越しはいいビールなのだが。
 タイのシンハービールであれば、大瓶1本飲めば、いい気持ちになる。

 「ソムタムは美味しいか」と女主人が訊くので
 
 「美味しい。パラーは入っているの」と訊くと
 
 「熱を通したパラーをいれている」と言う。

 やはり、ラオスである。パラーなしでは料理は成り立たない。
 女主人、50歳くらい、両親が中国からやってきて、彼女はラオスで生まれたらしい。
 昔は、潮州出身の中国人が多かったらしいから、彼女の両親もそうだろう。

 ソムタムをご馳走になった以上、少し高いが、ラーメンを食べないわけには行かない。
 鴨入りラーメンを注文する。悪いが やはり、バンコクのほうが美味しい。
 ビール大瓶2本、鴨入りラーメンで、ちょうど100バーツ、安い。日本円で330円。
 酔いはあまりまわらなかったけれど、適当な寝酒にはなった。

 11時過ぎに宿に帰ると、玄関には鍵がかかっている。
 ラオスの夜は、早い。大半の店は、10時になると閉ってしまう。
 働き者の中国人のラーメン屋は、遅くまで頑張っている。
 宿屋の人間を起こして、部屋に入り、気持ちよく寝てしまった。


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ビエンチャンへの旅 | 03:56:44 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ
ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ1

ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ2

ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ3

ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ4

ビエンチャンへの旅(6) ビエンチャンのフランス風サンドイッチ5


 サムセンタイ通りあたりはビエンチャンの中心地と言ってよいだろう。
 この通りの周辺がベトナム人、中国人の居住区である。
 サムセンタイ通りには、ベトナム人が住み、チャオ・アヌ通りが、昔からの中華街の
 メインストリートのようだ。
 1947年のラオスの中国人は3175人、1959年46830人、2001年172933人という
 統計があり、現在ビエンチャンに住んでいる中国人は約70000人、
 ビエンチャンの総人口が65万人であるから、10%以上の中国人が住んでいることになる。
 ベトナム人はそれ以上だろう。

 このサムセンタイ道路沿いにはベトナム人の経営するフランス風のサンドイッチの
 店がいくつかある。
 小さめのフランスパンを炭火で温め、横半分に切り目をいれ、その間に
 パテをぬり、ベトナム風ハム、焼肉、サラダ菜、ピクルスなどを挟み込み、
 サンドイッチに仕上げてくれる。
 やらずぶったくりの植民地政策を行っていたフランスの唯一の置き土産かもしれない。
 ベトナム人が、ベトナムあたりから持ってきた食べ物のようで、
 ラオス人の経営するフランス風サンドイッチの店を見かけることはない。
 小振りのフランスパンでサンドイッチを作ってもらうと、
 8000キップ(30バーツ、100円)、バナナシェイクが5000キップ(20バーツ、70円)
 で、素敵な食事になる。
 エイシアンパピリオンホテルの対面にあるベトナム人のフランス風サンドイッチの店は
 十年前に来たときもあり、佇まいも同じで、懐かしくなって食べてみた。
 この近辺は、昔とほとんど変わっていない。

 このサンドイッチ屋のそばにラオスの手織り布を売る店があった。
 ラオスの北部で少数民族の北タイ族などが織っているシルク布が所狭しと
 並べられている。それほどアンティークなものではない。
 アンティークなものは20年ほど前にラオスからタイに流失し、売られてしまっている。
 ラオスのラーオ族も、そしてタイ側に住むラーオ族 イサンの人々も織りの名手である。
 ラオス北部の山岳民族は、浮き織り、紋織りを得意とし、ラーオ族は絣を得意とする。
 布文化の発達した地域の人々は、一概に穏やかな人々のような気がする。
 気が短ければ、布を織ることなど出来ない。
 安定した落ち着いた生活を求める民族だけが、
 布文化を発達させるのではないだろうか。
 それは、権力を求める世界とは 無縁の世界である。


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ビエンチャンへの旅 | 13:35:43 | Trackback(0) | Comments(4)
ビエンチャンへの旅(5) ビエンチャンのうどん カオ・ピアグ
ビエンチャンへの旅(5) ビエンチャンのうどん カオ・ピアグ1

ビエンチャンへの旅(5) ビエンチャンのうどん カオ・ピアグ2

ビエンチャンへの旅(5) ビエンチャンのうどん カオ・ピアグ3



 ゲストハウス近くの外国人租界にいても、何も面白くはないので、
 街の中心部の裏辺りを歩いてみることにする。
 ビエンチャンの街はどこを歩いていても人通りが少ない。
 地元の人間より、歩いている外国人の方が多いくらいだ。

 裏通りを歩くと、外国人の姿もなく、ひっそりしている。
 家の中には人の姿はあるのであるが、通りを歩いている人が少ないのである。
 裏通りといってもとりたてて、昔風のラオス特有の家があるわけでもない。
 バンコクあたりであれば、裏通りに入り込めば、朽ちかけたタイ風建築の住居を
 見つけることも多いのであるが、ビエンチャンでは、そういうものがないのである。
 長いフランスの統治、貧しい下層労働者に仕立てられたラオス人には、
 伝統的な家屋を造り出すゆとりはなかったのかもしれない。
 街全体に豊かさが感じられないのである。
 コンクリート造りの立派な家はあるが、ただ今風で、歴史が蓄積した豊かさ、
 そういったものが感じられないのは悲しいことである。
 フランス統治時代の建物もあるが、
 それは、ラオスの歴史を象徴するものではあっても ラオス固有のものではない。
 植民地化されるとは、こういうことかもしれない。
 自国の文化的発展が 植民地化によって分断され、
 伝統を失ってしまうことかもしれない。

 そんなことを思いながら、歩き回っていると、
 1本の裏通りで鶏肉を大量に焼いている屋台があり、
 その先に麺を売っている屋台に出くわした。
 カオ・ピアグと呼ばれるベトナムうどんである。
 日本のように小麦粉ではなく、米粉で作ったうどんである。
 それを豚の骨付きあばら肉で味を出し、そのスープと一緒に煮込んだうどんである。
 米粉のうどんのとろみでスープもどろっとしている。
 お腹が空いていたので、ちょうどいい。
 注文すると、愛想もよくよそおってくれる。
 話をしていると、『コン・ラオ テテ』100%ラーオ人だという。
 日本でも同じような麺があるけど、小麦粉から作るよと言うと
 興味深そうに聞いている。
 なかなか気さくなお姉さんだった。ラーオ人らしく気取ったところがない。
 うどんの値段も5000キップ タイバーツで20バーツ、日本円で70円
 地元プライスである。
 ラオスの麺類を注文すると、必ず香菜とサラダ菜、そして覚ました中国茶が
 ついてくる。
 なかなか、美味しいうどんスープだった。
 機会があれば又、この場所に来て カオ・ピアグ、米粉うどんを食べたい。


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ビエンチャンへの旅 | 14:35:56 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-2
ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-2 1

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-2 2

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-2 3

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-2 4


 メコン川の岸辺に行ってみるが、乾期のため、中洲が出来て、
 遠くにメコン川の細い流れが見えるだけである。
 悠久のメコン川から程遠い有様である。
 川岸には、こんなにあって商売になるのかというほど、屋台が出ている。
 地元の人間相手というより、旅行者を当て込んだものだ。
 屋台でありながら、レストラン並の値段になっていることは考えられる。
 何も高いお金を払って、砂地ばかりのメコン川を眺めながら、
 ビールを傾けることもない。

 レストランといい、旅行者用の屋台といい、それだけの規模に見合う旅行者が
 ビエンチャンの街にいるとは思えない。
 観光ブームに乗せられているとしか思われない。
 ローカル色の全く感じられない外国人租界、
 ベトナム戦争当時からアメリカ兵、各国の記者、様々な組織から派遣された外国人を
 相手に商売をしてきたベトナム人の知恵であろうか。
 彼らにとっては、ラオスは祖国ではないのである。お金が手に入ればよいのである。

 観光によってお金を手にするのはベトナム人や中国人であって、ラオス人ではない。
 ウェーター、ウェートレス、ホテル、レストランでの下働き、
 給料はしれたものだ。
 日長1日 客を待ち続ける乗り合い3輪自動車の運転手、
 旅行者からぼるより 生活が成り立たない様子である。
 だんなは、ベトナム人か、中国人では、何のためにこの国に生まれてきたのか。
 1党支配の独裁制、政府役人は賄賂をベトナム人、中国人からもらっているのだろう。
 なんとも侘しい姿のラオス人である。
 川向こうのイサン(東北タイ)のラオス系タイ人も同じような姿である。
 フランス統治時代からの付けは大きいのだ。

 まだまだ人口密度の低いラオス、ベトナムの1/10である。
 政府がしっかりしていて、自国の民を愛していれば、どうにかなる国である。
 生粋のラオス人が観光客相手に儲けるというならわかるが、
 これではあまりに情けない。

 チェンマイ周辺にチェンマイ王国(ランナー王朝)、
 そして今のラオスの基礎となるラーンサーン王国を築き上げた歴史あるラーオ族
 今1度奮起して、ラーオ族のために理想的な国づくりをしてもらいたいものである。
 それにはフランスの統治によって低下させられたラーオ族のプライドを
 取り戻すことが大切だ。
 ラーオ族の伝統文化を再生させることだ。
 そんなことを、今のラオスに期待してしまう。


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ビエンチャンへの旅 | 19:39:39 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1
ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1 1

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1 2

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1 3

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1 4

ビエンチャンへの旅(4) ビエンチャンの外国人租界-1 5


 一眠りして、すっきりしたところで、メコン川周辺を散策してみることにした。
 この辺一帯は、外国人旅行者と外国人相手の商売をする中国人、ベトナム人の
 場所である。
 当のラオス人といえば、ウェーター、ホテルの掃除、乗り合い3輪車の運転手などの
 仕事をする人たちである。
 10年ばかり前は何もなかったメコン川岸辺周辺が1大外国人租界になっている。

 1893年ラオスはフランスの保護国になり仏領インドシナ連邦に編入されてしまう。
 第2次世界大戦中は日本に占領され、日本軍支配下、1945年独立を宣言するが、
 実際は1949年、フランス連合内のラオス王国として独立を果たしたが、
 それはフランス連合内の枠の中で、防衛権、外交権は持つことは出来なかった。
 1953年10月22日 ラオスはラオス王国として
 フランスから完全に独立することが出来た。
 しかし、その後は政権も安定せず、長い内戦の混乱状態を経て、
 1975年王制が廃止され、ラオス人民共和国へと移行し、その後は安定した政権を
 確立している。

 ラオスには多くのベトナム人と華人がいる。
 ラオスの経済的実権を握っているのは彼らのようである。
 フランスの統治時代 ラオス人にはほとんど教育の機会はなく 就学率は3%以下、
 その3%もフランスの植民地支配の手先として働いてくれるラオス人下級官吏を
 養成するためのものだった。
 教育を与えれば、反仏運動が起こることを怖れたのである。
 それだけでなく、フランスにとってラオスは重要ではなかったことから、
 直接統治はせず、フランスの植民地経営にベトナム人を使って 
 ラオス人を最下層労働者として管理させる『愚民政策』を行ってきたのである。
 更にベトナム人の移住を積極的に進めたことにより、
 ベトナム人、カンボジア人の混血が進み、複雑な上下関係を生み出していった。
 それと同時にラオスの伝統的な生活習慣、様式が失われていったのである。

 狡猾なフランス人の植民地政策は、ラオス人を自国に住んでいながら最下層の人間に
 貶めていったのである。
 こうしたフランスの統治によって、ラオス人は教育に対する関心を失い、
 整った教育制度が生まれてくるのは、1975年のラオス人民共和国の成立以降の
 ことになるのである。
 
 その影響は今なお残っているのである。
 旅行者の集まる地域のレストラン、ホテルの経営者が、ほとんどベトナム人であり、
 表通りに店を出しているのが、ベトナム人か、中国人であることからも
 そのことが覗えるである。
 人の良い素朴さだけでは、商いが出来ないラオス人、自国に住んでいながら、
 ベトナム人、中国人に富を奪われてしまうラオス人、そこにラオスの暗い影が
 あるようである。


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ビエンチャンへの旅 | 03:35:30 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(3) ビエンチャンの街
ビエンチャンへの旅(3) ビエンチャンの街 1

ビエンチャンへの旅(3) ビエンチャンの街 2

ビエンチャンへの旅(3) ビエンチャンの街 3

ビエンチャンへの旅(3) ビエンチャンの街 4


 タイ大使館でビザの申請を済ませ、
 明日の午後1時以降パスポートの受け取りのために来ることになった。
 パスポートの申請時間を調べずにやってきて申請できずにいた日本の若者に
 大使館で出会い、ゲストハウスのある地域へと一緒に帰ることにした。

 大使館前の乗り合い3輪車の客引きが何人もやってくる。
 ビエンチャンの乗り合い3輪車は、ぼったくりである。
 2000年以後、観光に力を入れ始めたラオス政府であるが、交通機関の管理、
 開発には力を入れていない。市内の路線バスもないし、路線小型自動車もない。
 市内であれば100,200バーツから、交渉が始まる。
 これが面倒で若者と二人で歩いていくことにする。
 10年前には周りには何もなかった革命記念塔も、周りはきれいな公園になっている。
 この革命記念塔と大統領官邸を結ぶ道路が市内を走る主要道路である。
 日本の援助で出来たという話である。

 暑いビエンチャンの陽射しを受けながら、歩き続けると、タラード・サオ(朝市場)に
 ぶつかる。ビエンチャンで1番大きな市場で、生活に必要なものはここで手に入るし、
 ラオスの布、銀細工などラオスの工芸品もここで手に入る。
 この市場を通り過ぎ、右に曲がると サムセンタイ道路、この道路沿いが
 市内の中心部になっており、ホテル、レストランの数が増えてくる。
 以前泊まったホテルもこの地域にある。エイシアン・パピリオンホテルだ。
 以前より小奇麗になっている。10年前は1泊20ドルであったが、
 今はもっと高くなっているだろう。
 ホテルの対面にあるフランスパンのサンドイッチ屋さんは昔ながらの形で
 営業している。
 近くにあるタートダムという名の古い仏塔の周りもしゃれたレストランだらけ、
 メコン川岸辺周辺のゲストハウスへとつながる噴水広場もすっかり様変わりして
 周りは高級西洋レストランになっている。昔の面影は残っていない。
 10年という歳月はこれほどまでにビエンチャンを変えてしまったのかと
 驚いてしまう。

 今日の宿泊場所を探すためにメコン川周辺地域に入っていくと、
 レストラン、ゲストハウス、ホテルがひしめき合っている。
 メコン川の岸辺には、旅行者のための屋台、全くのラオスのカオサン通りである。
 ここにはラオスのローカルなものはない。
 外国人租界である。のんびりとアジアを味わうというものではない。
 これでは早くラオスを逃げ出した方がよいと思えてくる。

 値段と清潔度の折り合いのつくゲストハウスを探す。10軒以上回って、
 やっと1泊10ドルの清潔な部屋を見つけた。
 冷房・ホットシャワー付きのツウィンルームで 
 ベッドメイキング、掃除も行き届いている。
 
 まずは一眠り。お休みなさい。


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ビエンチャンへの旅 | 10:54:05 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(2) ノンカイ到着 ラオスへ
ビエンチャンへの旅(2) ノンカイ到着 ラオスへ  1

ビエンチャンへの旅(2) ノンカイ到着 ラオスへ  2


 1月9日 午前9時30分、列車は予定通り、タイの果ての町ノンカイに到着、
 頭の中には、ビエンチャンのタイ大使館のビザの申請時間の終了時刻午前12時に
 間に合うであろうか、そのことしかない。
 写真を撮っているゆとりなどない。
 小さなノンカイの駅を出ると、タイ・ラオス友好橋行きの乗り合い3輪自動車が
 客を待ち構えている。一人につき30バーツだという。7人を乗せて走る。
 1回、橋まで行くのに210バーツのお金が手に入る。距離にしても2,3キロ、
 暴利である。
 いくら値段交渉しても値段は下がらない。
 バンコクのタクシーの料金なら、50バーツの距離である。
 途中、旅慣れない旅行者をかもにするようなビザ代行業者のところに停まる。
 2000バーツの手数料だと事務所の人間が英語と日本語で話しかけてくるが、
 旅行者たちも私も必要ないと言うと去ってゆく。
 かもにされていた日本人もいたようだ。タイ側の入管の1分ほど手前のところである。

 午前9時50分、タイ側の入管に到着するが、
 入管の係員はのんびりと作業をしている。全くいらいらしてくる。
 やっと、入管の手続きを済ませ、
 15バーツのラオス国境まで走っているバスの切符を買い、バスを待つ。
 10時10分、バスに乗り込み、橋を越えて、ラオス側へ、メコン川が、悠々と
 流れている。時間に追われている私を笑いながら。

 ラオス側の入管にバスは到着、途中渋滞で時間がかかり、10時15分。
 入管で日本人は14日以内の滞在であれば、ビザはいらない。
 入国のための書類を手に入れようとすると、20バーツで代書すると言う。
 時間がない。速ければ、それも良し。20バーツを支払うと瞬く間に、書き上げる。
 どうも役人ではない。これを生業にしている私設業者のようだ。
 彼の書き上げた書類を持って、入管に並ぶ。ここでものんびりと作業している。
 外国人旅行者はビザの申請が必要なことから、時間がかかっている。
 入管の手続きが終わり、10バーツの入国手数料を支払うと、
 やっとラオス領内に入ることが出来た。

 時間は午前10時30分、
 ビエンチャンのタイ大使館には午前11時30分前には入りたい。
 外にいた乗り合い自動車と交渉、ビエンチャンのタイ大使館までと言うと
 200バーツだという。交渉して100バーツまで下げさせる。
 11時半までには到着しなければならないぞと念を押すと、大丈夫だと言う。
 ここでも客待ちで、すぐには出発しない。
 やっと、10時45分に自動車は出発、乗客のラオス人が、
 12時には、タイ大使館は閉まるぞ、速く行けよと、運転手をけしかけてくれる。
 都合のいいことに道路は空いている。
 乗合自動車は何にも邪魔されることなく、道路を走っていく。
 まずは、ビエンチャンの中心部タラード・サオに到着、普通はここが終点、
 11時10分になっている。
 ここで私以外の客を下ろすと、今度は、ラオスの革命記念塔の向こうにあるタイ大使館へ、
 途中パスポートのコピーをして、再び大使館へと向かう。
 11時20分 タイ大使館到着。間に合った。

 タイ大使館の中に入ると、敷地内の東屋のような建物で書類をもらう。
 まだビザの申請が終わったわけではないのだ。
 ビザ申請書類を書き上げ、写真を2枚貼り付け、受付へ、一人の外国人がいるだけで、
 他に並んでいる人はいない。ついている。
 パスポートを預けると、本館に行けと指示される。
 本館で20分ほど待つと、パスポート受領書と引き換えに1000バーツを払った。
 11時50分、申請終了である。
 ちょっとしたスリルのあったパスポート申請劇であった。
 
 ビエンチャンの街を やっとのんびり眺めることが出来る。


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ビエンチャンへの旅 | 10:53:20 | Trackback(0) | Comments(0)
ビエンチャンへの旅(1) 夜行寝台列車に乗って-1
ビエンチャンへの旅(1) 夜行寝台列車に乗って-1  1

ビエンチャンへの旅(1) 夜行寝台列車に乗って-1  2


 タイのビザが、1月11日に切れる。
 大抵の場合は、ビザの切れる前にネパールのカトマンズに行くのであるが、
 いつもは2月の中旬過ぎに行くネパールが1月中になってしまう。
 計画停電が36時間、1日6時間、ガソリン不足、
 様々の問題を抱えているネパールで、冬の寒い夜長を、電気なし、灯油なしでは
 あまりにも侘しい。ネパールではこんな状況が3年以上、続いている。

 ネパールでの侘しい生活を避けるために、タイでの滞在を延長するために
 ツーリストビザ取得のためにタイの隣国ラオスへ行くことにした。
 ラオスのツーリストビザ取得の場所は、2箇所、ひとつは首都ビエンチャン、
 もうひとつは、タイのムクダハンのメコン川対岸にあるラオスのパクセ、
 そこには、タイの領事館がある。
 どちらに行こうかと迷ったけれど、交通の楽なビエンチャンに行くことに決めた。
 ビエンチャンであれば、
 バンコク フアランポン駅からラオス国境に近いノンカイまで
 夜行寝台列車を利用すれば 直通で行くことができる。
 フアランポン駅からノンカイまで、約650キロ、
 2等寝台冷房つき下段の料金が756バーツである。上段は少し安いが、
 寝台への上り下り、揺れ、ベッドの広さを考えると、下段の方がはるかに楽である。

 1月8日の午後7時半に部屋を出て、東急MBKセンターの前のバスの停留所へ行く。
 29番のバスか、34番のバスに乗れば、フアランポン駅の中まで行ける。
 29番と34番のバスはフアランポン駅が終点のバス路線である。
 運賃は7バーツ、荷物がなければ、何もタクシーを利用することはない。

 29番のバスが運よくやってきたので、乗り込む。
 10分でフアランポン駅に到着。
 駅の中は、夜行列車を利用する人たちがベンチに座り込んでいる。

 駅の中の空いているプラットホームでタバコを一服し、
 缶ビールと摘み、ミネラルウォーターを買い、列車に乗り込んでいく。
 缶ビールと摘みは寝つきをよくするためのものだ。
 列車の客車ナンバーは10号車、寝台番号は2番である。
 1番と40番に近い番号は、出入り口に近く、ドアの開け閉めで結構うるさい。
 いつもは、真ん中あたりの寝台を頼むのであるが、今回は忘れてしまっていた。
 入り口周辺は、冷房も良く効かない。

 午後8時45分、列車は定刻通り出発した。ノンカイ到着は翌朝の9時半だ。


***
 タイの鉄道チケットの予約の方法は、フアランポン駅に行き、
 駅構内にある予約オフィスへ行けばよい。
 入り口にある機械から順番のカードを取ることを忘れないように。
 自分の番がくれば、各予約と受け付けている席の上に、番号が表示される。
 出発する日と、時間、列車、行き先は前もって調べておくこと。
 予約オフィスには、時間表が大きく書かれているので、
 それで調べればよい。
 土日はいつも列車は混んでいるので、予約は早めに。

 面倒であれば、旅行会社で手数料を払って、予約する方法もある。
 手数料は50バーツから100バーツと開きがあるので、よく調べること。
                                   ***


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ビエンチャンへの旅 | 12:53:49 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代
バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 1

バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 2

バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 3

バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 4

バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 5

バンコク トンブリ地区を歩く-2 失われていく時代 6



 その一角にきれいに整備された公園のような場所がある。
 現国王ラーマ9世の生母 シーナカリン・タラバットの生まれた場所だという。
 建物の跡が残っているだけで、その中心に記念館があり、ラーマ9世の生母の写真、
 生前使っていたものが展示されていた。

ラーマ9世の母であるシーナカリン・タラバットは1900年10月21日、
トンブリに住む平民 金細工職人のチュン・タラバットの娘として生まれるが、
父親は彼女が幼い時になくなり、母親カムが読み書きを教えた。
母親が病身であることから、8歳から王室に奉公に上がったが、
翌年1909年には母親も亡くなり、幼くして両親を亡くしてしまった。

シーナカリンは看護の道を目指し、シラート王室医療院付属の看護学校に通い、
1916年に卒業する。余程優秀であったのであろう。
翌1917年~1920年4人の国費留学生の一人に選ばれ
アメリカで看護学を学ぶ機会を得る。
その時ハーバード大学医学部で学んでいたマヒドン・アデンヤデート親王と出会う。
1920年マヒドン親王と結婚、そして1923年に先日亡くなられたガラヤニ王女を
ロンドンで出産、1925年ドイツ・ハイデルベルグでラーマ8世を出産、1927年には
現国王ラーマ9世を出産し、3人の母となる。

しかし、1927年マヒドン親王が、チェンマイのマコーミック病院の内科医として
勤務中に37歳の若さで亡くなる。
1930年頃には、絶対王政反対・王室に対する風当たりが強くなり、
1933年3人の子供をつれて、スイスに疎開する。
1995年他界。95歳の生涯を終える。

 波乱に満ちた生涯を送った女性である。
 10歳でラーマ8世として王位に就いた長男は、
 20歳でタイに帰国後なぞの死を遂げている。
 王宮の中で頭を銃弾によって打ち抜かれた状態で発見され、
 自殺か他殺かと当時は大問題で、真相は明らかになっていない。
 公式に発表されたのは銃の暴発ということだった。
 
 そのあと王位についたのが次男の現国王ラーマ9世である。
 ラーマ8世の二の舞にならぬよう家族が一丸となって、
 ラーマ9世を支えてきたようである。
 積極的に国民の中に入っていき、国民を味方につけ、
 国王としての不動の地位を築き上げたのが現国王であり、
 それを支え護り続けたのがその母であり、姉であった。
 その母も姉ももういない。
 タイの王室の一つの歴史が終わりかけているのである。
 この王室ほど国民のために尽くした王室は、タイの歴史上ないだろう。

 国王の生母 シーナカリンの人生は、映画にでもなれば、
 あの『王様と私』以上の感動を呼ぶことだろう。
 そんな彼女の生まれた場所はすっかり朽ち果てている。
 昔はこのあたりに金細工職人の家が多くあったというが、その名残はない。

 今度は川岸の方へと歩き始める。対岸に中華街が見える。
 このあたり一帯は、廃墟になっていて、荒れ放題である。
 夜になれば、さぞかし怖い場所だ。強盗、お化けなんでも出てきそうである。
 昼間でも人がいなければ、怖い場所だ。
 岸辺では、釣り好きがチャオプラヤ川に糸をたれ、釣りをしている。
 収穫を見せてもらうと、大物はいないが、10匹くらい釣れている。
 横目に荒れ果てた廃墟を眺めながら、ディンデン船乗り場へと急ぐ。
 気持ちの良い場所ではないのだ。
 ここから対岸の中華街のサンペンに近い船乗り場ラーチャウォンへと渡った。


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バンコク風情 | 11:35:05 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所
バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  1

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  2

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  3

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  5

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  4

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  6

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  7

バンコク トンブリ地区を歩く-1 忘れられた場所  8


 サファン・プットのすぐ横にかかるプラ・ポックラオ橋を歩いて、
 チャオプラヤ川を渡りトンブリ地区に入る。
 橋の途中で下流を眺めると、高層ビル群が蜃気楼のように浮かびあがっている。
 その眺めだけであれば、近代都市である。

 いつもであれば、橋を下りて右側に曲がるのであるが、
 今日は左側に曲がって トンブリ地区の川沿いの街を歩いてみることにする。
 橋を渡り、100メートルばかり歩くと、ソイ ウタイ(ウタイ通り)に出会う。
 その通りに入ると、木造の古い家屋があり、
 60歳を越えた中国人たちが座り込んでいる。
 写真を撮らしてもらい、話をする。
 彼らの父母は中国潮州からやってきて、自分たちはバンコクで生まれたという。
 木造の家屋も建ててから、60年になるという。
 計算すると 第2次世界大戦後ということになる。
 その時代はラオスが社会主義国になり、
 ラオスからバンコクに非難してきた潮州出身の中国人も多かったはずだ。
 
 このあたりには中国人がまとまって住んでおり、
 木造の家々は、皆 築50年は経ているようだ。
 中国人がまとまって住んでいる割には、あまり活気はない。
 この地区の対岸にある中華街とはその賑わいはあまりに対照的だ。
 少し奥にある路地に入ると、中国式の長屋が軒を並べている。
 すぐ近くに運河もあるが水門が閉じられ、交通の用は果たしていない。
 この運河を利用して様々の物品が運ばれてきた頃は、
 この地区も活気にあふれていたのだろう。
 今は 運河のそばで釣りを楽しんでいる人を見かけるだけだ。
 チャオプラヤ川のすぐ近くのせいか、意外と水は澄んでいて、泳いでいる魚の姿が
 見える。釣った魚は、食膳に上がるようである。
 しかし、この先にある運河の水門の後ろは、どぶ川だ。

 あたりをふらふらと歩き続けていると、タイ人の住む地域に入る。
 建てられている家も急にみすぼらしくなる。
 商いも細々と行われていて、1日の糧を稼ぐには充分だとは思えない。
 間借りをしている人たちが多く、
 皆出稼ぎの人のようで顔つきもタイ人のようでもない。
 長くこの場所に定住している人たちの雰囲気はない。
 以前に住んでいた家主が出稼ぎの人に貸しているのだろう。
 近くの中国人の地域には 活気はなくとも、
 ゆとりを持って生活していることがわかるが、タイ人の生活している地域は、
 ぎりぎりで生活していることが伝わってくる。
 中国人の店に安い給料で雇われれば、できるだけ安い間借りを探すより仕方がない。
 未来が全然、見えてこない生活である。

 近頃は貧富の差があまりにひどすぎるバンコクだ。
 長年 タイの支配者が貧しいものたちに教え込んできたことは
 『チャイ イェン』 興奮して自分を失わないこと
 『クレーン チャイ』 遠慮深いこと
 この二つを美徳として教え込んできた。
 理不尽な眼にあっても我慢すること、多くを要求せず与えられたものに満足すること
 このことが守られなければ、警察や軍隊を使って、
 貧しい人たちの要求を 絶えず押さえ込んできた。
 いつまでもこんなことは続くのだろうか。
 貧しい人たちは、なけなしのお金で タム・ブン(徳を積み、喜捨をする)をして、
 来世に期待するよ り仕方がないのであろうか。


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バンコク風情 | 23:44:53 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク マンションに泥棒が入ったら
バンコク マンション こんなことあるの? 1

バンコク マンション こんなことあるの? 2


 バンコクは、相変わらずのマンション(タイではコンドミディアムというのが一般)の
 建築クラッシュだ。
 バンコク中心部、サイアムスクウェアに近く、スカイトレインの駅に近い場所であれば
 1平方mあたり、8万バーツ(約26万円)が相場だ。
 10年前は1平方mあたり4万バーツだったことから見れば、2倍になっている計算になる。
 マンションとか、アパートを借りるにあたって、1番気になることは、安全ということだろう。
 私の住んでいるところも、ガードマンもおり、レセプションカウンターには人もいる。
 だから、安全だろうと思えるが、ところがそうでもないのである。

 5年ほど前に、泥棒騒動があったのである。
 二人組みの泥棒が、夜中の3時ごろ、マンションの入り口にいるガードマンの前を
 通り過ぎ(ガードマンは寝ていた)、
 玄関のドアを開けレセプションカウンターの人の前を通り過ぎ
 (ここにいた人間も寝ていた)、  
 エレベーターに乗り、最上階の24階から、順番に下に下り、
 鍵を掛けていない部屋を調べ、ノートパソコン、お金を盗み出したのだ。
 2部屋ほど、鍵を掛けずに寝ていた住民がいたのである。
 そして堂々とエレベーターを使い、入ってきたのと同じように逃げ去ったのである。
 朝になると、大騒ぎ、各階、エレベーターに備え付けられているビデオカメラの映像を
 調べると、二人組みの泥棒の姿は鮮明に写っているのである。
 後の祭りで、犯人の顔はわかっても、バンコクのこと、捕まえることは出来なかった。

 バンコクのマンションの安全は、この程度なのである。
 その後、警備会社を変えたが、再び、泥棒、それに懲りて、
 マンションの入り口のドアに指紋で住民を確認する装置を取り付けたが、
 タイのマンションは、2階から5,6階は駐車場になっており,
 駐車場のすぐ脇にエレベーターがある。
 そこを通れば、簡単にマンションの中に入れるのである。ガードマンが寝ていれば、
 レセプションのビデオカメラを看視する人は寝てしまえば、
 やはり 泥棒はやってくるのである。
 その後、私がバンコクにいない間に、再び泥棒が入ったようである。
 皆さん、タイ人の仕事ぶりを信頼しますか。


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徒然なるままに | 15:16:50 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク コンピューター・マーケット パンティップ
バンコク コンピューター・マーケット パンティップ  1

バンコク コンピューター・マーケット パンティップ  2

バンコク コンピューター・マーケット パンティップ  3


 プラトーナムの近くにあるコンピューター・マーケット パンティップに
 行ってきた。
 ちょっと小さな買い物があったからだ。

 パンティップに行く通り道にあった以前『滅び行くもの』で記事にした家は
 跡形もなく消えていた。ああ、やっぱりという思いだけが残る。
 あるのはその後ろにあった家だけだ。
 このあたりはBTSの高架電車の駅のラーチャテヴィに近く、
 大型マンション、オフィスビルなどが、
 空き地があれば、どんどん建ち始めている。
 プラトーナム近辺も、すっかり様変わりしてしまい、
 昔の面影を残すものも少なくなっている。

 パンティップは、昔はデパートであったところで 
 コンピューターがバンコクでも流行り始めた頃に
 コンピューター・マーケットに姿を変えた。
 私がよく通い始めてからも7,8年になる。
 ここには、コンピューター関連のものが何でも揃っている。
 海賊版コンピューターソフト、映画のDVD、エロビデオまで売っている。
 外国人とわかると、「エロビデオ、エロビデオ」としつこく声を掛けてくる。
 眼鏡をかけていると日本人だと思うらしく、
 ここに入るときには眼鏡をはずす必要がある。
 そのくらい、しつこいのだ。

 海賊版ソフト、DVDはタイでも違法であるが、警察が取り調べに来るときは
 すぐに情報が流れ、商品は瞬く間に隠されてしまう。
 そして、もう大丈夫だという情報が流れると、商品を並べ始める。

 コンピューターの関連部品を売る店の前には、商品の値段が張り出されており、
 買う人間は、その値段を調べて、少しでも安い店を探す。
 この前、デジタルカメラ用のSDメモリーを買ったが、2GBのものが700バーツ、
 約2400円だった。しかも永久保障である。

 コンピューターを使う人ならば、ここに来てみるのも楽しい。
 今日も大変な人出だった。
 買う人より、遊びに来ているタイ人のほうが多いようではあるが…。


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バンコク風情 | 11:26:54 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 両替屋さん
バンコク 両替屋さん  1

バンコク 両替屋さん  2


 日本の外で生活することが長くなると、
 どこで日本円を現地通貨に両替するか気にかかる。
 バンコクならどこで、カトマンズならどこで、デリーならどこでと
 決まった両替場所が出来てくる。

 バンコクで私が日本円を両替する場所はというと、
 東急MBKセンターの近くにある私設両替屋さん、別に違法な場所ではない。
 きちんと政府の許可を取って営業しているから心配はない。
 現金を両替するなら、銀行よりレートが良い。
 TC(トラベラーチェック)並みのレートで両替してくれる。
 プラトーナムあたりにもここより少しばかりレートが良い両替所もあるが、
 住んでいるところから近いから、交通費もかからない。
 安全ということを考えれば、TCであろうが、
 レートの良い両替屋で現金を両替することと併用すれば、
 バーツ高の昨今、気も休まるであろう。

 しかし、昨今はクレジットカードを使う時代である。
 こんな情報提供は余計なお世話だったかもしれない。


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バンコク風情 | 14:22:13 | Trackback(0) | Comments(0)
バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ
バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 1

バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 2

バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 4

バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 3

バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 5

バンコク 水上バスの終点は 市場のある街バンカピ 6



 水上バスの終点の街 バンカピに行くことにした。
 名前は聞いたことはあるが、どんな街だかは知らない。
 プラトーナムの船着き乗り場から水上バスに乗り込む。
 バンカピまでは18バーツ。
 水上バスが動き始めると、みんな一斉に、水よけのビニールシートを上げる。
 座ってしまうと外の景色が見えないので、立ったままで行く。

 運河の周りの景色はといえば、工事中の建築現場、建売の豪邸、
 昔ながらの木造住宅、仏教寺院、イス ラム寺院とめまぐるしく変わっていく。
 30分近くで終点であるバンカピに着きましたよ。
 叙情ある街を想像していたのであるが、
 着いたところは、デパートの裏、デパートの駐車場からデパートの中を抜け、
 表通りに出るのであるが、このデパート、やけに馬鹿でかい。
 行けども、行けども、出口が見えない。
 まるで野球場のようなデパートだ。

 デパートを背にして、街を眺めてみると、地方都市の野暮ったい光景、
 10年以上前のバンコクの姿だ。
 朝から何も食べてなかったので、屋台を探すが、
 あるのは持ち帰りの惣菜屋ばかり、
 やっと見つけた麺の屋台は、東北タイ風牛肉入りクイティアオ、
 かかっている音楽は タイの演歌 ルッツン
 街の様子も音楽も地方都市風
 ここはコンケンか、ウドンタニか。

 ここで帰っては、時間も運賃も無駄になる。
 こういう野暮ったい街には、いい市場があるのだ。
 そう思い、市場を探す
 ありました、ありましたよ 立派な市場が。 
 安い、安い、何でもバンコク中心部よりはるかに安い。
 肉あり 魚あり 野菜あり なんでもある 新鮮だ。
 毎日でも来たいくらいだ。
 魚好きの私には、こたえられない、あじ さより かに えび かい
 ちょっと遠いのは残念です。
 
 帰りは73番の冷房バス、運賃は22バーツ 
 1時間もかかってしまいましたよ。
 ここにバンコクの都市交通の不思議がある。


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バンコクの運河 | 12:08:19 | Trackback(0) | Comments(2)
バンコク 『8番』の冷やし中華ラーメン
バンコク 『8番』の冷やし中華ラーメン 1

バンコク 『8番』の冷やし中華ラーメン 2


 バンコクにはラーメンのチェーン店『8番』がある。
 出来てからもう10年以上になるが、
 そのチェーン店は百軒を越えると思われる。
 日本人とタイ人との共同出資の会社のようだ。
 手頃な値段とメニューの目新しさは、
 バンコクの若者の眼をたちまち惹きつけた。

 ラーメンの味は、日本の場末のラーメン屋の味であるが、
 ギョーザ、焼そば、から揚げとメニューは豊富で
 そのメニューは日々進化を遂げている。
 この努力だけでもたいしたものだ。

 私が良く食べるのは、冷やし中華そば、
 暑いバンコクで食欲を失ったときには格好の食べ物である。
 タイバーツで68バーツ、約2百円ちょっと、
 あと10バーツ足せば、大盛りにしてくれる。
 タイの屋台のメニューにも冷たくて酸っぱいラーメンはない。
 冷やし中華そばというのは、日本独自の食べ物だと聞いたことがある。

 『8番』という店、取り立てて美味しいという店ではないが、
 速い、清潔、安いという3拍子はそろっている。
 いつ行っても客の入っている店である。
 1度お試しあれ!


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バンコク風情 | 11:57:53 | Trackback(1) | Comments(0)

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