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ひかるの

Author:ひかるの
25年間、ネパール、インド、タイと 
うろうろ歩き回っています。
アジアの工芸、人々の生活を 眼で、
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バンコク イスラム寺院と子供たち
バンコク イスラム寺院と子供たち 1

バンコク イスラム寺院と子供たち 2

バンコク イスラム寺院と子供たち 3

 カオサン通りを抜けると1本の別の通りにぶつかる。
 その通りの裏に 一つのイスラム寺院がある。
 その辺あたりは、イスラム教徒が住むと言われているが、
 実際には、かなり少数のイスラム教徒だけ住んでいるらしい。
 スンニ派のイスラム教徒で南タイのパッタニから、
 昔、やって来た人々のようだ。

 私だけの感覚かもしれないが、
 イスラム教徒にとっては、
 日本人である私は、はっきりとした異教徒であるだろうという緊張感があって、
 イスラム寺院は踏み込んではならない場所のように思えてしまう。
 酒は飲んではいけない、女は顔を隠し、男とは口を利かない、
 私にとっては、とても不自然なことのように思い、
 イスラム教を国教にする国には行く気にはなれない。

 バンコクにいても初めは、そんな傾向もあったが、
 バンコクのイスラム教徒について知るにつれて、
 親しみも持てるようになって来た。
 バンコクのイスラム教徒は
 私の持っているイスラム教徒のイメージを変える雰囲気を持っていた。
 まずは、女が表で生き生きと生活しており、自立していること、
 男も物腰が柔らかく、威圧的ではないこと、
 我々日本人の感覚からしても
 違和感を感じさせない生活をしていたことだ。

 そんなイスラム寺院の中で、
 子供たちが寺院の庭を遊び場にしていた。
 別にイスラム教徒の子供と言うわけでもなさそうだった。
 その姿を見て、タイのイスラム寺院は開かれていると思えた。

 その庭のベンチにイスラム教徒らしい外国人がいた。
 話をすると、パキスタン人だった。
 タイのイスラム教徒と違って、
 彼らには威圧感、違和感を感じてしまった。


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タイのイスラム教徒 | 08:44:05 | Trackback(0) | Comments(0)
タイのイスラム教徒(5) アユタヤからトンブリへ
アユタヤからトンブリへ 1

アユタヤからトンブリへ 2

タイのイスラム教徒(5)アユタヤからトンブリへ 3

アユタヤからトンブリへ 4


 アユタヤ王朝でペルシャからやって来たイスラム教徒たちは、
 宮廷内でのシェイク・アフマドの台頭、そしてその末裔たちの繁栄の中で
 その数を増やしていった。
 ペルシャ人の上流階級出身者も多く含まれ 建築、熟練工、学者、詩人などもいた。

 ナーラーイ王(1656-1688)の時代には100人のペルシャ人が称号と住居、
 土地を与えられ、王室の官職に従事し、
 更にペルシャ兵200人を雇っていたといわれている。
 シェイク・アフマドの弟ムハンマド・サイードの息子であるアーカー・ムハマドも
 ナーラーイ王の時代には重職につき、イスラム教徒の交易ネットワークを使い、
 東南アジアのアユタヤの貿易港としての地位を高め、アユタヤ王朝に莫大な富を
 もたらし、当然、ペルシャ人たちもその恩恵を受けていたのである。

 しかし、ナーラーイ王のあとのペートラーチャ王の時代以降は、
 アユタヤの貿易港の貿易量も減り始め、ペルシャ人も地位は低下し始めていく。
 商人としての地位は下がっていったが、王家との通婚、仏教徒への改宗により
 宮廷の中で、重要な官職に就くことによって、
 権力の中枢へと入り込んでいく狡猾さは忘れてはいなかった。

 1767年ビルマの攻撃によりアユタヤが陥落し、ペルシャ人たちもトンブリ王朝の
 都であるトンブリに移っていかざるを得なかった。
 そこでは、タークシン王に協力したソンクラーのスンニ派のモゴール一族が有用され、
 彼らの出番はなかった。

 トンブリ王朝時代は、彼らは優遇されず、彼らのモスクもなく、
 アユタヤ時代からあるトンソンモスクで 礼拝をせざるを得なかった。

 アユタヤのペルシャ人イスラム教徒が 息を吹き返してくるのは、
 チャックリ王朝のラーマ1世の時代からである。

 チャックリ王朝最初のチューララーチャモントリー
 (右港務局長はモスリムの長としての役職)に
 シェイク・アフマドの子孫であるゴンゲーウが就き、
 トンブリにシーア派のモスク クディ・ボンを建て、
 その弟のアーカイーが、クディ・チャルーンパート・モスクを建てた。

 アユタヤ朝以後のシェイク・アフマドの末裔たち、アユタヤのペルシャ人たちの姿を
 知るために、クディ・ボンとクディ・カルーンパートを訪ねてみた。
 クディ・チャルーンパートはすぐに見つかったが、
 クディ・ボンはなかなか見つけることは出来なかった。
 クディ・チャルーンパートの近くに住むモスリムの若者に場所を尋ねると、
 バイクでクディ・ボンまで連れて行ってくれた。
 バンコクのイスラム教徒は、礼儀正しく親切であることを改めて認識した。
 タイの中での少数派であるから、周りに気を使って生活しているのであろう。

 クディ・チャルーンパートでも、クディ・ボンでも、
 何かイスラムの行事があるときに訪問した。
 その行事の担い手は、モスリムの若者たちだった。
 イスラム教徒同士のつながりの深さをそこに見た。
 長い歴史の中でタイ人との結婚を繰り返す中で、
 遠いペルシャ人の面影は失っていたけれど、
 タイの歴史の中で重要な役割を果たしてきたという誇りのようなものはあった。


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タイのイスラム教徒 | 11:47:44 | Trackback(0) | Comments(0)
タイのイスラム教徒(4) タークシン王とソンクラーのイスラム教徒
タークシン王とソンクラーのイスラム教徒  1

タークシン王とソンクラーのイスラム教徒  2

タイのイスラム教徒(4) タークシン王とソンクラーのイスラム教徒  3

 トンブリ地区をバンコクヤーイ運河に沿って歩いていると、
 銅像を飾ってある寺院に出会った。
 中にいる人に訊くと トンブリ王朝を開いたタークシン王の銅像であると云う。

 タークシン王といえば、ビルマの侵略によって廃墟になっていたアユタヤをビルマから
 取り戻し、再びタイを統一し、トンブリ王朝を開いたタイの英雄の一人である。
 ビルマからアユタヤとトンブリを取り戻す際に 短期間で船団を整え、
 チャオプラヤ川を昇り、プラヤー・ターク(スィン)(後のタークシン王)に協力したのが、
 ソンクラーのイスラム教徒 ルアン・サックナーイウェーン(ムト)である。
 アユタヤ時代にはタイ南部のソンクラーにもペルシャ人が多く移住し、
 その中には、インドネシアのジャワ島中部のサレハの国主であった
 モゴールとその一族が ポルトガルの侵入により ソンクラーに逃れてきていた。
 彼らはシーア派ではなく、スンニ派であった。
 後にモゴール一族は力を蓄え、ソンクラー国主になる。
 ルアン・サックナーイウェーン(ムト)はその子孫である。

 1767年タークシン王が王都をアユタヤからバンコクのトンブリに王都を移し、
 トンブリ王朝を開祖した際には、その功績からタークシン王から
 海軍提督であるチャオプラヤー・ラーチャパンサン(ムト)に任じられ、
 更に、現在の首相にもあたる最高武官であるチャオプラヤー・スィーオンカラック(ムト)にも
 任命され、海軍提督の職はそのまま子孫に受け継がれ、
 商戦監督のプラヤー・ラーチャワンサンにも任命され、
 チャックリ王朝の時代に入ってからもその地位は受け継がれていった。

 トンブリ王朝の時代は ソンクラーのスンニ派イスラム教徒のペルシャ人が優遇され、
 アユタヤ王朝時代に活躍していたシーア派イスラム教徒の出番はなかったようだ。
 彼らが息を吹き返してくるのは、チャックリ王朝に入ってからである。

 そのソンクラーから200年前に移住してきた人々の集落が、
 バンコクヤーイ運河沿いにあり、
 200年近く前に作られたスンニ派のクディ・カーオ(マスジド・バーンルアン)が
 集落の中心部にある。由緒あるトンソン・マスジドの対岸にあるモスクだ。

 しかし、ソンクラーのスンニ派イスラム教徒が勢力を持ったのは、
 トンブリ王朝の時代、それも、15年という短い年月の間であったようであるが、
 ブンナーク家没落後には、再び表舞台に出てくるのである。
 しかし、ペルシャのイスラム教徒のその影響力は、時代とともに失われていく。
 モゴールの子孫たちも政府の中枢に入っていくために 仏教徒に改宗していくものも
 多く現れるようになっていった。
 タイのペルシャからのイスラム教徒は なかなかの適応主義者のようだ。
 貧しいイスラム教徒だけが、信仰を護っていくようである。

 タークシン王1代で終わってしまったトンブリ王朝ではあるが、
 このトンブリでバンコクヤーイ運河の岸辺近くにあるタークシン廟と
 ウォンウェンヤイにある銅像ぐらいしか タクシン王を偲ぶべきものはない。
 ビルマの侵略からタイを救った英雄にしては、あまりに扱いが低いようだ。

 歴史は勝者によって作られる。晩年 精神錯乱によって国を混乱させ、
 そのために後のラーマ1世によって処刑されたとあるが、真相はどうだったのか。
 武人として優れた力量を発揮したタークシン王も 
 宮廷内の権力闘争には勝てなかったか。
 アユタヤ王朝から続いてきた貴族たちに翻弄され、
 権力の座を奪われたというのが本当のところだろう。
 そこにはもう一つのペルシャ人勢力シェイク・アフマドの末裔の巻き返しの
 陰謀もあったに違いない。


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タイのイスラム教徒 | 01:19:47 | Trackback(0) | Comments(0)
タイのイスラム教徒(3) 再びトンブリへ
タイのイスラム教徒(3) 再びトンブリへ  1

タイのイスラム教徒(3) 再びトンブリへ  2

タイのイスラム教徒(3) 再びトンブリへ  3

タイのイスラム教徒(3) 再びトンブリへ  4

 今日は、再び、トンブリ地区を再訪することにした。
 いつもと同じように国立競技場前のバス停から、47番のバスに乗って、
 ティアン船着場へと向かう。
 途中 旧王宮のワット・プラケオを見ると、ガラヤニ王女の葬儀に対する
 国民の記帳が行われているらしく、喪服姿の人が目立つ。
 王宮広場はそのためか、駐車場になっている。

 ワット・アルンに向かう船の船着場であるティアン船着場も、
 外国人旅行者もピークを過ぎたせいか、数も少なくなっている。
 船の運賃もことしになってから、3バーツから3.5バーツに値上がりしている。
 ガソリン値上げのためだ。これも仕方がない。

 いつものようにワット・アルンを横目に見ながら、イスラム教徒の住む地区へと向かう。
 バンコクヤーイ運河をはさんで 有名なトンスン・マスジドの反対側にある
 クディ・カーオ(マスジド・バーンルアン)とその墓地を見ておきたかったからだ。
 このマスジドも200年以上の歴史がある。
 その建物もタイ式のもので、タイの仏教寺院の形に似ている。
 墓地もごくありきたりのもので、
 トンソン・マスジットのように贅を尽くしたものではない。
 トンソン・マスジドが身分の高いイスラム教徒のものであるなら、
 バーンルアン・マスジドは庶民のイスラム教徒のものだ。
 イスラム教徒の世界にも はっきりとした身分制社会があるのだ。
 人間である以上、それは避けられないことだろう。
 あの有名なインドのタージマハールも 王妃のためにたてられたものだ。
 あの規模からすれば、それでもささやかな違いである。

 死んでまで墓石に差が出てしまうのは、人間の業の深さなのかもしれない。
 私などは、死んだあとは、川なり海にその灰と遺骨を流してもらえれば十分である。
 天国も地獄も信じないし、生まれ変わってより良い身分になることも期待してはいない。
 あるがままに生きて、あるがままに死ねばそれで十分である。
 あとは何も期待することはない。

 タイでは少数派であるイスラム教徒にとっては、マスジドは交流の場であり、
 互いのつながりを深めていく役割も果たしている。
 ここでは宗教はまだ生きていてその役割を果たしているのかもしれない。
 又、タイの仏教寺院のように派手派手しくなく、豪華でもなく
 ささやかであるところに余分なものをそぎ落とした信仰への誠実さを感じてしまう。


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タイのイスラム教徒 | 10:44:49 | Trackback(0) | Comments(0)
タイのイスラム教徒(2) シェイフ・アフマドの末裔たち‐6
シェイフ・アフマドの末裔たち‐6 1

シェイフ・アフマドの末裔たち‐6 2

 シェイフ・アフマドの息子チェーンも 父シェイフ・アフマドの資質、
 外交・政治的手腕を受け継ぎ、プラサートトーン王に仕え、
 右外務部でその力を発揮するようになる。
 プラサートン王の27年にも渡る治世は、
 シェイフ・アフマドの息子たちが王宮の中で勢力を拡げていくには
 十分な年月であった。
 プラサートトーン王の庇護の下、アフマドの息子たちは、王族・貴族との通婚を
 繰り返し、権力の中枢へと入り込んでいったのだ。

 プラサートトーン王死後も王位継承の争いが起こり、
 プラサートトーン王の息子チャイも即位後3ヶ月で、
 父の弟スタンマラーチャーと腹違いの弟ナーラーイによって殺され、
 その後、王位に就いたスタンマラーチャーも即位後3ヶ月で殺され、
 ナーラーイ王の治世にいたるのである。歴史は繰り返すのである。

 しかし、アフマドの息子たちは 
 それには影響されないぐらいの土台をアユタヤの地に築き上げていたのだ。
 以後200年以上に渡って存続していくアユタヤの王朝史は、
 彼らのタイへの同化の歴史であり、アフマド一族の繁栄の歴史でもある。
 シェイフ・アフマドの曾孫にあたるチャオプラヤー・ベットピチャイは仏教に
 改宗し、その息子の一人チェーンは 
 アユタヤ最後のプラヤー・チュラーラーチャモントリー(イスラム最高指導者)、
 もう一人の息子セーン チャオプラヤー・マハセーナは仏教徒に改宗した。
 このセーンが、チャックリ王朝の中で王家をも凌ぐといわれ、
 その権勢を誇ったブンナーク家の始祖である。
 イスラム法から見ても仏教徒に改宗することは、死罪に値することだが
 より深く権力の中枢の中に入っていくためには、
 どうしても通り抜けなくてはならない敷居だったのだ。
 ペルシャからやってきたイスラム教徒たちの権力の中枢部に入っていく
 一つの戦略であったのかもしれない。
 そのくらいの厳しい決意がペルシャからのイスラム教徒にはあったという
 証拠にもなるだろう。

 王家との結婚を繰り返しながら、
 アフマドの子孫 ブンナーク家は権力の極みまで上り詰めてゆく。
 あのタイの名君として誉れの高いラーマ5世の15歳での即位も、
 ラーマ4世ではなく、王の摂政であったチュワン・ブンナークの管轄の下に
 行われ、副王の任命も王でなく、摂政チュワン・ブンナークの承認を受け、
 ウィチャイチャーン副王が即位するという有様だったのである。
 ラーマ5世が自分の考え、方針を盛り込んだ有名なチャックリ改革を
 実行できるようになるには、
 摂政のチュワン・ブンナークと副王のウィチャイチャーンの死まで
 待たねばならなかったのである。
 
 その後、ブンナーク家の力を排除するための改革に手をつけていくのだ。
 ブンナーク家にとっての最大の痛手は、ラーマ5世による奴隷制の廃止である。
 その当時、奴隷は王侯・貴族の主要な財産であった。
 ブンナーク家も奴隷を多く抱えることによって 莫大な利益を上げていたのである。
 この奴隷制の廃止によって、ブンナーク家も没落していくのである。
 チャックリ王朝に入ると、海外貿易は衰退していく。
 ペルシャのイスラム商人の役割も終わりを迎えたのである。

 しかし、シェイフ・アフマドは、墓場の影で笑っているであろう。
 遠く故国を離れ、タイの地で一泡吹かせたのである。
 考えてみれば、300年にも渡って、シェイフ・アフマドの野望・執念は
 生き続け、権力を左右するところまで行き着いた一族の持続には、
 舌を巻かざるを得ない。
 今なお、笑い続けているシェイフ・アフマドの姿が、思い浮かぶようである。


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タイのイスラム教徒 | 01:33:49 | Trackback(0) | Comments(0)
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